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第七部:物語の追跡とアウトロー・ジャーニー - 1

 深夜。リバーフォール北部の再開発エリアは、巨大な建築プロジェクトの進捗を示すようにタワークレーンと鉄骨の足場が無数に夜空を刺していた。この一帯はドミニクが支配する『リバーフォール・ビジョン基金』が表向きのスポンサーであり、彼の組織の支配を示す新しい領地だった。


 カレルはサヴェージとの戦闘を終えたばかりの血と硝煙の匂いを纏い、グリフィン・プラザの中心部からやや離れた高層住宅街へと滑り込んだ。そこはドミニクの出資先である建築会社の役員用として登録されている高級マンションの一室だった。広大でピカピカのガラス張りのエントランスは、イヴリンが身を潜めたウェルズ地区の安宿とは対極の高級感に満ちていた。


 ここはドミニクの組織が緊急連絡用に使用する隠れ家(デッドドロップ)の一つだった。


 最上階の一室に入ると、カレルは窓外の光を遮断した。彼はスーツの(しわ)を無造作に直し、暗号化通信用の端末を起動した。スーツの内ポケットが魔導書の重みでわずかに膨らんでいた。


 モニターには広大なパノラマウィンドウ越しに夜景を(なが)めるドミニクの姿が映し出された。ドミニクの表情は自信と疑心に満ちており、成功者としてのカリスマと、何かに(おび)える男の狂信が混在していた。


 カレルは一切の感情を顔に出さず、機械的な業務報告のように淡々と述べた。彼の声には、かつての饒舌な皮肉は微塵(みじん)もない。


「任務は完了しました。目標の排除を確認。予期せぬサヴェージとの交戦が発生しましたが、追跡者はすべて排除済みです」


 ドミニクは夜景を見つめたまま、微かに頷いた。


「それで、サムはどうした」


「撤退時、サムは負傷により戦闘能力を喪失しました。任務遂行の妨げとなるため、回収は非効率と判断し、放棄しました」


 ドミニクはカレルの声の単調さや長年の相棒を見捨てたという事実に対し、眉一つ動かさなかった。彼は夜景からカレルの顔に視線を移し、満面の笑みを浮かべた。


「完璧な判断だ。サムは時々余計な感情を挟む。あれをお前の横に置くには、いささか脆弱(ぜいじゃく)すぎた」


 ドミニクは琥珀色の高級ウィスキーの入ったグラスを口に運び、カレルに次の指令を与えた。それは、中断されていた暗殺任務、サイラスの抹殺再開であった。


「サムも問題だが、次に手を付けるべきはサイラスだ。今すぐ奴を始末する」


 カレルは指令の前提情報を求めた。彼の声は最適化を求める機械の要求に近かった。


「次の実行のため、標的の情報を更新願います。このままでは計画の効率を上げられません」


 ドミニクは画面越しにカレルを見つめた。ねじ曲がった苛立(いらだ)ちが(にじ)んでいた。


 彼の指に()められた銀の指輪が夜景の光を受け、窓のガラスに不安定に揺らめく。指輪はドミニクの疑心暗鬼と支配欲を容赦なく増幅させ、彼に裏切りの幻影を見せつけていた。


 銀の輪がまるで第二の心臓のようにドミニクの皮膚の上で脈動した。その冷たい金属の感触は、彼の血管に氷のような毒を流し込み、思考をクリアに――いや、致命的なまでに単純化させていく。


『思い出せ。サイラスはお前を否定した。サイラスだけが、お前の偉大さを認めなかった』


 脳裏に響く声なき声。それはドミニク自身の不安が形作った幻聴なのか、それとも指輪に宿る何者かの(ささや)きなのか。その境界は、とうの昔に溶け去っていた。


 ドミニクの瞳孔(どうこう)が開く。彼の目には、かつての親友サイラスが嘲笑を浮かべて自分の喉元にナイフを突きつける未来が、まるで既成事実のように鮮明に映し出されていた。


「私の直感は、いつだって正しい……そうだろう?」


 彼は自らの病的な猜疑(さいぎ)心を、王としての先見の明だと信じ込んでいた。道具を使っているつもりで、その実、道具に思考の舵を握られていることにも気づかずに。指輪は持ち主の恐怖を糧に輝きを増し、ドミニクを破滅的な決断へと優しく、しかし不可逆的に押し流していく。


 カレルが魔導書に自我を食われ、イヴリンが血を代償に精霊を使役する中、この街の影の頂点に立つ支配者もまた、自らの装飾品に使役される哀れな奴隷に成り下がっていたのだ。


 ドミニクは指輪からもたらされた確信を、自らの揺るぎない意志だと誤認したまま、再びカレルに向き直った。


「奴は、私の組織の成功にとって、決して許すことのできない過去の汚点だ。サイラスは私の親友だった……だが、いつか組織に戻り、私を裏切る。私には、確実にそうなる未来が見える」


 カレルは内ポケットから古びた革表紙の本を取り出した。表紙の金色の糸の光が天井のライトに反射し、生き物のように(うごめ)いているように見えた。


「この情報源によると、標的は、己の記憶を書き換えるための何かを探し求めようという独白を繰り返しています。この断片的な情報だけでは正確な追跡ルートを特定できません」


 ドミニクは激しく表情を歪ませた。


「奴がその何かを手に入れる前に、永遠に沈黙させろ。これは最優先だ。過去の情報も探せ。奴を完全に封じるまで、お前には他の仕事はない」


 カレルは無言で頷き、通信を切断した。


 静寂が戻った部屋の中で、情報を得ようと彼の指先が本の表紙に触れたその瞬間、香草と硫黄の匂いが混ざり合った、強烈で異質なノイズを感知した。それは新築のマンションの匂いを上書きするほどに生々しかった。


 皮肉なことに、カレルがこの本に求めていたのは任務を最適化するための詳細なデータだった。だが魔導書は、ドミニクが過去の友情を語ったことで、カレルが初めて標的の過去に意識を向けたそのタイミングに、最も抽象的で、かつ最も非効率的な()()という形で鍵を提示したのだ。


 プログラムと化したカレルに、その鍵が持つ真の意味を読み解く人間的な勘は、もはや残されていなかった。彼にとって、それは単なる感知された未分類のデータの一つに過ぎなかった。


 カレルは無機質な好奇心をもって本を開いた。


 その瞬間、カレルの意識は、サイラスの最初の記憶の断片へと強引に引きずり込まれた。それは、カレルが読者として精神の消費を強いられる、どこまでも続く物語の始まりだった。


 ページを開くと、カレルの周りの高級感あふれる隠れ家(デッドドロップ)の景色がぐにゃりと歪み、変容した。彼は自らの任務から切り離され、強制的にサイラスの過去という名の世界へと導かれた。


 カレルの意識は、サイラスの視覚、聴覚、そして記憶と完全に同調シンクロした。


 ――――


 朝の光が、埃っぽい部屋を横切っていた。


 目が覚めた時、俺は自分が誰か、なぜここにいるのかを知らなかった。だが、この部屋は俺の自宅だという、根拠のない確信だけがあった。


 その部屋はドミニクのタワーとは対極にあるおんぼろのアパートの一室だった。家具はすべて古く、壁にはヒビが入っている。彼の意識は積もった埃と木材の乾燥した匂いを鮮明に感知した。


 俺の最初の記憶は、都市の底辺にあった。俺は、自分が豪奢(ごうしゃ)なビジネスマンではないことを知った。窓の外には、尖塔スパイアが、過去の物語の静かな証人として立っていた。壁のヒビ、古い木製の床、窓から差し込むスパイア地区に降り注ぐ光……これらだけが俺の失われた物語の唯一の証拠だった。


 俺は、自分のことがわからないという空っぽの恐怖に耐えられなかった。この部屋、このアパート、この地区。これらが俺を構成する要素であるならば、俺は外の世界に出て、それらを確かめなければならない。


 彼は立ち上がり、(きし)む木製のドアを開けて、スパイア地区の雑踏の中へ足を踏み出した。リバーフォールで最も古いこの地区は、奇妙な香辛料と、カビと、何層にも塗り重ねられた歴史の匂いがした。


 俺は、図書館ではなく、落書きや人々の噂から歴史を探した。街をさまよい、自分自身の物語を構成する言葉を探した。この古い地区が持つ声が、自分の失われた記憶につながると信じた。


 人々の間を縫って歩くうちに、俺はある名を聞いた。それは、「心を癒す薬屋」という、俺の空虚な好奇心を揺さぶる言葉と結びついていた。


 ――――


 イヴリンとサムは密輸用の地下通路を抜け、リバーフォールを貫流する運河の岸にたどり着いた。土砂による通路の封鎖のおかげで追跡者の足音は完全に断たれた。しかし、そこにあるのは安息ではない。サムは湿ったレンガ壁に背中を預け、荒い呼吸を繰り返している。左肩からは鮮血が止めどなく(あふ)れ、着ているシャツを赤黒く染め上げていた。


 イヴリンは彼が単なる()()()()()()()()()ではないことを既に理解していた。極限状態での冷静さ、無駄のない銃の扱い、そして何よりもその冷徹なプロの視線がそれを物語っていた。


「私はイヴリン。あなたの顔にあるアザなら、私の手持ちの薬で治せるわ。でも、その肩の怪我は無理よ。すぐにきちんとした治療をしないと命に関わるわ」


 イヴリンは逃走の足を止め、水音に(まぎ)れるように囁きながらサムの肩の傷口を(のぞ)き込んだ。


「サムだ。忠告はありがたいが、今は治療より優先すべきことがある。俺の車に戻る。そこに残した『切り札』を回収しなきゃならない」


 イヴリンは呆れたように眉をひそめたが、手持ちの回復ポーションを傷口に注ぐ作業は止めなかった。


「まずは最低限の止血と消毒よ。動かないで」


 薄緑色の液体が傷口に触れた瞬間、サムは痛みに顔を歪ませたが、悲鳴一つ上げず、ただ奥歯を噛みしめて耐えた。だが、彼の瞳は休むことなく周囲を警戒し、運河の橋を渡る車のフロントライトの動きを追っていた。


「目の前の危機よりも『物』を優先するのね。……それで、あなたは誰なの? 拷問を受けていたにしては、ずいぶん冷静に見えるわ。あいつらの仲間?」


「マフィアじゃない。元だ」


 サムは痛む肩を押さえながら、簡潔に答えた。


「あいつらにとっては、都合のいい情報源だったのさ」


 サムはそこで言葉を切り、周囲の闇に鋭い視線を走らせた。人の気配はどこにもない。彼の常識では説明のつかない事実が一つ残っていた。


「……なぁ、あんたの仲間はどこだ? まさか、援護射撃もなしに、たった一人であの要塞みたいな工場を壊滅させたのか?」


 イヴリンは止血布をきつく巻きながら、まるで当然のことのように平然と答えた。


「ええ、私一人よ」


 サムは信じられないものを見る目で、目の前の華奢(きゃしゃ)な女性を見つめた。


「正気か? あの規模の組織相手に単独で喧嘩を売るなんて自殺行為だぞ。一体何を考えているんだ?」


 その問いに、イヴリンの雰囲気ががらりと変わった。彼女は濡れたローブを強く掴んだ。その声には、怒りだけでなく、喪失した温もりへの深い悲しみが混じっていた。


「私の飼い猫を殺したのよ。奴らに、その代償を支払わせる」


「……猫?」


 サムの顔から一瞬にして血の気が引いた。イヴリンが起こした超常的な破壊と数日前に自分が関与した仕事が、脳内で最悪の形でリンクした。


「……スパイア地区の黒猫のことか?」


「そうよ、あなたは何で知っているの?」


 イヴリンが顔を上げ、サムを射抜くように見た。サムの視線が少し泳いだ。彼の脳裏には、ドミニクが偵察兵と呼んで、取るに足らないはずの猫を躊躇(ちゅうちょ)なく殺した、あの夜の光景がフラッシュバックしていた。そして、その猫を捕らえたのが他ならぬ自分たちであるという事実も。


「……ああ、噂で少し聞いた。俺のような立場のやつは変な情報もすぐに回ってくる。じゃあ、イヴリン、あんたはその飼い猫……いや、使い魔の飼い主の魔女ってわけか」


 イヴリンは肯定も否定もせず、無言で運河の水面へと視線を逃がした。サムはその答えで十分だった。彼女はサヴェージの拠点をたった一人で炎と爆発の渦に(おとしい)れた。その強大で非人間的な力は、追手から逃げ切り生き残るために絶対に必要なカードだ。


 サムは傷口の焼けるような痛みに耐えながら、最後の決断を下した。


「いいか、イヴリン。よく聞け。あんたの猫の件はわかった。だが、今回のこれは対象が違う。猫をさらったのはワイン工場の主のサヴェージじゃない。もう一つのマフィアのトップ、ドミニクという男だ」


 運河の水面に雫が落ちたような、短い沈黙が訪れた。


 イヴリンの顔色が蒼白に変わるのを、街灯の薄明かりが照らし出した。彼女の瞳はサムの言葉の意味を処理しきれず、大きく見開かれたまま硬直した。


「対象が……違う? まさか、私は、無関係な人間に被害を……」


 彼女を突き動かしていた正義の怒りが、罪なき者を傷つけ、殺めたかもしれないという事実に激しく動揺した。それは癒し手としての自己認識を根底から揺るがす行為だった。


 サムは動揺で崩れ落ちそうになるイヴリンの肩を健常な右手で掴み、無理やり視線を合わせさせた。今は魔女の良心が自壊するのを待っている時間はない。


「ドミニクこそが猫の復讐の相手だ。そして、奴は俺を殺すために動く」


 サムはイヴリンの目をまっすぐ見た。


「俺は今、ドミニクとサヴェージ、両方に追われている。このままではすぐに包囲される。だから取引だ。あんたの特別な力と俺の情報を交換しよう。俺の傷を治し一時的に匿ってくれるなら、ドミニクの組織図、資金源、すべての弱みを共有する。この取引を拒否する理由はないはずだ」


 イヴリンはサムの情報に強く惹きつけられた。ドミニクの組織の情報を入手できれば、二度と誤った刃を振るい、無関係な誰かが犠牲になることを防げる。それは彼女にとって、贖罪の機会でもあった。


「……わかったわ、取引しましょう」


 イヴリンは声を絞り出した。


「あなたの車へ案内して。その後、治療と情報共有のために、私の店へ向かう。それでいいわね」


 二人の協力関係は、信頼や友情ではなく、()()()()という現代の裏社会における最も強力な通貨によって成立した。


 二人は夜の帳が下りた運河の暗闇に紛れ、サムの車が待つ場所へと足を踏み出した。

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