第六部:交錯の螺旋と魂の代償 - 3
イヴリンが身を潜めるウェルズ地区の安宿の一室は、鈍い昼の光に包まれていた。彼女はレザーコートのまま疲れ果ててベッドに寝そべり、サイドテーブルに置かれた手鏡を今か今かと睨みつけ、次なる復讐の対象を求めていた。
ようやく鏡の表面に赤い光が揺らぎ、インプのげんなりとした顔が浮かび上がった。とがった耳は垂れ下がりっぱなしだ。
「追跡が終わったよ、魔女様」
「見事だわ、インプ。彼らの巣はどこなの?」
インプの小さな口から地理的な特徴が淡々と語られる。
「街の端だよ。古い煉瓦造りの建物で、周りは木々で囲まれてる。腐ったブドウの、多分ワインだけど、そんな匂いがするんだ」
鏡面に映し出されたのは広大な敷地を赤煉瓦の壁に囲まれた工場施設だった。年季が入った伝統的な構造に、無骨な鉄骨と現代的な換気システムが付け加えられ、古い様式と新しい効率が衝突しているかのような特異な光景だった。どうやらマフィアはこの瓶詰めから出荷までを扱う大規模なワインの物流拠点を隠れ蓑にしているようだった。
「……見つけた」
イヴリンの瞳に新たな炎が灯る。ついに敵の巣窟を突き止めたのだ。
彼女はすぐさま行動の準備に入ろうとした。サイドテーブルに広げておいた街の地図と、身につけているはずの【真鍮の羅針】を探し求めた。
しかし、手のひらは虚しく空を切った。
――ない。
イヴリンの背中に氷柱を突き立てられたような戦慄が走った。【真鍮の羅針】は、彼女の復讐のターゲットを一貫して示し続ける、この混沌とした現実で頼りになる確かな支えだった。
「どこへやったというの?」
湧き上がるパニックを押し殺し、ベッドの下、脱いでいたローブのポケット、レザーコートの裏地まで、全てを迅速に探した。シーツをひっくり返し、床を這った。だが、羅針はどこにもなかった。昨夜の出来事のどこで落としたのか、皆目見当もつかなかった。
羅針を失ったという事実が確定した瞬間、彼女は便利な道具に過度に依存していた自分に対し、激しい自己嫌悪を抱いた。
だが、立ち止まる時間はない。敵は今、目の前にある。
イヴリンは震えそうになる指先を強く握りしめ、固く目を閉じた。一度、大きく、深く、息を吸い込む。安宿特有のカビ臭く湿気た空気を肺いっぱいに満たし、体内で暴れ回る焦燥と不安を、意思の力で強制的に冷却する。吐き出す息と共に、動揺を空気中に散らしていく。
数秒の沈黙の後、彼女が再び目を開けたとき、そこには冷徹な魔女の瞳だけが残っていた。羅針盤がなくとも、憎しみの磁場だけは正確に敵を指している。
「インプ、もっと上空からの映像を出しなさい」
物流拠点はリバーフォールの都市構造の端、古いインフラと新しい工業地帯が衝突する不毛な地域に位置していた。
イヴリンは手鏡をポケットに滑り込ませた。彼女は部屋の無粋な火災報知器に一瞥もくれず、宿を出た。
そして、街の隅で見つけたグリーンキャブと書かれた深緑色のタクシーを呼び止めた。
魔法的な移動――空飛ぶフォード車や絨毯などというものは、魔法社会全体でその危険性ゆえに忌避されている。精霊との契約によって得られる移動の速度と引き換えに、彼らの気まぐれな意志に命そのものを預けるような、命取りの性質を伴うからだ。結局のところ、非魔法使いが作り上げたこの原始的な乗り物に頼るしかなかった。都市部での迅速な移動手段として、自動車は魔法使いにとっても、最も現実的で安全な選択肢だった。
イヴリンは車の後部座席に体を滑り込ませた。彼女はポケットから先ほど照合した街の地図を取り出すと、ガラスの壁越しに運転手に広げ、一点を指差した。
「ここへ、急いで」
タクシーは歴史的建造物がひしめく中心部を抜け、都市の境界線へと向かった。窓の外の景色が流れる中、イヴリンは失ってしまった【真鍮の羅針】のことを思い出していた。
彼女がそれを手に入れたのは、かつて、祖父に連れられた海辺の町の蚤の市だった。祖父は観光客向けのガラクタに紛れて売られていた、その古びた真鍮のコンパスを手に取り、魔法道具であると瞬時に見抜いた。祖父はイヴリンに渡す時にこう言った。
「進むべき道を見失わないように。魔法使いは便利な道具に頼りすぎるあまり、時に最もシンプルな真実を見失うものだ」
羅針を動かすために、彼女は祖父との思い出の貝殻を砕いたばかりだった。その進むべき道を示すはずの指針を失った事実に、イヴリンは唇を噛んだ。彼女は今、自らの直感と憎悪だけを頼りに進むしかなかった。
目的地に近づくにつれて、景観は急変した。通りはコンクリートと鉄骨の構造物が支配する広大な物流エリアへと変わる。巨大な倉庫やターミナルがいくつも並び、都市の機能性だけを追求した無機質な景観を晒していた。
車窓の外は昼にもかかわらず川からの濃い湿気が立ち込め、排気ガスの臭いと混ざり合ったワインの甘い香りが漂い始めた。フォークリフトの甲高いバックブザーとトラックの重い振動が響く。
さらに進むと、施設のすぐそばには河川の本流から分かれた古い運河が流れていた。水辺には、かつて工場だったゴシック調の石造りの建物や歴史を感じさせる鉄骨の橋が残されており、現代的な物流施設と対照的な物寂しげな美しさを醸し出していた。
イヴリンはタクシーの窓の外の光景を鋭く観察していた。こここそが、都市の光が届かない裏社会の秘密が隠される場所――都市の交差点だった。彼女の復讐の対象は、この濁った交差点の最も深い影に潜んでいる。
――――
グリーンキャブを降りた時、空はすでに夕刻のオレンジ色に染まり始めていた。
イヴリンは運河沿いの巨大な煉瓦壁の影に身を潜めた。周囲の空気を満たすのは、水路からの濃い湿気と排気ガスの金属的な臭い、そして、この施設特有の発酵したワインの甘ったるい香りだった。その不快な芳香は、静かな緊張感をいや増しに高めていた。
彼女の隠れる壁のすぐ後ろを巨大な冷凍トレーラーが唸りを上げて通過していく。振動が足元を揺らす。
イヴリンは周囲の気配を入念に確認し、ローブのポケットから手鏡を取り出した。
「この施設の外観を映しなさい」
鏡面がノイズのようにざらつき、インプが送る映像情報が流れ込む。正面に見えるのは、中央施設棟と、そこから両側に伸びる広大な瓶詰め施設だった。施設の周囲には磨かれた金属製の巨大なワイン貯蔵タンクが夕陽を鈍く反射させている。その間には、整然と積み上げられた木製のワイン樽や出荷待ちのガラス瓶のパレットが、まるで迷路のように立ち並んでいた。
「では、インプ。次は内部の構造を詳しく」
インプは広大な瓶詰めラインの複雑な構造を飛び回りながら報告した。その視点は羽虫のように落ち着きがない。
「地上は大きな機械ばかりでつまらないよ。でも地下に小さな部屋がいくつかあるんだ。従業員が集まる休憩所のような場所と、奥に一つ、厳重に閉ざされた部屋があるよ」
イヴリンは静かに問いかけた。
「その厳重な部屋の中を見ることはできる?」
インプは鏡の中で首を振った。
「無理だよ、魔女様。扉は閉まってる。僕の小さな手じゃ開けられない。でも……」
インプは少し顔をしかめ、音の情報を付け加えた。
「休憩所の向こうの、その厳重な部屋の方から、何人かの男の低い話し声と重い足音が聞こえるよ。誰かが絶えず部屋を出入りしてるみたいだ」
イヴリンは静かにその情報を復讐の地図に当てはめた。
厳重な部屋の存在は、単なる物資の貯蔵庫だった前回とは違い、そこが組織の意思決定が行われる中枢に近いことを示唆していた。彼女は、前回襲撃した倉庫よりも多くの敵、それも武装した幹部クラスの護衛がついていることを直感した。しかし、それは同時に復讐を完遂する上で最も効果的な一撃を加えられる場所でもある。
「地下の厳重な部屋……マフィアが集まる会議室に違いないわ。一網打尽のチャンスよ」
彼女はレザーコートの上に羽織った厚手の黒いローブの感触を確かめた。このローブの裏地には炎の精霊の契約を拡張するための、自らの血で魔法陣の仕上げをした刺繍が施されている。それは彼女の祖先が記した暴力的な炎の魔法を使うための媒介だ。触れると、刺繍糸が微かに熱を持ち、血色の金の光が脈打つように揺らめくのが分かった。
「侵入後、目標の部屋に火球を放つ。静かにやる」
彼女にとって、それが復讐を完遂するための最も効率的で正しい手段であるという確信があった。祖父の教訓は復讐の炎の前に再び押しやられていた。
イヴリンは手鏡をコートのポケットに押し込み、深呼吸した。外壁からの侵入準備に取り掛かる。彼女のレザーコートの冷たい感触が、高まる心臓の鼓動をわずかに抑えつけていた。
侵入ルートは運河沿いの石壁だった。イヴリンは手早く【腐食のポーション】の栓を抜き、壁の目立たない場所に一滴垂らした。
ジュッ、という肉が焼けるような音と共に頑強な石とセメントが泡立ち、微かな硫黄の臭いを放った。すぐに彼女が潜り込めるだけの不自然なほど滑らかな穴が開いた。
彼女は黒い影となって広大な地上階の瓶詰めラインへと滑り込む。何百本ものガラス瓶のこすれる音やベルトコンベアの駆動音などのノイズが神経を削る。だが、そのおかげでイヴリンの立てる足音は完全にかき消された。
イヴリンは機械の影を縫って移動した。インプの誘導で、彼女は目標の地下室の真上、巨大な充填機械の傍らに到達した。
彼女は迷わなかった。イヴリンは二本ある【腐食のポーション】のうち、一本を床のコンクリートに叩きつけた。
ガラスの砕ける音。直後、強化コンクリートとタイルの床がグズグズと溶け落ちていく。
その様子を見ながら、彼女は炎の精霊の力を宿したローブに魔力を集中させた。裏地の魔法陣が脈打つように一瞬燃え上がり、イヴリンの指先へと破壊的な魔力を送り込む。
床に一人の人間が飛び込めるほどの滑らかな穴が開いた。
彼女は圧縮された炎の精霊の力を指先に留まる小さな投射体に込めていく。穴の向こうの地下の部屋を目掛けて、その小さな魔力の弾を放った。
「爆ぜよ!」
ゴォオオオォ!
強力な火球が地下の部屋で炸裂した。轟音は倉庫全体を揺さぶり、巨大な暖炉の煙突が逆流したかのように、炎と灼熱の空気が噴き出す。爆発の衝撃でワイン樽が破裂し、熟成されたワインの蒸気が炎と混ざり合い、鮮烈な赤と紫の光が噴水のように地上へ昇る。
「爆発だ! 敵の焼夷弾か!?」
響いた最初の叫び声は、魔法とは無縁の誤認だった。
刹那、火球の炸裂光に照らされたイヴリンの姿が、地下への階段入口近くにいたマフィアの構成員の目に捉えられた。
「あそこに侵入者だ!」
廊下からマフィアの構成員たちが自動火器の一斉掃射を開始した。銃声が響き渡る。イヴリンはすぐに身を隠そうとしたが、銃弾が近くの充填機械に命中し、跳ね返った一発が彼女の左腕をかすめた。
「まずい……!」
熱い痛みが走り、レザーコートの下に血が滲む。彼女の復讐の焦燥はすぐに生存への本能へと切り替わった。
イヴリンは左腕を抑えつつ、両手を廊下の中央、敵の集中する空間へと突き出した。
「燻り、散れ、燃えよ」
彼女の魔力が空間を歪ませる。次の瞬間、廊下の中央にワインの蒸気と硝煙を急速に吸い込んだ、赤黒い濃密な煙の塊が出現した。その煙の塊は瞬時に破裂し、苛烈な熱を持つ灼熱の黒煙と火の雫を周囲へ降り注いだ。
マフィアの構成員たちは予想外の高熱と視界を完全に奪う濃密な煙幕に包まれ、苦痛の叫びを上げた。その混乱に乗じ、イヴリンは自らが開けた床の穴へと身を躍らせた。
穴を滑り落ちている最中、レザーコートに組み込まれた防御機構が発動し、損傷箇所が自動修復された。皮革が生き物のように蠢く。その代償として急激な疲労を感じながら、炎とワインの蒸気で満たされた地下の部屋に着地した時、上階の激しい銃声は悲鳴と金属が溶ける音に変わっていた。
だが、この呪文はそう長くは続かない。彼女に残された時間は、わずか数瞬だ。
「インプ! この地下室から逃げる道は!?」
イヴリンは焦りから手が震えつつも、再び手鏡を取り出し、大声で緊急の逃走経路を聞き出した。
「あそこ! ワイン貯蔵庫の奥に、運河に繋がる古い地下通路があるよ!」
インプの報告に促され、イヴリンは炎と蒸気が渦巻く部屋の奥、破壊された会議室の残骸を突っ切ろうとした。そこで彼女は、爆発で半壊した部屋のさらに奥に、椅子に拘束され血を流している男を発見した。
彼の顔には打撲の跡があり、ワイシャツの片方の肩は血で濡れていた。
自分が討つべきマフィアの一味ではない。イヴリンは彼を組織の暴力の新たな犠牲者だと直感した。復讐の激情が一時的に鎮まり、彼女の内なる癒し手としての優しさが顔を出した。
「あなたも……!」
彼女は彼を救出せねばならないという衝動に駆られた。マフィアの連絡を取り合う声が近づく中、イヴリンは彼の腕を拘束する金属製の枷に駆け寄った。
「じっとしていて」
鍵など探す必要はない。彼女は残っている【腐食のポーション】の最後の一本から数滴を、彼の腕と椅子を繋ぐ金属に垂らした。
シューッ!
金属製の枷が耳障りな音と共に火薬のような匂いを漂わせながら一瞬で溶け崩れた。
サムが驚きつつも枷が外れ、自由になった、その瞬間。
イヴリンの背後に、音もなく床の穴から滑り降りてきたマフィアが銃を構えて彼女の背中を狙う。
拘束から解放されたサムは反射的に動いた。椅子から転がり落ちた彼は、床に落ちていたレンガの欠片を拾い上げ、目にも留まらぬ速さで構成員の顔面に投げつけた。
ゴンッ!
構成員がよろめいた隙に、サムは走り寄り、素手で近接戦に挑んだ。一瞬の攻防で銃を奪い取ると、その銃床でマフィアの側頭部を強打して即座に気絶させた。流れるような手慣れた暴力だった。
サムの動きで背後の危機を察知したイヴリンは慌てて振り返った。彼女が見たのは、守られるべき犠牲者ではなかった。倒れたマフィアから予備の弾倉を奪い、その残弾数を冷徹な目で確かめる、危険な男の姿だった。
互いの視線が交錯した。炎とワインの蒸気の光の中で、魔女と暗殺者という異質な二人の間に、一瞬の静寂が訪れる。
「感謝する。逃げ道は?」
「……地下の貯蔵庫の奥に、運河へ通じる通路があるわ」
サムは頷き、負傷した肩を庇いながらも奪ったアサルトライフルを構えた。イヴリンが先に立ち、ワイン樽が破裂して赤く濡れた通路を二人は無言で駆け抜けた。
彼らが貯蔵庫の最奥、湿った石壁にぽっかりと開いた密輸用の古い地下通路の入り口にたどり着いたとき、背後から追跡者の足音が急速に近づいてくるのが聞こえた。
イヴリンは迷うことなく立ち止まった。彼女は最後に残った【腐食のポーション】のガラス瓶を通路の天井に勢いよく投げつけた。
ガラス瓶は砕け、液体が天井のレンガと土に降り注いだ。鼻を突く猛烈な硫黄臭が通路に満ちる。土は猛烈な速さで腐食し、泥流となって通路の入り口を瞬く間に塞ぎ、追跡の足音を途絶えさせた。
サムはドロドロに溶け落ちた通路を凝視した。爆発や銃弾による破壊とは根本的に異なる、得体の知れない溶解。だが、彼はその超常現象への驚きを即座に飲み込んだ。追っ手は完全に足止めされた。当面の猶予は稼げたのだ。
「手錠もこれも……一体、何をした?」
イヴリンは顔についた煤を拭い、血とワインの匂いを纏いながら、サムを真っ直ぐに見据えた。
「溶かしただけよ。さあ、時間がないわ」
炎上するマフィアの拠点、地下の暗い通路の先で、互いに命を救い合ったばかりの魔女と暗殺者の二人が、こうして皮肉な運命の協力関係を開始した。




