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第六部:交錯の螺旋と魂の代償 - 2

 倉庫での最初の襲撃を終えたイヴリンは、夜明けが迫るグリフィン・プラザの裏路地から表通りへと身を移した。まだ体に馴染まないレザーコートの下で、彼女の心臓は早鐘を打っている。慣れない夜の行動と復讐への切迫感が、彼女の神経をやすりのように削り取っていた。


 スパイア地区にある彼女の店は、今はまだ戻るべき場所ではない。グリフィン・プラザの倉庫を襲撃したことで、敵が彼女の生活圏まで追跡してくる可能性を排除できない以上、住み慣れた場所に戻る前に、身を潜め、気配を断つための時間稼ぎが必要だ。


 木を隠すなら森の中――最も目立たない行動は群衆に紛れることだと判断し、彼女は河川を越えてウェルズ地区の賑やかなストリートへと向かった。


 そこは、日中の顔に戻り始めた、古くからの石畳の街並みだった。


 イヴリンが暮らすスパイア地区が、尖塔と影が支配する、中世の路地裏をそのまま切り取ったような魔術的で幻想的な夜の街だとすれば、このウェルズ地区は、赤レンガと重厚な石造りの建物が並ぶ、堅実で散文的な昼の街だ。整然とした街路樹と規則正しく並ぶ商店街。ここにあるのは神秘ではなく、生活と商売という現実の重みだった。


 ウェルズのストリートの一角、()び付いたキオスク商店の軒先で、イヴリンは朝刊と食べられる物を手に取った。彼女の視線は、紙面の内容よりも、怪しい人物が自分を追っていないか、行き交う人々の顔を観察することに(せわ)しない。彼女は新聞代の小銭を出す手つきすら、どこか覚束(おぼつか)ない。その姿は優雅な魔女というよりも、敵地に潜入した不慣れなスパイのようだった。


 その時、彼女の背後から、街の子供たちの甲高い笑い声が近づいてきた。


 走り回る彼らのうちの一人、六歳ほどの少女が、路地の角から勢いよく飛び出した。その先には配達を急ぐフードデリバリーのバイクが迫っていた。


 瞬間、イヴリンの身体は思考よりも早く動いた。


 彼女は片手を伸ばして少女の腕を掴み、乱暴に自分の陰へ引き戻した。急ブレーキの音とバイクの風切り音が鼻先を(かす)める。衝突は避けられた。


 その混乱と緊張の緩和の瞬間、レザーコートのポケットに無造作に差し込んでいた【真鍮の羅針】が、ゆるんだ革の隙間から滑り落ちた。


 カラン。


 真鍮と石畳が弾き合うか細い金属音は、ちょうどその時、通りを疾走した黒い高級セダンの重低音のエンジン音にかき消された。スモークガラスの奥でハンドルを握っていたのは、サムだ。それはまさに、古美術店へと向かうためにこの交差点を通過した一瞬だった。


 イヴリンの神経は少女の安全と周囲の視線から逃れることに集中しており、その運命的な喪失の音は彼女の意識には届かなかった。


「……っ」


 少女は転倒こそしなかったものの、驚きと恐怖で息を詰まらせていた。イヴリンの硬いレザーの(そで)の中で、助けた手の指先が(かす)かに震えている。復讐に染まったはずの手が、反射的に命を救ってしまったことへの戸惑い。


 少女を驚かせたことを(つぐな)うように、イヴリンは何も言わず、先ほど買ったショートブレッドの小袋を一つ、少女の手に握らせた。


 イヴリンが(きびす)を返して完全に群衆の中に消えた後、助けられた少女より少し年長の男の子が、通りの向こうできらりと光る【真鍮の羅針】を拾い上げた。彼の目には、太陽の光を反射する、ただの宝物に見えた。少年は嬉しそうに眺めると、すぐに上着のポケットに押し込んだ。イヴリンが助けた小さな命と引き換えに、復讐の地図をわずかに照らすはずだったその真鍮の光が静かに途絶えたことを、彼女はまだ知らなかった。


 ――――


 イヴリンはウェルズ地区の目立たない安宿を探し、部屋を借りた。


 イヴリンが足を踏み入れたのは、路地が入り組んだ一角にある、『旅人の休息亭』と手書きの看板が出た宿だった。その建物はジョージアン様式の古びたテラスハウスを改装したもので、正面のレンガは雨だれで黒ずみ、窓枠の白いペンキはあちこち剥げ落ちている。


 ロビーは磨かれた古いオーク材のカウンターがあり、一歩足を踏み入れると、古本のカビた湿った匂いと、安価な消毒液の鋭い化学的な匂いが混ざり合っていた。


 彼女が通された二階の部屋は、時代遅れのモスグリーンの壁紙に覆われ、角には安物の電熱ヒーターが鎮座していた。部屋は狭く、唯一の窓からは向かいの建物の(すす)けた屋根しか見えない。


 そして最も目を引くのは、黄ばんだ漆喰(しっくい)の天井の真ん中に、唐突な四角形として取り付けられた白く無粋な火災報知器だ。その無機質な形と神経質なLEDの点滅は、部屋の古風な調和を完全に破壊し、イヴリンが暮らすスパイア地区の魔法の調和とはかけ離れた、現代世界の監視めいた現実を象徴していた。


 イヴリンは慣れない現代の設備――プラスチック製の電気ケトルや異常に明るい蛍光灯――を気にしながら、部屋の隅でローブを脱いだ。この場所は清潔ではあったが、魔法の気配は微塵もなく、彼女にとっては何よりも安全な、無縁の空白地帯だった。彼女のレザーコートや魔法道具の鋭い匂いは、部屋に満ちる湿った埃の匂いに静かに飲み込まれていった。


 彼女はすぐに朝刊を開き、倉庫の件が報じられていないか隈なく探した。だが、どの紙面にも、グリフィン・プラザの不審な事故や警察の動きを示す報道は皆無だった。部屋のテレビをつけてみたが、地方ニュースでも同様だった。


 マフィアの力が警察を封じ込めているのか、あるいは単なる事故として処理されているのか。いずれにせよ、公にならなければ動きやすい。彼女は一時の安堵を得た。


 イヴリンはベッドに腰掛け、懐から手鏡を取り出した。


「インプ、戻りなさい」


 鏡の表面が波打ち、インプの不満げな顔が浮かび上がる。


「そなたは倉庫にもう一度偵察に出なさい。監視を続け、あの場所にいた人間が動くのを待つのよ。それが私の次の標的だわ」


「またあそこに!? あの場所の空気は煙の悪臭とか油の味が混じってひどいんだ! 僕の鼻をこれ以上酷使させないでよ、もう」


「文句を言わない。……頼んだわよ」


 ふてくされたインプの気配が消えると、イヴリンは昼前の光が差し込み始めた部屋で重い(まぶた)をこすった。丸一日続いた不慣れな復讐の行動は、彼女の魔女としての集中力を著しく奪っていた。


 今のイヴリンにできることは特になく、インプからの吉報を待つことだけだった。


 彼女は簡素なベッドに身を横たえ、浅い眠りに入った。その眠りは、廊下のきしむ音や遠くのサイレンに即座に反応してしまうような、緊張を伴う短い休息だった。


 数時間後、日が中天に差し掛かった頃。懐の手鏡が微かな熱を放ち、イヴリンの意識を覚醒させた。彼女は跳ね起き、鏡を覗き込む。


「やっと動いたよ、魔女様。あの倉庫にいた連中、車で移動を始めた」


 手鏡の中のインプは、とがった耳をげんなりと垂れ下げていた。


「これでやっとこの臭い場所から離れられる……」


「追うのよ。彼らが向かう先を追跡して、彼らの巣を探し出しなさい。急いで!」


 イヴリンは鋭く命じた。彼女の狙いは、倉庫にいた集団の、より上層部の拠点を見つけることだ。インプは倉庫から動きだしたマフィアの連絡係を追って、ビルの谷間へと飛び去っていった。


 ――――


 グリムリー・アンド・サンズの店で手に入れた砂時計のずしりとした感触をまだ手に残したまま、サムは車を走らせていた。


 サムが選んだ隠れ家への最短ルートは、リバーフォールの大河川に沿って走る高速道路の、高架下を通る幹線道路だった。ウェルズ地区の優雅な石畳の風景はバックミラーの彼方に消え、視界は巨大なコンクリートの橋脚と陰鬱(いんうつ)な影に覆われたアスファルトへと一変する。頭上を走る高速道路の轟音が、街の喧騒を低く反響させていた。


 この道を走り出して数分もしないうちに、サムは背後で車間距離を不自然に広げる黒い高級SUVの存在に気づいた。ナンバープレートは意図的に泥で汚され、その車間距離の取り方は、職務に縛られる警察車両のそれではなかった。サムが車線を変えても、獲物を追い詰める狼のように一定の距離を保ち続けている。それは、獲物が逃げる可能性すら計算に入れた、プロのハンター特有の冷静で粘着質な動きだった。


 ドミニクの部隊のような激情的な荒々しさはない。だとすれば、サヴェージの手練れか、あるいはドミニクが雇った別のプロか。どちらにせよ、この先にある高架下の薄暗いトンネルに進入すれば、そこは逃げ場のない()()()となる。


 サムの血管にアドレナリンが駆け巡った。左肩の銃創(じゅうそう)が熱を持って疼くのを無視し、彼はハンドルを強く握りしめた。


「ここで撒く」


 サムは判断と同時に、高速道路の壁際にある狭い側道へと進路を急に変更した。


 しかし、その判断すらも敵の計算の上だった。


 彼が側道の入口へとセダンを滑り込ませた、その一瞬。横の路地から、もう一台の黒い車両が強引に飛び出し、彼の横への進路を塞いだ。二台の追跡車両に挟まれ、サムのセダンは狭い車線に閉じ込められた。


「チッ!」


 サムは即座に抵抗を開始した。彼は窓の制御ボタンを押し、運転席の窓を下げると同時に、グローブボックスから予備の自動拳銃を引き抜いた。片手でハンドルを制御し、もう一方の負傷していない右腕で、側方の車のタイヤとエンジンを狙って立て続けに銃弾を放つ。


 銃声がコンクリートの壁に反響する。だが、運命の天秤はすでに傾いていた。


 道の先、視界を遮るカーブの向こうから、巨大な冷凍トラックがノロノロと現れ、道を塞ぐ壁のように急停車したのだ。逃げ場はない。サムのセダンは、後方からの追跡車と前方のトラックという鉄のプレス機に挟まれた鼠だった。


 後続車の助手席から短機関銃の音が炸裂する。激しい銃弾の雨がセダンの後輪を破裂させ、続く一発がエンジンルームを貫いた。駆動音が断末魔のような金属音に変わり、制御を失ったセダンは、減速しきれないまま、冷凍トラックの荷台へと吸い込まれるように突っ込んだ。


 ドォォォォン!


 凄まじい衝撃音と共にフロントガラスが砕け散る。エアバッグの破裂音が鼓膜を打ち、左肩の銃創が裂けるような激痛が脳髄を駆け上がった。視界が明滅し、世界がスローモーションになる。サムはハンドルに額を打ちつけ、薄れゆく意識の中で自分の血の匂いを嗅いだ。


 ドアが強引にこじ開けられる音が、遠くの出来事のように聞こえる。サムは最後の力を振り絞り、震える手を足首の隠しホルスターへと伸ばした。そこには彼の折り畳みナイフがある。


 だが、遅かった。


 黒い服を着た男が腕をねじ上げ、サムの抵抗を許さなかった。ナイフはカランと音を立ててアスファルトに落ちる。その直後、首筋に鋭い痛みと共に非致死性の鎮静剤が打ち込まれた。


 彼の意識は、潮が引くように急速に遠のいていった。男たちは血を流すサムの体を乱暴に引きずり出す。薄れゆく視界の中で、サムは男の手首に刻まれたタトゥーを捉えた――サヴェージの組織のタトゥー。


 彼らは手際よく車内を検索し始めた。ダッシュボード、シートの下、トランク。しかし、ステアリングコラムの奥に隠された存在には気づかないまま、サムの身柄だけを確保してその場を離れた。


 サムは、遠のく意識の最後の灯りで、砂時計が安全な場所に残されたことを確信し、かすかな、しかし確かななぐさめを胸に抱いた。


 彼の孤独な闘いは不運にも中断された。しかし、カレルを救うための希望は、まだこの世に残っていた。

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