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第六部:交錯の螺旋と魂の代償 - 1

 ――夜明けのリバーフォール。


 サムはハンドルを強く握りしめ、冷や汗で滑る手に力を込めた。予備のスーツで隠されている左肩の肉を抉った銃創(じゅうそう)は、あり合わせの包帯で締め付けられているが、激しい痛みを止めるには不十分だった。彼の顔は疲労と緊張で強張(こわば)り、常にバックミラーで背後の影を探り続けていた。


 しかし、彼の目的地は明確だった。


 すべての歯車が狂い始めた場所。カレルが()()()と出会った古びた店だ。


 サムはカレルを車で送り迎えしていたために、彼が奇妙な古書を購入した『グリムリー・アンド・サンズ古美術店』の場所を知っていた。逃亡者となった今、彼に残された唯一の希望は、その根源を突き止め、カレルを救う手立てを見つけることだった。


 彼の黒い高級セダンは夜明けの冷たい川風を切り裂き、橋を渡って朝霧の渦巻くウェルズ地区へと進んだ。


 車窓には朝方の日常が淡々と流れていく。牛乳配達のバン、新聞を積み込むトラック、けだるそうにシャッターを開ける店主たち。黒い服を着た女性が通学途中の制服を着た子供たちに囲まれているのが、一瞬見えた。その平穏で退屈な光景は、血と暴力の世界に生きるサムにとって、ガラス一枚(へだ)てただけの、永遠に届かない異世界の出来事のように思えた。


 サムが停車したのは、週末のマーケットで有名な、アンティークとガラクタが混在する一角だった。早朝の通りはまだ本格的な賑わいはなく、金属と木材がぶつかるような露店の設営準備の音が静けさを切り裂いていた。


 目的の『グリムリー・アンド・サンズ古美術店』の厚い木製の扉はまだ閉ざされており、二階の窓からは微かなランプの光が漏れていた。軒先には、価値ある古美術品か、あるいはただの産業廃棄物か判別のつかない奇妙なオブジェが並べられ、霧の中で異様な存在感を放っていた。


 サムは痛む肩を(かば)いながらスーツを正し、古びたドアベルを遠慮なく鳴らした。


 チリーン。


 しばらくして、扉の奥から鍵を外す重い音が響き、扉が開かれた。そこに立っていたのは、清潔なツイードのジャケットを着た魔法道具屋の店員、オーウェンだった。彼の身なりは完璧に整えられており、その立ち姿には一点の乱れもなかったが、その目の奥には幾年もの時間を背負ったような疲労が隠されていた。


「申し訳ありません。まだ開店時間前なのですが」


 オーウェンは、サムの仕立ての良いスーツとそこから発せられる暴力の匂いに一瞬身を硬くした。だが、サムの瞳にある切迫した絶望を認めると、すぐに警戒を解いた。


「急ぎの用なのです。ここで、私の友人が以前、奇妙な古書を購入した」


 サムの声は低く、押し殺されていたが、そこには隠しきれない焦りがあった。


「その古書が原因で、彼は……彼は変わってしまった」


 オーウェンはサムの銃創には気づかなかったが、その異常な緊張感を肌で感じ取った。彼はこの種の()()に慣れていた。魔法道具の力は、常に人間関係と運命をねじ曲げてきた。


「ああ、なるほど。お入りください。店はいつも開いていますよ、運命を探している人にとってはね」


 オーウェンは扉を開けて彼を招き入れた。店内に漂うのは、古紙、ドライハーブ、そして硫黄のような匂いの残り香だった。棚には奇妙な形をした陶製の小物、歪んだ金属細工、そして数えきれないほどの古書が並べられていた。


 サムは、自分の靴音と呼吸の音が、この世俗から切り離された静寂の中で不自然に大きく響くことに苛立(いらだ)ちを覚えた。職業柄、常に気配を消してきた彼にとって、ここはあまりにも無防備な空間だった。


 その時、店の奥、薄暗い棚の影で微細な光の粒子が凝集(ぎょうしゅう)し、ひとつの輪郭を形成した。かつてシルキーと呼ばれた精霊、エルスペスだった。まるで産業革命時代の古いポートレートから誤って1920年代のファッションで抜け出してきたかのような、異様な静謐(せいひつ)さを(まと)っていた。


 彼女の栗色の髪は(つや)やかなフィンガーウェーブを描き、そのまま顎のラインで切り揃えられたカーリーボブになっている。濃いフォレストグリーンのタイトスカートが、彼女の禁欲的とも言えるシルエットを強調し、虹彩(こうさい)の色を判別しがたいほど暗い瞳は、決して感情的な輝きを放たず、常に理知的な冷徹さを宿していた。


 エルスペスはその瞳をサムに一瞬向けた。しかし、その視線はサムという個人を(とら)えるのではなく、彼に付き纏う悲劇のステレオタイプだけを観察しているかのようだった。


 オーウェンがサムを奥のカウンターへと案内すると、エルスペスの声が、氷のように冷たく、オーウェンの脳内に直接届いた。


「あら、今朝のお客様も、またしても破滅的な買い物の尻拭いですって? 可哀想に。人間の友情というものは、道具の代償に真っ先に食い荒らされるものだと、何度言えば理解できるのかしらね」


 サムはカウンターに辿(たど)り着く直前、無意識のうちに背後の通路を振り返った。誰もいない。彼の警戒心は説明のつかない店内の空気に過敏に反応していた。


 オーウェンは慣れた様子で静かにサムに向き直った。


「その古書、失礼ですが、装丁(そうてい)が古く、金色の糸で複雑な模様が織り込まれたものでしたか?」


 オーウェンの言葉はカレルが購入した本の特徴を正確に捉えていた。サムは目を見開き、一瞬、返答に詰まった。


「……間違いなくそれだ。あの本について何を知っている?」


 オーウェンは深いため息をついた。彼のささやかな願いは聞き届けられず、最悪の予感が的中していた。


「あなたの友人がその本を購入された際、私は警告しました。知らなくていいことを知ろうとすれば、その代償は、あなた自身の精神で払うことになる、と」


 オーウェンはサムを真っ直ぐに見つめ、感情を抑えた声で続けた。


「あの本が提供するのは、真実の断片です。彼は間違いなくそれに触れた。そして、あなたの様子を見るに、その真実は彼にとって、そしてあなた方にとって、決して好ましいものではなかった。そうでなければ、彼が悪い方向に転がる必要も、あなたがここに来る必要もなかったはずです」


 再び、エルスペスの声がオーウェンの思考に割り込んできた。


「あの本の(ささや)きは、救世主を夢見た哀れな子をただの盲目な騎士に変える。人間は自ら選んだ虚無の物語の終焉を突き進むだけ。結局、彼は自分が誰であったかを忘れるまでその物語の呪縛から逃れられないのよ」


 エルスペスの非情な言葉はオーウェンの胸を突き刺したが、彼はあえて無視した。彼が過去の失敗から学んだのは、結末を知ってなお、目の前の人間を助けるために行動を起こすべきだということだった。


「彼がその――代償とやらを支払うのを止める手立ては? あんな風に友人が変わってしまったとしても、まだ人間的な部分を取り戻すことができるのでは?」


 サムは、オカルト的な概念に戸惑いを覚えつつも、焦燥を隠さずに尋ねた。


 オーウェンはカウンターの奥の棚から一冊の古びた書籍を取り出し、開いた。そこに描かれていたのは、息をのむほどに美しい砂時計の挿絵だった。


「救うことは困難です。ですが、一時的に彼の精神の崩壊を遅らせることはできます」


 開かれたページには、精緻(せいち)な手書きの図版と神話的な文字が並んでいた。


 図版の中央には、二つの巨大な青みがかった多面体のクリスタルでできた星が上下の部屋を形成するように描かれていた。星を繋ぐ優美な金属枠は複雑に絡み合い、その内部の透き通ったクリスタルの通路を流れ落ちるものはプラチナのような輝きを放つ粒子だった。


「これは『魂の砂時計』の最も完璧な形です。その仕組みは心の一部分、つまり()()()()を一時的に抜き出し、それを道具の中に代償として預けることで、他者の精神の飢えを満たすというものです。この品は、心の複雑さが少ない動物の魂を代償として使うためのものだと記録されています」


 オーウェンの説明を聞きながら、サムは挿絵に目を落とした。読めない文字が並んでいたが、初めて見るこの芸術品になぜか()かれた。


「見惚れているわね。本質を知らずに形だけを崇拝する。いつものことよ」


 エルスペスが冷ややかに囁く。


 サムが本を見ている間にオーウェンは店の陳列棚の方へ向かった。そして、戻ってきた彼の手には、図版のような優美さはまるでない、手のひらサイズの青銅製の砂時計が載せられていた。中の砂はどす黒い紫色の宝石の粉末だった。


「残念ながら、この完璧な形のものはここにはありません。しかし、これがあります」


 オーウェンは青銅製の砂時計をサムの前に置いた。


「これは劣化した、あるいは意図的に変質させたものです。最高級品と違い、これは人間特有の強い感情の残滓(ざんし)しか受け付けない」


 オーウェンの声色が厳しくなる。


「これをあなたの友人に使うと、彼の精神を蝕む力の飢えを一時的に満たすことができます。その代償として、あなたは、あなた自身と彼との間の『絆』や『友情』といった感情を、この砂時計の中に注ぎ込み、消費することになる」


 オーウェンは真剣な眼差しでサムの目を覗き込んだ。


「彼の精神が一時的に回復する代わりに、あなたは彼を友人として思う心を失うかもしれない。これは、あなたの魂の自己犠牲です」


 (いまし)めの言葉はサムの背筋を冷たい水のように流れ落ちた。サムは無言でガラスの中が黒く濁った砂時計を凝視(ぎょうし)した。それは単なる道具ではなく、彼の過去と未来、そしてカレルとの全ての共有記憶を奪い去る悪魔の契約書のように見えた。


 サムの裏社会でのキャリアは、常にカレルという相棒によって支えられてきた。危険な取引や組織内の政治的な罠から、カレルの饒舌(じょうぜつ)さと先見の明が何度もサムの命を救ってきた。サムはカレルに対して計り知れない命の借りを抱えていると認識していた。この砂時計の取引は、その負債を、感情という最も価値のある代償で清算するための最初で最後の機会だった。


 逃亡者となり裏社会から追われる身となったサムに残された唯一の目的は、カレルを救い出し、この悲劇に自らケリをつけることだった。カレルが闇に()ちたのが、二人が選んだ道の必然だとしても、彼をそこから引きずり出すのは自分の義務だ。たとえその結果、自分が感情を失った抜け殻になり、ただ組織の命令に従うだけの歯車に戻るとしても、支払うべき代償だった。


「構わない。使い方を教えてくれ」


 サムは即座に言った。彼の声には、決意の固さと、もはや後戻りできない場所に来てしまった男の諦観(ていかん)が混じっていた。借りを清算するというサム自身の厳格なルールが、この自己犠牲という最も人間的な選択を、彼にとっての唯一の合理的な道として導いていた。


 オーウェンは静かにうなずき、青銅の砂時計を慎重に手に取った。


「使い方は見た目通りです。砂時計をひっくり返し、あなたの意志で感情を注ぎます。それから、あなたの友人の前でこの砂時計を一度ひっくり返す。そうすれば、あなたの感情が下の部屋に流れ落ちる間、その力で彼の飢えが一時的に満たされるでしょう」


 オーウェンは砂時計をサムの手に渡した。その冷たい金属の感触はサムの熱い焦燥をわずかに(しず)めた。サムは言葉を交わす代わりに、ポケットから分厚い札束を取り出しカウンターに置いた。金額は質素とも言えるアンティークの代金としては、破格だった。


 オーウェンは金には触れず、哀れみと敬意の混じった眼差しで言った。


「あなたが支払う代償はお金では(あがな)えませんよ。どうか、あなたの望む結果が得られますように」


 サムは短く(うなず)くと、痛む肩を抱えながら急いで店を出た。マーケット通りは朝の活気に賑わい始めていたが、早朝の湿った空気はまだ重く、彼の胸の圧迫感を増幅させた。


 サムは素早く黒いセダンに戻り、鍵を差し込んだ。だが、すぐにエンジンをかけることはしなかった。まず最優先の行動を取る必要があった。


 手のひらサイズの青銅の砂時計は、彼のスーツの胸ポケットに収まるには重すぎた。それはカレルを救う唯一の希望であり、彼の生存そのものと同じくらい、失ってはならないものだと本能が告げていた。


 サムは携帯していた折り畳みナイフを取り出し、ハンドルの根本、ステアリングコラムの下部に手を伸ばした。通常は分解工具が必要なプラスチックの継ぎ目を、痛む左肩が悲鳴を上げるのを無視して、慎重にこじ開けた。これは彼が改造した車体構造のわずかな隙間だった。


 彼は、まずその隙間に既に隠していたものが無事であることを確認した後、砂時計をポケットチーフに丁寧に包み、慎重にその奥に押し込んだ。エアバッグの裏、配線の密集する闇に消えた砂時計は、これで万が一、車が制圧されたとしても、定型的な捜索では見つけられないだろう。


 彼の目的地はウェルズから川を渡った先、グリフィン・プラザから少し離れた場所にある、何の変哲もない集合住宅区画の隠れ家だった。そこで傷の治療、着替え、そしてドミニクの組織の情報を整理する必要があった。カレルと一対一で会うためには、完璧な準備が必要だ。


 サムは深く息を吐き、朝霧に濡れた石畳の上で、静かにエンジンを始動させた。彼の目はバックミラーとサイドミラーを交互にチェックし、感傷を断ち切るように、アクセルペダルを踏み込んだ。


 車は滑るように、次第に慌ただしくなる街へと溶け込んでいった。

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