雨に響けば
手元で馬頭琴が鳴る。緩やかに力強く。それを包むのは柔らかなピアノの音色。繊細なタッチは俺の気まぐれな馬頭琴の演奏を、しかししっかりとカバーし、形を作り、音楽にする。
そして沢山の人の葉巻の煙と話し声。雑談。「ここの料理は美味いが高いね」やら「親戚がちかごろ調子よくなくてね」やら、カフェに詰め込まれた人たちのあけっぴろげな心、欲望といってもいいだろう、そんな言葉の数々。木造の空間は音楽の作るムードに甘え、いや無視するかのように、好き勝手なおしゃべりが支配している。好きに話すが良いさ。俺も好きに演奏するから。低音から一気に高くフレーズを持ち上げ、客を驚かそうとしたが、ピアノの音が絶妙にそれを緩和し、メロディとして成り立たせる。腹立たしくも惚れ惚れとする腕前だ。
「あんちゃん、おつかれさん。また頼むよ」
薄い口髭のマスターから600ギルドの日当を受け取る。新人の音楽家にとっては破格の収入だろう。音楽専門の酒場などはこの街にいくつかあるが、そこを独占して演奏会を開いても、その三分の一も儲からないだろう。下手をすると赤が付くかもしれない。この高収入を為させるのは、音楽酒場ではなく、音楽も聞ける軽食喫茶としてのコンセプトを打ち立てたこのマスターによるところが大きい。それと巷に溢れているギターやリュートではなく馬頭琴という楽器の珍しさからか。隣の禿げた太っちょのピアニストは俺と同じ報酬を受け取っているが、その腕前もキャリアも俺よりもずっと積んでいるのは確かだ。結局のところ楽器の選別で食い扶持が決まったと言えるが、この大きな音楽喫茶以外に俺を重用してくれるところがあるかも疑問だ。巡り合わせという問題だろう。
外に出ると雨が降っていた。しとしととしたこの地特有の雨。無理をすれば濡れながら行けるが、無理をしない俺は集合馬車に乗ることにした。
馬車に揺られながら、マスターから借りた珍しい音楽記を読む。なにか斬新な演奏方法はないか、「あっ」と言わせる技はないか。茶色く黄ばんだ紙に滲んだインクの文字をなぞっていく。あの、禿げたピアニストをギャフンと言わせる「何か」を探して。珍しいフルートとの出会いから地元のウイスキーへと話が逸れていく話をいささか退屈しながら辿っている時だった。
歌が響いた。
柔らかで高く、澄んでいて、でも不安定で洗練されていない歌声だった。
道で歌っていたのだろうか。雨の中、ごくろうさんという感じだ。しかし、どこか光るものがある音色だった。荒削りの原石のような。そこまで考えて、俺は苦笑した。俺があの喫茶のマスターに言われたことそのままじゃないか。馬車はとっくに歌を通り越して、俺の下宿屋に近づいていた。
喫茶店は相変わらず、下らない冗談で満ちている。しかし俺の馬頭琴の演奏は、必死そのものだ。右に左に昨日覚えたテクニックでピアノを揺さぶろうとしたが、禿げたおっさんは軽やかにそれをいなし、まるでマタドールのように俺を挑発する。いつのまにか俺はあのピアニストに思うがままに操られている気分になった。
「こんちくしょう!」
思わぬ大声で吐き捨ててしまった。雑談に夢中なお客たちは気付かない。なんの波紋も立てない。しかし、あのピアニストには聞こえていたらしい。ピアノの音が止まった。俺は彼を「何をするんだ」と抗議するように見つめた。「好きなようにソロを弾け」とピアニストは促すように笑った。
「それなら!」
俺は嘗てリュートを弾いていた時に学んだテクニック、くたびれた翁からの直伝の馬頭琴のテクニック、一昨日の本から学んだ新しい演奏法、あらゆる演奏をした。しかし、それはピアニストに今まで随分と見せて、呆れるくらいに繰り返した小手先の遊びだった。そう言っているような目で見つめる彼。
俺は腹を決めて、指に力を込めた。渾身のストレートな馬頭琴の大陸からの鳴けるようなメロディ。茶色の雑談が支配する喫茶店に、竜が鳴く音が響いた。
俺は出し切ったと、荒い呼吸を整えながらピアニストを見た。今度は彼の番のはずだ。
ピアニストは俺を御すように手を持ち上げ、軽く拍手し、次いでじっとピアノを見つめた。
ピアノが弾けた。恐ろしい程の質量のピアノだった。時に激しいスタッカートが密度濃くぽんぽんぽんぽんと続き、次いでスケートのように流れるようなメロディが響いた。「春」と題された古典的な音楽から、名前も知らない曲、ついさっき俺が見せた新しいアレンジの曲、泉のようにこんこんと音が沸いた。そして花のように咲いた。喫茶店を支配していた雑談はいつの間にかなくなっていたことを俺は知った。その演奏が終わり万雷の拍手が響いたとき。
「なかなかよかったよ」
禿げたおっさんピアニストがはじめて俺に向けた言葉が、これだった。親しみのこもった調子だったが、俺からは高みにいる余裕しゃくしゃくの発言にしか聞こえなかった。少し色のついた日給をもらい、外に出る。
雨だった。俺はもう歩く気力をなくしていた。習慣となった集合馬車に乗る。今日は何時もより蒸し暑く、乗客も多く、馬車内はむわんとする。その不快な中、俺は車窓につく雨粒を見つめる。窓に指で「へのへのもへじ」の顔を書き、次いで恥ずかしくなり消した。
その時歌が響いた。窓の外を見やる。まだあどけない女というよりも少女に近い女性が、歌っている。観客は数人。
「思ったよりも悪くないな」
そう思った。だけに数人だけの観客というのがいかにも寂しそうに見えた。
俺とピアニストのソロ合戦は続いていた。俺は毎度死力を尽くして挑むが、彼はそれを遥かに超える演奏で返す。しばらくして喫茶店のお客の中に、「音楽目当て」の人達が混じっているのを感じるようになる。拍手の大きさも増していく。俺の憤りも大きくなる。
その中で俺はあることに気付いていた。
今日は雨が降っていない。それでも歩くことにする。馬のフンが中央に続き、その横の建物を日傘に人が申し訳なく通る道々。茶色いレンガの建物。カラフルに塗られた都会らしい看板。夜の始まりを告げる娼婦の勧誘。湿気の多い曇った道を行く。ピアニストと俺のソロ合戦は敗北続きだ。初日はそうでもなかったがレパートリーが小手先だけの俺に比べ、千の引き出しのあるピアニストに長期戦の分があるのは明らかだった。バリエーションが俺が本棚一つ分なら、ヤツは図書館まるまるある。それでも、それでも、俺は時に彼を脅かせることに成功していた。俺の思い込みではないと思う。一度、馬頭琴を弾きながら彼を確認したときもそうだった。
雨がゆっくりと降り始め、街を満たす。
歌が聞こえる。軽やかに梅雨も滑る歌声が。
俺は数人の観客にまぎれ、それを味わい、終わると「よう」と声をかけ、肩にかけている大荷物、馬頭琴のケースを開いた。
女は笑いながら「こくり」とした。
それから恥ずかしそうに、確認するように、「一緒にやる?」と聞いて来た。
彼女はまずはリュートの基本の教科書にもありそうなオーソドックスなスタンダードの歌を歌った。綺麗に澄んで弾んでいた。それは俺も知っている弾きやすい歌を提供すると同時に、彼女からの名刺交換でもあった。俺も名刺代わりに力強く伸びやかな大陸の馬頭琴の音で応える。観客が「わっ」と沸いた。それまでこれほど賞賛されたことがないのだろう。彼女は本当に嬉しそうな笑顔を見せた。少し涙すらも滲ませて。それは俺の音によるものだけではなく、彼女が基本に忠実に歌えばそれだけの力がある証拠なのだ。彼女を、荒削り、素朴な原石にしているのは彼女のオリジナルの歌へのこだわり、それゆえの不安定さによるものだ。そう俺はこの曲を弾いて結論付けた。いいじゃないか。願っても叶ったりだ。その原石、俺が磨いてやる。輝かせてやる。
「あんたのオリジナルは? 合わせて演奏するよ」
彼女は驚きの色を見せ、だがそれは次に試すようないじらしい顔に変わった。それから「今からとっておきの曲を歌うよ」と笑った。
歌声は不安定にビブラートしながら高音で響いてくる。確かこれはマスターの本によると、遥か東の砂漠の歌だ。なるほど珍しいが、それ以上に珍しい東方からの馬頭琴には相応しい曲なのかもしれない。音を合わせる。音の呼吸を合わせながらこちらも主張し、メロディーを支える。彼女の歌声はそこを羽休みどころにし、高くビブラートが響く。不安定だったはずのそれは、風のような揺らぎの表現へと変わる。彼女の驚きがふと声に加わり、ついで喜びでいっぱいになる。歌が終わるころになると、自信のかけらさえ生まれていた。
「すごいね、おにいちゃん」
「ども」
「いいね」
「いいさ、次の曲は?」
音楽が満ちる喫茶店。俺のソロに、新しく砂漠のメロディーがまるまる一曲加わる。やはりピアニストには驚きが混じっている。平静にしてそうで、しきりに音をなぞる右足の足踏みでそれが分かる。彼を脅かせること。それは馬車で通り過ぎたときに響いた歌のさりげない一フレーズからだった。
だが、覚悟しておけ。今日からの俺は違う。
それから幾数月。
禿げたおっさんピアニストは笑った。
「ぼうや。楽しかったよ」
「いえ、僕も楽しかったです」
僕なんて慣れない言葉を使う俺。
「楽しすぎて、もう一度ピアノで頂点を獲りたくなった」
「あなたならワールド・ヴァルツハイム賞くらい獲れますよ!」
「ヴァル? なにそれ?」
「僕が今、作った賞です」
「ははは、意外と冗談の上手いぼうやだ」
「ほんとにここ止めちゃうんですか?」
「ここでのセッションで意外といいところからスカウトの声がかかってな。そこを足がかりに、こんな喫茶店じゃなくて、もっと上級のアカデミーを目指すよ」
「楽しみにしてます」
「ほんとかい?」
「ほんとは野垂れ死んでほしい、なんて」
「はは、ありがとな」
がらんとした仕事終わりの喫茶店にマスターと俺、二人になった。
「彼、成功しますかね?」
「いや、成功したさ。ヤツは昔は良かったんだが、ここに来たときはさっぱりでな。テクニックは良かったが、なんというかひじょうに詰まんない演奏になっていた。酒のつまみの演奏というかな。音楽喫茶だったはずが、冗談と雑談だらけの喫茶になったのは、あいつによるところが大きいね。いや百パーだね」
「はぁ、そうとは思えませんが」
「君のお陰だよ」
「へへへ、そっすか」
「君の拙い、演奏のお陰だよ」
「へへ……」
「君の粗削りで世間知らずな、でもほっとけない演奏を聞いて、あいつも音を合わせる、人を支えるピアノを学んでたよ」
「うん」
「そして、君は一人前の馬頭琴奏者になった。知ってたかい? 喫茶店の雑談が止んだのは、君のソロがピークに達した時からだったんだよ。奴の鬼気迫るピアノソロは君の作った助走から生まれたんだ」
「ありがとうです、ありがとうございます」
「君は素晴らしくなった。君には末永くこの店にいてほしいんだが」
「うーん」
「居てほしいんだが、良い音楽家ほどここから巣立っちゃうからなー」
「ちょっと一緒に旅したい面白い歌を歌うやつがいて。しばらく路銀を稼いだら、お暇をいただこうかと」
「女かい?」
「ははは」
「女なのかい!」
マスターは失礼なほど驚いた顔をした。
雨の降る道端で今日も快活な澄んだ歌が響く。湖で恋をしてボートに乗る若い二人を歌った歌だ。
万雷の拍手。観客は40人はいるだろうか。あの喫茶店の客と比べればはるかに少ない、でも手が痛くなるほどの心からの拍手だ。
「今まで、ありがとう、そしてさようなら。これから旅に出ます。探さないでください。なんちゃって」
「つまんない冗談は置いといて、これから東、彼女の故郷の方へと行こうと思ってます。謂わば凱旋ツアーですなー」
「ですなー」
「シーユーアゲイン、あなたも元気で」
旅の途中、彼女からの感謝の言葉がふいに、彼を思い出させた。
「わたしって、歌うことに夢中で、歌い方とか我流過ぎて、へたっぴだったのね。でも、あなたがサポートして支えてくれて、時に正してくれる演奏をしてくれたおかげでわたし歌ってなにかちょっとわかったみたい」
それは俺があの禿げたピアニストから教わったこと、教わり伝えられ、知らず彼女に教え伝えたこと。その彼があの町で今日も美しい演奏をしていることを、遠い異国からちょっとだけ願う。ちょっとだけ。