白い砂
吹きつける風に潮の匂いが混じりはじめた。焦げ茶のマントが後ろへと揺れる。辺りは枯れた色の草原と畑。風を遮るものはない。大変、寒い。
「燃える水の海か……とんだ辺境だ」
彼女はそれを受けて、皮肉っぽく笑う。
「こう、凍える冬には、海もがんがん燃えて欲しいな。少しはぬくくなるんじゃない」
こう、可愛くないことを、とても可愛らしい声で語りかける。未だに俺も慣れないが、美しいだけでは生きていけない世界を旅しているのが、俺たちだ。
「海と言えばフレッシュな魚が食べたいよ。もう干し肉は沢山だ」
「わたし、魚、嫌い」
「わかってるよ」
「生臭いから」
彼女は瑠璃色の大粒の瞳でぶーたれる。これであと鼻が3センチ高かったら惚れてしまっていただろう、と思う。それかもう少し儚く弱かったら。
俺は道すがらてきとうに思いついたメロディーを口ずさみながら、枯れた景色を歩き続ける。彼女がそれに合わせてハミングする。
やがて良く整備された白の道と家々、それに対比するようにどこか疲れた人とロバがそこかしこに佇む街へと着いた。
土地の人の言葉で「小人の避難所」という意味の名前の街だった。空は透き通るほど青いのに、建物は真っ白の石で作られてるのに、人々の顔はどこか暗い。
街の暇そうなあんちゃんに声をかける。
「ああ、なんだ? 知らない顔だな? やるか?」
俺は懐からさも大事そうに銅貨を一枚差し出す。
「この街で一番の飲み屋を知りたいんだが」
「へへっ、なんだい。それは。けんか売ってんのかい?」
黙ってもう一枚、銅貨を取り出す。
「なに、怪しいもんじゃない。政府の差し金でもない。しがない旅の吟遊詩人だ」
「ははっ、政府なんて、こんな街、とっくに見捨ててらぁ。俺だって、こんなところ」
それまで黙っていた彼女が、小さな唇を開き、まるでシルフのささやきのような、かすかな甘い声で尋ねた。
「お兄さん、お願い、困ってるの。わたしたちを助けて」
酒場への道すがら、俺は文句を言う。
「けっきょく、あの手の奴らは金よりも色気か。お前、歌を売るよりも、色を売った方が、良い生活を送れるんじゃないか」
彼女は応えない。だいたいそういう時の彼女は、深く考え込んでいるか怒りを示そうとしているかのどっちかだ。普段は夕方のカラスのように騒がしい奴なのに。
しばらくして、彼女が口を開く。
「綺麗な建物……何千年も前に建てられたものだわ。たぶんここの石、この国の首都のものよりもずっと値打ちのある頑丈なもの。昔は、ここ、とても賑わってたんだ」
昔は、という言葉にどうしようもない感傷が込められていた。彼女は怒っていたというよりも、想いを馳せていたんだ。昔、この道を大勢の行商人と馬車が行き交い、さまざまな交易品と魚がごった返していた頃を。
「燃える水の海か……」
夕刻を過ぎ、陽が落ちてくると、人の数は更にまばらになっていく。
「田舎はいやね。老人と暇人は眠るのが早い」
彼女はすっかり感傷から立ち直り、街への悪口、けなし言葉を、次から次へと俺にぶつけてくる。もちろん他の人には聞こえないつぶやき声で。その甘い柔らかな声でもっとロマンチックなことを言ってくれれば、俺たち二人ももっとロマンスの関係になっていても可笑しくないのに。まぁ、現実なんてそんなもんだろ。
石造りの街にあって、古木を組み立てた酒場は異彩を放っていた。人にとっては無駄なこだわりと取るかもしれないが、俺はこういうのが好きだ。木のドアをぎぎっと開ける。そして口にした。
「どうやら、ここでは商売は無理みたいだな」
彼女も応える。
「だね」
酒場には三、四人の集まりが二組だけ。金にはとてもなりそうもない。酒場のマスターとは、商売の話はよして、土地の話をすることに絞った。
「有名な海があると聞きまして」
「有名? はっ? 死の海だよ」
縦にも横にもでかい大柄な酒場のマスターは、ハムを切りながら渋い顔をする。
「何百年前も前はもっと自然に綺麗だったんだろうがな。今は悲しい色をしているよ。あの戦争以来、海は変わっちまった」
「ずっと昔の戦争か……」
「ずっと昔? 俺らにとっては今も続いている厄災だがね」
「しかし、隣国はもう諦めてここに攻めることはないと聞いたけど」
「攻める価値そのものが無くなったからな。海は死んでしまったのだよ。魚も死んでしまった」
「そうか」
「立ち寄ろうとは思わん方が良いよ。毒気があるからね」
「だが、国の調査ではもう交易は大丈夫だと」
「知らんよ。海鳥の一匹も来ないそこに、人が渡って身体に害がないと考える奴はいないよ」
「しぶいな」
「しぶいね」
「そっか」
「ハムが焼けたよ」
「魚は出せないか」
「遠くの国からの干し魚はあるが」
「それじゃどことも変わらないよ」
「そうさな」
「うん、なかなかしぶいハムだ」
「悪かったね」
「赤みが固い」
「ここじゃ豚にも栄養が行き届かないんだよ」
「だが、悪くない」
「ありがとな」
「これから少し世話になる」
「うちじゃ働けないよ」
「なに、場所は考えるさ」
「物好きだな」
「じゃなきゃ、旅は続けられないわ」
今まで黙っていた彼女が、そう凛とした声で言った。
「どんな土地でも、歌を探せなければ、わたしたちがわたしたちである意味がない」
白い砂の海岸。じゃりじゃりという音がする。その白い砂こそが。そしてその白い砂に、虹色の水が混じる。虹色の水は海全体を覆い、驚くほどに綺麗な光景を作っていた。虹色に輝く波々。うねる音と共に、ぎらめくように輝く七色の水のしぶき。そして死んだような白い砂に浸る水。辺りには海藻の一かけも、海鳥の一羽もいない。完全な孤独。人も生き物も排除した、他を寄せ付けない美。
「こんなふうにはなりたくないな」
ひとりごちた。
彼女には見せなくて正解だったと思いながら、思い出話のようにそれを語ったら。
「わかってる、わたし、もう行ったから」
可愛くないやつだ。
はるか昔に戦乱があった。この「小人の避難所」は戦場になった。誰もが勝利を確信していた。国からは大量の兵士が招き入れられ、海岸には騎士の野営地が出来、何千もの軍人が覆った。それぞれが当時最先端のミスリルの甲冑と剣と弓に身を包んだ。敵軍は大量の軍船でやってきた。まず様子見か、数隻が先行した。それでも誰もが勝利を確信していた。今か今かと上陸を待った。しかし、それは来なかった。虹色の燃える水が海にまかれたのだ。そして火がつけられその軍船ごと炎に包まれ、やがて海そのものが炎の海となり、炎の波が兵士たちを襲った。炎は遠方で待機していた敵軍の本艦そのものまで焼きつくした。こうして、戦はお互いに多大な犠牲を出した。それだけならただの自爆かもしれないが、この自爆には、この港町の海そのものを機能させなくする、無価値にする意味も含まれていた。交易上の価値のなくなったこの街はやがて戦争をする両国とも忘れ去るようなどうでもいい存在となったのだ。しかし、そこに住む人たちはどうなのだ。その土地を守ろうとした善意の人々、その土地に暮らすことに未来を持った夢のある人々、たとえそれが殺し合いに駆り立てる狂ったものであれ、そのような民が報われるのだろうか。そして彼らとは関係なく長い間そこで暮らしていた、そして暮らし続ける街人にとって、その海を「燃える水の海」に変えた戦は、どのように思われているのだろう。
街の中心部。かろうじて動いている時計台。今はもう枯れてしまっている噴水。もう水が巡ることはない。そんな広場にはぽつぽつと人が、おそらく職のない、時間だけが有り余っている若者がぶらぶらしている。そのガス灯の下。夕暮れ時。俺は背中に背負っていた、馬琴という昔の遊牧民から教わった楽器を自分なりにアレンジした弦楽器をよっと持ち。音の調律のようにぽろんぽろんとかき鳴らす。広場の少年は見てみぬふりをしているように平然としている。やがて音合わせからごく自然のようにメロディーへと変えていく。哀愁のある南国のメロディーだ。熱帯林の中で老人が弾いていた。人の見る目が変わる。やがてそこに甘く、優しく、しかしどうしようもない寂しさを帯びた声が重なる。彼女は俺の横で、手を胸に合わせ、目を閉じ、ひたひたと迫る夜の前の太陽のように歌った。少年から驚きの声がもれた。俺の腕の中の馬琴のメロディーはゆるやかに、あくまでもゆるやかに、しかし確実に音を強め、盛り上がっていく。彼女の声、いやそれを映す感情も少しずつヒートアップしていく。やがて彼女の声は優しさを忘れ、叫びのような音量。しかし、それでも独特の甘さと柔らかさの残る声となる。さいごのフレーズを歌い上げ、それから俺がその余韻を馬琴の琴のように繊細で、でもどこか野性味のある音でつなぎ、余韻を作り。曲を終えた。冬の寒空の下、どっと汗が背中から滲む。息も荒い。この馬琴は、特別に高く鳴くような音を出すようにチューニングしたが、その代償として男が全力で弾かなければ制御できない荒馬のような楽器になっていたのだ。だが、彼女の声を運ぶにはこれでもまだ。その彼女が手をさらりと振り、大きく礼をする。俺も小さくそれに倣う。歌を楽しむ人々と歓声が待っていた。
けっきょく、どこも同じなのだ。どこの土地に行っても歌が、音楽が俺たちを土地と繋がせ、生かせてくれる。むしろ娯楽の少ない荒んだ土地だからこそ、俺たちは求められていたのかもしれない。
曲の合間に休憩がてら、旅で訪れた先々の土地の話と自己紹介を交えながら、十二曲も弾きとおした。彼女は歌いとおした。時間は夕方から午後の十時を過ぎようとしていた。やはり痩せた土地、人は集まっても、金はそこまで集まらなかったが、なに今日がはじまりだ。少しずつ土地も声も集めていけばいい。それにここの土地の人々からはいい曲のインスピレーションを与えてくれそうな、そんな人々が多かった。
「ねーねー、吟遊詩人さんはどこから来たの?」
「ずっとずっと西からかな」
「西って砂漠の方?」
「その砂漠を超えて、海も超えて、もっと西」
「すごいなー」
「わたしは、その砂漠出身なの」
彼女が身の上話をするのは珍しい。
「砂漠って熱くない?」
「わたしにとっては寒いところかな。冬の夜、本当に冷えるのよ。風が吹きっ晒しのように吹き抜けるし」
「でも、星が綺麗だ」
俺は付け加える。
「星が本当に綺麗だ。なにせ灯かりは他に無いからね。砂漠の広い空に、砂のように散りばめた銀河が映るんだ」
「へぇ」
「それも綺麗なだけじゃないのよ。なんの目印のない砂漠の旅の、唯一の道案内になるの。北極星、ポラリスを見て、自分のいる方位を確認するのよ。スターツーリストっていうわ」
「そっか」
「どうしたい?」
「俺のご先祖様、昔の漁師さんも星を目印にしたんだって。星と月を見て、帰る方向を確かめたんだって」
「そっか」
「うん」
彼女が聞いた。
「昔が恋しい?」
「懐かしいも恋しいもわからないよ。ずっと昔のことだもん。俺も俺の父ちゃんも生まれる前。ずっとずっと前。だけど、ずっとずっと前にそういうことが当たり前にあったのがなんだか不思議」
「うん」
「うん」
「ねぇ、昔の海ってどんな色だったんだろうね」
「うん」
「どんな香りがしたんだろうね」
「俺も見たかったな」
「わたしも」
この街で歌のレパートリーを歌いつくす頃、もう立ち去ろうとする頃、村の祭りに誘われた。一年に一度の祭りらしい。海がすっかり干潮になる時の。
春の少し眠たげな気温になる頃の、夜の海。星空の下に、ぽつぽつと丘に続く道に、篝火がたかれる。浜から少し離れた丘に、街人と俺たちは集う。町長が戦の愚かさ、かつての海の美しさを、恨みがましくスピーチする。街人はそういうのにすっかり飽きたのか、ところどころ雑談の声でスピーチは中断される。しかし、儀式の頃になると驚くほどの静寂が満ちていった。酒場のマスターが、昔の甲冑に身を包み、炎の矢をつがえ、弓に当てがう。そして炎の矢は真っ暗な空を、高く遠く放物線を描き、砂浜へと吸い込まれる。と思った瞬間、そこからわっと炎が広がり、炎は砂浜全体を焼きつくし、海までも炎が広がる。長いこと虹色だった海は、先刻の真っ黒な海から、赤くこうごうとした炎の海となり、白い砂の燃える音と、炎によって出来た熱風が生まれ、荒々しい波が見える。それは今まで何をされてもひたすら無言だった海そのものがむせび泣いている姿のように見えた。ただ胸がしめつけられる。
歌声が響いた。彼女はあふれる想いをそのまま歌に変えて歌っていた。歌詞はわからない。異国語なのか、ただなんとなく音を当てがっているのかわからない。だが、哀切と苦しみとそして解放への叫びが込められているのはわかる。町長をはじめどよっとしたざわめきが起きる。だがそれも束の間。やがてそれは受容の、むしろ「歌ってくれ」の沈黙へと変わる。俺も馬琴を弾きならす。めちゃくちゃのリズムの彼女の叫びに一定のメロディーと一定の音のリズムを与え、そして彼女の気持ちをシンフォニーさせるように弾く。
赤く燃える砂浜と共に、彼女の歌が咲いた。こうして歌は生まれ、そしてこの土地で歌われ続けるかはおいといて、俺たちはこの歌を片手にまた世界を旅するのだろう。
祭りが終わると、虹色の水がすっかり燃え尽きた、真っ白な砂が残った。それも三日もすると元に戻るそうだが、この白い砂は術力があると信じられていて、街の人はまじないや葬儀のために少し持っていくという。俺もその砂を持ち帰ることを許されたが、少しためらう。その白い砂の正体は、はるか昔の戦の戦士たちの白骨が砂にまで溶けたものとされていた。嘘か誠かはわからない。それでも持っていくのはためらう。しかし、彼女は笑いながらその砂を両手にすくった。
その砂は今は台所の上にある。砂時計となって。白い砂時計。彼女が言うには目玉焼きを半熟に焼くのにちょうどいいらしい。