懐かしきテロリストたち
1987年(昭和62年)春、山田昭彦の乗った中国国際航空のCA930便は定刻、16時35分に『成田国際空港』を飛び立った。彼は午前中に神奈川の自宅を出て、箱崎経由でリムジンバスに乗って、『成田国際空港』に来たことから、CA930便が水平飛行に移り、機内席で安全ベルトを外すと、ドッと疲れが出た。だが、これから訪問する中国という国がどんな国なのか、興味深々だった。今年の正月、新宿の居酒屋でM大学時代からの友人、辻和也と松宮健二に会って、中国事情について、予備知識を得ていたことが脳裏によみがえり、初めて訪問する中国への興味が広がった。学生運動に参加していた為、日本での就職が出来ず、アメリカのロサンゼルスで過ごしていた山田にとって、世界情勢は大きく変わっていて、中国が急速に発展し始めたらしい。山田の親友、辻和也は中国との友交商社『山村貿易』に勤務しており、正月休みが終わり次第、『山村貿易』の上海事務所に戻るとの話だった。中国から繊維製品、魚介類などを輸入している中国の窓口らしい。松宮健二は横浜の機械メーカーの営業部に勤務しており、東南アジア諸国や中国へ機械輸出をしており、時々、中国に出張しているとの話だった。松宮は5年ほど前から中国に訪問しているが、初め訪問した時は、男も女も人民服だったらしいが、去年あたりから、男は背広にネクタイ姿、女性はスラックス姿では無く、スカートやワンピース姿に変わっており、高層ビルの建設も始まっていると、得意になって説明してくれた。山田にとって辻和也や松宮健二が語ってくれた中国の現状を、自分の目で確かめ、レポートする為に、中国へ訪問するのが、今回の出張目的だった。山田はアメリカで15年程、生活し、日本に帰国してから、気に入った仕事が見つからず、フラフラしていた。そんな山田を高校時代の先輩、浜野史郎が拾ってくれた。浜野は出版社『衆聞社』に勤務していて、月刊雑誌『エピキュリアン』の編集長をしており、ルポライターとして山田を採用してくれたのだった。そして、今回、その月刊誌『エピキュリアン』に中国の現況報告を掲載する為のルポを依頼したのだった。今までの出張は、国内ばかりだったが、今回は海外でのルポ活動となった。坂東秀雄社長の提案による出張だった。山田は、そんな経緯を振り返りながら、3時間20分程、機内でウトウト過ごした。やがてCA930便は菜の花が一面に咲く田園の上を飛行し、18時55分、『上海虹橋国際空港』に着陸した。初めて訪れた中国の大地は広大で、飛行場に待機している飛行機の数はまばらだった。飛行機から降り、赤土の広場から、空港の到着ゲートに行き、ビザ確認による入国審査を済ませ、荷物を受け取り、税関を出るまでに1時間かかってしまった。総てのチックを終えて、キャリーバッグとボストンバッグを手に外に出ると、『山村貿易』の辻和也が手を振って待っていた。
「山田、こっち、こっち」
山田は微笑むと辻和也に礼を言った。
「出迎え、有難う」
辻和也は大学時代山田と同じ『王ゼミナール』の仲間であり、正月、日本で会ってからの再会だった。辻は現在、『山村貿易』上海事務所の所長代理をしていて、上海事務所の駐在員だ。四十歳を過ぎたというのに、まだ独身だった。フリーライターの山田が独身なら分かるが、彼は結婚していなかった。山田には一つ年下の妻と小学生になった男の子が一人いた。今回の山田の海外出張に、妻は反対したが、山田は『エピキュリアン』の浜野史郎編集長に頼まれた仕事だからと、危険を心配する妻を説得し、やって来たのだった。旧友、辻和也が駐在しているということを説明すると、妻は大きな抵抗もせずに、夫の中国出張を了解してくれた。ライター仲間からは〈中国なんて行くところでは無いぞ〉と教えられていたが、友人のいる中国、昔学んだ中国語を使用する中国、訪問したことのない歴史ある中国ということで、山田は普通の人以上に中国に対して、不思議なほど、興味を抱いていた。そんな自分への浜野編集長からの出張要請だったので、山田にとって、今回のルポの話は渡りに船だった。辻は山田を出迎えると、山田の荷物を持って駐車場まで行き、待機させていた車に荷物を載せると、『山村貿易』の専用運転手に、『和平飯店』に向かうよう指示した。辻は『虹橋国際空港』からホテルへ向かう道すがら、いろんなことを喋った。
「今の中国は、鄧小平により、改革解放政策が続いている。鄧小平は日本に訪問し、共産主義経済から資本主義経済に転換することを国家繁栄の基礎であると気づいた。また対外開放政策も打ち出し、対外開放地区で、さまざまな優遇政策を実施し、輸出拡大、先進技術導入を積極的に進めている。お陰で俺の勤める『山村貿易』も中国からの日本への輸出の商売で、儲けさせてもらっている。松宮の勤めている『栄光機械』も、食品機械を中国に納入している。この対外開放政策は中国国民に幸福をもたらしている。鄧小平の政策によって、中国国民は、あのマルクスの言葉、〈資本主義下の労働者は搾取の為、益々、窮乏化する〉という理論が、嘘であったと知った。資本主義による労働者間の競争欲が、企業を発展させ、新技術を生み出し、労働者の給与をアップさせ、労働者を裕福にするという現実が、今や中国の経済特区の住民だけでなく、農村地域の人たちにまで波及している。特に変わり身の早いのは、中国女性だ。洋服やチャイナ服を着こなし、化粧も上手になり、その顔には女の妖しさと輝きが見られる。だが、そういった恩恵を受けているのは、10億人のうちの1億人だ。中国の問題はこれからだ。貧富の差が、どの程度になるかだ」
山田は、辻の説明を聞き、今の中国が大きく変わりつつあることを教えられた。特に今日、訪問した上海は欧米人の出入りが激しいという。上海は中国で一等、国際的な都市であるという。辻の話には終わりが無かった。山田は車窓の風景を眺めながら、辻の話を聞いた。薄黒いほこりだらけの街並みが、ずっと続いていた。死滅したような灰色の街であった。松宮健二から聞いていた近代的な様子は見られず、街灯も少なく、怪しい暗黒街に向かっているイメージだった。こんな暗い街に、何故、人は集まるのだろう。中国人は何故、暗闇に住むのだろう。そんなことを考えて車に乗っていると、突然、車は華やかな通りに出た。今まで路傍を暗くしていた街路樹が無くなり、老若男女が舗道から溢れんばかりに、勝手気ままに右往左往しているではないか。辻が言った。
「ここが延安路といって、戦前、『ダスカ』のあった盛り場だ」
山田は街行く人の多さにびっくりした。さながら夜光灯に集まる蝶や虫の大群のように、沢山の人が蠢いている。服装も色とりどりで、松宮の説明通りだった。色褪せた人民服姿が珍しいくらいだ。賑やかな都市とは想像していたが、かくも人が多いとは。まるで上野のアメ横が続いている感じだ。
「この通りを抜けて突き当たった所が黄浦江だ。テレビや雑誌に良く出て来る外灘がある。お前が泊まるホテル『和平飯店』は、その河の畔にある。俺の住まいは、そこの『420号』室だ。山田の部屋は、5階に予約してある」
「ありがとう。飛行機を降りた時、周りが農村地帯だったので、上海を馬鹿にしていたが、こりゃあ、本当にすごい大都会だ」
「ホテルに着いたら、もっと驚くぞ。ホテルの中は中国でもなければ、アジアでも無い。まさに西洋さ」
辻は得意になって、自分の住んでいるホテルのことを自慢した。学生時代から綺麗好きだった辻の部屋は、きっと素晴らしく清潔に掃除され、少女の部屋のようにいろんな物が飾ってあることであろう。あの中目黒のマンションの部屋のように独身男性の部屋とは思えぬ光景が披露されるに違いない。山田は辻の几帳面さが、彼を独身にさせてしまっているのだと理解していた。やがて車は古いビルの谷間の大きなホテルの前で停まった。すると上海の伝統のある有名なホテル『和平飯店』のベルボーイが走って来て、車のドアを開けた。ボーイは車のトランクから山田の荷物を取り出し、2人に確認すると、荷物を持って2人をロビーに案内した。薄暗いロビーのフロントに行き、宿泊カードに氏名やパスポート番号を記入し、パスポートを見せ、部屋の鍵を受け取り、チエックインを済ませた。その後、日本円を中国元に両替した。渡されたのは兌換紙幣の兌換元だった。山田は、その間、3日後にやって来る中村純子の部屋の予約を確認した。彼女の部屋は辻が1週間前から予約しており、何の心配も無く受付されていた。彼女は山田のまとめる『中国ルポ』の記事に添える写真を撮影する為、『エピキュリアン』の浜野編集長が手配した女性写真家であり、国内ルポで、何度も同行している。山田の部屋は526号室だ。辻はボーイに荷物を運ばせ、チップを渡してから、山田の宿泊する部屋の中を確認して、30分後に420号室に来るよう言って、部屋から出て行った。辻の説明通り、部屋の中はヨーロッパ風だった。辻の姿が消えると、山田はスーツケースを開け、妻が準備した辻への土産物を取り出した。日本酒、お寿司、栗羊羹、梅干し、週刊誌、カップラーメン、おつまみ、インスタントコーヒーなど、辻の喜びそうな物ばかし、そろえてあった。流石、明子。駐在員の辻のことを考えて、夫に持たせたのだ。
〇
黄浦江の畔に建つ『和平飯店』は上海の顔だった。山田昭彦が宿泊する部屋はイギリス人、サッスーン一族が建てた13階建ての高層(旧名、キャセィ・ホテル)北楼で、その建築物は緑色の三角屋根がトレードマークで、赤レンガに白い漆喰の南楼(旧名、パレス・ホテル)と対照的景観だった。山田は526号室で少し休んでから、辻和也が暮らす420号室へ出かけた。大きな茶色の扉をノックすると、辻が顔を覗かせた。
「おう。待っていたぞ。中へどうぞ」
山田は、辻に言われ部屋に入り、びっくりした。部屋の広さは山田の部屋の3倍だった。黒光りするような辻の部屋は、かなり裕福な者が寝泊まりする部屋であることを示していた。
「素晴らしい部屋に住んでいるんだな」
「駐在員の贅沢さ」
「まさに独身貴族だな」
「うん。外国人と商談する時、一流であることを誇示しないと、軽く見られるからな。山村社長は、そのことを良く分かっていて、俺をここに住まわせているんだ」
「成程」
辻の勤務する『山村貿易』の山村好蔵社長は、長年、貿易の仕事をして来た経験から、取引先との信用を得る為に、兎に角、一流を選択する人だという。取引というものを良く分かっている人だ。それにしても贅沢そのものである。インテリアはアール・デコ風で、ジュータンはペルシャ織り。壺は清朝時代の物から景徳鎮まで。部屋にある物、ひとつひとつが、高級品で彼の中目黒のマンションと格段と異なり、重々しく荘厳な雰囲気だった。だからといって総てが古めかしい物ばかりでは無い。彼が日本から送ったステレオやテレビ、冷蔵庫、オーブンレンジ等、現代のニュー製品も、うまい具合に部屋に調和して置かれていた。山田は日本から運んで来た、辻への土産をテーブルの上に置いて言った。
「これ、ワイフからの土産だ」
「ありがとう」
「成田で買って来た寿司が入っている。早く食べた方が良いぞ」
「謝々。謝々」
辻は早速、寿司の折箱を開き寿司を食べた。油で炒めた物ばかし食べている辻にとって、山田が持参してくれた寿司は、懐かしい日本の味そのものだった。
「山田。君もつまんだらどうだ」
「いや、機内で食事をして来たばかしで、満腹だ。お前、一人で平らげてくれ。それにしても、中国とはすごい所だな。書物で読んだ中国とは、まるで違う」
「当たり前だ。ここは上海だ。昔、租界があった所だ。いわゆる中国とは違う」
山田は、この時になって初めて、『虹橋国際空港』からホテルへの道すがら辻が車内で喋ってくれた〈上海は他の中国都市と異なる〉という事を理解した。ホテルのロビーにいたアメリカ人、ヨーロッパ人、東洋人たちは、まるで自国にいるかのように、明るく楽しく堂々と振舞っていた。彼らの笑まいは何なのか。これが今回の中国ルポのメインテーマになりそうだった。『エピキュリアン』の編集長、浜野史郎は『中国青年の現況』についてのルポ原稿を提出させる為、山田を中国に派遣したが、その内容は中国青年たちだけでは無く、世界の若者たちにまで及びそうだ。
「滞在期間は11日間だったな」
「うん。正式には8日間だが、私用を含めて3日、早く出発させてもらった。何しろお前に会って、真実の中国を早めに知っておきたかったから」
「8日間となると、上海以外の都市でのルポは余り出来んな」
「蘇州や南京にも訪問してルポする予定で、通訳も頼んである。それでも足りぬか?」
山田が『エピキュリアン』の浜野編集長から与えられた8日間のスケジュールは上海4日、蘇州2日、南京2日というスケジュールだった。上海の4日間は入国日、帰国日を含めての4日間であるから、実際は2日間みたいなものだった。山田には上海以外の都市でのルポが難しいと、辻が言った理由が何故なのか良く理解出来なかった。確かに2日程度では詳細を知ることは出来ないだろう。
「中国人の通訳と一緒に、決まったコースを旅行しても、君が求める『中国青年の現況』は掴めんよ。まあ良い。明日、俺が通訳の案内しない場所に連れて行ってやるよ」
「それは有難い。仕事の方は良いのか」
「仕事はあるさ。君と付き合うのは申し訳ないが夜だけだ」
山田は辻の親切を有難いと思った。辻は今回の山田の仕事に協力してくれると言うのだ。持つべ者は友である。辻はサイドボードからレミーマルタンを取り出し、山田に勧めた。2人は学生時代を旧懐したり、近況を報告し合ったりして、異国での酒を酌み交わした。夜の黄浦江には、霧が流れ始めていた。
〇
2日目、朝6時に起床。『和平飯店』北楼526号室の窓を開けると、中山東路の川岸、外灘は太極拳を楽しむ人たちでいっぱいだった。河幅五百メートルの黄浦江には貨物船、客船、フェリー、遊覧船、小型軍艦、だるま船などが、早くも行き交っていた。7時30分になると、辻が部屋に迎えに来た。8階の豪華なレストラン『龍鳳庁』で朝食。メニューは辻に任せ、洋食のパンとスクランブルエッグ、野菜サラダ、フルーツをいただいた。飲み物はオニオンスープ、コーヒー、紅茶、オレンジジュース、豆乳など自由に選べた。そんな朝食を済ませてから、『山村貿易』の上海事務所に訪問した。土曜日であるが、仕事があるのだという。『山村貿易』の上海事務所は延安東路の『眹誼大厦』にあり、『和平飯店』から徒歩で行ける所にあった。このビルには日本をはじめとする外国の商社が沢山、入っていて、人の出入りが賑やかだった。『山村貿易』の上海事務所には社長の息子の山村哲夫所長と辻所長代理以外に、2人の日本人社員と、3人の中国人社員がおり、中国との友好商社としては、まあまあの陣容だった。山村所長は山村好蔵社長の次男で、辻より二つ年上だった。山村所長は山田を所長室に招き入れると、中国貿易の面白さについて、種々、語ってくれた。
「現在、中国は外国との貿易取引については、中国銀行が決めるレートを採用しており、現在1元が100円時代に突入しようとしている。元安政策によって、ドル高を維持し、中国の輸出促進と、外国からの中国への投資を狙っている。鄧小平は賢い。去年スタートした第7期『星火計画』は着実に進行しつつある。我が社も、それに乗じて、業績を上げたいと考えている」
「その『星火計画』って、一体、何ですか?」
山田が『星火計画』について質問すると、山村哲夫所長は、黒板に、その計画を列記してくれた。
1,生産高200億元
2,500のモデル郷鎮企業の育成
3,100種の農村対応技術、設備の開発
4,50位の星火計画の総合的な密集地域の設置
5,100万人の農村企業家、技術の育成
そして、山村所長は日本の中小企業に、これらのプロジェクトに参加するよう呼び掛けていると説明した。その山村所長の話に辻が付け足した。
「そんな経済成長する中、中国政府は、急激な国民の変化と資金流出を懸念し、輸入規制を始めており、松宮たち機械輸出は、難しい状況になっている。だが高性能の機械装置は、中国の生産性向上の為に欠かせることは出来ない。上海では日本の三菱油化などの協力で、金山で上海石油化学コンビナートが建設され、更には新日鉄の協力で、宝山鉄鋼コンビナートが建設され、上海は今や文化都市だけでなく、中国で重要な工業都市にもなっている」
「成程。矢張り、現場に来ないと分からないことが多いな」
「そりゃあ、そうだよ。これからどうする?」
「仕事の邪魔をするといけないから、ホテルに戻ってレポートを書くよ。午後はホテルの近くを、1人歩きしてみるよ」
「じゃあ、夕方、ホテルの部屋で待っていてくれ」
「うん、分かった」
山田は、そう答え、午前11時、山村所長と辻和也に礼を言って、『山村貿易』上海事務所から退去した。『和平飯店』まで、『山村貿易』の中国人社員が同行してくれた。山田は『王ゼミナール』で学習した中国語を駆使してみたが、余り通じなかった。中国人社員の日本語の方が、ずっと上手だった。彼とはホテルの受付カウンター前で別れた。山田は526号室に戻ってから、少しの間、今日、山村所長から聞いたことなど、少しの間、原稿を書いた。触れたばかりの上海の感想は、山村所長や辻のお陰で素直にスラスラと書けた。昼食は朝、辻と同行した8階のレストランでカレーライスを食べた。ウエイトレスが英語で話してくれるので不自由ではなかった。相変わらず、欧米人が多い。中国での商売にやって来ている者がほとんどのようだ。辻が、ホテルの中は西洋であると言っていたが、まさにその通りだ。8階で昼食を済ませた後、山田は1時間ほど、部屋に戻って眠った。そして午後2時過ぎ、外灘へ散歩に出た。黄浦江の畔に立つと、海の香りがした。船がいっぱいだ。河岸の遊歩道は、市民の憩いの場として賑わい、外国人観光客やアベックの姿も沢山、見られた。山田はその遊歩道で中国人青年に声を掛けられた。山田が持っている兌換券と中国元札を交換して欲しいとの依頼だった。理由は『友諠商店』で買い物をしたいからという説明だった。山田は偽札をつかまされる危険があるので、兌換券を持っていないからと断った。『友諠商店』では兌換券でないと買い物が出来ないらしい。『友諠商店』は国営の商店で、外国人観光客、外交官、政府関係者のみに商品を販売する店舗で、外国製の高級食品や電気製品、衣服類が手に入るので、中国人も、兌換券で、そこの商品を購入したいのだと分かった。その青年が残念そうな顔をして立ち去ってから、今度は若い中国人女性に日本語で声をかけられた。
「先生は日本から来ましたか?」
「はい。日本から来ました」
「私は沈香麗といいます。どうぞよろしく」
長い髪をした丸顔の彼女は、自分の知っている日本語を一方的にぶつけて来た。美人だった。山田は一瞬、戸惑った。彼女が自分に接近して来た理由が分からなかった。今の中国は共産党により、悪の巣窟が一掃され、街娼などいなくなったというが、一体どういうことか。何の目的で彼女は自分に接近して来たのか。山田が目を丸くしていると、彼女が言った。
「私は学生です。日本語の勉強をしています。日本語を教えて下さい」
そこで山田も中国語を使ってみた。
「你、多大歳数?」
「18歳です。あなた、中国語、上手ね」
ワンピースを着た瘦せぎすの沈香麗は,馴れ馴れしく御世辞を言った。山田には、沈香麗の接近が、日本語を勉強したい為だけとは思えなかった。何か魂胆があるに違いない。彼女は戸惑っている山田に言った。
「上海は初めてですか?」
「我、昨天、来了」
「そうですか。では上海の話をしてあげましょう。橋を渡るとホテルがあります。そこで、コーヒーを飲みながら語り合いましょう」
「好」
山田は一瞬、売春を想像した。中国には売春は無いと聞いていたが、もしかして、上海には売春があるのでは?沈香麗は、その売春組織の一員ではなかろうか?そうだとすると、それは特ダネだ。『エピキュリアン』の浜野編集長が、飛び上がって喜ぶようなルポをまとめる事が出来るかもしれない。山田は香麗に案内され、外灘から『黄浦江公園』を経て、ガーデンブリッジを渡った。その橋を渡りながら、香麗は、この外白渡橋の下の流れは呉松江の流れで、蘇州の方から流れて来て、黄浦江と合流し、海につながっていると説明してくれた。ガーデンブリッジを渡ると突然、富士フィルムのロゴマークの看板を天辺につけた茶色の大建造物が眼前に出現した。まさにダイナミックだ。その建造物は香麗が橋を渡ったところにあるホテルと言っていた旧ブロードウエイ・マンション『上海大厦』だった。戦前、アメリカ人、ジャーナリストたちが住んでいたマンションで、今はホテルになっている。山田は香麗の意見に従い、その『上海大厦』の1階で、お茶を飲むことにした。ここには日本人客が多かった。喫茶コーナーから見える呉松江の向こうには林立する古いビルや『黄浦江公園』の森が、春の淡い光を浴びて、どんよりとして、まるで絵を見ているようだった。注文したコーヒーが運ばれて来ると、香麗が、目を輝かせて山田に訊いた。
「先生の名前を教えて下さい」
「ああ、まだ名乗っていなかったね。山田昭彦です。サンティエン・チャオヤンです」
「まあっ、注目を引く人ね」
「何で、私が注目を引く人なの」
「昭彦って、輝くスターという意味なの」
「本当ですか。知らなかった」
山田が照れると、香麗は笑って次の質問をした。
「山田先生は、何の目的で上海に来ましたか?観光、それとも仕事ですか?」
「仕事で来ましたが、ある意味では観光かもしれませんね」
「それは、どういう事?」
「私は日本の旅行会社の者です。今、日本では中国観光に出かけたいという人が増えています。ですから旅行会社の社員である私が上海に滞在し、上海やその近くの観光地のパンフレットの原稿をまとめ、観光案内書を作成することになりました。私はその為に、上海にやって来ました」
山田は日本の月刊雑誌の記者であると答えそうになったが、旅行会社の社員であると嘘をついた。何故なら、新聞記者とか雑誌記者であると判明すると、警戒され、丁寧に扱われたり、発言を手控えられると、耳にしていたからである。香麗は、最近の上海のことを語ってくれた。地方から若者が集まって来ていて、政府は困っているという。外人歌手のコンサートも増えているという。改革開放政策により中国に流入した外国人歌手の曲で有名なのは日本人の歌手の曲であるという。特に千昌夫の『北国の春』とテレサ・テンの『空港』だという。山田は香麗にいろいろ喋らせた後、中国の政治について訊いてみた。すると彼女は自信をもって答えた。
「中国は今、鄧小平主席の指導の下に躍進しています。鄧主席は日本と中国が組めば何でも出来ると言いました。だから、私は日本語の勉強をしています。鄧主席は日本が敗戦後、苦難を乗り越え、23年後にアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国になったのは、自由市場経済を採用して来たからだと説明しています。従って、中国が、日本と同様、外国との交流により、輸出を増やし、国民が一丸となって頑張れば、10年後には日本に追いつけると国民を指導しています。中国の人口は日本の10倍だから、労働力も10倍あり、日本に直ぐに追いつけると言っています。その為には周恩来に教えてもらった日本から学べの実行が第一だそうです」
「そういうことか。でも共産主義国の中国では、自由市場とは行かないだろう。国営企業がほとんどだから、外国資本を活用出来ない」
「ですから、中国政府は改革開放政策に沿って、経済特区を設け、郷鎮企業を増やそうとしているのです」
「成程。そういう考えか。中国は鄧小平という優秀な指導者に恵まれ、良かったね」
「はい。でも何時、指導者が変わるか分からないので、心配だと、両親は言っています」
「でも、選挙で優秀な人を選べば大丈夫だよ」
「私たちには選挙権が無いのです」
「ええっ。選挙権が無いなんて」
「共産党員にしか選挙権は無いのです。共産党員は国民の十分の一です。その人たちによって総てが決まるのです」
山田は、一般国民に選挙権が無い事を、初めて知って驚いた。また彼女は中国人には農村戸籍と都市戸籍があり、生活水準も、それによって異なるのだと説明してくれた。山田にとって、驚くことばかりだった。何時の間にか午後4時半過ぎになっていた。2人は2杯目のコーヒーを飲み終え、『上海大厦』を出た。香麗は『和平飯店』まで山田を送ってくれた。山田は明日、午後7時、『和平飯店』のロビーで彼女と再会することを約束して、部屋に戻った。
〇
一旦、部屋に戻り今日、見聞きしたことの執筆を終え、テレビを観ていると、辻和也がやって来た。時計は夕方の6時を示していた。2人はまず夕食を食べに出かけた。辻は陝西南路にあるレストラン『紅房方西菜館』へ山田を連れて行った。店に入り席に座ると、辻は中国料理について話した。
「中国料理といっても中国は広いから、幾つかの料理がある。大別すると四川、山東、江蘇、広東の四つが代表的だ。知っての通り、四川は辛口料理、山東は小麦粉料理、江蘇は甘口料理、広東はゲテモノ料理だ。これらの代表的料理は、来週になったら、『上海国際旅行社』のガイドさんが充分、味合わせてくれると思う。ここは、そういった中国料理店と違って、西洋料理を固守している珍しい店だ」
「フランス料理の店のようだな」
「そう。ここは旧フランス租界があった所だ。この店はルイ家の名で知られたかっての『シェ・ルイ』だ。解放後、『紅房子西菜館』と名を改めたが、ルイ家の伝統の味をずっと守り続けている。中国語では『フアンフアズシィサカン』と、ややっこしい名だが、英訳すれば『レッド・ハウス』、日本語では『赤い館』といったハイカラな名だ」
「日本語にすれば、『赤い館』か。フランス風の名だね」
山田は満悦だった。中国にこのようなフランス料理店があろうとは。辻和也はメニューを広げ、チキングリルやエスカルゴなど、山田の好みそうなものを註文してくれた。親友2人はフランスから輸入のワイン、グラン・マルニエの入ったグラスを傾けながら、喋り合った。山田は、ここのオニオンスープがとても気に入った。山田は今日の午後、散策した外灘が素晴らしかったことを辻に話した。すると、辻が笑って言った。
「外灘だけが異国風だと思ったら間違いだぜ。上海にはパリもあれば、ロンドンもある。サンフランシスコもあれば東京もある。ジャカルタもあればハバロスクもある。世界の人間が、この上海に集まって来ている。今までは香港が中国の窓口であったが、今や、上海が中国の中心都市になっており、外国人の穴場だ。その穴場が、上海のあちこちにあるだけに、上海は恐ろしい所でもあるのだ」
「まるでニューヨークだね」
「そうだ。世界の富豪や流れ者が集まって来る魔都さ」
魔都。山田は辻が発したこの言葉に酩酊した。ワインの所為ではない。上海に来て2日目の実感だった。内戦で破壊され、一旦、死滅した暗い廃墟の中に、ぽっかりと浮上した異様な世界。それは1930年代という伝説の過去の再来のようだった。満州国が成立し、中華民国は諸外国の人材を集め、近代化への揺籃期を迎えていた。日中親善の日本人たちが欧米人と共に中国との交流を深めていた。一方で中国人同士の権力争いが始まり、反共、排日運動も芽生えていた。そんな時代を懐かしむように南京東路の摩天楼、外灘の壮麗な西洋建築群、フランス租界などなど。それらの機運が突如、蘇り、賭博場、売春宿、阿片窟、ダンスホール、革命地下組織のアジトなど、あちこちに誕生させているように思われた。今回の『エピキュリアン』の取材旅行で、山田は、魔都そのものを、目の当たりにすることが出来るかもしれないと感じた。
「1年前、青木が北京、瀋陽、上海を旅行して、中国なんて頼まれても行く所では無いとぼやいていたが、まるで反対だ」
「あのテレビ局の旅行は『中国食べ歩き』さ。中国の表面しか見てないよ。テレビ局のスタッフ連中と一緒で、飾り立てられた所と、汚い便所だけ見ただけさ。本当の中国を見ることが出来なかったのだろう」
辻は、そう言って笑った。美味しいフランス料理をいただき、食後のイチゴとアイスクリームを食べ終わると、2人は『紅房子西菜館』を出て、華山路へと足を延ばした。上海のディスコを見学する為だった。『エピキュリアン』のテーマ『中国青年の現況』をルポする絶好の機会である。辻に案内された『丁香花園』のディスコは若者でいっぱいだった。ミラーボールが輝き、激しいディスコソングが響き渡り、広いダンスフロアは踊る男女の熱気で満ち溢れていた。ツイストからタンゴまで、誰もが気侭に踊っていた。中国青年に混じって、欧米人、フィリピン人、マレーシア人、日本人も踊っていた。山田がびつくりしていると、辻が山田に言った。
「御覧の通り、ここは世界の縮図みたいな遊び場さ。中国人の中には、香港人、台湾人もいる。ここはメチャクチャなストレス発散の場所だ。君の得意なガールハントでもしてみたら」
「トラブルを起こしたら、まずいよ」
「その時は僕が何とかするよ。一緒に踊ろうぜ」
山田は、その場の雰囲気にのまれ、踊る男女の中に辻と一緒に紛れ込んで、踊った。タップしながら辻が言った。
「どうだ。楽しいだろう。遠くで眺めているいるだけでは、人に接触することは出来ないよ。君も随分、臆病になったものだ。取材するなら積極的にならないと・・」
「分かってる。言葉のハンディを越えられれば、こっちのものさ」
山田は辻に煽られ、かって大学生時代プレイボーイ気取りでダンスホールで踊り、女を口説いたりした時の感覚が蘇って来るのを覚えた。山田は金髪女性に中国語で声をかけた。中国語は上手く通じなかったが、相手は山田の希望が分かったらしく、山田のダンスの相手をしてくれた。彼女は、ポップ、ツイスト、ロック、モンキーダンスなど適当に踊った。山田は踊りながら彼女の名前を訊いた。
「ホワット・イズ・ユウアー・ネーム?」
「ナタリィ」
「マイ・ネイム・イズ・ヤマダ」
「オオ、ヤマダ」
「ウエヤー・アー・ユウ・カム・フローム?」
「フランスです」
山田は、びっくりした。金髪の女が日本語を喋った。現在地が中国なので、彼女が中国語で答えたなら驚かなかっただろうが、彼女は間違いなく日本語で、フランスから来たと言った。彼女が日本語を喋れるなら、何も英語など喋る必要は無かったのに。
「ナタリィ。貴男は何処で日本語を勉強したの?」
「フランスでユーコから日本語を教えてもらった」
「ユーコというと、貴女の日本語の先生は、日本人女性なのか?」
「そう。日本人女性よ。貴男はユーコ、知っているの?」
「知ってる訳などないだろう。日本人にはユーコという女が沢山いる」
ナタリィの日本語教師のユウコは、どんな字のユウコなのだろう。優子、裕子、木錦子、由布子、祐子、夕子、有子、結子、悠子などなど。山田の頭の中で、いろんなユーコが駆け巡った。そういえば、杉下栄の左翼活動組織『レッド・ウッド』の仲間に、播磨夕子という女性がいた。同人誌『オリエント』の同人だった。山田も何度か会ったことがあるが、彼女がナタリィと関係あるなんて考えられなかった。山田はナタリィと休憩することにした。コーラを飲みながら、彼女は言った。
「ユーコは時々、ここに来るよ。今度、会った時に紹介するね」
「ありがとう」
2人が喋っていると、中国人女性を連れて、辻がやって来た。彼は時間だから、もう帰ろうと言った。山田は金髪のナタリィに未練があったが、また機会もあるだろうと、ディスコ『丁香花園』を後にした。帰りのタクシーの中で、山田は明日の用事を辻に伝えた。
「今日は、上海の夜の案内をしてくれて、ありがとう。明日は日曜日だ。お前はゆっくり休んでくれ。俺は旅行会社の通訳と一日中、夜遅くまで取材するから・・」
「大丈夫か?」
「大丈夫さ。通訳がいるし、中国語も少しは分かるから」
「そうか。じゃあ、月曜日の朝、会おう」
そんな会話をしながらホテルに戻ったのは12時過ぎだった。山田にとって中国で午前様をするなんて予想外のことだった。
〇
3日目の日曜日、山田は526号室に閉じこもり、昨日、体験した事、見聞きした事を思い出し、夢中になって原稿を書いた。昨日の午前中の『山村貿易』訪問、沈香麗との出会い、辻との夕食、ディスコでのナタリィの事など、書くことが沢山あった。この調子だと、中村純子が上海にやって来る前に、原稿が出来上がってしまいそうだ。午後2時、『エピキュリアン』の浜野編集長が雇った『上海国際旅行社』の通訳、方北生が山田の部屋にやって来た。明日の中村純子の出迎えと、その後の1週間のスケジュールについての説明に来たのだ。方北生は、中村純子の出迎えに、明日、『上海虹橋国際空港』に一緒に行って欲しいと依頼した。
「勿論、迎えに行くよ。私と彼女は仕事仲間で、顔見知りだ」
「そうでしたか。よろしくお願いします」
「好的」
山田は元々、そのつもりでいたので了解した。概略打合せを済ませたところで、山田は昼食を食べていなかったので、何時もの8階のレストランに行って、方北生と軽い食事をしながら話した。方北生は、もと宝山製鉄コンビナートの通訳で、新日鉄の1期計画が終了するとともに、上海に戻り、海運関係の事務仕事と旅行社の仕事を兼務しているという。若くて真面目そうな男だ。食事を終え、コーヒーを飲み、山田が家族の話などすると、彼は少し打ち解け、再見と言って、帰って行った。山田はレストランから526号室に戻り、再び机に向かった。だが昼食を済ませた所為か、睡魔に襲われ、ベットに横になった。それからどのくらい眠ったのだろう。目覚めた時刻は午後6時過ぎ。昨夜の疲れがまだ残っているのだろうか。年齢は取りたくないものだ。沈香麗との約束の時間が近づいている。山田は慌てて部屋の中を片付け、外出の準備をした。定刻7時前に部屋を出てエレベーターに乗り、1階ロビーに降りると、沈香麗が既にロビーのソファに座って待っていた。
「対不起」
「不要緊的。さて何処へ行きますか?」
「うん。まず食事に行こう」
「日本料理はどうですか?」
「それは面白い。中国の日本料理がどんなものか、知りたい。案内して下さい」
「はい」
香麗はウキウキして先に立ち、『和平飯店』のフロントでタクシーを頼むと、山田を、ベルボーイの指示するタクシーに乗せ、日本料理店に案内した。その日本料理店『ふるさと』は『上海賓館』の二十三階にあった。山田は和服を着た日本人の仲居に案内されて、香麗と席に着くと、コース料理を註文した。上海に来て、日本料理を味わうなんて、思ってもみないことだった。刺身、天ぷら、豆腐、和え物、焼き魚,、里芋、茶わん蒸し、吸い物、お寿司など、日本で食べていた物なのに、上海で口にすると、何故か懐かしさが込み上げて来た。妻や息子の事が思い出された。また香麗が、気取って食べるのも面白かった。食事をしながら、山田は香麗と雑談した。山田は昨夜、『丁香花園』というディスコに行って踊った事を話した。香麗は、行ってみたいと言った。彼女は『丁香花園』を知っていた。食事を済ませるや山田は『ふるさと』の清算をして、香麗と『丁香花園』に向かった。『上海賓館』から、そこへは徒歩で行けた。2人が『丁香花園』に辿り着き、大きなシャンデリアの輝くホールに恋人気分で入って行くと、受付のボーイが深く頭を下げた。
「歓迎光臨」
こちらも軽く頭を下げ、ダンスホールに入った。中に入ると日曜日とあって、昨夜以上の混雑ぶりだった。香麗と一緒なのに、山田が日本人であると見抜いて、中国人女性が声をかけて来た。それを香麗が、ハエでも追い払うように、掻き分け、踊り場に進んだ。『コーヒー・ルンバ』の曲が演奏されていたので、まず、向き合いながら、ルンバを踊った。4拍子の音楽に合わせ、香麗と近づいたり離れたり、見つめ合って、期待に胸膨らませ踊った。そんな最中に、ホールの片隅にいる女性から声をかけられた。
「山田さん。こちらよ」
何と昨夜、踊った金髪のナタリィが、何かを飲みながら、手を振って呼んでいるではないか。山田は素知らぬ振りも出来ず、ルンバの曲が終わると香麗と共に、ナタリィのテーブル席へ。そして、ナタリィのテーブル席に座るや、ナタリィの薄暗い席にいるもう一人の人物に気づき、山田は唖然とした。驚きの余り声を出せなかった。夢ではない。
「お久しぶりね。15年ぶりかしら」
ナタリィの薄暗い隣の席に座っている女性が山田に挨拶した。何と彼女は昨夜、一瞬、思い浮かべた播磨夕子ではないか。レバノンにいる筈の播磨夕子が何故。上海にいるのか。広河の情報では、ベッカー高原のパレスチナ解放人民戦線の連中と赤森政明の夢を叶える為、イスラエル軍と銃撃戦の中にいるのではなかったのか。アラブのジャンヌダルク、ユーコ・ハリマとして、砂漠を疾駆しているのではなかったのか。キョトンとしている山田に夕子が訊いた。
「こちらの方は?」
夕子の質問に山田は息も止まりそうだった。山田に代わって香麗が答えた。
「山田先生の通訳を務める沈香麗です。中国旅行社の者です」
「そうですか」
夕子はちょっと笑って、別の事を山田に訊いた。
「最近、杉下さんに会われましたか?」
「うん。1年前に、青木と一緒に東京で杉下に会ったよ。その時、青木と杉下は、中国なんて頼まれても行くところでは無いと言っていた。本当は、貴女に会わせない為に、そう言ったのかな?」
夕子の顔が曇った。その微妙な雰囲気を感じて、ナタリィは香麗を踊りに誘った。テーブル席は山田と優子の2人だけになった。山田は夕子が何故、フランス人のナタリィと親しい関係にあるのか訊いた。
「ああ、ナタリィとはフランスで知り合ったの。西ドイツ赤軍のフランス支部と交流した時、日本に興味を抱く彼女に日本語を教えたの。それから、いろいろ連絡を取り合って」
「成程。相変わらず、国際的なんだな」
「そうよ。誰かさんみたいに、アメリカでの役目を放棄して、日本に帰国して、しゃあしゃあしている人とは違うわ」
「俺には貴女や杉下や江口れい子のような、外国暮らしは無理だよ」
「恨みたいけど、仕方ないわね。革命よりも楽しむ方を優先する人なんだから」
「俺は元より当てにならない男さ」
山田はそう言って、苦笑いをした。すると夕子は真剣な目をして山田に言った。
「私と会ったことは、絶対に秘密にしてよ。日本の警察に知れたら大変なことになるわ。私のお願いは、ただそれだけ。久しぶりにお会い出来て、嬉しかったわ」
夕子は山田の手を両手で握り締めた。かって『オリエント』の同人だった時の詩人、播磨夕子の香りがした。夕子の合図で、ナタリィと香麗がテーブル席に戻って来た。夕子は、微笑む香麗を見詰めた。
「香麗さん。山田さんをよろしくね」
「はい。分かりました」
「私たちはこれで帰ります。山田さん、香麗さんと沢山、踊って、楽しく帰ってね」
「うん」
「永遠の別れかもね。さようなら」
「再見」
山田はナタリィと去って行く夕子を呆然と見送った。自分は夢をみているのでは。こんなところで、昔、学生運動を共にした播磨夕子に会うなんて。播磨夕子とナタリィの姿が消えると、香麗がしがみ付いて来た。
「邪魔者は帰ったわ。山田先生、踊りましょう」
山田の心の動揺を知らず、香麗は踊りに夢中になった。山田と香麗は再び抱き合ったり、離れたり、激しく情熱的に踊った。ホテルに戻ったのは十二時ちょっと前だった。
〇
4日目、月曜日の朝、8時、辻に誘われ8階のレストランで朝食を共にした。
「昨夜は遅かったな。一人歩きは危険だぞ」
「今日からのスケジュール確認後、通訳と外に出た。取材の為だ。心配かけてすまなかった」
「そうか。通訳が一緒してくれたか」
辻は納得のいかない疑わしい顔をして笑った。まさか沈香麗といるところを見られたのではあるまい。
「通訳は『上海国際旅行社』の方北生という青年だ。昨日の午後、部屋に訪ねて来た。好青年だ。夜まで付き合ってくれた。今日も10時にやって来る。お前には気を使わせて迷惑をかけるな」
「いや。礼を言われる覚えは無い。仕事に追われて充分な対応も出来ず、僕こそすまないと思っている。中村さんもやって来るし、君もこれから忙しくなるな」
「うん。彼女の迎えは方さんと行く。明日から上海を離れるが、戻ったら、またよろしく頼む」
「お安い御用だ」
そんな会話をして食事を終えると、2人はエレベーターに乗って、それぞれの部屋に戻った。山田は5階で辻と別れた。部屋に戻って、窓から外灘と黄浦江を眺めて、その後、机に向かった。昨夜会った播磨夕子のことを書くべきかどうか迷った。彼女は日本の警察に追われているのだ。会わなかったことにするのが友情というものだ。しかし、『エピキュリアン』のルポライターにすれば、特ダネだ。放っておくのも背信行為といえる。広河なら跳びつくだろう。書くべきか書かざるべきか、山田は悩んだ。悩んだ挙句、結局、書くことにした。書いても記事として、その部分を浜野編集長に提出しなければ良いのだと考えた。午前10時、526号室のドアをノックし、方北生がやって来た。中村純子の出迎えは午後なので、こんなに早い時刻に来てもらわなくても良かったのに、彼は午前中から、やって来た。執筆途中だった山田は苦笑いして、方に言った。
「午後に来てもらって良かったのに」
「いえ。今日の午前中からの契約になっておりますので」
方北生にすれば、適切な時刻にやって来たつもりだ。方は山田にそう答えると、直ぐに昨日と同じ、スケジュールの説明をした。山田は執筆を中断された上に、昨日と同じ説明を聞き、方の相手をするのにくたびれた。そこで山田は早めに昼食を済ませて、一時、睡眠したいと彼に話した。すると彼は、中国人は昼食後、必ず一眠りするのが習慣であると納得した。そして午後、明日から移動する汽車の切符を買いに行くので、兌換券が欲しいと言った。方は200元要求したが、少し多めに300元渡した。食事を終えると方は切符を買いに出かけた。山田は526号室で播磨夕子のことを個人のノートに記した。いろんなことが思い出された。時間の経つのは早かった。あっという間に3時半になった。方は駅から戻って来ると、山田にお茶を淹れてくれた。中国流のお茶の淹れ方だった。少しくつろいで、2人は『上海虹橋国際空港』へ、写真家、中村純子を迎えに行くことにした。『和平飯店』の北楼と南楼の間でタクシーを拾った。ホテルから空港への道路は工事中だったりして、混雑していた。空港に着いて30分程、待つと、中村純子が入国ゲートから現れた。サングラスを前髪の上に飾り、笑顔を見せて、軽快なスタイルで荷物を転がして来る姿は、直ぐに彼女だと分かった。方北生の掲げたプラカードなど無視して、彼女は手を振った。
「山田先生。私よ。私」
「ご苦労様」
「私、ついに来ちゃった。憧れの上海。荷物を持って。重いったら、ありゃしない。浜野編集長たら、こんなに食料品を準備したのよ。スリムな私が、こんなに食べられる筈がないのに」
多弁な女だ。一方的に話してくる。世界が自分の為に回転している思っている。皆がジロジロ見るので、山田は恥ずかしくなって何も言えなかった。すると方北生が純子に言った。
「中村先生。私、通訳の方北生です。『上海国際旅行社』から派遣されました。荷物をお持ちします。よろしくお願いします」
「あら、通訳の方さん。中村純子よ。よろしくね。まだ若いのね。大学に行っている私の弟みたい。日本の女性は、おしとやかですから、やさしくしてね」
純子の言葉に山田は吹き出しそうになった。彼女の何処が、おしとやかだというのか。方は頷いているが、おしとやかという意味が分かっているとは思えない。中国では賢淑という意味だが、方はそう理解したのだろうか。純子の荷物を運んでタクシー乗り場に行き、タクシーを拾うと、山田と純子を乗せ、タクシー運転手に『和平飯店』行きの指示をした。タクシーに乗って少し経つと、彼女は心細そうな声を出した。
「暗いわねえ。まるで洞窟に入って行くみたい。裸電球がいやだわ。今にも消えそうで・・・」
「大丈夫。ここらは上海に入る前の暗いトンネルみたいなもので、少し進めば、純ちゃん、憧れの上海さ」
山田は裸電球がポツンポツンとあるだけの死滅したままの灰色の街並みを見ながら、中村純子も、自分が、3日前、この場所を通過する時、感じた暗い風景を、不気味に感じているのだと思った。この感覚は異国から上海に降り立った者でなければ分からない、不思議な世界だ。中村純子の手が、何時の間にか山田の手をしっかりと握っている。その手の感触は恐怖におののき震えている手だった。多弁な彼女が何も喋らなくなるなんて、思いもよらぬことだった。山田は彼女の手を力いっぱい握ってやった。車はしばらくして延安路に入り、街灯やネオンが増えて来た。やがて車は『和平飯店』に到着した。この時になって、中村純子は、やっと山田の手を放した。
〇
『和平飯店』北楼に着くや、山田はフロントで中村純子のチエックインを済ませ、服務員から部屋の鍵を受け取り、524号室に彼女の荷物を運んだ。それから方北生と山田の部屋で小休止。20分後、純子に声をかけ、8階で食事。山田にとって、この8階のレストラン『龍鳳庁』での食事は、慣れたものであったが、純子にとって、憧れの上海の雰囲気そのものであった。広々としたレストランの天井一面に描かれた青龍。それはアール・デコの装飾の中で、自由に泳ぎ回っているかのようであった。中国と西洋の混淆。この芸術は世界で一等、華美に思えた。そこで山田と純子は方が注文した美味しい上海料理の鶏肉、エビ、カニ、魚、タケノコ、フカヒレ、小籠包などをいただきながら、明朝の打合せを行った。明日午前7時、この8階で朝食。7時50分、チェックアウト。8時に『和平飯店』から出発。上海駅から京滬鉄路の汽車に乗り蘇州へ向かうというスケジュールは、何度も耳にした、方北生の計画通りだった。夕食を済ませると、方北生は、種々の準備があるからと言って、先に『東風飯店』に帰って行った。方のホテルは『和平飯店』の直ぐ近くだった。山田は『龍鳳庁』のサインをして、外に出てから純子に言った。
「純ちゃん、飛行機に乗って来て疲れているだろうし、明日、早いから、部屋に戻って、明日の準備をして、早く寝よう」
すると純子は、ちょっと、どうしてという顔をした。
「私、疲れていないから、少し飲みましょう。上海に来て、直ぐに眠るだなんて。上海の夜の雰囲気感じたいわ」
「じゃあ、ほんの少しだけだよ。外は物騒だから、1階のバーで飲もう」
「ええ、良いわ。ホテルの中の店で飲むのだったら、ベットの中で飲むのと同じようなものね」
「でも、遅くまでは駄目だよ。10時で終わりにするよ」
山田は何時もに無く厳しく言った。このホテルの中で、好ましくない事をしたら直ぐに辻和也に発覚し、山田が恥をかくこと、明白だからだ。山田は純子を連れてエレベーターで1階に降り、ロビーの奥にある『珈琲室』に入った。外国人客がいっぱいだった。『珈琲室』とは名ばかりで、ジャズバー、そのものだった。2人は、そこでウイスキーを飲んだ。楽団の生演奏は素晴らしかった。『星に願いを』、『虹の彼方に』、『ブルースカイ』、『ダイナ』、『私の青空』、『夜来香』、『スターダスト』などなど。中村純子は音楽と酒と恋に酔った。
「山田先生。私たちも踊りましょう。私と踊って」
「今日は駄目。黙って本場、上海のジャズバンドの演奏を聴こう。今日は疲れているのだから、我慢して」
山田の言葉に、純子はちょっぴり、ふくれっ面をした。
「つまんない」
「何をべそをかいているんだ。純ちゃんらしくないぞ」
「だって、山田先生ったら、何時もと違うんですもの。何処かに彼女がいるのでしょう。だから私と踊れない」
「こんなに広い中国に何故、俺の彼女がいるんだ。今日の純ちゃん、どうかしているよ」
山田は中村純子の疑問を軽く受け流した。それにしても女の感は恐ろしいものだ。上海にいる山田の周辺に女性がいることを早くも感じ取っているとは。沈香麗、ナタリィ、播磨夕子の3人と言葉を交わしたことは確かだ。こんな軽い接触が、純子には読み取れるのか。それとも自分の態度の中に、その形跡が現れているのだろうか。山田は悪い事は出来ないと思った。
「山田先生の目の輝き。東京にいる時と違うわ。何故か若返った感じ。満たされてる感じよ」
「そんな馬鹿な。こんな時代遅れの共産主義の国で、俺が満たされる筈など無いだろう」
「純には分かるの。きっと何か良い事があったのだわ。そうでなければ、私より3日も早く、中国へ来る必要ないでしょう」
「それは上海に駐在している『山村貿易』の辻に会って、上海のことや中国のことを訊いておきたかったからさ」
「本当かしら。でも、ちょっとだけ踊りましょう」
山田は仕方なしに純子と踊った。踊りながら、沈香麗や播磨夕子たちのことに思いを巡らせた。彼女たち3人ともが、妖しい女だった。不思議だ。上海に来て確かに新しい女たちに出会った。それも美人女性だ。一体、どうなっているのだ。この上海というところは。夜遅くまで、外国人や中国人女性が踊っている。何時しか10時になっていた。山田は踊りを中断して、純子に腕時計の時刻を示した。彼女は素直に頷いた。今夜はここまでと観念したらしく、部屋に戻ることに同意した。山田は純子と部屋の前で別れて、部屋に入り、シャワーを浴びてから、ベットの上に横になった。前夜からの疲れが溜まっていて、山田は直ぐに眠りの中に落ちて行った。
〇
5日目、火曜日の朝、6時に起床。午前7時、中村純子を連れて8階の『龍鳳庁』に行き、辻和也と一緒に朝食。まず中村純子に辻を紹介した。
「こちらが、俺の親友、『山村貿易』の支店長代理の辻君だ」
「辻です。よろしく」
「初めまして、山田さんの写真担当をしている中村純子です。よろしくお願いします」
「上海までご苦労様」
辻はそう言って、純子に握手を求めた。純子は一瞬、ためらったが、直ぐに握手した。山田は、ちょっと嫉妬して、2人に言った。
「さ、食事をしょう」
3人は一番端のテーブル席に座って食事をした。食事を終えると山田と純子は辻と別れ、部屋に戻り、荷物をまとめた。一部の荷物を辻の部屋に預けた。7時45分、方北生とロビーで待ち合わせ、ホテルのチエックアウトを済ませ、8時にホテルを出発。タクシーで呉松江を渡り、上海駅に行く。治安の悪い所だと聞いていたが、上海駅は地方から来た農民たちが、布団などを持ってウロウロしているのを目にした。上海駅で汽車に乗る時、スーツケース内をチェックされたのには、山田も純子も驚いた。方の案内に従い、南京行きの列車の軟座席に座り、蘇州へ向かう。汽車が上海を離れると、車窓の景色が一変する。汽車が農村地帯を走り、広い田園の中の土壁の農家や竹藪や菜の花畑、並木路、アヒルの遊ぶ池などが、次から次へと映画のように現れ、中村純子はおおはしゃぎ。カメラであちこちを写す。目指す蘇州は京滬線で西へ一時間半。方北生は純子に注意した。
「中村先生。私が写しては駄目と言ったところの撮影はしないで下さい」
純子は、そんな方の注意も聞かず、好きな景色を撮りまくる。列車が蘇州に近づくと、右前方の丘の上に傾いた塔が見えて来る。
「あれが蘇州の象徴、『虎丘雲岩寺塔』です。呉の初代の皇帝、闔閭の墓と伝えられています。皇帝が葬られた後、墓の上に一匹の白い虎が現れたので、虎丘と呼ばれるようになったとのことです。蘇州駅に停車します。下車しますので、荷物を忘れないで下さい」
方北生の言葉に、山田と純子は慌てて荷物を準備し、汽車が蘇州駅に停車するや下車した。方は駅の北口改札を出て、山田と純子を出租汽車に乗せた。初めて見る蘇州は、来る時の長閑な田園風景と打って変わり、これまた人でいっぱいだった。まずは虎丘に行った。虎丘は小高い山で、そこからは美しい蘇州の景色が眺められた。方は山田と純子を千人石、剣池などに案内した後、頂上にある中国版、ピサの斜塔と言われている雲岩寺塔の前に連れて行った。山田と純子は、その塔を見て感激した。純子は高さ48メートル、八角七層の15度傾いている塔をパチパチと何度も写した。虎丘を見学してから、3人は待たせておいたタクシーで蘇州駅南方にある『蘇州飯店』に行き、チエックインした。部屋に荷物を置き、一休みしてからホテル内で早めの昼食。上海と異なり、飾り気のない料理だったが、美味しかった。午後はゆったりとした気分で観光に出かけた。中村純子は黄色のシャツに紺色のジーパンといった軽快なスタイルで、蘇州のあちこちを撮影した。ホテルから蘇州駅方面に向かい拙政園、獅子林の庭園を散策。呉の孫権が母親の経てたという北寺塔の高さ76メートル、8面9層の塔を眺めた。方北生は得意になって案内した。緑色の運河、レンガ造りの橋、運河沿いの家々、舟山板という船、水上生活者など、山田が記録する場所、純子が撮影する場所が沢山あった。運河が縦横に走る蘇州の街は『東洋のベニス』、『水の都』と呼ばれていると、方が語ってくれたが、山田には西洋的景観と異質のものに思われた。繁華街からちょっと離れれば、のどかな田舎町だった。有名な寒山寺は西の郊外、楓橋路の近くにあった。寒山寺は唐の詩人、張継の『楓橋夜泊』に詠まれていて、日本人に親しまれている寺で、六角型の鐘楼が印象的だった。山田はふと呟いた。
「夜半の鐘声、客船に至るか・・・」
その山田の呟きは中村純子には分からなかった。山田は寒山寺を訪問し、かの有名な三蔵法師の名の由来が、『経、論、法』の三つの学問に優れていたからだと知った。山田が歴史や文学に興味があると知ると、方が言った。
「近くに『紅楼夢』に出て来る『大観園』を模した『留園』と庭園があります。行かれますか?」
「勿論、見学させてもらうよ」
案内された『留園』は4つの建物が曲折の多い廊下でつながっており、窓を通しての眺めが特別で、歴代書道家の筆跡が石刻となって、回廊にはめ込まれているのが素晴らしかった。『留園』の見学を終えてから、『蘇州飯店』に引き返した。ホテルの近くに戻って、『滄浪亭』の見学もした。園外から水を引き入れた日本的庭園だった。市内観光を終えホテルに戻ると、中村純子が土産物を買いたいと言い出したので、『友諠商店』へ行った。山田はそこで両面刺繡や白香扇などを土産に買った。純子もハンケチやスカーフ、テーブルクロスなどを買った。その後、ホテル内のレストランで夕食をした。メニューは方北生が2人の意見を訊いて注文した。川魚や、エビ、カニの料理の他に純子の要望で野菜料理を沢山、頼んだ。方は笑った。
「中村先生は野菜ばかり頼んで、羊みたいですね」
「でも、羊年、生まれでは無いのよ。総ては美容の為なの。だってそうでしょう、肥った女性写真家なんて、似合わないでしょう」
「すると先生は兎年ですか?」
「ピンポーン。当たり。野菜は兎も好物ですものね」
純子は元気に喋りまくった。方もそれに応対して良く喋った。流石、旅行社の仕事をしているだけのことはある。山田は朝から動きっぱなしなので、喋る気力を失っていた。年齢の所為かもしれなかった。二十代と四十代の差違は、食欲においても、同様だった。若い2人と比較して、山田は余り食べられなかった。食事が終わってから純子が、何処かで飲もうと誘ったが、方も山田も、断った。方は夜遅い時間外の仕事は断った。
「私は明日の準備がありますから」
「俺も今日の原稿を書かないといけないから」
山田と方は、また明日と言って、純子に手を振り、自分たちの部屋に戻った。山田は部屋に戻ると、今日一日の中国体験を記録した。ふと日本の歌謡曲が頭に浮かんだ。
君のみ胸に 抱かれて聞くは
夢の舟唄 恋の歌
水の蘇州の 花散る春を
惜しむか 柳が・・・
純子は怒っているのだろうか。彼女の部屋に行くべきか。それはいけないことだ。一方、純子は2人にふられて、部屋でがっかりしていた。こんな美女を放っておくなんて、何という連中かしら。純子は仕方なしに部屋に戻り、机に向かい、昨日今日の出来事を手帳にメモ書きした。それから日本へ電話。母親に上海や蘇州の素晴らしさなどをコレクトコール。その後、一人酒。1人で味わうコニャックの香りは純子を陶酔境に導いた。飲めば飲むほど、山田の部屋に行きたくなった。だが、何とか我慢した。山田先生たら冷たい。
〇
6日目の水曜日、山田昭彦は『蘇州飯店』の窓から朝の蘇州の街を眺めて、思った。方北生との中国ルポはまるで観光旅行だ。『エピキュリアン』の浜野史郎編集長が欲しがっている『中国青年の現況』を掴む機会など、ないではないか。純子が言ったように昨夜、蘇州の街に出て、若者と会話すべきではなかったのか。辻が上海以外の都市でのルポは難しいと言った意味が理解出来た。午前7時にホテルのレストランで朝食。上海の『和平飯店』の朝食と違って、ここの朝食は美味しくなかったので、お粥をいただいた。純子はクロワッサンばかりを口にしていた。朝食を終え、部屋に戻り、荷物を持って暗いロビーに行くと、方と純子が、今か今かと待っていた。ホテル前でタクシーを拾い、昨日、行けなかった宝帯橋と盤門などを見学した。宝帯橋は53のアーチを持った長い橋で、その全長は3百17メートルだと、方が説明してくれた。純子は、ここでも写真を撮りまくった。そこでの見学を終えるや、3人は蘇州駅に行き、無錫行きのチケットを買った。やって来た南京行きの汽車に乗り込み、30分足らずで、無錫駅に到着した。駅から外に出ると、快晴なのに、黄砂でぼんやり。ちよっと蒸し暑かった。方北生の案内に従い、まずは駅近くのレストランで昼食。3人で牛肉カレーを食べた。蘇州での朝食が美味しくなかった所為か、大変、美味しかった。それからタクシーに乗り、恵山泥人形工場を見学し、『錫恵公園』に行った。『錫恵公園』は恵山と錫山に挟まれた景勝地で、つつじの花が鮮やかに咲いていて、市街の眺めが良かった。天下第二泉、竜光塔、映山湖、恵山寺などを観て回った。更にタクシーで移動し、太湖を遠望出来る『梅園』へ行き、開源寺や松鶴園などで、若者と会話したり、写真を写した。また出会った老人が、山田たちが日本人であると分かると、近寄って来て話をしてくれた。
「大昔、この周辺は一面、錫の鉱山でした。大量の錫が採掘されたので、『有錫』と呼ばれていたそうです。しかし、漢の時代に錫山の錫鉱石を掘り尽くしてしまい、錫の採掘が出来なくなってしまいました。その為、ここら一帯の地名は『無錫』に変わったのですよ。お笑いですね」
山田は、老人の話を聞き、なるほどと思った。『梅園』での観光を終えてから、今夜の宿泊ホテル『湖浜賓館』に行き、チェックインした。今日も結構、タクシーに乗ったり、歩いたりしたが余り疲れを感じなかった。『湖浜賓館』から眺める太湖は雄大だった。その面積は琵琶湖の3倍以上あるという。湖中には大小40以上の島が点在し、白帆が点々と浮かび、まさに絵のような風景だった。純子は、これらの美しい風景を庭に出て写真に撮りまくった。『エピキュリアン』の誌面をうめるのは、ほんの数枚の写真なのに、彼女は目を輝かせ、あちこちの風景をカメラに収めた。夕食はホテルのレストランで、淡水魚、エビ、油面筋、スッポン、小籠包、青菜などを食べた。蘇州より、美味しかった。夕食が済むと、純子はホテルの売店で、恵山の泥人形を買った。可愛い採色人形だ。恵山一帯の水田の黒土を原料とした明代からの伝統工芸品だというので、山田も幾つか土産品として買った。それから土産品を部屋に置いて、3人で散歩に出た。五里湖の畔の『蟸園』の前を通った。この庭園にある穴の開いた奇石は、湖中から産出する中国庭園に欠かすことの出来ない太湖石だと、方北生が説明した。宝界橋を渡るところで、3人はホテルに引き返すことにした。アベックの数も少なくなり、亀頭渚まで行くには、相当、時間がかかりそうだったからだ。ホテルへの帰りの道すがら突然、中村純子が唄い出した。
君の知らない 異国の街で
君を想えば 泣けてくる
俺など忘れて 仕合せ掴めと
チャイナの旅を 行く俺さ
上海、蘇州と 汽車に乗り
太湖のほとり 無錫の街へ
1年前に尾形大作とかいう若い演歌歌手が唄ってヒットしている旅情歌だった。純子の歌声は感情がこもり、哀愁があって、中々、美しかった。純子が唄い終わると、方北生が拍手した。
「上手、上手。中村先生は歌手になれますね。私、感心しました。好听、好听です」
「そんなに美声かしら。帰国したら歌手になろうかしら。山田先生にマネージャーになってもらっちゃつたりして」
「それは良い考えだ。原稿書きに追われ、悩まされることも無くなるし、歌がヒットすれば左団扇だ」
3人は勝手気ままに喋り合った。そうこうしているうちに『湖浜賓館』に辿り着いた。ホテルのロビーで、明日のスケジュールの打合せをした。明日、午前7時半に朝食。9時にホテルを出発。無錫を離れ、南京に向かう。南京で玄武湖、長江大橋、中山陵などを見学する。方北生に決められた観光スケジュールの報告を受けた。山田は南京という言葉に、『山村貿易』上海事務所の所長代理、辻和也が南京で生まれた境遇を思った。辻和也は日本敗戦後の中国混乱の時代に中国から日本に帰ったのだ。出生地、南京の事は乳呑み児だったので、記憶に残っていないと言っていた。南京から上海に移り、2年半ほど過ごし、昭和24年(1949年)12月に日本に引き揚げたという。だから帰国してから、近所の子供たちに、日本語の発音が可笑しいので、いじめを受けたという。そんな苦労があったが、親戚の援助を受け、都内の高校を卒業するやМ大学商学部に入り、『王ゼミナール』のメンバーとなった。そこで王育文先生から中国の歴史と中国語を学び、中国訪問を夢見た。上海時代、蒋介石総統の〈怨に報ゆるに徳を以てせよ〉という布告により、上海人が日本人に親切だったことを両親から教えられていたから、辻は特に上海に興味を持っていた。山田は日本の古代史を研究する為、中国史を知っておきたいと、『王ゼミナール』に加わったが、辻は完全に上海訪問を目的として、『王ゼミナール』で学んだのだった。そして『山村貿易』に入社。上海所長代理となり、南京に訪れる事、数度。彼は夢を叶えられたといえる。そんな辻の事を想いながらロビーでの打合せが終わると、方との、スケジュール確認の打合せは終了した。解散後、純子は昨夜、断られたこともあってか、これから飲もうとは言わなかった。山田はしめしめと思った。異国で彼女と飲んでいたらどうなるか分からない。彼女が酒癖の悪いの誰よりも知っている。銀座のクラブでメロメロになって、困ったことがあるのだ。山田は部屋に戻ってから日本の家族に電話した。今朝、朝食の時、自宅に電話したかと純子に訊かれたからである。そう言われれば、中国に来てから、一度も自宅へ電話をしていなかった。電話交換手に依頼し、自宅に、電話をすると、妻の明子が電話に出た。息子はもう眠ってしまているという。変わったことは無いという。山田は上海で辻和也に会い、今、無錫にいると伝えた。無錫が中国のどの位置にあるのか、明子が知らなかったので、南京の近くだと教えてやった。帰国は予定通りだと話した。妻と息子が元気なので山田は一安心した。
〇
7日目、午前9時に太湖の湖畔のホテル『湖浜賓館』を出発。無錫駅から京滬鉄路の汽車に乗り、2時間ちょっとで、南京駅に到着した。南京は長い中国の歴史の中で、明の成祖の北京遷都以来、北京に対して南京と呼ばれるようになってから、清朝などと対抗して来た大都市だ。明治44年(1911年)、かの孫文が指導した辛亥革命によって清朝を倒し、臨時政府を置いたのも、この南京だ。方は、タクシーに乗る前に、今から行くホテル『金陵飯店』は南京、いや中国でも一番か二番の高級ホテルであると語った。『金陵飯店』は南京の中心部にあり、駅から、それ程、遠くなかった。まさに城壁に囲まれた南京城の中心にあるといえた。外国資本の入ったこのホテルは、蘇州や無錫のホテルと比較にならない程、サービスが行き届いていて、高級感が、そちこちに溢れ、山田も純子もびっくりした。上海の『和平飯店』のクラッシックな重量感とは異なった近代的重厚な華麗さが備わっていた。3人はチェックインを済ませ、部屋に荷物を置くと、2階のレストランで食事をとった。久しぶりに美味しい洋食を味わうことが出来た。昼食後、一休みして、市内観光に出かけた。まず南京長江大橋を見に行った。長江は日本で揚子江と呼ばれている大河で、その南岸の下関と北岸の浦口を結ぶ二層式の大橋は上段が4車線の自動車道と歩道からなっており、全長が約四千六百メートル。下段が鉄道橋になっており、全長が約六千八百メートルで、ソ連が工事途中で引き揚げた為、中国政府が自国の力で途中から最後まで仕上げたという。方北生は大橋の入口で銃を持った番兵に、観光だと伝え、タクシーを大橋の中程まで走らせ、中間地点で、タクシーをストップさせた。山田たち3人は橋の中ほどで下車し、歩道を歩いた。水中に9つの橋脚、両岸に各々、高さ70メートルの橋頭堡があり、橋の下には揚子江の大量の水が悠々と流れ、その畔を銃を担いだ警備兵が見回りしている姿が、鳥瞰出来た。中村純子は、中国が世界に誇るこの大橋を、感動しながら撮りまくった。しばらく揚子江を眺め、先ほど下車したタクシーに再び乗車し、浦口まで行って引き返し、南京市内に戻った。中山北路を走り、鼓楼広場の近くを通過する時、車窓を眺めていた山田は驚きの声を上げた。
「ああっ!」
「どうなされました。山田先生?」
「いや。何でも無い。俺の友人に似ている人が、歩いていたものだから。でも人違いだろう」
「そうよね。こんなに人がいるのですもの。人違いするのは当たり前よね。中国の人の顔って、日本人とそっくりですものね」
その通りだ。人違いに相違ない。九州の海に沈んで死んだ、あの林千帆が生きている筈など無い。それにしても、あの女は林千帆に、そっくりだった。何と似ていたことか。かって学生時代、辻和也と一緒に南京の旅をしてみたいと言っていた彼女が、今、南京にいる。それは夢か現実か。山田は過去の事とたった今、目にした風景を混合させ、頭の中が混乱し、茫然とした。夢を見ているのか。いや、あれは夢ではない。目にしたのは確かに林千帆だ、山田は心の中で呟いていた。
「千帆さん。貴女は死んだのでなかったの?」
純子に人違いだと言ったが、あれは確かに林千帆だ。死んだ筈の林千帆が生きている。そういえば林千帆の死体は発見されていない。鹿児島の坊ノ岬に遺書の入ったバックとハイヒールが残されていただけのことではないか。人魚のように泳ぎが上手だった彼女が、海で死ぬなんて信じられないと、彼女の死を疑った事があったが、今やその謎は解けた。彼女は死を装って国外に逃亡していたのだ。山田は辻と親しい林千帆を恋慕していた時代のことを思い出していた。そうこうしているうちに、車は『金陵飯店』に戻った。ホテルのレストランで一休みしてから、山田は大慶路の方へ進んで行った女を探しに、散歩に出ることにした。それを知ると、今日の観光を終わらせようとしていた方は、仕方なしに山田に付き合った。山田は林千帆が『友諠商店』に行ったのではないかと想定し、『友諠商店』に行ったが、千帆の姿は無かった。純子は並んでいる商品を見て、大喜び。『友諠商店』で幾つかの土産物を買った。その後、3人は大慶路を進み、玄武門から『玄武湖公園』に入り、園内を散策した。そこで、散歩している青年が日本語で声を掛けられた。
「あなた日本人ですか?」
「はい。リーペンレンです」
「では、少し、お話しましょう」
「はい」
山田は即答した。方北生が渋い顔をして言った。
「いいんですか?」
「いいんです。南京の若者と直接、話せるなんて、絶好の機会です」
山田の言葉に、方は仕方なしに従った。南京青年の名は曹大基と言った。彼は日本語を学んでいて、日本の大学で学びたいと夢を語った。曹青年は、生意気なことを言った。
「日本は中国との戦争で中国人に『南京大虐殺』などというひどい事をしたが、アメリカと中国の反撃により敗戦国になりました。なのに何故、日本が中国より、あらゆる面で発展をしているのかが、分かりません。鄧小平主席は『改革開放政策』を実行するにあたり、日本に学べと言っています。だから私は日本に行きたいです。そして中国を立派な国にしたいです」
「それは良い考えです。鄧小平主席は、対外貿易拡大、外資活用、先進技術の導入、生産管理の吸収などが大事であると、日本に訪問して気づいたようです。私たち日本人は、日中戦争で迷惑をお掛けした、お詫びに、それぞれの分野で中国の人たちと交流し、先進技術等を提供し、共に発展しようと考えています」
「中国には、日本に学ばなければならない事が、まだ沢山あります。私は共産党員でないので、選挙権がありません。日本人は日本の気に入った所で土地を購入し、好きな人と暮らせるとのことですが、私たち中国人は自分の土地を所有することが出来ません。土地は国家の物です」
「本当ですか?」
「はい。そうです。土地は国家に借りていることになっています」
曹大基青年の代わりに、方北生が答えた。山田はびっくりした。選挙権も無ければ、土地も持てないとはどういうことか。方の説明によれば、中国には都市戸籍と農村戸籍があるという。
「私は農村戸籍の為、収入は都市戸籍の四分の一です。中国人は貧乏です。自転車を買う事は日本人が自家用車を買うような高価な買い物です」
「ええっ、本当ですか?」
「本当です」
曹青年の話を聞いて、山田は中国人の生活が、日本より30年遅れていると感じた。方北生は、旅行社から、一般人と観光客を接触させないように言われているのか、途中で曹青年を追い払った。それから3人は園内で大道芸人のパホーマンスやアベックの歩く姿や小鳥の鳴き比べなどを観て、ホテルに引き返した。林千帆の姿は見当たらなかった。山田は『金陵飯店』の自分の部屋に戻ってから、直ちに『山村貿易』上海事務所の辻和也に電話を入れようとして、一瞬、考え、電話するのを思い留まった。上海で遭遇した播磨夕子のことを思い出したからだ。
「私と会ったことは、絶対に秘密にしてよ」
夕子の懇願した言葉が脳裏に蘇った。もし彼女が林千帆であったなら、同じ考えかもしれない。彼女が生存していることを知ったら、日本警察は黙っていないだろう。そんな事を考えていると、純子が部屋のドアをノックして、食事に行きましょうと声をかけたので、山田は純子とレストランに行き、方北生と合流し、夕食を口にした。アヒル、スッポン、魚料理、青菜、五香卵、春雨スープなどをいただきながら、ビールを飲む。白酒を飲むかと方に言われたが、遠慮する。純子は中国経験だからと言って、方と少し白酒を飲む。夕食が終わると、各自の部屋に戻った。部屋に入って、山田は再び林千帆のことを想った。原稿を書く為に机に向かったが、胸がドキドキして、執筆が思うように進まなかった。それでも、『玄武湖公園』で会った曹青年との会話を振り返り、中国青年の思いを綴った。大事な『中国青年の現況』の記事だ。そんな山田の部屋へ、暇を持て余した中村純子がやって来た。彼女は山田の部屋の椅子に腰かけたり、ベットに座ったりして、勝手に喋り出した。
「このホテル、豪華ね。洗面所の置物といい、バスルームの広さといい、このベットの具合といい、照明設備といい、総てが素敵だわ。でも、ウールのテレビ掛けや飲料水タンクは、中国が遅れていることを示しているわね」
「うん。そうだね」
「山田先生。こうして、ぼんやり時間を浪費しているの、勿体無いと思いませんか?」
「勿体無いとは思わないね。俺は原稿書きで忙しいのだから」
「でも山田先生。私が来てから考え込んで、一行も書いていませんよ」
純子の言う通りだった。山田は何かを書こうと思っているのだが、いろんな事を考えると、何も書くことが出来ず、逡巡を繰り返した。
「山田先生。素直になったら良いのに。中国にいるからといって、緊張することは無いのよ。ホテルの廊下に監視員がいても、部屋の中まで入って来ないわ」
「当たり前だ」
「だから日本にいる時と同じように、人生をエンジョィしましょうよ」
「俺は今、考え事をしているのだ。だから筆が進まないのだ。お願いだ。静かにウィスキーでも飲んでいてくれ」
「そんなの、いや」
純子は、そう言うと、突然、山田の首にしがみついて来た。山田の脳裏に、『エピキュリアン』の浜野編集長のいやらしい笑い顔がよぎった。浜野史郎は山田と純子の関係を知っていて、純子を中国に送り込んで来たのだ。山田は、もう、どうでも良かった。素直に純子の誘惑に従った。彼女をベットに横たえ、彼女のジーパンを脱がせた。パンティの上から、彼女の股間を愛撫すると、彼女は、それだけで腰を波打ち始めた。Tシャツを脱がせ、ブラジャーのホックを外し、乳首の先を吸ってやると、彼女は身をよじって声を上げた。
「ああっ、やめて。お願い」
「純ちゃん。本当に止めていいのかい?」
「ああ、駄目」
「どっちなんだ。欲しいんだろう」
山田は純子のパンティを引き下げると、豊かな茂みの中の花びらを優しく指で押し拡げて、中を掻き回した。何時の間にか、花びらの奥で密液がいっぱい溢れている。純子は恥ずかしくなって、腰をよじって、山田の人差し指の動きを止めようとした。止めようとすればする程、快感が彼女を襲う。山田は頃合いを見計らい、自分のズボンとショーツを脱ぎ、己の熱くなった物を取り出して、それを純子に握らせた。
「凄いわ。早く入れて」
純子は自分で山田の燃え滾った物を自分の股間に引き入れた。山田は素直に、それに合わせた。3、4度、軽く突いてから、急に引き抜いて、いきり立った物を確かめると、それは火柱となっていて、今にも爆発しそうであった。山田はベットの上で純子を四つん這いにさせた。そして自分の物を後ろから一気に勢いづけて、純子の花芯めがけて突き刺した。爆発しそうな火柱を受けて、純子は悲鳴を上げた。
〇
8日目、金曜日の朝、山田は純子の動きに目を覚ました。一夜、同じベットで過ごした恥ずかしさはあったが、純子は何事も無かったように部屋から去って行った。窓を開けると、朝の空気が清々しかった。『金陵飯店』の庭では南京ハゼの若葉が風に揺れ、八重桜の花が、満開に咲き乱れている。山田は歯を磨き、洗面をし、パジャマから洋服に着替え、朝食に行く準備をした。午前8時、方北生と合流し、昨夜のレストランで朝食。中村純子は既に別人に戻っていて、山田の向かいに座った。方は食事をしながら、南京に関する歴史を語った。その説明が旅行ガイドの説明と同じ程度の内容であったので、山田は軽く受け流して聞いたが、純子は授業中の生徒のように、方の説明を真剣に聞いた。そんな朝食を済ませて、午前9時、3人はタクシーに乗り、『中山公園』に出かけた。紫金山の中復にある『中山公園』は広大で素晴らしい公園だった。あの三民主義(民族、民権、民生)を唱えた孫文の墓、中山陵は、さながら中国皇帝の陵墓に等しい人力と資金力が投入された荘厳な陵墓であった。三百九十二段の石段を登りながら、山田は孫文と彼に仕えた蒋介石のことを思った。何という力を持った連中であったことか?中村純子はあちこちを撮りまくった。山田も自分のカメラで中山陵を写した。石段の頂上にカメラを向けた時、山田は顔色を変えた。昨日の再現である。あの死んだ筈の林千帆が、カメラの画面の中に出現したのだ。何故?彼女は山田に向かって微笑むと、石段の向こう側に消えた。山田は石段を駆け上った。この山田の異常な行動に方北生と中村純子は唖然とした。何事か?2人には何が何だか分からなかった。兎に角、何かを追いかけて、駆け上がっているのだとだけ分かった。三百九十二段を登りきると、青天白日の天井のある祭堂に出た。その御堂の円形の穴の中に、孫文が美しく眠っている。大理石の孫文は、ただひたすら眠るばかり。その近くに佇んでいる女性が、山田に深くお辞儀をした。
「いらっしゃいませ。南京へ」
「矢張り、貴女でしたか」
「辻さんから連絡を受けて、一目、元気なお姿を拝見したくて・・」
彼女、林千帆は、昔と変わっていなかった。小皺が少し増えた程度だ。山田は彼女に何を喋ったら良いのか思い当たらなかった。千帆が微笑んで言った。
「王先生が亡くなられた事、辻さんから聞きました。貴男が結婚されたことも。私が死んだことになっていることも。みんな教えていただきました。私は今、台湾国民党の祖国復帰の活動を、南京をねじろに全省展開で推進しております。それが実現する日は近いと思います。中国の民主化は真近いです」
「改革開放の波に乗って、中国を民主化しようというんだね」
「はい。国民党を中国で再起させ、台湾と同じように中国を自由平等社会にするのです。山田さんも、お仕事に頑張って下さい。ご迷惑になるといけませんので、ここで失礼致します。お元気で・・」
「貴女も、お元気で・・」
林千帆は、そう挨拶すると、黒い御影石の柱に向こうに消えた。山田は茫然と立ち尽くした。夢ではない。林千帆は生きていたのだ。そこへ方北生と中村純子が息をきらしてやって来た。
「山田先生ったら、突然、駆け上ったりして、何かあったのですか?」
山田は笑って答えた。
「孫文の亡霊に出会った」
「孫文の亡霊?」
「彼は国民党の復興を語り、再び零廟の柩に戻り、再び眠りについたばかりだ」
平然と答える山田を見て、方も純子も、呆気にとられた。山田が恐ろしい事を言うので、お喋りの純子も次の言葉が出なかった。孫文の亡霊と聞いただけで、鳥肌がたった。純子は子供の時から、幽霊の話が苦手だった。その孫文の亡霊は山田が言うように瑠璃色瓦の霊廟で眠つていた。中山陵を見てから3人は、『霊谷公園』の開善寺と明孝陵を見学した。週末であるからか、平日であるのに観光客で、いっぱいだった。九層の霊谷塔からの眺望は素晴らしかった。その塔を降りてから、純子は境内にいた物売りから、雨花石を買った。雨花石とは五色の小石で、小鉢の水に浸すと、美しい色の模様が現れるという。方北生は純子に、説明した。
「この雨花石は、水を注ぐと、真紅の色になります。人々は、この地で処刑された愛国革命烈士の流した鮮血が石にしみついているのだと言っています」
「まあ、怖い。いやだわ。これ、山田先生に上げる」
「日本軍の南京大虐殺の証か。それとも太平天国の乱の証か。もらっとこ」
山田は純子から雨花石を受け取ると、背広の胸ポケットに、それをしまった。その後、明孝陵の前でタクシーを拾い、南京城の城壁の畔の道を走り、中山門から城内に入り、『金陵飯店』に戻った。ホテルで昼食。山田は、素晴らしい所を案内してもらったと、方に礼を言った。食事後、山田と純子はホテル内の売店で土産物を買った。それから荷物をまとめ、チェツクアウトを済ませ、ホテルを出発。午後3時40分発の上海行きの汽車に乗った。乗車時、スーツケースの中を、また駅員にチエックされたのには驚いた。何の目的でチエックされたのか、方に訊くと、防犯、安全保障の為だと方は答えた。軟座の席に座り、再び上海の明るい街に戻れるのかと思うと、胸が弾んだ。山田たちを乗せた汽車は、汽笛を鳴らしながら田園地帯を走った。鎮江、常州、無錫、蘇州、昆山などの駅を経て、上海に到着したのは、夜の9時を過ぎていた。『山村貿易』の辻和也が会社の専用車で出迎えに来てくれていたのは有難かった。方北生が自宅に帰るというので上海駅で、方とさよならした。山田は方が華中地方の案内で疲れただろうからと、明日の土曜日、1日の休暇を方に与えた。方は深く頭を下げて、去って行った。山田と純子は辻の案内に従い、『山村貿易』の専用車に乗った。
〇
上海の『和平飯店』は山田と純子を温かく迎えてくれた。黄浦江のほとり外灘に建つ『和平飯店』が夜空に緑色の光を放ち、くっきりと浮き立っているのを発見した時、山田は故国に戻ったような安堵感を覚えた。ホテルに到着するや、まずチェツクイン。山田と純子の部屋は、前回と同じ、524号室と526号室だった。辻が山田と純子に言った。
「食事をしていないんだろう。荷物を置いたら、420号室に来いよ」
「1階の珈琲室では?」
「もう終わりだ。君や中村さんが持って来た食料が、僕の部屋に沢山、預かっている。処分しないと僕の財産になってしまうよ」
山田と純子は辻の指示に従い、エレベーターで5階の自分たちの部屋に行き、荷物を置き、直ぐに辻のいる420号室に訪問した。ドアをノックすると、辻が笑顔でドアを開けた。420号室に入ると、中村純子は驚きの声を上げた。
「まあっ、綺麗。素晴らしい調度品や飾り物がいっぱい。それに広くて、まるで王女さまの豪華なお部屋みたい」
辻和也は、純子の言葉を聞いて、赤面した。会社が借りてる豪華な部屋を清潔に綺麗に使用していることは、恥ずかしがることではないのに、何故か辻は決りが悪そうだった。辻は純子から預かっていたダンボールケースの中から、カップヌードル、3人分を取り出し、それに熱湯を注いだ。その他、パンとウインナーソーセージとバナナを皿に乗せて、テーブルの上に並べた。しばらくぶりに口にする出来上がったカップヌードルの味は、中々いけた。辻は食事に夢中の山田と純子の顔を見詰めて訊いた。
「地方の中国青年の現況はどうだった?上手く取材出来たかな」
「うん。予想通り、観光に終わった。でも蘇州、無錫、南京と、素晴らしい旅をさせてもらったよ」
「中村さんのような美人との旅だもの、取材より、観光が優先してしまったのだろう。素晴らしい旅だったにきまっているじゃあないか」
辻の言葉に2人は赤くなった。山田と純子は南京の『金陵飯店』の夜を思い出していた。激しく燃え合った事は確かだ。そこで、山田は、それとなく林千帆のことをほのめかした。
「南京の中山陵を訪問し、『王ゼミナール』時代の夢を見たよ」
「そうか。懐かしかったろう」
「うん」
「ところで山田。君の所へ沈さんという人から電話があったよ。君がいないので、君の部屋の予約をしている、僕の所へ、電話交換手から電話がつながったんだ。君が上海にいないと話すと、また電話すると言っていた。君は沈さんと、何時、会ったんだ?」
「純ちゃんが来る前の日だ。その後は会っていないが・・」
「そうか」
「何かあったのか?」
「いや、何も」
辻は、そう答えて、慌てて話題を変えた。中村純子に、蘇州、無錫、南京の感想などを質問したりして、話を濁した。山田は沈香麗に何かあったなと思った。彼女は山田が上海に戻って来る日を知っている筈だ。その前に電話をして来たということは、一体、何なのだろう。山田が考え込んでいる間、辻と純子は楽しそうに会話をした。食事を食べ終わってから、3人は烏龍茶を飲んで少し喋ってから解散した。辻の部屋に預けておいた荷物を受け取り、526号室の前に立ったのは午後11時前。524号室に入りながら、純子が言った。
「おやすみなさい」
「お疲れ様」
山田は、そう答えて、526号室に入った。そしてバスタブにお湯を入れていると、部屋の電話が鳴った。また中村純子が酒を飲もうというのだろう。面倒なので、山田は少し放ったらかしにしておいた。しかし、執拗に鳴り続けるので、仕方なしに受話器を取った。
「モシモシ、山田先生ですか?」
純子の声では無かった。
「そうですが」
「私は沈香麗です」
「えっ、香麗?本当に香麗?今、何処にいるの?」
「家から電話しています。明日、夜8時、『上海大厦』1階の喫茶室で待ちます。2人だけの秘密よ」
香麗は一方的に喋ると、電話を切った。電話を所有している家庭にいるとは。香麗は、中国の高級幹部の娘に違いない。それに大学に通っているなど、余りにも恵まれている。それにしても、何故、香麗は、自分のような中年男に興味を抱いているのだろう。散歩したり、食事をしたり、ディスコで踊った程度なのに、何故、上海に自分が戻るのを待っていたかのように電話して来たのだろう。山田には理解出来なかった。でも嬉しかった。再び美人の彼女と会えるなんて考えていなかった。播磨夕子と会った夜、別れたっきり、もう2度と会うことはないだろうと考えていたのに。かりそめの恋と思っていたに、彼女は、約束通り電話をして来た。何が目的なのだろうか?本当に彼女は自分が想像しているような高級幹部の娘なのだろうか。あるいは当初、想像していたような売春組織の一員なのだろうか。電話を切り、バスルームに行くと、お湯が今にもバスタブから溢れ出そうになっていた。山田は裸になり、バスタブに浸かりながらも、沈香麗のことを考え続けた。
〇
9日目、土曜日の朝、起床するや、山田は辻和也に電話した。辻は早朝の電話に慌てた。パジャマ姿で受話器を取った。
「啊、我是辻」
「お早う。山田だが」
「何だよ、こんなに朝早く」
「申し訳ない。朝食前に、お前にお願いしておきたいことがある。中村純ちゃんに聞かれては困る話だ」
「何だ?」
「今夜7時30分以降、中村純ちゃんの相手を頼む」
「どういうことだ?」
山田に突然、そんなことを言われても、辻には山田の言っていることの意味が分からなかった。何故、自分が中村純子の相手をしなければならないのか。その疑問に山田が答えた。
「今夜、沈さんに会う約束をした。昨夜、彼女から電話がかかって来た」
「本当か」
「うん。今夜8時、『上海大厦』1階の喫茶室で、彼女に会う。放っとこうと思ったが、放っとく訳にはいくまい」
辻は山田の依頼に同意した。山田の女好きは昔と変わっていない。2人の間で沈香麗のことは、友人の友人ということにした。それも男の友人ということに。それから1時間後、3人は8階のレストラン『龍鳳庁』で顔を合わせた。朝食をしながら中村純子は、今日は上海の観光が出来ると、大はしゃぎだった。山田はパンを口にしながら純子に今夜の都合を話した。
「純ちゃん。申し訳ないが、今夜2時間ほど、俺のプライベートの用件があって、ホテルから離れるけど了解してくれ。その間は、辻が純ちゃんと一緒にいてくれるので、心配はいらない。上海にいる友人に会うんだ」
「駄目。山田先生、恋人に会うのでしょう」
「恋人。そうだと良いのだけれど。ところが違うんだな。テレビ局の青木和雄が、上海に来た時、お世話になった中国人にお礼の挨拶に行くだけの事だよ。なるたけ早く戻って来るから了解してくれ」
「仕方ないわね。そういう事なら許してあげる。でも、早く帰ってね」
すると辻和也が、純子に言った。
「山田先生がいないと不安なのかな。大丈夫。僕に任せてくれ。明日、日曜日なので、僕は今夜、ゆっくり出来る。事務所から戻ったら、上海の美味しいレストランに純ちゃんを連れて行って上げるよ」
それを聞いて、純子は喜んだ。調子の良い純子を見て、山田は、ちょっと腹が立ったが、我慢した。総てが沈香麗の為だ。朝食が終わると、辻は夕方の再会を約束して、『山村貿易』上海事務所に出勤して行った。山田と純子は部屋で一休みしてから、市内見物に出かけることにした。旅行社の通訳、方北生がいなくて大丈夫なのか。中村純子は全く中国語が分からないが、ほんの少しだけ中国語を話せる山田は、度胸試しと思い、上海の観光地図を頼りに、純子を連れて市内見物に出かけた。2人はまず明代の美しい庭園『豫園』を見る為、『和平飯店』の前でタクシーを拾った。『豫園』は外灘を少し下った人民路と方浜中路の中間にあった。龍でかたどられた塀の外側は、上海の旧市街で、沢山の商店が、ごちゃごちゃ並んでいて、まるで日本の浅草のようだった。山田と純子は江南の名園と呼ばれている『豫園』を見学した。純子は得月楼、万花楼、三穂堂、点春堂、会景楼などを夢中になって写しまくった。山田の印象に残ったのは点春堂だった。点春堂は1853年9月、清朝の封建統治に反抗して、一時、上海革命政権を樹立した劉麗川の率いる『小刀会』の指揮所があった場所だ。『小刀会』とは反清復明、つまり満州族の清国に反抗し、漢民族の明国を復興させることを唱えて決起した秘密結社だ。その『小刀会』は、その後、空しく消えてしまった。だが点春堂は太平天国の乱の時、清朝の兵営になり、荒廃してしまった。しかし、その点春堂は現在、中国政府によって立派に修復されていて、山田は何故か親しみを感じた。そんな『豫園』を見学してから、2人は『豫園商場』の中心にある『湖心亭』で休むことにした。『湖心亭』は豫園路から緑波池に架かった九曲橋の中ほどにあった。2階建ての古い茶館で、2階でお茶を飲むことが出来た。山田は、その2階から、赤い九曲橋を見下ろして、純子に説明した。
「ここの橋は悪魔が渡れないように、九つに折れているんだ」
「なるほど。どこでも悪魔は嫌われるのね」
「うん。上海は魔都と言われているところだからな。こんな場所も必要なんだよ」
お茶を飲みながら2人は、そんな雑談をして、少し休んでから、上海の街を歩き、興国路76の街角、『中国共産党創立会場跡』に到着した。会場跡は赤と黒のレンガの小さな上海式建物で、108の番号を貼られた黒いドアが重々しかった。中に入ると、当時、会議の行われた部屋があり、テーブルの上に13個のグラスが置かれているだけだった。隣が『上海歴史記念館』となっており、古い革命資料などが展示されていた。2人は、そこを出てから『復興公園』を歩いた。プラタナスの葉が揺れて美しかった。この公園の西に中国革命の父、孫文の旧居が残されていた。予約してなかったので、参観することが出来なかった。昼食は少し歩いたところにある『錦江飯店』の錦江倶楽部の片隅のレストランで食べることにした。そこに日本人商社の人が来ていたので、彼に麺類と野菜料理を頼んでもらい、昼食を済ませた。昼食を終えてからタクシーに乗り、『友諠商店』に向かった。中村純子は目を輝かせ、いろんな土産物を買った。山田もつられて壺、竹細工、絹織物、清涼油、人形などを買った。日本にいる妻や息子、友人のことが思い出され、その人たちに似合った土産物を選んだ。『和平飯店』には4時半に戻った。夕方までに時間があるので、2人は各人の部屋に戻り、一休みした。『山村貿易』の辻和也は午後5時半にホテルに帰って来た。彼に声を掛けられ、1階の珈琲室でコーヒーを飲みながら、雑談した。純子は今日、一日の市内観光を、楽しく辻に語った。7時近くなると、辻が山田に合図した。
「じゃあ、僕たち、これから食事に行くから、またな」
「うん。純ちゃんを上海の美味しいレストランに連れて行ってくれ」
「分かっているよ」
辻は、そう言うと、純子を連れて、ホテルのロビーから、楽しそうに外に出て行った。
〇
午後7時30分、山田は背広姿に着替え、『和平飯店』を出た。星空だった。『黄浦江公園』のほとりを通り、ガーデンブリッジを渡った左側にある『上海大厦』は上海の河辺に赤茶けた奇怪な姿で聳え立っていた。ガーデンブリッジから見るその眺望は何時もに無く暗く、不気味に感じられた。夜、見る所為かも知れなかった。橋を渡り切り、左折し、1階の喫茶室に入ったが、まだ沈香麗は来ていなかった。山田はレモンティを依頼して、それを飲みながら彼女が現れるのを待った。すると、そこへ香麗でない女性が現れた。
「山田先生でしょうか?」
「はい。山田です。貴女は?」
「私は李恬美と申します。香麗さんが黄浦江の波止場で待っています。ご案内致します」
どういうことか。山田は李恬美の案内に従った。喫茶室での清算を済ませ、『上海大厦』の前で、用意されていた車に乗り、10分と乗らない場所に案内された。そこは外灘より下流の東大名路の波止場だった。暗い道を走り、車が止まったのは倉庫の並んだ波止場で、裸電球が点在しているだけの寂しくて暗い波止場だった。山田は李恬美と車から降りた。2人を乗せて来た車はUターンして、帰って行った。山田はヤバイと思った。何故、こんな暗い場所で降りたのか。車が無くてはホテルに戻れないではないか。不安が山田の脳裏をよぎった。
「香麗さんは何処に。恬美さん、香麗さんは何処で待っているいるのだ?」
「ここよ」
暗闇の中から女の声がした。と同時に、突然、四人の影が、裸電球の灯りの下に現れた。その中の1人は、長い髪の毛を垂らした女性だった。彼女は香麗では無かった。その髪が金髪なので、香麗で無い事は明白だった。
「ナタリイ!」
山田の驚きの声がこだました。彼女は不気味に笑い、口を開いた。
「そう。私はナタリイ。貴男を迎えにやって来ました」
「迎え。一体、これはどういうことなんだね?」
「山田さんを、パレスチナに案内するよう、ユーコから命令を受けました」
「そんな馬鹿な。この間、別れる時、永遠の別れかもねと彼女は言った。その彼女が何故?」
山田の質問にナタリイは困惑した。山田の言う通りだ。再会した2人は、永遠の別れをする予定だった。播磨夕子は『丁香花園』で山田に会った夜、ナタリイに、話した。
「彼は秘密を守る男だから、日本に、そっと帰して上げましょう」
ナタリイも、それに同意した。しかし事態は変化したのだ。『レッド・ウッド』のトップからの命令が上海にあり、1人でも多くのコマンドを集めよとの指示が、播磨夕子やナタリアに徹底されたのだ。ナタリイは厳しい表情で、山田の疑問に答えた。
「中東本部からの命令よ。ユーコは2日前、パレスチナに帰ったわ。今は1人でも多くの仲間が必要なのよ。行って下さるわね。中村純子さんも一緒よ」
「何だって!」
「調べはついているの。貴男が日本から女性を連れて来ていること。まもなく私の仲間が、中村純子さんを誘拐して来るわ」
「そんな馬鹿な事を」
「パレスチナに行ってくれるわね」
「いやだと言ったら」
ナタリイの顔が曇った。彼女は恐怖に震えていた。そのナタリイの様子を見て、脇にいた小太りの男が山田を威嚇した。手に拳銃を持っている。
「いやだと言ったら、ここで死んでいただくまでだ」
「そんな馬鹿な」
「馬鹿じゃあない。トップは君の事を使える男だと気に入っているのだ」
「分かった。では中村純子が来るまで待とう。それからの回答だ。その前に香麗に会わせてくれ」
山田の要求に男は答えなかった。ナタリイの指示を待っている態度だった。ナタリイは気を取り戻し、笑みを見せて山田に話した。
「山田さんの愛する香麗さんは今頃、広州に向かっているわ。広州、香港経由で、パレスチナに行くの。残念ね。でも心配いらない。貴男が了解すれば、1週間後にパレスチナで再会出来るのですから」
「俺はパレスチナに行くとは言ってないぞ。でも行くとしたら、誰が俺をパレスチナに案内するのだ?」
「北朝鮮の平壌から、仲間がやって来て案内するわ」
「平壌?」
その山田の問いに、ナタリィが答えようとすると、小太りの男が、ナタリィの発言を制した。
「ナタリイ。多言はならない。ルポライターの誘導にかかって、秘密を喋ってはならない」
ナタリイは小太りの男に注意され、何も言わなくなった。李恬美は勿論のこと、3人の男も沈黙するだけの長い睨み合いとなった。山田はナタリイに強く言った。
「俺はパレスチナには行かないぞ」
「私たちの仲間が連れて来る中村純子さんが行くと言っても?」
「お前たちの仲間が中村純子を連れて来ると言っても、それは無理だ。彼女は強力な組織に守られている。ナタリイ、俺をホテルに帰してくれ」
「帰す訳にはいかないわ。パレスチナに行くのですか。行かないのですか?」
「俺は行かない」
山田は播磨夕子の知人である自分が、どう扱われるか確かめたかった。小太りの男が一歩、前に進み出た。そして銃口を山田に向けた。ナタリイが悲しい顔をした。山田は妻の明子や息子、良太のことを思った。自分はここで命を落とす事になるのかと思うと、情けなくなった。小太りの男が拳銃の引き金を引く前に冷たく言った。
「死んでもらおう」
そして拳銃の引き金を引こうとした。その時だった。近くで車の停まる音がした。純子が連れて来られたのか。総てが一旦、停止した。一同は暗闇で耳を澄ませた。暗い波止場の夜霧の彼方からやって來る者を、誰もが確認しようとした。
青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは 独り者
夢の四馬路か 紅口の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ
可愛い あの娘が 夜霧の中へ
投げた涙の・・・・
裸電球の灯りの中に現れたのは長身の男だった。男は『夜霧のブルース』を唄いながらやって来て、山田の脇で立ち止まった。小太りの男は銃口を、その男に向け直して言った。
「お前は誰だ!」
「青幇の殺し屋、陳青波」
そう言い終わると同時に、陳青波のリボルバーが火を噴いた。小太りの男は一瞬にして、心臓を撃ち抜かれ、よろめいて、真っ暗い黄浦江に落ちた。それを目の当たりに見て、ナタリイたちは震え上った。ピストルを持っていながら、攻撃する意欲を喪失していた。陳青波は、ナタリィたちに言った。
「お前たちに告げる。我らの仲間、沈香麗を一時も早く解放せよ。そうでなければ、上海にいるお前たちの仲間は皆殺しだ。われら青幇は、目的の為なら、パレスチナまでも出かける。初心な上海娘を利用し、山田を再び仲間に引き入れようなどと、姑息な事を企んで、お前たちグループが全滅することは愚かしいことだ。山田から手を引け」
陳青波の言葉に、ナタリィは陳の言わんとすることが、理解出来たらしく、頷いた。
「仕方ないわね。山田さんのことは諦めるわ。香麗さんの事は本部と連絡を取り、何とかするわ。明朝、山田さんの部屋に電話しますので、待っていて下さい。これから戻って、本部に連絡を取ります」
ナタリイが、そう答えて引き上げようとすると、陳青波はナタリイの腕を引っ張り、他の男から引き離した。
「お前は残っているのだ。沈香麗が上海に戻って来るまで、お前は我々の人質だ」
ナタリイは仕方なく人質になり、2人の男と李恬美に帰るよう指示した。3人は悲しい顔をして波止場から引き上げて行った。それを見届けると陳青波は山田に話しかけた。
「何年ぶりでしょうか。危ないところでしたね」
「うん。殺されると思った。助けてくれて、有難う。心から感謝する」
「貴男を守るべき役目の香麗が消えたので、呉淞路から急行しました。このナタリイという女は『レッド・ウッド』の幹部です。上海で人集めしているのです。パスポートを持った若い日本人が、『レッド・ウッド』のコマンドとして、最適なのです。『レッド・ウッド』の連中はパレスチナ解放人民戦線に協力し、絶えず、若い日本人を狙っているのです」
「そのようだな」
「彼らはイスラム原理主義者と世界同時革命を考えています。従って中国にも改革開放政策によって、外国人が流入し、民主化に向けた彼らの仲間が増え始めています」
「成程」
「ではホテルに案内します」
「申し訳ない」
何時の間にか、陳青波の配下が、3台の車を準備して待っていた。山田は陳青波と一緒に、メルセデス・ベンツに乗った。ナタリイたちは別の2台の車に乗せられた。その2台の車とは金山路で別れた。山田は『和平飯店』に向かいながらの車中で、南京で林千帆に出会ったことを喋ろうとしたが、やめた。何故なら今回の陳青波の登場は、彼女の指示に違いなかったからである。陳青波は、山田を『和平飯店』まで車で送り届けると、山田が引き止めるのを振り切って、上海の闇に消えた。
〇
10日目、日曜日の朝、『和平飯店』8階のレストラン『龍鳳庁』で辻和也、山田昭彦、中村純子の3人が食事をしている所に、通訳の方北生が顔を出した。
「お早うございます。いよいよ明日、帰国ですね。今日はたっぷり、上海を御案内致します」
すると辻和也が山田と純子に確認した。
「僕も今日、日曜日だから、一緒させてもらうが、構わないかな?」
「ええ、良いわ」
「勿論だよ。喜んで案内してもらうよ」
「では、私、一階ロビーで待っていますので、9時に出発しましょう」
方北生は、昨日一日、休みが取れた所為か、御機嫌だった。山田たちは朝食を終え、30分後、ロビーで、方と合流し、4人で市内見物に出かけた。まずタクシーで『虹口公園』に向かった。『虹口公園』は上海駅の脇の宝山路と平行に走る四川路を北に進んた突き当りにあり、またの名を『魯迅記念公園』と称した。園内には有名な中国の文学者、魯迅の墓と記念館があった。公園の緑の林の中を歩きながら中村純子と方北生は魯迅について、その偉大さ、思想などについて、意見を交わした。山田と辻は、その後をついて行きながら、小声で話した。
「昨夜、沈さんに会えなかったよ」
「そうらしいな。陳青波から聞いたよ」
辻の返事に山田はびっくりした。陳青波と辻和也が繋がっているとは。しかし、冷静に考えてみれば、驚くことでは無い。陳青波は辻のかっての恋人、林千帆の仲間だ。山田の訪中を林千帆に知らせたのも辻であろうから、上海に長期滞在して、大陸反攻を狙っている陳青波が、林千帆から山田の護衛を頼まれたのであろう。山田に昨夜の恐怖が蘇った。
「彼に命を助けてもらった」
「それも聞いた」
「一体、どうなっているのだ。この上海という都市は?」
「改革開放によって、冒険者たちの楽園となっている。君も初めての中国出張で、想像していた共産主義国家、中国と異なる中国の現況を実感し、中国がどうなっているか把握出来たと思う。現在、中国、特に上海には、いろんな人たちが流入して来ている。商人、詩人、音楽家、学生、テロリストたちなどなど。その数を上げたら、きりがない。日本人は上海を中国の公安に守られた安全な街だと思っているが、現実は違う。上海は今や世界で一番、怪しい魔都に蘇っている」
辻の言う通りだ。上海は完全に魔都に蘇っていた。上海に世界の流れ者が集積し、上海は冒険者たちの楽園、魔都に復活していた。山田は昨夜の体験により、一層、それを痛感した。山田は辻に訊いた。
「俺とデートする予定だった沈香麗はどうなるのかな?」
「彼女は『青幇』の女だ。『レッド・ウッド』の連中が、中国の地下組織『青幇』をどれだけ理解しているかによる。彼らだって馬鹿ではない。中国の地下組織を敵に回すようなことはしないだろう」
「香麗は助かるのか?」
「僕にも責任がある。君のボディーガードとして、彼女を君に近づけたのは、僕だからね」
「なるほど、そうだったのか」
「君が中国青年の現状を知る為に、妖しい世界を知る『青幇』の彼女を付けるのが、一番と思ってね。ところが、とんだ邪魔が入った」
山田は納得した。香麗のような美人が、中年の自分に魅力を感じる筈がないのだ。上海の危険な状態を熟知している辻が、沈香麗を山田たちの守り役として準備したのだ。しかし、その香麗が、山田を求める『レッド・ウッド』の為に、誘拐されてしまったのだ。山田は播磨夕子に上海で出会ったことを語らず、『レッド・ウッド』の現状について辻に質問した。
「現在の『レッド・ウッド』の動きについて、お前たちは、どの程度、知っているのだ?」
すると、辻は、ちょっと困った顔をして、言った。
「お前は『レッド・ウッド』の播磨夕子の事を知りたいのだろう。彼女は最近まで、上海にいたと言われているが、僕は彼女に会っていない。『レッド・ウッド』の中東での活動は何ら目立たなくなってしまっている。イスラエルの軍事占領下ではイスラエル軍に手も足も出ないから、『レッド・ウッド』の連中は、極東でのテロを画策している。現在、KL,マニラ、マカオ、香港、上海、北京、北朝鮮など、極東各地に仲間を配置している。彼らの目的は、北朝鮮にいるテロリストたちと一緒になり、ソウル・オリンピックを中止させることにある。そのテロを実行するには、中国での秘密活動がスムースに運ぶことが、第一条件なのだ。だから、もと赤軍『レッド・ウッド』の連中も、中国各地に入って来ているのだ」
「成程な」
「ところが、イスラエル西岸のガザ地区へのイスラエルの入植地建設の動きが出始めており、パレスチナ人が土地を奪われるという危機感が高まり、再度、『レッド・ウッド』は中東に終結せねばならぬ状態になって来たみたいだ」
「従って、『レッド・ウッド』にとって、中国地下組織『青幇』を敵に回すことは、、これからの革命活動に、悪影響を及ぼすということになるのだな」
辻和也は山田の頭の回転の速さに驚いた。山田はアメリカで、『レッド・ウッド』の活動をしていた過去があり、蛇の道はヘビであると知っていた。だから辻に中国の地下組織がどうなっているのか、次から次へと追究した。また辻が、どの組織と繋がりがあるのかを知ろうとした。
「今の中国は、今までの鎖国状態から、沢山の外国人を受け入れ大丈夫なのか、過激な『レッド・ウッド』などを受け入れて大丈夫なのか」
「中国共産党は『レッド・ウッド』を共産党の味方だと思っている。恐れているのは、むしろ『青幇』だ。『青幇』は大陸反攻を狙っている国民党の秘密結社だ。その他、気にしているのは香港に本部を持つ、民主化組織だ。今、中国政府が一番、恐れているのは、その香港の民主化組織だ。彼らは共産党の強権的な専制政治に反対し、自由と平等を求めている。だが鄧小平は自由と平等が両立出来ないことを知っている。国民を平等にするには、国民を自由にさせてはならない。市場の自由化は中国経済を活性化させているが、富を生む自由拡大競争が、貧富の差を生み出す。だから、日本の江戸時代の徳川幕府の士農工商政治に似たような政治体制を採用しているのだ。武士は1割。共産党員は1割。その1割の連中が甘い汁を吸っている政治が長続きするという考えなのだ」
「すると『青幇』と陳青波たち、大陸反攻組織は繋がっているということか」
「君の推理は正しい。従って香麗は間もなく『レッド・ウッド』から解放され、上海に戻って来る。『青幇』には香港にも沢山の仲間がいて、林千帆たち、中国国民党と同じようなものだ。香麗はナタリアとの人質交換によって、必ず戻って来る」
「そうであると良いのだが・・」
「僕は国民党に入っていないが、林千帆や陳青波たち旧友に頼まれ、問題ない範囲で、彼らと相互交流している。上海で生きて行くには、彼ら地下組織の力を借りる事も、時には必要なのだ」
「だが注意しろよ。彼らは目的の為に殺人もする恐ろしい組織の連中だ。深入りはするなよ」
「分かってるよ」
そう答えた辻の目は険しかった。山田の忠告に何か感ずるところがあったのであろうか。それとも、陳青波や、林千帆たちのことを、殺人組織と言ったことについて、辻は怒りを覚えたのだろうか。だが事実は事実だ。陳青波たち国民党の地下組織は、山田が大学生だった時代、恩師、王育文先生たちの台湾独立運動を阻止し、級友、松本貢を殺害し、日本から逃亡した。そして、今や改革開放を進める中国に国民党の拠点を移し、中国そのものを、自分たちの手中に収めようと企んでいるのだ。そんな陳青波や林千帆たちを辻は危険だとは思わないのだろうか。小声で、ヒソヒソ話している2人に、中村純子が振り返って言った。
「山田先生。あれが魯迅の銅像よ。あの前で皆で記念写真を撮りましょう」
その声に山田たちは観光気分に引き戻された。芝生の広場の奥にある魯迅の墓の座像の前で、純子と方が交替、交替に山田たちの写真を撮った。魯迅記念館は2階建てで、魯迅に関する記念品や写真、絵画、原稿などが、飾られていた。『虹口公園』の見学を済ませてから、4人は『魯迅旧居』を訪ねた。魯迅の旧居は公園近くにある3階建て長屋で、書斎のあった2階の部屋が、そのままの形で保存されていた。1936年10月19日、魯迅が息を引き取るまで過ごした場所だという。部屋にあるカレンダーは魯迅が亡くなった10月19日、目覚まし時計は死亡時刻の5時25分を指していた。中村純子は、それらを見て、感激しっぱなしだった。その魯迅旧居の見学を終えてから、『玉仏寺』に行く事にした。『玉仏寺』は天目西路と江寧路がぶつかった所にあった。黄色い壁がひときわ目立つ塀に囲まれた『玉仏寺』の山門左手の入口から中に進み、前方の大雄宝殿に入った。禅寺の中は禅寺とは思われぬ程、華美でユーモアにあふれていた。四天王像やビルマ玉の釈迦座像、七千二百四十巻の経典など、貴重品がいっぱい飾られていた。中村純子は夢中になって、そちこちを撮影しまくった。山田は、こういった煌びやかな寺を好きになれなかった。だが臥仏堂の涅槃像の左手が異常なのに興味を抱いた。それに気づいて、方が、あの左手は文化大革命の時に壊され、修復したのだと説明してくれた。『魯迅記念公園』と『玉仏寺』の見学を終えて、時計を見ると、もう昼食時だった。昼食は『錦江飯店』の近くのレストランで食べた。昨日、山田と純子が食事をした店と違う、『樹園』という広東料理のレストランだった。方は広東料理について説明した。
「中国の南、広東の人たちは飛行機や、ヘリコプター以外の飛ぶ物、船やボートや潜水艦以外の水中の物、机や椅子以外の四つ足の物、人間以外の二本足の物は何でも食べます。子豚の丸焼き食べてみますか?蛇のスープいただきますか?」
子豚の丸焼きや蛇のスープと聞いて、純子が身震いした。
「冗談でしょう。気持ち悪いわ。私、食べられない」
そこで辻和也がフカヒレのスープ、燕の巣、エビ餃子,鶏の唐揚げ、野菜炒め、海鮮チャーハンなどを選んでくれた。どれも美味しかった。満腹になってから、午後の観光に『上海虹橋国際空港』近くにある『西郊公園』に出かけた。上海最大の広大な公園で、若いカップル、子供連れの家族、外国人などで、とても賑やかだった。山田はふと、東京の『上野公園』を思い出した。大門から入り、庭園などを観ながら進んで行くと、中に動物園があり、山田も純子もパンダを見て喜んだ。
『日本人は誰もパンダが好きですね」
方北生の言う通りだった。何故かパンダは日本人に人気がある。その他、東北虎や金絲猴やゴリラや朱鷺、孔雀などを観て、『西郊公園』を出た。それから『上海第一百貨店』に移動した。百貨店前の天橋歩道橋は、買い物に押し寄せる人で、いっぱいだった。山田と純子は辻と方に教えてもらって、『上海第一百貨店』で御土産用の中国茶を、沢山、買った。また中国刺繍のテーブルクロスなども買った。そんな買い物をして、『和平飯店』に戻ったのは夕方5時過ぎだった。4人は1階の『珈琲室』で、コーヒーを飲みながら歓談した。
〇
別れの宴は、山田主催で、福州路の中華料理店『大鴻運酒楼』で6時から開始した。『山村貿易』の山村所長と辻副所長と方通訳を招いての、小さな宴会だった。山田は今回、中国に訪問し、上海と地方の格差や中国の若者の希望などについて知ることが出来たと話した。その有意義な仕事に協力してくれた『山村貿易』の人たち、『上海国際旅行社』の方北生通訳に、心より感謝を申し上げた。宴会の花は何といっても、中村純子だった。彼女はビールの後、紹興酒を飲んだり、美味しものをいただき、上海の最後の夜を楽しんだ。山田は彼女にからまれては困るので、方に茅台酒など、きつい酒は勧めてはならぬと、指示して、中国料理を味わった。『大鴻運酒楼』の料理は、江蘇料理で、前菜を龍や鳳凰の形にして飾ったりして、装飾的だった。味は、蘇州、無錫、南京で食べた時のような、淡い味だった。酒を勧めながら山村所長が山田に訊いた。
「初めて体験された中国旅行は如何でしたか?」
その質問に、山田はどう答えたら良いのか戸惑った。観光と危険な時がミックスした予想外の数日を、何と表現すべきか、分からなかった。そこで一般的な感想を喋った。
「素晴らしい密度の濃い体験旅行でした。中国の地方の時代遅れと上海の急激な発展の格差が混交し、中国という国が想像していたより、魅力に溢れた国であると実感しました」
そう言い終えて、これが一等、正しい解答かもしれないと思った。食事が終わると、山村所長は、山田と純子に礼を言って、早めに『大鴻運酒楼』から去って行った。これから別の宴会に出席するのだという。商社の人は多忙だ。休日も接客の仕事があるのだ。食事が終わると、方北生が3人に言った。
「これから我々『上海国際旅行社』の最後の案内場所がありますので、行きましょう」
4人は福州路からタクシーに乗り、南京西路に向かった。方が3人を案内したのは『上海雑技団』の曲芸場だった。チケットは、この日の為に、方北生が、あらかじめ予約券を入手していた。4人は受付でプログラムを受取り、2階席に座った。円形ドウムの明るい光の中で、プログラムの第一部が既に始まっており、日本では見られぬような曲芸が披露されていた。芸人たちは広い円形舞台の鮮やかな色のジュータンの上で、組立体操、綱渡り、火くぐり、椅子並べ、皿芸などを見事に演じ、山田や純子を大いに満足させた。かって幼い日、田舎町にやって来たサーカスを何度か見たことがある山田であったが、そんな日本のサーカスとは、中味が違っていた。同じといったら、ブランコの曲芸くらいであろう。第二部の最初に出て来るパンダは、日本のサーカスであれば主役であろうが、『上海雑技団』にすれば、前座役にすぎない。日本では馬や虎や像やチンパンジーはサーカスの花形であるが、中国雑技団にとって、これらの動物たちは脇役なのだ。雑技団の見せる技は、まさに神技。日本でいう真剣白刃取りである。いわば忍者の腕を競うといった見世物だ。4人は『上海雑技団』の曲芸に感動しっぱなしだった。すべての演技を見終えて外に出ると、上海の街は劇場に入る時よりも眩い輝きを放っていた。4人はタクシーを拾って『和平飯店』に戻った。ホテルのロビーで方北生と別れた。エレベーターに乗り、4階で辻と別れた。5階でエレベーターを降り、純子と別れようとした。だが純子は自分の部屋に入ろうとせず、2人は互いを見つめ合った。上海最後の夜までの経過を、今から1人静かに、部屋の机に向かい執筆しようと考えていたのだが、山田は純子の目を見て諦めた。純子が言った。
「先生。中国とも今夜限りですよね」
「うん。そうだな」
「原稿なんて、東京に帰ってからでも書けるでしょう」
「まあね」
「じゃあ、残っているウイスキーで打ち上げしましょう」
「それも良いが、明日は帰国だ。帰り支度は出来ているの?」
「いいの、いいの。スーツケースにみんな一緒にぶち込めば終わりですから・・」
「困った人だね。一杯だけ飲んだら部屋に帰るんだよ。お入り」
山田の言葉に、純子はコクンと頷いて、山田の部屋に入り、ソフアーに足を投げ出した。山田は部屋のグラスとウイスキーを準備し、水割りを作った。銀座のクラブへ行けば、ホステスが水割りを作ってくれるのに、ここでは反対だ。何という女か。中国旅行の最後の夜を簡単な祝杯で済まそうと、考えたが、そうには行かなかった。純子は微笑して迫って来た。
「私を早く部屋に帰そうとしているのね。これから女性が訪ねて来るのでしょう。そんな事させないわ」
「なんて馬鹿な事を。俺にそんな中国の女がいる筈、無いじゃあないか」
山田が、そう答えると、純子が絡みついて来た。
「それなら私を抱いて。南京での夜のように上海最後の夜に私は燃えたいの」
山田は純子に逆らっても無駄だと思った。彼女は抱けば必ず大人しくなる事は分かっている。
「じゃあ、おいで」
山田はソフアから純子を立ち上がらせた。妻への背信行為になるが仕方あるまい。純子は立ち上がると山田の懐に跳び込んで来た。抱きしめた彼女はレモンの香りがした。山田が立ったまま純子のジーパンを脱がせ、パンティに手を突っ込み、その中の茂みの中を愛撫してやると、彼女は、腰をくねらせながら、山田に囁いた。
「今夜は眠らせないわ」
純子はこれから喜びを全身で受け止めようと身の毛がよだつ程、興奮していた。指先で触れる花びらに愛蜜が、滲み始めているのが分かった。不思議だ。神は何故、甘い雰囲気を創り出し、このように男女を結合させようとするのか。中村純子は下半身を愛撫されながら、みずから上着を脱いだ。純子がブラジャーひとつになった時、山田は彼女をベットに運んだ。運ばれながら、彼女は山田の首に手をまわし、山田に接吻を続けた。花びらから濡れ始めている純子をベットに横たえると、山田は純子のブラジャーのホックを外し、乳首の先を吸ってやった。
「痛い!」
純子は痛くも無いのに、痛いと言って甘えた。下の方では、恥じらうことなく、次の刺激を待っている。欲望に素直な彼女は早くも悶えている。欲しくて欲しくて仕方ないのに、我慢して、両脚を広げ、花びらの奥を山田に観察させた。山田はサーモンピンク色した花びらの扉が開き、早く入って来てと歓迎しているのを目にして興奮した。山田はズボンのボタンを外し、ジツパーを下げ、己の物を引き出すと、愛を求め、既に潤い蜜液が溢れ出そうになっている坩堝の中に、それを突き刺した。
「ああ、先生」
彼女は覆いかぶさる山田のズボンのベルトを外しながら、下から腰を突き上げて来る。山田に裸になれということだ。山田は急いで、Tシャツ、ズボン、ショーツを脱いで、真っ裸になり、彼女をひっくり返し、次の行為に移った。純子を四つん這いにさせ、バック攻めだ。後方から彼女の腰を引き寄せ、燃える彼女の花びら目掛け、自分の砲筒を後方から突入させた。そして彼女の尻を抑えたまま、後方から何度も激しく突き上げた。彼女は仰け反りながら、歓喜の声を上げた。山田が絶頂に達しそうになると、純子は違う体位を要求した。山田に仰向けになれというのだ。山田は彼女の言う通りに従った。その山田の上に純子は跨ると、今にも爆発しそうに勃起している山田の砲身に触れ、興奮した。彼女はその山田の愛液に濡れている物を、自分の花びらで上手に挟み込むと、馬乗りになり、上下運動を開始した。中腰になり、ピストン運動を楽しんだ。何という行為か。攻撃的な彼女は山田の腹上で、仰け反りながら、先程と違った歓喜の声を上げた。それは快感の声というより恐怖の叫びのようでもあった。彼女は山田の腹上で二度も絶頂に達し、山田の尻に爪を立てた。そんな純子の花芯に山田はゆっくりと射精した。山田の砲身は純子の花芯の奥に、首を突っ込み、川魚のように跳ねた。山田が射出した精液が、静かに純子に浸潤して行くのが、山田にも純子にも分かった。愛戯が終わると2人は裸のまま抱き合って毛布にくるまった。山田は目をつむり考え、自分に向かって、声を出さずに呟いた。
「純子に子供が出来たなら、自分が責任を以て面倒を見るしかあるまい。生まれた子供が望むなら、良き父親になってやろう。純子を正妻に出来ぬが、別宅の女にすることも出来よう。『エピキュリアン』の編集長、天野史郎が想像しているように、中村純子は、本当に俺の女になるつもりなのだろうか・・」
最後の夜の疲れが、山田を襲った。アールデコの雰囲気が漂う部屋の中で、山田は満足して眠りについた。彼女が何時、部屋を出て行ったのか気づかなかった。窓の外では丸い月が黄浦江の霧の上に、おぼろに白く浮かんで、地球を笑っていた。
〇
中国に訪問して11日目の月曜日。いよいよ帰国の日となる。『和平飯店』北楼、526号室の窓を開けると、朝の黄浦江の河岸、外灘からの風が、山田の頬に優しく当った。この繁栄する上海と、今日でお別れかと思うと、何故か、ちょっぴり寂しかった。わずか11日間の取材旅行であったが、いろんな所を見学し、いろんな事があった。上海、蘇州、無錫、南京の旅。女性写真家の中村純子と共に、『上海国際旅行社』の方北生の案内で廻った中国の古都。活躍する日本人商社マンの山村所長や辻和也たち。かってその昔、学生時代に関係した思想家、林千帆や陳青波たち。まだ革命に燃えている『レッド・ウッド』の播磨夕子とその配下。沈香麗のような美しい中国人の地下活動家。この11日間を振り返ってみると、いろんな事が思い出された。とりわけ痛感したのは、上海が日本の新聞や雑誌やテレビで報道されている上海と、全く違うということである。欧米人はじめ東洋人が自由気侭に闊歩し、知らない所で、秘密集会、売春、阿片、賭博、殺人が行われている。この現実は山田にとって、上海に来るまで予想もしていなかったことであった。『エピキュリアン』の浜野編集長は、これらの事実を誰からか耳にしていたのだろうか。浜野編集長に『中国青年の現況』をルポするように命じられて、やって来たが、本当に驚いた。時計が7時半過ぎると、中村純子が部屋のドアをノックした。昨夜の疲れは無いのだろうか。嬉々としている。山田は純子とエレベーターで、8階のレストランへ向かった。レストランに入ると、辻和也と方北生がジャスミン茶を飲みながら、窓際のテーブルで笑っていた。山田は天井一面に青龍が泳ぐ、この豪華なレストラン『龍鳳庁』とも今日でさよならするのかと、思うと、ボリュームのある物を食べたくなった。純子は辻と方に近づき、朝の挨拶をした。
「你們早。お早うございます」
「お早う」
「何を笑っているの」
山田が辻に訊くと、辻は笑って答えた。
「決まっているじゃあないか。君の悪口さ。中村さんも気を付けた方が良いよ。山田の女性遍歴ノートに、その名を記載されないように・・」
「まあ、山田先生の女性遍歴って、そんなに凄いの?」
「それは凄いさ。世界を股に掛ける男だ。その数は星の数に近い。だから彼から遠く離れた方が賢明だよ」
「でも、中国では何も無かったわ。山田さんは辻さんの言うような、プレイボーイでなくってよ」
「山田は今やボーイでなくて、ミドルエイジだよ。だが今に分かるさ」
辻のセリフに山田は苦笑した。純子は山田を信頼している。辻が何を言おうと、自分と山田の強い絆を信じている。山田の妻以外の女は自分しかいないと妄信している。そんな会話をして注文しないでいる山田たちに、ウエイトレスがイライラしている。山田は、それに気づき、慌てて朝食を註文した。夢中になって朝食を済ませてから、山田は方北生に個人的礼金を差し出した。すると方は断った。
「いただく理由がありません。私は旅行社の仕事をしただけのことですから・・」
「そう言わずに。長い間、俺たち2人を懇切丁寧に案内してくれたお礼だから・・」
「でも」
礼金を受け取ることに躊躇している方を見て、辻が言った。
「方君。ここは大人しく貰っておけよ。2人の感謝の気持ちだ」
辻が、そうアドバイスすると、方青年は深く感謝して、金一封を受け取った。中国にも方のような誠実な青年がいるのだと、山田は改めて感心した。もし数年後、彼ら誠実で有能な青年たちが成長したなら、中国は日本をはじめとする諸外国の長所を取り入れて、大きく進歩発展するに違いない。状況によっては、日本を追い越す経済大国になるかも知れない。その前に、また老齢共産党政治家がたちが、これら新しい改革の芽をつむぐようなことをしたら、中国の歴史は逆流して、再び毛沢東時代に戻ってしまうであろう。山田がいろんなことを考えていると、純子が方に確認した。
「出発は10時でしたわね」
「はい、そうです。10時にホテルを出ます。食事を済ませて部屋に戻り、荷物の準備をして下さい。9時半になったら、ロビーでチエックアウトしましょう」
そんな方北生の言葉を聞くと、何故か名残り惜しい気分になった。食事を済ませて部屋に戻り、一休みしてから、山田は荷物をまとめ、部屋に忘れ物がないか確かめた。忘れ物は無かった。部屋での思い出は日本に持って帰る。9時40分、山田は純子と1階ロビーに降りて、チェックアウトした。そして辻が準備してくれた『山村貿易』の専用車で、『上海虹橋国際空港』へ向かった。山田は専用車に同乗している2人に心から感謝した。中国の実情を現場に立って目視し、執筆することが出来た。4人を乗せた車は、1度、目にしている上海の繁華街を通過し、森の中を走った。『上海虹橋国際空港』が見えて来た。CA921便は13時40分であり、チエックインするまで、待ち時間があった。そこで4人は空港近くのレストラン『欧陽』の庭に車を駐車させ、皆でコーヒーを飲むことにした。そのレストランに入って行くと、奥の席で手を振る者がいた。何と、あの沈香麗ではないか。辻和也は山田たち3人を彼女の隣りの席に案内した。辻は純子を気にしながら、山田に言った。
「彼女に、ちょっと挨拶してやれよ」
山田は辻に、そう言われると、自分たちの隣りにいる香麗の席に行って挨拶した。
「これから日本に帰ります」
「辻さんから聞いて、見送りに来ました。立っていないで、ここに座って」
山田は恐る恐る、香麗の席に座り、彼女と向き合った。香麗は山田を見詰めると、突然、涙を流して、再会出来たことを喜んだ。
「無事で良かった。もし先生に何かあったら、私は責任を取って、死ぬつもりでした」
「大げさなことを言うなよ。無事、上海に戻れたんだね。良かった。良かった」
「昨日、広州から戻りました」
中村純子と方北生は、山田と香麗が、どんな関係か分からず、唖然と2人の様子を見ていた。辻はニンマリして、素知らぬ振りをしていた。すると、純子が急に立ち上がり、山田に言った。
「山田先生、紹介して」
「あっ、そうそう。こちら日本で売り出し中の女性写真家、中村純子さんです」
「中村純子と申します。よろしく」
「私は沈香麗です」
挨拶を終えた後、純子が、山田にとって、香麗が、どんな存在なのか、訊くのではないかと山田は危惧し、間髪入れず、純子に説明した。
「香麗さんは俺の友人の部下で、辻とも親しい。なあ、辻」
「うん。友達の友達だ」
辻が、そう答えると純子は辻の顔を凝視した。嘘か本当か。それは山田と香麗の間を疑っている目だった。辻は女の感の鋭さに、ちょっと驚きながら、説明した。
「東京にいたことのある上海の友人の部下で、日本語学校に通っている。彼の代わりに見送りに来てくれた」
辻の、その説明に、純子は何も言わなかった。急に無口になった。その態度には、日本に帰ったら、山田を虐めてやるからという意味が込められているみたいだった。辻は中国語で沈香麗と話した。2人が何を喋っているのか、山田には理解出来なかった。だが方北生がいるので、政治的事件の話はしてない筈だ。山田は純子の機嫌を直す為、今回の旅行に対しての彼女に意見を訊いたり、免税店での買い物の話をしたりした。11時半になると皆でサンドイッチを食べ、『欧陽』を出て、『上海虹橋国際空港』へ行った。空港の出発ロビーは海外へ行く中国人をはじめ欧米人や日本人で混雑していた。山田の荷物を運びながら香麗が、そっと言った。
「如果可能的話、請你再来。請把你的照片発給我」
「好」
山田は香麗に手紙に添えて、写真を送ると約束した。出発ロビーを進み山田と純子はチェツクインカウンターで、チェックインを済ませた。すると、辻が純子に言った。
「中国に、また来て下さいね」
「はい。また山田先生と御一緒しますわ」
純子の言葉に、一同、ドッと笑った。純子も笑い返した。中国最後の楽しい時間であった。山田は辻和也と方北生と香麗の3人の1人1人と握手し、さよならを言って、手荷物検査所に向かった。有難う。さようなら。また会おう。
〇
山田は純子と出国手続きを済ませ、CA921便の搭乗待合場所に行って椅子に座った。これから帰国するというのに、ドット疲れが出た。純子は山田に荷物を任せて、化粧品などを買いたいらしく免税店めぐり。山田は小休止しながら、今回の中国の出張を振り返った。初めての中国出張は退屈することのない素晴らしい旅行だった。中国の風光と食事を堪能し、かつまた危険を伴った密度の濃い日々であった。地方では、まだ人民服の人の姿が多かったが、上海は急激な経済発展を進めており、自由化の波に乗り、地方と都市に雲泥の差が生じていた。これから自分たちと同じ、飛行機に乗って、東京へ向かう中国人の姿も多い。彼らは先進国日本に行って、新しいものを得ようとしているのであろう。そんなことを考え、ぼんやりしていると、純子が搭乗時刻ぎるぎりに戻って来た。山田は純子の手を引いて、CA921便に搭乗し、指定された席に純子と並んで座リ、ホッとした。飛び立つまでの間、山田はこれからの中国のことを思った。それは日本という国が、敗戦後、辿って来た道のりと同じような過程をこれから中国は経験し、発展して行くのではないかという推測だった。中国は人口の多さを武器に、日本に学び、日本を追い越そうとするのではないかという推測だった。山田は『中国の現状について』と『中国青年の現状』を現地取材する為に、中国に訪問し、実にいろんな事を学んだ。出版社『衆聞社』が発行する月刊誌『エピキュリアン』の記事を執筆する目的で中国出張をしたが、個人的にも中国社会の現状や政治経済、市民の暮らしなど、いろんな事を知ることが出来た。懸念されるのは中国の急激な変化に、今後、中国の若者たちが、どのように対処して行くかだった。日本の戦後の若者たちの政府への反抗は何度もあり、思わぬ反抗組織が誕生し、世の中を混乱させた。『革マル派』、『全学連』、『連合赤軍』などと称して、若者たちが暴れ回った。今、中国は、鄧小平の改革開放政策により、若者たちが未来に希望を抱くようになった。絶望の中にいた農村の若者たちが自由平等を求めるようになった。鄧小平の〈日本に学べ〉という言葉に、日本に留学したいという若者や、他国に移住し、ひそかに暮らしたいという人たちも出て来た。中国は外国からの投資拡大によって輸出が増大し、景気が良くなって来ていることは確かだ。だが中国には日中友好を掲げながらも、反日感情を抱いている人たちもいる。中国に出兵し、敗戦国になったのにも関わらず、日本が反映していることに嫉妬反発する人たちがいる。まだまだ国際性に欠ける人たちが多い。そのような状況の中、中国共産党の一党独裁を問題視している農民も多い。地方ではまだ壁土の家でランプ生活をしている者も多い。そういった貧しい地方で育った若者たちが上海、北京、広東に出て来て、自由を求め、欲望に走る。外国の自由平等の情報を得たりする。そんな若者たちの心理状態を狙い、香港の民主化運動組織、国民党復活組織、イスラム原理主義組織、ドイツ赤軍、世界同時革命組織、中国地下組織『青幇』などが上海などで暗躍している。中国の最高実力者、鄧小平は生活に苦しむ農民たちを豊かにさせる為、郷鎮企業設立の優遇策を開始し、農村の若者が地方にとどまり活躍する場を作っているが、都市の魅力は若者たちを牽引する。中国の若者たちは更なる開放を求めて熱を帯びる。魔都、上海の妖気に誘われ、世界中からいろんな人たちが流入し、若者たちの思想を変化させる。その時、日本の学生たちが、政府に抗議する大規模デモ運動を起こしたように、中国でも過激派組織が誕生し、乱暴を働き、共産党打倒を叫びはしないだろうか。ちょっと心配だ。余計な考えをしていると、安全ベルトの再確認のアナウンスがあり、CA921便はエンジン音を高めた。そして定刻13時40分、CA921便は『上海虹橋国際空港』を飛び立った。山田は純子と中国にさよならをした。窓際の純子を押しのけて、小窓から外を見たが、沈香麗たちが何処にいるのか分からなかった。ジャンボ機は菜の花畑と湖の上を飛行。東シナ海と黄海の中間を、一路、『成田国際空港』に向かって飛行した。
《 完 》