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セラの森  作者: 奥森 蛍
4章 海路
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第25話 呪いのセイレーン

 海中には数え切れない大型の船が沈んでいた。折れることなく真っすぐ伸びた帆柱と白さを湛えたままの帆、彼らは皆、まるでまだ生きているかのように綺麗な状態で眠っていた。


 海はどこまでも仄暗く、不気味さを醸し出す。光りの届かぬ眠りの墓場だ。

 海中に放り出されたセラの下方にはまだ沈み切っていない状態で船舶が揺れている。少しずつ籠った空気が抜けているようだった。


 セラは顔を上げて悪しき精霊を見据えた。


「セイレーン、今すぐ船を解放しろ」


 セラは頭の中で強く叫んだ。


「人間風情がワタシに命令するなどと」


 セイレーンがセラの前へと降り立つ。

 髪がゆらりと水を掻いて美しい羽衣が舞い上がった。セイレーンはそっと手を伸ばすとセラの細い首筋に触れた。口づけされるかと思うほど柔らかく優しく触れて、彼女の冷たい情が心にするりと侵入する。


 手をそっと首筋に添わせて愛おしそうに撫でたと思うとその直後、突如首を絞められた。セラは驚いて必至で剥がそうともがくが、美しい顔からは想像できぬあまりの剛力に次第に口内の息が漏れていく。諸手を伸ばして抵抗し、セイレーンの顔を掻くと薄い皮膚が破けた。白肌の下から露わになったのは赤黒いおそろしい死霊の肌だった。


 セイレーンは大口を開けるとセラの口に齧り付いた。肺の中に残っていた空気をすべて絞り取られ、体の力がどんどん萎んでゆく。おそらく吸われているのは生気だろう。


 指が細り、手の甲に皺が寄って、体がどんどん痩せていく。限界のあまり意識が途切れそうになった。目の前が暗くなり、暗黒が頭の中へと押し寄せて正常な意識を浸食していく。次第に光が細り小さな丸となって消えそうに儚く煌めいた後、死を悟った。


 ああ、ここでオレは死ぬのか。こうして死した魂を集めてまたセイレーンは巨大な憎悪の塊へと成長するのだろう。無念を抱えた魂は波間を彷徨い、永遠に消えぬ邪精となって海ゆく人々を襲う。海の魔物だ。


 すべてを諦め手放そうとした時、急に意識が覚めた。胸をあの熱さが襲う。胸の文様から白い光が放たれ、それが口元を通してセイレーンの体内へと一気に流れ込んだ。セイレーンは爆発するような膨大な光量を受け入れられず体から光を迸らせる。唇を離し、喉を押さえて苦しみの呻きを上げた。セイレーンの体が内から眩く発光している。海中で激しくもがき奇声を上げて叫んだ。


「貴様何者だ、この力。お前の命、お前の命は」


 光が内から死霊の体を貫く。凄まじいまでの命の抵抗に海の中が騒然とする。死霊の体から沸騰したように大きな泡が勢いよくあふれ、セイレーンが苦しみながら蒸発していく。


 焼けつくような魂の残り香は水中であっても凄まじい。おぞましい声を発しながら苦しみ、命が消えるその瞬間まで彼女はもがいて断末魔を響かせた。


 最後の叫びは琴の弦が切れたような高い女の声だった。

 セイレーンの体を覆った泡はやがて周囲に広がり、すべての視界を埋めてセラの意識を奪った。



     

 気がつくと船は穏やかな海洋に浮かんでいた。皆、甲板で倒れてそれに明るい陽光が降り注いでいた。嵐を抜けたのだ。

 すべてが信じられない一時の幻であった気がする。


 奇跡を信じきれず、耳を澄ますと命を洗うようなさざ波が聞こえた。

 鼓動を抑えつけるようにそっと胸に触れるとまだ熱かった。生きている。


 セラは自身の生を確かめるようにゆっくりと手を握って開いた。生気を奪われ痩せたはずの体は元へと戻り、胸元を確認すると白光は失われて元の黒い文様のままだった。




 それからの旅路は実に愉快だった。というのも人々は皆セイレーンに遭遇した後のことを一様に覚えていなかった。船長や副船長、マーティス、彼の同僚、乗船客、皆みんな。真実はセイレーンに出会って意識が無くなり、気がつけば嵐はおさまっていた。

 人々の頭の中からは恐怖の記憶が抜け落ちて、残ったのは奇跡だ。乗船者は手を取り合い生あることに感謝した。


 以後、船は毎晩お祭り騒ぎだった。陽気に歌い踊り、酒を飲んで。そして寝る前に必ず極上の酒を海へと注ぎ、皆で海の女神に祈った。



――助けてくださったことに感謝します。航海の無事をお見守りください。



 人はやっぱり祈るのか。セラは祈りの集団に加わることなくそう思った。海の女神という者が存在するのか無神論者であるセラにはやはり分からないが。

 ふと思い出しムルティカで女性に貰ったネックレスをポケットから取りだした。ネックレスは月明かりで鈍く光った。


「航海の無事を」


 女性の言葉を思い出し不思議な気持ちになる。

 神は本当にいるのかもしれない。それがクルタスの神であるか海の女神であるかは不明だけれど。理屈で説明できぬ自身の身に起きた異変の正体は神の加護であるのかもしれない。何しろ自身は生きているのだ。


 だから、今度同じことがあったら祈ってもいい。祈ることで救われる人々もこの世の中にはたくさんいるのだから。

 セラはネックレスを首にかけると、そっと服の中へと仕舞った。



       ◇



 船舶はその後各地を巡り、乗船してから半年後、セラの目的地であるノーザンピークの大きな漁港へと辿りついた。名残惜しくなるほどの長い航海だった。


 下船する時、皆が見送ってくれた。彼らは生死を共にした旅の仲間だ。マーティスなど泣いていたし、セラが金を巻き上げた連中も「またやろうな」と笑った。


「これはお前にやるよ」


 副船長がそういって差しだしたのはスタックリドリーの著書、精霊学の本だった。


「何度も読みましたし。ほとんど頭に入ってるからいいです」

「そういうな。分かってても人生に大切な本はあるんだよ」


 副船長は半ば押し付けるように突きだす。セラは軽く頷いて本を受け取った。その温かな気持ちが嬉しかった。


 皆によればスタックリドリーの住むステラと言う町は漁港から歩いて一時間ほどの所にある。とても古く美しい町だという。


 赤道を跨いだため季節はまた夏になった。思い起こせば乗船したのも夏の始まりだった。

 セラの胸の傷は少し大きくなった。これでまた一歩死へと近づいた。でも、まだ生きている。生きているのだ。セラは半年連れ添った仲間に別れを告げた。


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