銀色の……
小さなひとつの愛の物語です。
気に入っていただけたら嬉しく思います。
穏やかな陽射しが波間にきらめいている。
秋の柔らかな風が頬を撫でてゆく。
真っ青な空と海が水平線で溶け合っていた。
海岸沿いの遊歩道を僕と瀬奈は、ゆっくりと歩いている。
週末の昼下がりの海辺は、ぽつりぽつりと人々で埋まっていた。
海水浴のシーズンを終えた此処に来るのは、釣り客か潮風に吹かれながら散策する人。
他は僕達のように有り余る時間を消費している有閑のカップルだけだ。
「そろそろ、お昼にするべきだと思うのよ。タカフミ」
瀬奈は淡いパープルのベレー帽の角度を小さな手で、注意深く直しながら僕に言った。
5歳の愛らしい淑女のチェック柄の靴が、陽光に暖められた遊歩道を典雅と言って良い足取りで歩いている。
「そうだね。あの堤防まで行ったら座って、お昼御飯にしようか」
僕は手に持った美玲の手作りのサンドイッチの詰まったバスケットと、温かい紅茶の入った小振りなポットを瀬奈にかかげて見せながら応えた。
美玲は相変わらず母親としての保育の義務を軽くプチ放棄と決めこんで、物分かりの良い温厚な旦那さんである久志氏と一緒に、宿でのんびりと午睡を満喫している。
そういう訳で、愛娘の瀬奈の面倒は2人の共通の友人であり、今回の旅行に連れ立って来た僕の受け持ちとなった次第だった。
瀬奈がプリンセスみたいに優雅に左手を差し出す。
僕は少し体を屈めてその掌を優しく握る。
微笑ましい光景と言うべきなのだが、きっと彼女のなかでは、気の利かない従者にその御手をエスコートする機会を与えてあげた気分だろう。
瀬奈は爽やかな風とメトロノームのように規則的な波の音を、たっぷりと受けながら堤防を目指していた。
瀬奈が愉しそうに歌を唄っている。
有名なアニメソングなのだが、歌詞は曖昧で所々に彼女の創作が入っていた。
その横顔の整った顔立ちと大きな瞳が印象的で、眺めていると美玲に本当に良く似ていると思う。
僕と美玲は高校生の時に出会った。
風に流れるように、もう10年の歳月が経った。
今の僕達は27歳で、彼女には瀬奈という5歳の娘と少し年上の旦那さんが居る。
「崇文」
僕の脳裏で美玲が制服のまま微笑んでいる。
その細い指先は襟元のスカーフを直している。
長い栗色の髪に陽射しが降り注いでいた。
繋いだ手の温もりが何よりも僕を支えていたあの頃。
堤防に到着すると僕はハンカチを取り出して瀬奈の座る場所に敷いた。
潮の薫りが僕達を包みこむ。
海が午後の陽光に反射しながら揺れていた。
瀬奈が優美に鎮座して忠実な従者である僕はバスケットを開ける。
ポットの蓋に注いだ紅茶を彼女の前に置いた。
温かな香気がほのかに漂う。
瀬奈はフルーツサンドイッチを手に取ると嬉しそうに一口嚙った。
「どうかな。美味しい?」
「悪くないわね。ママにしては上出来よ」
僕は微笑すると眼前の海に視線を向ける。
水平線に空と海がひとつになって溶け合っていた。
鷗がキャンパスに画家が配置した彩りのように青のなか浮かんでいた。
その眩しい白さは何かの象徴みたいに見えた。
遠いあの夜。
凍えるような雨が降っていた。
僕の安アパートの自室。
叩きつける雨音。
熱い吐息。
暗闇に僕と美玲の指は強く繋がれている。
舌を絡め合う漆黒のなか、お互いの温もりだけが存在していた。
夢を捨てられないなんて結局、言い訳だった。
僕は本当は誰かを守って大切にするには、あの頃は弱く未成熟だった。
だから、彼女が定職に就き結婚という行為に対して、誠実に向き合う久志さんを選んだ時に僕は何も言えなかった。
結婚式を目前に控えた雨の夜。
僕の部屋を美玲は訪れた。
滴に濡れたコートを脱ぐ彼女を僕は抱きしめた。
「これで最後よ……。これで終わりなんだから……」
そう呟く美玲を壊れるくらい強く抱く。
彼女は熱い吐息と一緒に自分から唇を重ねてくれた。
愛の形なんて証明出来ない数式なのだと思う。
世界の終わりのように雨が激しく叩きつけていた。
風が頬を撫でてゆき、海は穏やかに凪いでいる。
光は全てに公平に降り注いでいた。
「タカフミ。何か言ってよ……」
瀬奈が紅茶を掌に抱えて僕を見つめていた。
僕は夢から醒めたばかりの人の様に彼女へ視線を移す。
整った顔立ちと紅い唇。
大きな澄んだ瞳。
少し淋しそうな表情。
あの雨の夜。
帰り際に見せた美玲の相貌が重なり、そして消えてゆく。
僕は微笑むと瀬奈のベレー帽をそっと直した。
何か言うべきだと思ったけれど、言葉が浮かんで来なかった。
瀬奈の視線がふっと動いて声をあげる。
「飛行船だよ」
銀色の飛行船が点描のように彼方をゆっくり飛んでいた。
まるで夢のなかの景色みたいに現実感が無かった。
飛行船は何処かを目指して流れる雲と同じ速度で飛んでいた。
嬉しそうにはしゃぐ瀬奈を眺めながら僕は呟いた。
「何処に向かうんだろうね……。僕達は……」
瀬奈は応えず彼方の飛行船を見つめ続けている。
答えなんて多分、ないのだろうと分かっていたので僕も黙って、その小さな銀色を見つめていた。
海の波音が終わることのない規則を静かに奏でていた。
人生に模範解答はないのだと思います。
人はみんな脆くて儚い。そして靭い。
読んでいただきありがとうございました。