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真っ白な太陽が天頂を過ぎる頃――。
聖宝奪回の任を負ったレイ・セジェウィクは、罪の帳消しと多額の礼金に同行を受諾したディーン・グラティアスと共に灼熱の砂漠を旅していた。
〝アルビオンの入り口〟であるテスの州境から中央捜査局の警備隊と別れ、駱駝に乗り替えての道行きである。
乗物を替えたからではないだろうが、〝馬が合う〟とはお世辞にも言いがたい二人だが、幸い大きな喧嘩もなく、二日目を迎えた。
その要因はひとつに、レイに喧嘩をする余裕がなかったことにある。
初めての旅が、アル・リマール砂漠を横断する過酷なものだ。いくら日頃から体を鍛えているとはいえ、聖宝盗難にテスでの事件、そして砂漠の旅と休む間もない出来事の連続に、レイの疲労は限界に近づきつつあった。
砂埃と直射日光を遮るために、頭部から首に巻きつけた頭布が、暑く蒸れている。
レイは、眼を痛めないよう自分の影に視線を落としたまま、なかば機械的に、頬に伝う汗をぬぐった。
日毎に口数が減り、歩みも遅くなっていくレイを、先に立つディーンが振り返った。砂漠の旅は二度目だという彼は、荷物を乗せた駱駝を牽いている。
「そろそろ一息入れないか?」
日の高い正午の移動は体力を消耗するだけなので、普通ならば休憩を挟むのだが、先を急ぐレイは、それを早めに切り上げたのだ。付き添い役であるディーンは、その決定にあえて逆らうことはなかった。
だが、それにしても、レイの歩みがあまりに遅い。ディーンが冗談めかして続けた。
「なあ、こう暑くっちゃ、いくら何でもこいつらもへばっちまうぜ?」
こいつら、というのは、二人を乗せる駱駝のことである。
しかし、レイの答えはなかった。代わりに歩みは、ますます遅くなる。
「あんたなぁ、こっちは慈善で付き合ってるんじゃないんだぞ。こんなところで日干しになるなんて、俺はごめん――!」
業を煮やしたディーンが怒鳴ったその時、駱駝に乗るレイの体が、ぐらりと横に傾いた。
手綱から手が離れ、滑るように、レイはそのまま地面に落下する。
「おいっ!」
ディーンは慌てて駱駝を戻すと、飛び降りて、地面に倒れるレイに走り寄った。
ただでさえ色白の顔は血の気を失い、ぐったりと眼を閉じている。力ない体を抱き起こし、ディーンは大声で呼びかけた。
「大丈夫か。しっかりしろ!」
下が砂地だったのが幸いだった。
身長の倍近い高さから落下したはずだが、目立った傷は見当たらない。だが土気色の顔には、玉のような汗が浮かんでいた。
レイの額に手を当て、ディーンは舌打ちをする。
細い身体は熱く火照り、小刻みに震えていた。
ディーンは腰に提げていた水筒を取り出し、惜しげもなく、貴重な水をレイの頭から浴びせかけた。頬を手のひらで叩き、
「おい! おい、聞こえるか?」
「――」
幾度目かのディーンの呼びかけに、蒼い眼がうっすらと開いた。
「ほら、水だ」
まだはっきりと瞳の定まらぬレイは、差し出された水筒を掴むと、夢中で口をつける。
「ぐ……っほっ。ごほっ……ごほっ!」
一気に水を流し込み、レイがむせ返る。ディーンはその手から水筒を取り上げ、
「一度に飲むんじゃない、馬鹿。ちょっとずつ噛むように飲むんだ。ほら……」
じんわりと、乾いた唇に水滴を垂らして含ませた。
レイは、支えられたまま数口飲み、もういらないと身振りで伝えた。
「あと二時間くらいでオアシスに着く。日陰もあるだろうし、ここで休むよりずっと楽だとは思う。どうする? 辛いんなら、ここで休んでもいい」
ディーンの問いかけに、レイはわずかに首を横に振った。
「オアシスに行くんだな。動けるか?」
「……多分」
「分かった。もうしゃべるな。余計辛くなるぞ」
ディーンは短く命じると、自分の駱駝に積んでいた荷物をレイの駱駝に移し、三頭の手綱をつないで戻った。レイの肩に腕を回して起こし、
「移動するぞ」
ディーンは、足元がおぼつかないレイを抱き上げるようにして駱駝に乗せる。
「しっかり掴まってろよ」
声をかけ、ディーンが後ろに跨った。背後からレイをかかえて手綱を取ると、駱駝は折り曲げていた長い脚を伸ばして、のっそりと立ち上がった。
ディーンの掛け声に、駱駝たちが集まり、歩みはじめる。
規則正しい大きな上下の波に揺られながら、レイの意識は再び遠退いていった。
*
――ここは……?
目を覚ましたレイは、自分が毛布にくるまれて横たわっていることに気が付いた。
かすかに湿った緑と、何かが燃える煙の匂い。ぱちぱちと木の爆ぜる音。
灼熱の大気はいつしか、鳥肌が立つほど冷え冷えとしている。
――そうだ。私は倒れて、それから……。
レイは、次第に抜け落ちた記憶を取り戻す。
倒れた後、オアシスに向かう途中で再び気を失ったレイは、しばらくしてディーンにオアシスに到着したことを知らされた。それから、駱駝から下ろされ、無理矢理苦い薬を飲まされたことまでは覚えている。
その頃はまだ、太陽が西へ傾く前だった。
――あれから、どのくらい経ったのだろうか……。
ぼんやりと考えながら、レイは辺りを見回した。
林というほどでもない低木の茂みが、周囲を覆っている。
何かがひっそりと息づいているような闇の中、傍らの焚き火だけが、赤々と燃えていた。
ちゃぽん、と水音がして、横合いから革の水筒が差し出される。
ディーンだった。
「やっと起きたな。飲めよ」
水筒を受け取ったレイは、勢いよく飲もうとして、手を止めた。飲みたさをこらえ、少しずつ一滴一滴味わうように、水を口に含む。
その様子を脇で見ていたディーンが、何を思ったか、いきなり身を乗り出してレイの額に手を当てた。硬直するレイを無視して、一人でよしよしと頷く。
「どうやら熱は下がったみたいだな。気分はどうだ?」
「あ……ああ。もう大丈夫だ」
答えて、半身を起こそうとしたレイは、左手首に鋭い痛みを感じた。
「痛……っ」
外傷はないが、駱駝から落ちた時に筋をひねったようだ。
「見せてみろ」
何気なくディーンが手を差し伸べた途端。
「――触るなっ!!」
激しい剣幕でレイが身を引いた。ディーンがびっくりして動きを止める。
「わ……私のことは構わないでくれ。自分のことは自分でする」
ディーンは、しばし行き場のなくなった右手を見つめ、がしがしと頭布を巻いた頭をかいた。不快そうに、
「あのなぁ。こんな格好してるから勘違いする奴もいるけどなぁ、俺はそっちの気は全くないんだからな!」
その発言に、今度はレイが驚いた。
ディーンは華奢なわけではないが、細身のしなやかな体つきで、頭布に包んだ長い黒髪から手首、足首などを様々な装身具で派手に飾り立てている。
レイが知ることはないが、ちょっと見れば、街にいる少年男娼に見えないこともない。
何度かそういう扱いを受けて慣れている少年は、きっぱりと断言する。
「安心しろ。俺はれっきとした異性愛者だ」
「……私もだ」
その答えにディーンは破顔し、荷物の中から、湿布薬と包帯を探して投げ渡す。
「じゃあ問題ないな。一人でできそうか?」
「ああ」
「なんか少し腹に入れとけよ。何食べる……って言っても、乾燥肉と豆しかねーけど」
「別に、何でも」
「じゃ、ちょっと待ってろ。俺も飯まだなんだ。腕によりかけて作ってやるから、おとなしくしてろよ」
明るく言い残し、ディーンは夕飯の材料を取りに行く。
――悪い奴、ではないのだな。
体格はそう変わらない少年の背中を眼で追い、レイは思う。
――だけど、乾燥肉と豆しかないのに、どうやって腕によりをかけるつもりだ……?
少々疑問を感じたが、ディーンは鼻歌を歌いながら、鍋に豆と乾燥肉を入れて火にかけると、手近にあった石を即席の俎板に仕立て、集めてきた野草を刻んで加える。小枝で鍋をかき混ぜつつ、灰汁まで取る細やかさで、着々と料理が仕上がっていく。
しばらくすると、そこはかとなく美味しそうな匂いが漂ってきた。
最後に塩と胡椒で味をととのえ、ディーンは、食事を持った皿をレイに手渡した。
「できたぞ」
香ばしい湯気のたつ皿を覗いたレイは、久しぶりの食事らしい食事に急に空腹を覚える。
「料理の腕には自信があるんだ。ノアが、調味料なんかいろいろ持たせてくれたからな。結構いい味に仕上がったと思うんだけど……?」
こちらを窺うようなディーンの視線に、レイは聖印を切り、一口料理を口にした。
「うん、美味しい」
「おっしゃ!」
喜びの声をあげ、いそいそとディーンも食事に箸をつけた。
カルディアロス人のディーンは、国の習慣で箸を愛用している。この旅でも、ほとんどの備品を中央捜査局で用意してもらったのだが、箸だけはテス州で手に入れようがなかったため、自分が今まで使用していたものを持参するというこだわりようだ。
レイはいたって上品に、ディーンは皿をかき込んで、あっという間に砂漠の夕餉は終わる。
「ディーン、おまえは料理でも習っていたのか?」
「誰が習うか、そんなもの。養父母が早く亡くなったからな。家事は全部俺がやらなきゃならなかっただけだよ」
ディーンは簡単に答えたが、レイは困惑した。
「すまない。軽率だったな」
「別に。俺の周りじゃよくある話さ。貴族じゃどうか知らねーけど」
レイは、一瞬言葉に詰まった。非難されているわけではないのだが、自分がいかに恵まれた世界にいたかを痛感する。
「ま、旅でもこうやって、どうにか美味いものが食べられるんだ。家事やってても、悪いことばっかりじゃないさ」
ディーンは屈託なく言って、後片付けに立ち上がった。鍋一杯に作られた名づけようのない汁物は、二人できれいに平らげてしまった。
鍋に代わって、水を入れた茶瓶が火にかけられる。湯が沸くまでの一時、その場をぎこちない沈黙が支配した。
ぽつん、とレイが洩らす。
「おまえに助けられたのは、これで二度目だな」
「助けられたって……。一緒に旅してるんだから、当たり前だろう」
「だが……」
「だが、も何もない。第一、俺はあんたの付き添いを金で請け負ったんだ。役目に背くようなことをできるわけないだろう」
ディーンは、あくまでも素っ気ない。
親切を素直に喜んだレイは、水を差され、不愉快な気分になる。
「金のためなら何でもするのか、おまえは」
「金額と内容による。世の中、綺麗事じゃやっていけないからな」
あっさりとディーンは答えると、熱湯に茶瓶に板状の茶葉を砕いて入れ、砂糖と香辛料を加えて蓋をした。不思議な香りの漂うアルビオン風の紅茶に、干したカリカの実を添えて、レイに勧める。
レイは茶碗を受け取ったが、言葉はなかった。
再び訪れた沈黙を先に破ったのは、ディーンだった。
「今日のことは俺の過失だ。あんたは気にするな」
思いもよらない台詞に、レイは驚きのまま言葉を返した。
「だが、私が自己管理できていなかったから――」
「それはそうだ。自分の身体は自分で診てやるしかない。だけど、あんたはこれが初めての旅だ。俺が気をつけておくべきだった。悪いことをしたと思ってる」
レイは、心から意外そうにディーンを見つめた。普段の彼からは思いもよらぬ真剣な表情が、そこにはあった。
「謝ることはないだろう。私は今、こうして無事なわけだし……」
戸惑うレイに、ディーンは真面目な態度を崩さない。
「今はそうかもしれないが、この次倒れたら、確実にあの世行きだぞ」
「大袈裟だな。もう大丈夫だ。明日から今までどおり進めよう。今日の遅れを取り戻さねばならん」
「遅れを取り戻すだぁ? 何をふざけたことを言ってんだよ!」
ディーンの眉が吊り上がった。
「お宝を取り戻すのは、あんたの役目だ。急ぐ気持ちも分かる。だけど、テーベまでの三百公里を五日間で行こうってのが、だいたい無理な話なんだよ! 俺は付き添いだから意見する気なんてさらさらなかったけどなあ、今日という今日は言わせてもらうぜっ!」
乱暴にまくしたて、ディーンは指を突きつけた。
「てめえ、少しは自分ってものを考えてから物事を進めやがれっ! ここは砂漠なんだぞ!! 少しの無理が命取りになるってことが、分かんねーのか!!」
「そう言われても……」
「どんなに大事なものか知らないけどさ、お宝取り戻す前にてめえがくたばっちまったら、それこそ大間抜けじゃねーのか? 違うか?」
迫力に圧倒されていたレイは、次第にディーンが何を言いたいか理解してきた。
「……分かった。なるべく無理をしないように心がける」
「それじゃダメだ」
一言の下に、ディーンは却下する。
「進むのは日の出と日没後、それぞれ四時間の間。一日に進む距離は四十公里以内。それから、後一度はオアシスに行くために、多少道程を変更する」
「何? それでは遅すぎる!」
「テーベに着くのは、順調にいって六日後だ。旅に慣れた隊商でも、合わせて七日はかかる道程だ。これが普通だ」
ディーンは容赦なく断言した。
倒れた立場上、強気に出られないレイに、さらに追い討ちをかける。
「放っとくと、どんな無理するか分からねぇからな。今後あんたは、俺の指示に従ってもらう」
「どういう意味だ?」
「今回の旅の一切を俺が管理するっていうんだよ。ただし、例の泥棒に関しては口を挟まない。その代わり、食事や寝場所の確保なんかも全部俺がしてやる。勿論、身の安全も保障するぜ?」
つまり、ディーンはレイの旅先案内人というわけだ。
自分の未熟さを見せ付けられているような提案に、レイは渋い顔になる。
「私は何をするのだ?」
「魔術師と妖魔を倒す体力を残すのに専念することだな。……まあ、無事にお宝を取り戻したあかつきに、どーしても感謝したければ、五万アルムほど上乗せしてくれてもいいけど」
立場が有利なのをいいことに、ディーンはとんでもないことまで言い出す。
レイはしばらく考えていたが、やがて神妙な面持ちで尋ねた。
「分かった。では、私は今からどうすればいい?」
満面の笑顔となったディーンは、無言で、煮立っている茶瓶を指差す。話の間に、茶瓶には紅茶の代わりに得体のしれない薬草が煎じられ、煮出されていた。
とろりとした、何とも言えない臭気の漂う褐色の液体は、いかにも効き目がありそうだ。
茶碗一杯に注がれた薬湯を、レイは顔を顰めてしばらく眺めていたが、思い切って飲み干した。あまりの不味さに、下を向いてこっそり舌を出す。
ディーンが満足げに、目の前の銀色の頭を撫でた。
「よしよし。明日は日の出後、すぐに出発だ。しっかり休んでおくんだな」
実に偉そうな言い様に、レイは言い返すことなく、毛布を頭から被って横になった。
遠くで、風が木々の間をすり抜けていく。
ぱちぱちという焚き火の音を子守唄に、レイは安らかな眠りの中に落ちていった。




