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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第1話 テス――闇月の夜
7/33

1-7

 


 久しぶりの入浴で汚れを落としたディーンは、濡れて重くなった黒髪を、背へ払いのけた。タオルで拭くが、腰を過ぎるこの長い髪が乾くには、もうしばらくかかるだろう。

 ディーンは、生乾きの髪を慣れた手つきでまとめ上げ、赤い頭布(シェーシ)で包んだ。州警察から取り戻した所持品を確かめ、腕輪や首環(ネックレス)といった装身具(アクセサリー)を身につける。

重ね付けした腕輪が、じゃら、と重い音を立てた。

 ふと、開け放した部屋の戸の外を見覚えのある人物が通り過ぎる。


「――レイ!」


 声をかけ、ディーンは上着を着ながら駆け寄った。


「よう、無事だったか?」

「ああ。おまえこそ」


 レイは、埃にまみれた襯衣(シャツ)姿を改め、アルビオン風のゆったりとした綿の服を纏っている。よく眠れたのか、清潔な顔は血色もよかった。


「どこに行くんだ?」

「ルビアたちが参考人として昨夜からここに留め置かれているらしいのだ。その身柄の解放を司令官に頼もうと思ってな」


 ルビアやドーラだけでなく、姿を隠していたアイシャとナナも同様に中央捜査局に身柄を拘束されたらしい。

 ちなみに、この建物は元々州都エル・ギザにある自治管理局のものである。現在は捜査の協力という形で、一時的に中央捜査局が使用しているのだ。

 [紅華亭ルビサンアサス]の女将たちまでもが拘留されていると聞き、ディーンが顔をしかめる。


「まったく、役人ってのは融通がきかねぇんだからな。俺も付き合うよ」


 廊下を歩む二人の会話は、自然と昨夜の事件についてとなる。

 レイの知る限りでは、ハディルの罪状は過去のものと合わせて十余りもあり、すべてが白日の下に晒されるのはまだ先の話らしい。だが、いずれにせよ死罪は免れないようだ。

 ハディルの右腕だったアリも例外ではなく、捕まった一味は三十余名にのぼるという。唯一罪をのがれたのは一人娘のヤスミナで、まだ四つの彼女は、今後親類の養女として育てられることになったそうだ。


 また、ハディルと結託して痲薬の密売買を操作していたのは、なんとテスの自治管理局の次官であることが判明した。中央捜査局は、この一大事をあえて公表するはららしい。

 帝都の信用は下落するが、他の犯罪者に圧力を加えることに重きを置いたのだろう。

 無論、その次官は職を解任、逮捕された。さらに自治管理局も機能を剥奪され、今や中央捜査局の管理下に置かれた形となっている。

 今後捜査は、中央捜査局とテス州警察の二者協力で進められていくことになるようだ。


 思いもよらぬ大きな事件に巻き込まれてしまった二人は、それをどう受け止めたものか、当惑していた。

 長官までも部下の管理不行き届きで解任されてしまったため、自治管理局の執務室は、現在主人不在の状態である。

 その空席に、特別司令官のノアが腰かけていた。二人に気付いて立ち上がる。


「お二人お揃いで、何の御用でしょう?」

「参考人としてこちらへ連れてこられた女性たちのことなのだが、そろそろ解放してやれないだろうか?」

「解放するのは簡単です。ですが、ハディルの一味が全員逮捕されていない今の状況で、保護のための拘留を解くというのは、危険な行為と言えるでしょう」


 ノアの言葉は、的確に現状を表わしていた。

 アイシャたちの証言だけでハディルたちの罪状が左右されるということはないが、食事を取るように人殺しをしてのける彼らが、彼女たちの命を狙わないとは言い切れない。

 だが、ハディルの残党を一人残らず逮捕できるのは、まだ数年先のことだろう。それまでずっと彼女たちを拘束しておくわけにもいくまい。

 そのことを指摘したレイに、ノアは頷く。


「できるだけ早く解放できるように努力いたします。手続きがございますので、今この場で、というわけには参りませんが……それでよろしいでしょうか?」

「うむ」

「では、ちょうどお二人がいらっしゃいますので、今後のことについてお話ししておきましょう」

「今後……というが、なぜディーンが関係あるのだ?」

「ちょっとした取引がございまして……彼にも協力をお願いしたのですよ」


 レイは怪訝な顔で、隣に立つディーンを見やる。


「今回の件を任されたのは、私だぞ?」

「それはそうなのですが……」


 ノアが言葉を濁す。それを自分の力量不足と捉えたのか、レイは厳しい口調で言い渡した。


「私に協力者など必要ない。引き取ってくれ」

「まあ、待てよ」


 やんわりと、ディーンがレイの言葉を遮った。


「そう怒るなって。確かに、お宝を取り戻すのはあんたの役目だ。だけど、どうやってその在処まで行くつもりだ?」


 不敵そうに、ディーンはにやりと口の端を吊り上げる。


「こう見えても、俺は旅の玄人(プロ)だ。連れて行くと、何かと便利だと思うぜ?」


 レイは渋い顔で、そう年の違わぬ少年を睨んでいたが、ややあって頷いた。


「いいだろう。だが、宝を見つけるまでだからな」

「了解。商談成立だ」


 朗らかに片手を差し出すディーンを、レイは冷ややかに黙殺する。


「――ノア、今後の話とは何だ?」

「あ……はい」


 ノアは、不安と安堵の入り混じった表情を笑顔にごまかして、淡々と告げた。


「実は、宝を盗んだ犯人はムーア大陸の南、つまりアルビオン王国を含めた南方諸国のいずれかに居所を構えることが判明しました」


 ディーンとレイは、耳を疑う。


「ちょ、ちょっと大雑把すぎねえか。砂漠中を探し回れって言う気かよ」

「おそらくはそうなるでしょう。結界が張ってあって、正確な居所が掴めないのです」

「だが、それでは一月の期限に間に合わない。せめて、もう少し場所を限定できないのか?」

「場所を狭めようと努力していますが、どうしても時間がかかります。今の段階では、お二人に頑張っていただく他ありません」


 ノアは、にべもない。二人は、暗い面持ちで顔を見合わせた。

 ノアが部下に命じ、旅の荷物を机上に並べさせた。


「他に必要なものはありませんか?」

「そうだな。……地図は?」


 一通り見渡し、ディーンが尋ねる。ノアは、手元にあった筒状の羊皮紙を広げた。


「これです。最新のオアシスの情報を書き込んでおきました。乾季にはまだ少し間がありますし、きっと役に立つと思いますよ」

「そいつは助かる。この、丸で囲んである所は何だ?」

「妖魔、あるいはそれに類した未知の生物が出現したと噂される地域です。宝を盗んだ犯人は人間ですが、仲間らしい妖魔は嫌でも目立ちますからね。直接結びつくとは限りませんが、当たってみる価値はあるでしょう」

「なるほどな。虎穴こけつに入らずんば虎児こじを得ずってわけか」

「そのとおり」


 どうも行き当たりばったり的な計画に、レイは眉をひそめる。


「普通の武器が通用しない妖魔に、どうやって立ち向かうというのだ? 私は聖剣を失くしてしまったのだぞ」

「それもそうだな。俺も法力なんか使えないし……。だけど、妖魔を倒せる魔剣ってのがあるんだろう?」


 ノアが少し驚いた顔をした。


「よく御存知ですね。その他にも、法術師や上級神官の祝福を受けた武器は、妖魔に対して有効であるとされます。そして……この私は、上級神官の資格を持っているのですよ」


 ディーンが、疑わしげな目付きになった。確かに司令官の制服よりも、神官の法衣の方が似合いそうなノアは、笑みを絶やさずに続ける。


「無能な役人が多いとはいえ、役に立たない者を派遣したりはしませんよ。今の職務に就く以前は、神官をしておりましてね」

「めずらしい経歴だな」

「自分でもそう思いますよ。――では、旅の荷物はこれでよろしいですね?」


 ノアは確認を取ると、呼び鈴を鳴らして部下を招き、何やら話し合った。ディーンを振り向き、


「すみませんが、お金の件はもうしばらくお待ち頂いてもよろしいですか?」

「ああ、急がないから」

「では、隣室の方でお待ち下さい」


 捜査員の一団が駆け込んできて、にわかに室内が慌ただしくなった。二人は、なかば追い出されるように、隣の応接間へ向かう。

 早速羽根座布団(クッション)のきいた座椅子(ソファ)くつろぐディーンを、レイがちらりと睨んだ。


「――金とは、どういうことだ?」

「あんたへの貸しと、例の泥棒についての口止め料だよ。大した額じゃない」


 ディーンは、聖宝の探索と奪回に協力する代わりに、罪の帳消しの他に様々な条件を提示した。

 探索に必要な物資、情報の一切を提供するのは勿論、すべての責任もノアたちが負うこと。

 今回の事件に関してルビアたちを罪に問わず、今後の身の安全と生活を保障すること。

 そして、報酬として百万アルム。

 レイは、氷のような眼差しをディーンに注いだ。


「何という奴だ、おまえは」

「それはどうも」

「褒めているのではない。おまえ、自分が恥ずかしくならないのか?」

「別に。当然の要求だ」


 平然としてディーンは、以前目にした小さな紙屑をもてあそんでいる。ふいにレイは、奇妙に黒ずんだそれが血の色だと気が付いた。


「それは――」


 レイが尋ねかけたとき、部下を伴って、ノアが部屋に現われた。

 百アルム金貨を十枚ずつ束ねた固まりを机に積み上げる。


「お約束の前金五十万アルムです。どうぞお確かめ下さい」


 ディーンは、固まりのひとつの封を破り、金高を確かめた。傍からレイが、それを軽蔑しきった目付きで眺めている。

 ディーンは周りの視線をものともせず、五千枚の金貨の山をちょうど二つに分けた。半分を脇へ置き、残りを五百枚ずつ五等分にする。全額の十分の一を懐へしまい、ノアに、


「この二十五万アルムは、妖魔に殺された果物売りの親父の家族にやってくれ。あとは、同じように殺された者の家族と、アイシャと女将たちに――。大した金額でもないし、これで死んだ者が返るって訳じゃないが、何かの足しにはなるだろう」


 意外な発言に、レイはまじまじとディーンを見つめた。ノアも驚きつつ、微笑んで承諾する。


「確かに承りました。私の責任を持ちまして、必ずお届けいたしましょう」

「ああ、頼む」


 ノアの指示を受けた捜査員が、そそくさと大金を抱えて部屋を下がる。

 血塗られた折り鶴を手に、物思いに沈むディーンに、静かにノアが声をかけた。


「つかぬことを伺いますが、あなたは一昨日の夜殺害された露店商人とお知り合いだったのですか?」

「ああ」


 顔を上げもせず、短くディーンが答える。

 ノアは独り言のように、言葉を紡いだ。


「あの夜はどうやら、娘の誕生日か何かだったようですね。遺留品の中から、真新しい高価な人形が見つかったと聞いています。おそらく、それを買い求めたために帰宅が遅れ、現場に居合わせてしまったのでしょう……不運なことです」


 思いがけない話の内容に、レイは息を詰める。

 手の中の折り鶴を見つめたまま、ディーンがぽつんと呟く。


「とっても嬉しそうだったよ、親父は……。末の娘が三つになるってさ。だけど――」


 ディーンは言葉を切り、折り鶴を握りしめた。


「金なんて何の価値もありはしない。だけど、巻き添えで殺された人間の家族なんて、お偉方の気にも止まらない存在だからな。せめて金くらいなきゃ、残されたほうはやってらんねえよ」


 同情とは違う深い哀しみの響きに、さすがのレイも言葉がない。

 ノアがディーンに歩み寄り、ごく自然な仕草で彼の左手を掴んだ。


「だからといって、自分を責めることはないでしょう」


 無理矢理開かせた手のひらは、爪で皮膚が破け、血がにじんでいる。


「完璧な人間などいないのです。ただ後悔の量と、それを生かすことのできる力の差があるだけですよ」


 言いながらノアは、ディーンの手のひらに右手をかざした。

 肉眼では見えない何かが充ち、見る間に傷を癒していく。上級神官だったというのは、どうやら偽りではないようだ。

 ついでに他のところにも手をかざし、昨夜の戦いで受けた傷も治癒する。

 ノアは、ディーンの右腕の肘から手の甲にまで及ぶ一条の傷を診て、形のよい眉を寄せた。


「よく生きていましたね。いつごろの傷です?」

「三年……四年前かな」

「妖魔から受けた傷で、よくここまで機能を回復したものです。普通でしたら、とっくにあの世行きですよ」


 珍しいものを見た、とでも言いたげなノアに、ディーンはいささかむっとする。


「怪我をした時、ちょうど能力者(ヴィサード)に助けられたんだよ」

「それは幸運でした。この傷ですと、妖魔の毒が全身に回って、即死してもおかしくありませんからね」


 ノアがにこやかに断言した。二人の会話を聞いていたレイは、そこで、あることに思い至る。


「まさか……ディーン、おまえ今までにも何度か妖魔とったことがあるのか?」

「そんなにないぜ。せいぜい四、五回だ」


 簡単に言ってのける少年に、レイは軽く眩暈を覚えた。


「どういう生活をしていたら、そんなに妖魔に遇うんだ? 大抵の人間は一生出遭わないのが普通だぞ」

「ひょっとしたら、んでいるのかもしれませんね。今回の事もありますし」

「他人のせいにすんじゃねーよ」

「ですが、そうなると我々は非常に都合がよいのですが……」


 ノアが美しい微笑みを浮かべたまま、すごいことを言った。

 レイが、さも迷惑そうな顔になる。


「頼むから、必要以上の妖魔は喚ぶなよ」

「……あのなぁ。俺を何だと思ってんだよ」

「別に。ただ、近くにいると、命がいくつあっても足りなそうだと思っただけだ」

「てめえ、他人のことが言えるのかよ」


 次第に険悪な空気を漂わせる二人に、ノアが仲裁に入った。


「まあまあ、お二人とも。喧嘩は後でいくらでもできるでしょう。今はとりあえず、旅の支度に取りかかってください。すぐにでも出発して頂くことになりますから」


 喧嘩の火種を蒔いた張本人が、ぬけぬけと言う。

 レイは、およそ一月もの間、この反りの合わない男と共に旅をするかと思い、げんなりした。それは、ディーンも同様である。

 ノアは、一抹の不安を感じながらも、二人を支度のための部屋へと案内した。


   *


 [紅華亭ルビアンサス]の女将ルビアは、昨夜からの八時間にわたる拘留に、ついに堪忍袋の緒を切った。


「いい加減に帰したらどうなんだいっ。一体あたしたちをどうしようっていうのさ!」


 怒りに任せて扉を蹴り上げ、拳を叩きつける。

 だが、分厚い扉はびくともせず、外からの反応もなかった。

 拘留といっても、小綺麗な部屋と食事を用意された軟禁状態である。それでも、アッバスやディーンについて代わるがわる質問攻めにされた上、見知らぬ者に見張られ続けるのでは、神経がまいってしまう。


「……家に帰りたいよぉ」


 呟くアイシャの声は、今にも泣き出しそうだ。ドーラが、大きな腕でその肩を抱いて、元気付けた。

 不安と緊張でろくに睡眠も取れなかった女たちの顔には、疲労の色が濃い。

 その時、部屋の外が騒がしくなり、見張りの男を押しのけるように何者かが入ってきた。


「ルビア。それに皆も、無事か?」


 一瞬誰だか分からなかったルビアは、呼びかけられてはっと気が付く。


「レイ! まあ、見違えちゃって……」


 橄欖(オリーブ)色の頭布(シェーシ)を巻いて、腰まで切れ込みの入った上着に編み上げ靴。

 砂漠の旅装としてはきわめて典型的なのだが、レイが着ると、価値が数倍も上がって見える。汚れを落として、さらに比類のない美しさが際立った。

 女たちの注目を浴び、レイは当惑する。同じく旅装のディーンが遅れてやってきて、けっと舌を出した。


「馬子も衣装ってやつだよ」


 ルビアは、ディーンの頭を小突いて、レイに笑顔を向ける。


「着替えたんだね。よく似合うよ」

「ありがとう。それよりも、大分顔色が悪いようだが」

「平気よ。ずっと見張られてたから、寝るに寝れなかっただけ」


 意外と元気なナナの返事に、レイは安心したように頷いた。

 怪訝な顔つきの捜査員らを振り返り、昂然こうぜんと命じる。


「彼女たちを解放しろ」

「それはできません」

「司令官の了承は得ている。三度は言わぬ。今すぐ、彼女たちをここから出すのだ」


 捜査員たちの顔色が変わる。

 レイに対し、大貴族並みの扱いを命ぜられていた彼らだが、さすがにこの言動には我慢がならなかったようだ。


「貴様、一体何様のつもりだ!」


 怒鳴りつけ、一人がレイの胸倉を掴んだ。ルビアたちが青ざめる。

 レイは落ち着いた様子で、服を掴む腕に手をかけると、流れるように逆の方向に捻り上げた。何気ない動作に、男は声もなく、みるみる青ざめていく。他の捜査員たちが、色めき立った。

 そこへ、甘い低声が割って入る。


「その方に無礼な態度を取ることは、私が許しません。去りなさい」


 穏やかだが、一片の反抗も許さない口調だった。ノアである。

 蒼白となった捜査員たちは、慌てて警杖を下げ、退室した。レイに右手を固められていた男も、よろめきながらその後を追う。

 ノアは、右手を胸に当て、レイに深々と頭を下げた。


「部下が大変失礼をいたしました。お許し下さい」

「気にするな。どうせ即席の部下だろう? 即席にしては、よくまとめているではないか」

「恐れ入ります。日頃の人徳、とでも申しておきましょうか……。揉めておいでのようでしたが、何か問題でもございましたでしょうか?」

「ああ。彼女たちの拘留を解く件なのだが――」


 十五歳とは思えぬ態度で司令官と話すレイを、ルビアたちは唖然として眺めている。


「手続きは、ほぼ完了しております。我々の側としましては何の問題もありませんが、一応本人たちにも確認をとりませんと……」


 そう言ってノアは、ルビアたちに、身柄の解放とそれに伴う危険について説明をした。

 女たちの疲れた顔が、瞬時に引き締まる。

 彼女たちは、しばらく頭を付き合わせて相談し、やがてルビアが決断を下した。


「いつになるのか分からないのに、完全に安全だっていう保障が得られるまで待つなんて、ごめんだよ。さっさと解放しておくれ」

「分かりました。テス州警察にはこちらから話を通しておきます。危険であれば、彼らの保護を求めて下さい。一応見張りはつけますが、守りきれない部分もございますので」


 女たちの間に、不安が波紋のように広がる。安心させるためか、ノアが顔の良さを最大限に生かした微笑を彼女らに向けた。


「心配ありません。見張りといっても日常生活に支障がない程度ですし、実のところ、逃走に精一杯なハディルの残党が襲うという可能性は、低いと思いますよ」


 自治管理局の横暴さゆえか、帝都の人間に対してよい心証を持っていなかったルビアたちは、丁寧なノアの態度にすっかり心を許してしまった。

 ナナとアイシャが、ドーラの広い背中の後ろで、ひそひそ会話する。


「なかなか話せるじゃない、この人」

「そうねぇ。なんたって、イイ男だし」


 聞こえたのか、ノアの笑顔が深まる。


「では、あなたがたをタリア市に送る手配をしましょう。しばらくかかりますので、それまでこちらでお待ち下さい」

「なるべく早く頼む」

「かしこまりました。では、失礼いたします」


 ノアは、再びレイに礼を捧げ、部屋を去る。

 一同は、緊張の糸が切れたように大きく息を吐き、ようやく椅子に腰を下ろした。

 しばらくして、ノアの心遣いなのか、侍従たちが飲み物やパンなどの軽食を運んできた。

 ささやかな食卓を囲みながら、一同は改めて、互いの無事を祝う。

 紅茶の碗を手にとって、ナナが先程から感じていた疑問を口にした。


「――ね、レイって実は貴族様なの?」

「まあ、そうだ。私はエファイオスで生まれ育ったが、親たちは帝都に住んでいる」


 あっさりと口にされた答えに、ルビアたちの間に再び硬い雰囲気が張り詰めた。

 統一世界(カナン)の中心である帝都は、その多くを大貴族、しかも皇族に近い限られた者たちで構成された特殊な地域である。平民が帝都を訪れるなどないに等しく、彼らにとって帝都の人間は、まさに雲上人であった。

 生まれながら帝都と関わりを持っているレイには、その特殊さが分からない。

 気まずげな笑いを浮かべ、ルビアが言った。


「じゃあ、あたしたちとその……こんなふうに話したりしちゃ、まずいんじゃないのかい?」

「なぜだ? 貴族など、所詮親の威光だ。気にすることはない」


 レイは簡単に言うが、それでもやはり、女たちの戸惑いは隠せない。落ち着かない空気の中、ディーンがパンを頬張りながら、だらしなく口を挟んだ。


「鈍感な奴だなー。気にするなって言われたって気になるもんだろ、そーゆーのって」


 優雅な仕草で紅茶を一口飲み、レイが指摘する。


「おまえは気にしているように見えないが?」

「気にしてるさ。俺の繊細な心が、あんたに分からないだけなの」

「分からなくて幸いだ。おまえが繊細だったら、世の中の人は皆、神経衰弱で病みきっているだろうからな」

「それが、貴族の若様の言う台詞かっつーの」


 口論すれすれの掛け合いに、緊張気味だったルビアたちも思わず吹き出した。


「そういえば、二人とも旅支度をしているようだけど、どこへ行くんだい?」

「アルビオンだが、正確には行ってみないと分からないというところだ」

「すぐに行くの?」

「急ぐのでな」

「――急ぐにもほどがあるって気がするけどな」


 再び横合いから口を出すディーンに、レイは身も凍る微笑を向けた。


「嫌なら是非同行を断ってくれ。その方が私も気が休まる」

「阿呆。旅の玄人(プロ)で、こんな無謀な旅に付き合ってくれる奴が他にいんのかよ。涙を流して感謝してくれたって、いいと思うぜ?」

「ノアの勧めでなければ、涙を流して断りたい気分だ」

「あんたなぁ……」


 顔を引きつらせるディーンと、あくまで冷ややかなレイのあしらいに、女たちが笑いこける。


「やれやれ、仲がいいのやら悪いのやら」

「あはは。ディーン、砂漠の途中で放り出されないように気をつけてね」


 女性たちからもからかわれ、ディーンが憮然となる。その手を取り、ルビアはレイの手をも取って重ね合わせると、両手で握りしめた。

笑顔のままに、真摯な眼差しで二人に告げる。


「二人とも、この同じ大地に立つ以上あたしたちの家族だよ。いつだって帰っておいで」


 ドーラやナナ、アイシャも笑って頷く。温かな励ましに照れ、困った二人は顔を見合わせた。


「ありがとう」

「ま、砂漠で放り出された時は、遠慮なく寄らせてもらうよ」


 ディーンの軽口に、女たちの微笑が苦笑に変わる。

 その時、扉を叩いて、一人の捜査員が訪れた。

 一瞬にしてもたらされた緊張と静寂の中、彼らを分かつ短い伝令が下される。


「セジェウィク様、グラティアス様。出発の御支度が整いましたので、裏門までお越し願いたいとの仰せ、申し付かりました」


   *


 まだ夜の冷たさが残る外気は、乾季を予感させるように、埃っぽく乾いていた。

 しだいに力強さを増してゆく太陽の真っ白い光と熱に、閉ざされた世界にいた一同は、一瞬目を眩まされる。

 自治管理局の建物の裏口には、テスの外れまでレイとディーンを送るために、旅の荷物を積んだ馬が二頭、乗るための馬が二頭用意されていた。二人を警護する捜査員も数名、武装して控えている。

 ノアが、破邪の祝福を与えるために預かっていた剣を、二人に返す。


「時間がありません。お別れを済ませてきて下さい」

「分かった」


 帯刀した二人は、見送りに来たルビアたちを振り返った。

 ほんの一日足らずの付き合いが何年にも思える女たちへ、レイは右手を差し出す。


「世話になったな」

「頑張って。また、テスに来てね」

「体に気をつけるんだよ」


 ナナとドーラが口々に言った。

 レイはルビアへも手を伸べたが、勝気な女将はそっぽを向く。


「やだねぇ。お別れは、もう済ませたじゃないか」

「それでも……ありがとう」


 レイの言葉に、ルビアは握手の代わりに、背の高い若者を力いっぱい両腕に抱きしめる。


「絶対……絶対、また顔を見せにくるんだよ!」


 涙声で、きつく囁く。

 慣れないことに戸惑いつつも、レイはルビアの体に腕を回した。


「ああ、約束する」


 ふいに、周りがざわめいて、レイは顔を上げた。その途端、藍色の眼が真ん丸になる。

 隣で別れを告げているはずのディーンが、アイシャと熱烈な口付けを交わしていた。思わず、見ているレイの方が赤面する。


「……恥ずかしい奴だな」

「女性との別れの挨拶だよ。礼儀さ」


 名残惜しそうに顔を離し、ディーンが艶っぽく微笑んだ。レイは呆れて返す言葉もない。

 そこへ、部下と打ち合わせを済ませたノアがやって来た。


「どうやらお別れは済んだみたいですね」

「ああ、充分すぎるほどな」


 レイの皮肉を、ディーンはそ知らぬ顔で聞き流している。ノアは、それ以上追及しようとはしないで、話題を振り替えた。


「州の外れまで部下に送らせましょう。新たな情報が得られれば、すぐにお知らせします」

「どうやって連絡をつけるつもりだ?」

「いずれ分かります」


 ディーンの疑問に、ノアは意味ありげな台詞で答える。


「では、出発いたしましょう」


 ノアの一声に、捜査員たちが配備についた。一足先に用意された馬にまたがり、ディーンとレイは、ルビアたちを振り返る。

 出会いと別れが何処よりも多いテスでは、さよならの一言はふさわしくない。

 一時の別離であることを信じて、二人は馬上から叫んだ。


「じゃあな!」

「いつかまた会おう!」


 二人は拍車を駆って、馬首を巡らせた。


「旅の幸運を……!」


 ルビアが、決まり文句を叫ぶ。

 レイとディーンは振り返り、手を挙げてそれに応えた。捜査員が二人を囲み、小さな集団はひっそりと自治管理局を後にする。

 朝日を浴びて進む一行が、次第にテスの街並みに飲み込まれていった。

 二人を乗せた馬が、立ち止まって、もう一度こちらを向く。

 朝の光に包まれた二人の姿が、真っ白な影となって浮かび上がった。

 ルビアの眼から、一粒の涙が零れ落ちる。

 見送るすべての者の胸に、二人の姿は、いつまでも消えることのない強い印象をもって、深く刻み込まれた。





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