1-5
5
しばらくして、アッバスを喪った衝撃も和らぎ、アイシャは落ち着きを取り戻した。その間に、事情を知らないレイは、[紅華亭]の女将ルビアからおおよそのことを聞く。
アッバスとアイシャ、それにディーンの関係を知り、レイは厭な顔をした。
恋愛経験もなく、潔癖な年頃でもあるレイは、そういったことに嫌悪感を抱いてしまうのだろう。
一同は、ひとつの机を囲んで座り、アイシャから事情を聞き出した。
そもそも揉め事の発端となったディーンとの浮気は、アイシャがアッバスの浮気を疑ったことに始まった。つまり、単なる遊びだけでなく、腹いせの意味もあったと言える。
ところが、それが誤解だったのだ。
「このところ彼、あんまり危ない真似もしなくなって、やっと真面目に働くって言ってくれるようになってたんだけど、最近どうも様子が変だったの。すごくいい儲け話があるんだって言って妙に機嫌がよくて……陰で何かこそこそしてるみたいで、会える時間も減ったし、急に高いお酒や宝石なんか買ってくれたりして……。だから、これは絶対他に女がいるって思ったの。そうしたら――」
アイシャの話では、〝蠍党〟と名乗っていた東区のならず者の首領格であったアッバスは、一月ほど前、仲間と共にある盗みを働いたのだという。
その盗みとは、宝石商アラム・ハディルの運搬船を襲い、輸入物資を奪うことであった。
深夜、タリア湾北岸に停留したアルビオンからの運搬船が荷物を下ろしている最中、船に潜り込んだ仲間が火を放った隙に、まんまとアッバスたちはいくつかの荷を盗み出すことに成功した。
アラム・ハディルは宝石にとどまらず、異国の織物や香料など幅広く仕入れており、少量でも彼らの望みを充分に満たしてくれるはずである。それは、テス州政府のある高官の名前で発注された荷物だったが、中身を開けてみて、彼らは驚いた。
「荷物の中には、痲薬が隠されていたの。しかも、見たこともないようなやつが」
アイシャは胸元から小さな包みを取り出し、机の上に広げた。
微妙に光る、白い散薬のようなものが、一匙ほど。
ディーンは、薬指にそれをほんの少し付け、匂いを嗅いで舐める。
「確かに、普通のやつとはちょっと違うみたいだな」
痲薬は、大麻や芥子の実を原料とした感覚や知覚を麻痺させる薬である。
口や鼻から吸引したり、血管に注射するなどして使用することによって、高揚や微睡などの快感を味わうことが可能だ。
だが習慣性が強く、心身にも非常な悪影響をもたらすため、医療用としての一部を除き、使用や精製は勿論、所持や売買も厳しく禁じられている。
しかし、密売は止まるところを知らず、それは闇組織の資金源となるなどの問題も合わせ、深刻な社会問題となっていた。
レイも同じように舐め、頷いた。
「おそれく、これは〝妖精の粉〟と呼ばれる新種の痲薬だろう。大麻を主原料に人工的に調合されたもので、効果は通常の四倍とも五倍とも言われている」
ディーンが、心から意外そうにレイを見やる。
「あんた、よく知ってんなぁ」
「ちょうど知り合いが、この手の問題に関わっているのだ。その受け売りに過ぎない。……痲薬をやっていたわけじゃないぞ?」
「やらなくて正解だ。それで――アッバスは、痲薬の密輸を知って、アラム・ハディルを強請ったんだな?」
「ええ。一度盗んだ荷物で取り引きしたらしいけど、昨日の朝会ったとき、もう一度取り引きするって言っていたわ。それで初めてこの話を聞かされたのよ。この痲薬も、そのとき渡されたの。証拠の品だから、あたしが持っていたほうがいい。安全だからって……」
「……馬鹿な男だよ。危険だって分かっていただろうに」
苦々しげに、ルビアが言う。
アラム・ハディルは、宝石や貴金属の売買で財を成した、テス州でも指折りの大富商である。
だが、その名は宝石商としてよりも暗黒街の大立者として広く知られ、州政府の高官でさえ、彼には逆らえないという。また彼は、怪しげな術者を後ろ盾とし、歯向かう者を呪い殺しているという噂もあった。
州を出入りする荷物は、密貿易や害虫、病気などの蔓延を防ぐために、厳重な検査が行なわれている。しかし、帝都の直轄領である自治州では、その権限から政府高官の発注した荷物は、ほとんど検疫を受けないまま輸出入が可能なのだ。アラム・ハディルはそれを利用して、痲薬の密輸を行なっていたのだろう。
ちなみに、アッバスたちの放火と盗みは、当然のことながら表沙汰にはなっていない。密輸の発覚を恐れたハディルが、事件を揉み消したのだろう。
それにしても、それだけの権力を誇るアラム・ハディルが、アッバスたちのような小物を片付けるのに、あんな目立つ殺し方をするだろうか。
しかし、昨夜の殺人が意図的なものである可能性は、
――充分に考えてみる必要があるだろうな……。
と、ディーンは思う。
ディーンの胸中には、アッバスの死とアラム・ハディル、そして妖魔の三つが抜き差しならぬ関係として、強く刻み込まれた。
「アッバスたちを殺した理由も犯人も確かじゃないが、そういう事情があるんなら、念のためアイシャはどこか安全な場所にいたほうがいいな」
アッバスたちが口封じのために殺されたのであれば、事情を知るアイシャにも危険が及ばないとも限らない。
ディーンの提案に頷いたルビアが、不安そうに言う。
「だけど、州の高官が絡んでるんじゃ、迂闊に州警察の力を借りるわけにはいかないよ」
レイが口を挟んだ。
「だが、ここは自治州だろう。帝都の自治管理局に願い出ればよいではないか?」
帝都直轄の地である自治州は、州民が選出する議会とは別に、帝都から派遣された自治管理局の二つの指導者によって政府が運営されるのだ。
勿論、両者は互いに独立した関係にある。
レイはそれを指摘したのだが、ディーンは大袈裟に顔をしかめた。
「自治管理局がまともに機能していれば、アラム・ハディルみたいな連中がのさばっているはずがないだろう。帝都人なんて、そんなものなの。自分のことしか頭にねぇんだから」
「そうよ。帝都人が、あたしたちのことなんて考えてくれるわけないもの。それなら、まだ州警察のほうがましだわ。彼らなら全員テスの人間だし……」
「だけど、連中にはアラム・ハディルに逆らう度胸なんか、持ち合わせちゃいないよ。知事の爺さんもいい方なんだけどねえ……帝都に比べりゃ、力なんてないものねえ」
口々に言い、ナナとルビアは、顔を見合わせて溜め息をついた。
八方塞がりといった状況に、店内が重い空気に包まれる。
やがて思い切ったようにディーンが言い出す。
「――悩んでいても仕方ない。アイシャを人に知られていない場所に隠そう。どこかいい場所を知らないか?」
「あたしの弟の家がいいよ。ここから少し離れてるけど、田舎だし、周りにあたしたちのことを知ってる人もいない」
ナナの返答に、一同は生気を取り戻す。早速、計画とそれぞれの分担が立てられた。
ナナの案内で、ディーンがアイシャを隠れ家まで届け、二人を残して戻る。
ルビアとドーラは、当然行なわれるだろう州警察の捜査のために、あえて[紅華亭]にとどまった。念のため、用心棒としてレイが二階に控える。
州警察へは、アッバスがアラム・ハディルを恐喝していたことを記し、痲薬と共に匿名の投書として送った。
ディーンはやはり、夜を待って街を離れることに決めたようだ。州外に出たとしても、指名手配されてしまえば逃げることは難しいが、それでも時間は稼げる。その間に、真犯人が捕まることを祈るしかない。
気持ちは分からなくもないが、レイには、どうもそれが卑怯な行動に思えてならなかった。
二階で身支度を整えるディーンに、改めて問う。
「彼らは偶然妖魔に殺されたのではないと、おまえも思っているのだろう。なぜ、真犯人を捕まえる努力をしないのだ?」
指先を切った黒い革手袋をはめながら、ディーンが問い返す。
「確かに妖魔がアッバスの首だけを持っていったのは妙だ。じゃあ、あんたはアラム・ハディルが宝を盗んだ泥棒だと思うのか?」
レイは返す言葉に詰まった。
アラム・ハディルは術師を雇っているらしいが、それがどうも聖宝を盗んだ犯人に合致するとは言い難い。
聖宝の価値はあくまでもその霊力にあり、それを操る能力を持たぬ者にとっては、ただの物と同じだ。それに、すでに存在すら伝説となっていたものを盗むとは、よほど神秘の世界に通暁したものの仕業であると考えられる。
「それは……分からない。だが、あの殺人と妖魔、そしてアラム・ハディルは、どこかでつながっているような気がしてならないのだ」
「だけど証拠は何もない」
「アラム・ハディルと妖魔の接点を見つけられれば……」
「どうやって見つけるんだ? 暗黒街で十指に入る狸爺が、そうそう化けの皮を剥がしてくれるとは思えないね。奴の屋敷に乗り込んで、現場でも押さえるのか?」
言外に不可能だろうと匂わせ、ディーンはレイの意見を一蹴する。
「――彼女を見殺しにするつもりか」
責めるような一言に、ディーンの動きが止まった。
「どういう意味だ?」
「彼女とは親しいのだろう。ならば、最後まで守り通したらどうだ」
「確かにアイシャとは親しくなったが、何も命を張るまでの関係じゃない。第一、あんたには何の関わりもないことだろう」
「逃げるのか?」
怒りをあらわに、レイが詰め寄る。ディーンはあくまでも冷ややかに応じた。
「そうさ。俺は自分の身がかわいいからな。無実の罪で死刑なんてごめんだぜ」
「そうやって一生逃げ続けるつもりか。たとえ事件が終わったとしても、真実が明らかにならねば意味がない。死んだ者たちも浮かばれないぞ!」
ディーンの顔色が変わった。凄い目付きでレイを睨むと、外套をはおり、無言のまま出て行く。
激しい音を立てて扉が閉まる。窓辺の赤い花弁が揺れて、ひとひら風に舞った。
*
いつのまにか西に傾いた太陽が、最後の命を燃やすように、強い日差しを投げかける。
青い海もゆっくりと黄昏に染まり、昼間とは違う、不思議なきらめきを見せた。
湿った暖かい潮風に吹かれながら、窓辺に腰かけたレイは、腰帯の内側から一振りの短剣を取り出した。
鍔はなく、薔薇の浮彫が施された銀の柄に、細身の両刃。それは、顔すら知らない母の唯一の形見であった。
刃先を潰したこの短剣に、殺傷能力はそれほどない。その代わり、他の武器にはない優れた性質を備えていた。
ふいに、部屋の戸を叩いて、飲み物を持ったルビアがやって来た。
接客の合間を縫ってきたのだろう。襟ぐりの大きく開いた服が、わずかに乱れている。疑いをもたれないよう、[紅華亭]はいつもどおり営業しているのだ。
レイは、短剣を鞘に納め、元のように腰帯に手挟んだ。
ルビアは、レイの前の窓枠に盆を置いて、果汁を注いだ高杯を手渡した。
「しぼりたてのピアの実だよ。お飲みよ。暑いだろう?」
「ありがとう」
淡い桃色の果汁は、甘酸っぱく、さわやかな香りがする。一息に飲み干すレイに、ルビアは微笑み、無言で用意の水瓶から果汁を注ぎ足す。
「あ……すまない」
「遠慮はいらないよ。しっかりお飲みな」
言ってルビアは、三十そこそこの豊艶な身体を、窓辺にもたせかけた。丸く結い上げた赤髪の後れ毛が、潮風にふわりとなびく。
彼女を含め、[紅華亭]の女たちは皆、旅行者にしては不自然なレイを不思議には思いはしても、決して探るようなことはしなかった。雑多な人種の訪れるこの街で、素性を探ることは好まれない。だが、だからこそ余計に、得体の知れない人間に対して受け入れる側は警戒する必要があるはずだった。
そのことを先程レイが尋ねると、昔は看板娘だったという[紅華亭]の女将は、
『あはは。こんなとこで商売してりゃ、いやでも人を見る目ってものができちまうもんだよ。あんたはディーンの友達だ。それで、充分なのさ』
実にあっけらかんとレイの杞憂を笑い飛ばしたものである。
ルビアは、むき出しの肩を抱えるようにして、窓枠に肘をついた。
「――ねえ、あんた。ディーンと喧嘩しただろ?」
驚くレイに、青く瞼を彩った眼が笑う。
「ごめんよ。ちょっと聞こえっちゃってさ」
「別に……たいしたことではない」
「ディーンは悪い子じゃないよ。ちょっとわがままでいい加減なところもあるけど、あの年頃にしてはまともなほうさ」
「……」
「アイシャのことだって、結局何もしてやしないよ。惚れた男がいる女に手を出すほど、あの子は無神経じゃない。たぶん、アイシャに一晩中愚痴でも聞かされていたってところが落ちさ」
年令と経験の貫禄を見せて、ルビアは断言した。
「なぜ、私にそんなことを?」
「ディーンを誤解しているようだからね。あんたたちは、きっといい友達になる。だから、嫌いになってほしくないのさ」
きっぱりと言い切られ、レイは戸惑う。
「それは難しいと思うが……」
「いいや、絶対そうなるよ。このルビアが保障してもいい」
レイは、さも厭そうに眉をひそめた。
悪人というのではないだろうが、粗野で下品で口が悪く、感情的で自己中心的なディーンの言動は、今までレイのいた世界にまったくないものだった。何よりも、自信に満ちているところが気に食わない。
彼は、貴族の子として育ったレイとは正反対の世界に生き、自分の持ってないものすべてを手にしていた。
ディーンを陽とするなら、レイは陰。陰と陽が交わることは、決してない。
ルビアは黙って、考え込むレイの髪を撫でると、そっと離れた。
「――ルビア」
扉に手を掛けたまま、女将が振り返る。
「その、地図を借りられるかな……?」
「ああ、いいともさ」
ルビアの褐色の顔に、何ともいえぬ微笑が漂った。レイは何も言わない。
立ち去りかけ、ルビアはもう一度振り向く。片目をつむって、
「……ね、あたしの勘は当たるんだよ?」
そう言い残し、部屋を出て行った。
*
その頃、アイシャをナナの弟の家まで送り届けたディーンは、あえて[紅華亭]には戻らず、近隣の遺跡に身を隠していた。
冷たくなってきた海風に、ディーンは目を覚ます。
一昨日から満足に寝ていないせいか、寝入ってしまったようだ。
とっぷりと日が暮れ、辺りは薄墨を刷いたような夕闇に包まれている。
ディーンは軽く伸びをすると、花崗岩で作られた柱の陰から飛び降りた。
この遺跡〝アシャンティの砦〟は、タリアの北の外れに位置する。何でも、まだ世界がいくつもの国に分かれ、戦争が絶えなかった頃のものだという。
ディーンは外套を被り、荷を肩に背負った。何千年もの太古の建造物は崩れ、かつての面影を失っている。倒れ、積み重なった瓦礫を避けつつ、ディーンは街道へ出た。
白い砂地の一本道は、左へ行くとタリアの市街へ出、右へ行くとテス州の隣、サイス公国に至る。
しばし逡巡したディーンは、右の道を歩きはじめた。と、二、三歩進んだと見るうちに、何を思ったか、いきなりくるりと踵を返す。知らず、その手は懐にしまった紙の鳥を握りしめていた。
「畜生……なんでこうなんだ、俺は!」
ぶつぶつとこぼしながら、ディーンはタリアの北区に入った。あくまでも巡礼を装ったまま俯いてとぼとぼと歩いているが、歩調は速く、周囲への警戒も怠らない。
人の手が植えたと分かるキルジュの木立を抜け、高い塀の連なる高級居住区に出る。そして人通りが途絶えるなり、ディーンは一気に走り出した。
やがて一際堅固な塀に囲まれた建物の前で、足を止める。薄闇の中でも窺い知れる豪華な建物の陰には、すでに先客が埋もれるように佇んでいた。
「――誰だ?」
その人物は、ゆっくりとした歩みぶりで、こちらへとやってくる。
「どこへ行くつもりだ、セレスディーン?」
レイ・セジェウィクであった。ディーンの瞳が束の間緩む。
「なんであんたがここにいるんだ?」
「それはこちらの台詞だ。テスを離れるのではなかったのか?」
嫌味たっぷりのレイに、ディーンは顔をしかめた。
「離れるさ。アッバスたちを殺した真犯人を捕まえてからな」
「妖魔は、私の獲物だぞ?」
「そんなの知ったことか。あんたはお宝でも探してな」
照れ隠しなのか、あくまでもぶっきらぼうなディーンを可笑しげに見、レイは持っていた外套を羽織った。
「――では、行こうか」
「足手纏いになんなよ」
「そちらこそ」
眼と眼が合う。次の瞬間、二人の姿は、まるで煙のように夜の闇に消えていった。
*
富豪としてもはや知らぬ者はいないと言われるアラム・ハディルは、いつものように私室の壁裏に設けた隠し部屋で、密輸された痲薬の最終確認を行なっていた。
市場価格を操作する手蔓と統一世界全域に渡る広い販売網とで、彼はすでに宝石商として磐石の地位を築いていたが、現在はほぼ全権を腹心のアリが取り仕切っている。ハディルは、暗黒街の顔役としての仕事に全精力を傾けていた。
今日の成功は、自分だけを信用するという信念と、術師ヨギの魔力によるものだと、彼は確信している。
アリたちは信用していないようだが、九年前ふらりと現われたヨギは、商談の勝敗や鉱脈の在処などは言うに及ばず、予知の能力にも秀でていた。
無論、ハディルも心を許している訳ではない。あくまでも、重宝な人物として評価しているだけであった。
「失礼いたします」
声をかけ、侍女のシェーラが酒食を持って部屋を訪れる。
ハディルは急いで隠し部屋から出、壁掛けで扉を隠した。
一人娘の世話係であるシェーラは、蜂のようにくびれた姿態を、ぴったりと巻いた胸当てと腰布がさらに強調している。ハディルの相好が崩れた。
「シェーラ、遅くまで御苦労だね。ヤスミナはどうした?」
「もうとっくにお休みですわ。昼間、随分とお遊びになられましたから……」
まだ二十代ながら、早くに夫を亡くしたというシェーラは、三年前にハディルの元に来た。若く美しい彼女は、すぐにハディルの手が付いたが、妾というのでもない。あくまでも侍女としてハディルに仕え、彼にとっては都合のいい女であり、唯一気兼ねのない相手であった。
シェーラは、ハディルに酒を注ぎながら、控えめに尋ねる。
「あの……あたくし、詳しくは存じませんけれど、旦那様を脅してきた男をその……」
「ああ、昨夜のやつだね。ちょっと関係のない者も入ったが、あれはなかなかうまく始末できた。他への見せしめ、という点でもね」
「でも、あんなに大騒ぎになってしまって、もしも旦那様に疑いがかかったり、あのことが他へ洩れたりしたらと思うと、あたくし心配で……」
「心配はいらないよ。あれは、昨日の朝ヨギが捕まえた妖魔の仕業。誰も我々と結びつけて考えはしないよ」
テスで妖魔が出現しなくなって、すでに五百年以上が経つ。
伝説の恐ろしい怪物の名を聞き、シェーラが身震いをした。
「ヨギ様、というと、あの薄気味の悪い……」
「そのとおりだよ。気味は悪いが、能力は確かなようだ。あの大きな妖魔を意のままに操るのだからね。それに、万が一州警察に目を付けられたとしても、何も怖がることはないのだよ。我々には、次官様がついているのだからね。帝都のお役人様が、ね……」
ハディルは不気味な笑みを浮かべ、酒を一口、口に含む。
その時。部屋を揺るがすような大音響が、階下から轟いた。
「何事だ?!」
「玄関間からのようですわ!」
慌てて階段を駆け下りたハディルは、玄関の広間で大乱闘が繰り広げられている光景に、我が眼を疑った。騒ぎの源は、警備員というには風体のよくない屈強の男たちに囲まれた、一人の人物だった。
灰色の外套を纏ったその人物は、大刀を振りかざし、男たちを右に左に斬って捨てる。
次々と倒れる用心棒の姿に、ハディルの顔が蒼白になった。
「貴様、誰だっ。何が目的だ!」
外套の人物は、頭巾の下で白い歯を見せて笑った。
「――悪いな。俺が用があるのは、あの化け物さ」
同じ頃、広間で騒ぎが起こっている隙に、もう一人、裏庭から何者かがこの邸宅に忍び込んだ。
その人物は、裏口から逃げようとしていた若い使用人を見つけると、襟首を掴み、物陰へ引きずり倒す。切りつけるように問う。
「術師はどこだ?」
「う、あ……ち、地下室に……」
「そこへはどう行くのだ。答えろ!」
「ひ……東棟の階段下に入り口があって――」
しどろもどろになりながら使用人が答える。必要な情報を聞き出した侵入者は、使用人の首筋を打って気絶させると、草叢に放り込んだ。
幸い、屋敷の者は騒ぎに気をとられ、新たな侵入者に気付く様子はない。外套をすっぽりと被った侵入者は、開いている窓から邸内へと入った。
指折りの豪商だけにハディルの屋敷は広く、探索は困難に思われる。だが、使用人の情報と、前もって建物の大体の様子を頭に入れておいたためか、地下室への入り口は容易に見つかった。
階段裏の壁に紛れて作られた引き戸を開けると、埃っぽい風ともに、真っ暗な地下に続く石の階段が現われる。侵入者は、壁に掛けられた燭台を一つとって手燭とすると、闇へ導く階段を下りていった。
冷たい石の空間には、墓場の饐えた臭いが染みついているようだ。
外套を脱ぎ捨てた侵入者――レイは、奥行きの見えぬ闇の先に、青白い光を見た。光は、ある一室の鉄格子から洩れ輝いている。
手燭を捨て、レイが格子窓を覗くと、室内に燭台が灯されている様子はなく、黒い長衣を着た人物が一人いるだけだった。部屋から洩れる怪しげな光の正体は、その人物が手にする巨大な水晶球が放つ輝きであった。
レイは、剣の柄で部屋の鍵を壊すと、扉を蹴破った。
「……何者?!」
術師ヨギが、しわがれた声で誰何する。その姿を見て、レイは眉根を寄せた。
黒い長衣で全身を包み、水晶球を手にしたヨギは、明らかに老婆であった。[西の塔]で目撃した魔術師とはまったく違う。
だがその傍らには、あの黒い妖魔が、闇から浮かび上がるごとくひっそりと控えている。
レイは剣を構え、昂然と問うた。
「やはり貴様が妖魔を操っていたと見える。昨夜の事件は、貴様たちの仕業か!」
「……ほ。いきなりやって来て、何を問うかと思えば――」
盲目らしい濁った眼を剥いて、ヨギは声もなく笑った。その笑みに肯定の意志を読み取り、レイの柳眉が逆立つ。
「非道な……!」
「なに、世の中の塵芥が減ったのじゃ。何を責められようことか」
「黙れ! 玉兎石は何処だ?!」
蒼い眼を怒りに燃え立たせて詰問するレイに、意外な言葉が返った。
「ほ。何のことじゃ?」
「なに……? お前、あの魔術師の仲間ではないのか?」
「儂には仲間などおらん。――おお、昨日の朝捕らえた、かわいい我が子は別じゃがの」
それが嘘ではないことを見抜き、レイは戸惑った。
どうやらこの老婆は、偶然妖魔を発見し、魔力をもって捕らえただけらしい。
術者はその能力で、妖魔に限らずあらゆる生き物を捕らえ、意のままに操る術を持つと聞いたことがある。おそらくヨギも、その術を用いたのであろう。
聖宝を盗んだ相手ではないことを知り、レイは戦う意義を失くした。が、ヨギの次の一言で心が決まる。
「儂は我が子と共に、世のすべての塵芥どもを消してくれようぞ。まずは手始めに、あの若造からじゃ」
ヨギが腕を一振りするや、妖魔が忽然と姿を消した。
次の瞬間、遠く離れたディーンに襲いかかる妖魔の姿が、老婆の水晶球に映し出される。
巨大な力を手にした人間の自我に嫌悪して、レイの唇に蔑みの表情が宿った。
「愚かな……! 貴様のような輩が、身勝手な正義を振りかざすことのほうが何倍も醜いぞ! 妖魔にかけた術を解け。解かねば、貴様の命はない!!」
「やかましや!!」
中剣を振りかざし、踊りかかったレイを、ヨギの魔力が盾となって阻んだ。
青白い火花と共に弾かれ、一回転してレイは床に降り立つ。
瞬間、ヨギの持った水晶球が一際輝いたかと思うと、そこから燃え盛る火の玉が現われ、意志を持ってレイに迫った。
「哈……っ!」
迫り来る火炎を、レイは剣で一刀両断に斬り払った。
断ち斬られた魔術の炎は、すぐに揺らめいて、かき消える。しかし、炎は一つではなかった。雨のように際限なく、消えては現われ、現われては消えてゆく。
レイはそれが、聖宝を盗んだ魔術師よりも数段弱い能力であることに気付いた。
だが、絶え間なく放たれる火炎群から抜け出す糸口が、なかなか掴めない。
縦横に飛ぶ火炎に翻弄されつつも、反撃の機会を窺っていたレイは、ふとヨギが、水晶球を通じて攻撃を仕掛けていることに眼を留めた。
呪術師・妖術師といったわずかな能力 しか持たない者は、霊力を用いて能力 を強化し、行使するという。
――ならば……!
飛び交う火炎を避けながら、レイは剣を掲げると、ヨギの持つ水晶球目がけ、勢いよく投げ放った。
水晶球が、甲高い音を立てて砕け散る。
「――ひゃあああっっ!!」
ヨギが、首を締め上げられたような悲鳴をあげた。一斉に、火炎が消え失せる。
能力の増幅器で、見えない眼の代替であった水晶球を失ったヨギは、もはやただの老婆と同じであった。
歩み寄って来るレイの姿に、無力にも、ヨギはがたがたと震えた。
*
その頃、騒ぎの最中、アラム・ハディルは一人自室に戻っていた。壁掛けを外し、壁裏の隠し部屋に下りていく。
小さな室内で、ハディルは狭そうに肥体を動かして荷物を確かめていたが、やがて満足気に笑った。この場所は、右腕のアリにさえ教えていないのだ。
引き返そうとして、ハディルは、いつの間にか背後に立っていた人影に気が付いた。
「……旦那様?」
「シェーラ! 驚かさないでおくれ。どうやってここまで来たんだね?」
「旦那様のお姿が見えなかったものですから、わたくし心配になって……」
甘えた声で、シェーラが答える。ハディルはほっと彼女の肩を掴むと、強い口調で囁いた。
「おまえなら知ってもいいだろう。妻も同様なのだからね。だけど、他の者には一切口外してはいけないよ」
「はい。ですが旦那様、これは一体何なのでございますか?」
ハディルは、天井高く積み重なった荷物の一つを、丸い指で突いた。そこから、きらきらと白い粉が零れ落ちるのを見て、シェーラが息を飲む。
「金を生む、魔法の粉だよ。わたしが次官様と組んで、痲薬の密輸を行なっているのは知っているだろう?」
「はい」
「それを他へ売りさばくため、一時保管しているのだよ。これは、わたし一人で管理しているのだ」
「まあ……そんな大切な秘密をわたくしに打ち明けて下さったのですね」
「そうだよ。おまえにだけは、知っておいて欲しいのだ」
「旦那様――」
とろけるように囁き、シェーラはハディルの胸に身を投げかけた。
と。
ハディルの肥体が、ふわり、と宙に飛んだ。そのまま勢いよく床に叩きつけられた彼は、何が起こったかを理解する間もなく、うつ伏せとなり、両腕を後ろに捻り上げられる。
「シェ……シェーラ?! な、何をするつもりだっ……!」
恐慌状態に陥るハディルに馬乗りになり、シェーラは、豊かな胸の間から小さな記章を取り出した。金色に輝く、六芒星と鷲の紋章。
「痲薬不法所持の現行犯、および痲薬の密輸・密売の容疑で逮捕します――観念なさいませ、旦那様」
美しい女間諜は、一転した厳しい口調の最後に、妖艶に微笑む。
脂ぎったハディルの顔が、驚きを通り越して灰色になり、ぶくぶくと泡を吹いた。
*
一方、アラム・ハディルの邸宅に正面玄関から乗り込んだディーンは、頃合いを見計らって屋敷の外へ逃げていた。
充分に相手を惹きつけた上で、予定通り古代遺跡・アシャンティの砦へ用心棒たちを誘導する。
邪魔になった外套を脱ぎ捨てた。
剥き出しの右腕に走る一条の傷を見て、用心棒たちの顔色が変わる。
今までの戦いぶりと合わせ、ディーンが戦闘に慣れていることは、火を見るよりも明らかだった。
男の一人が、蛮声を上げて、偃月刀を振り回してくる。
ディーンがそちらを向いた瞬間、別の二人が後方から襲いかかった。
「む!!」
気合いと共に、峰を返した刀で、三人が討ち倒される。
後方からの一刀を浴びた赤い頭布が断ち切られ、はらりと地面に落ちた。
頭布に包まれていた長い黒髪が、まるで滝のごとく流れ落ちる。
髪飾りが、しゃん…と音を立てた。
用心棒たちは一瞬攻撃を忘れ、思わず目を奪われる。
男と女が混同したかのようなディーンは、髪を梳きながら、不敵に笑った。
「やるじゃねぇか。そんなら、今度はこっちも手加減なしでいくぜ!」
黒い髪が、翼のごとく広がった。跳躍したディーンは、怪鳥さながら男たちの間を飛び抜ける。
いずれも手足の腱を切断され、男たちは地面に転がった。
瞬く間に十余名を倒し、残り数名となったとき。
突如、突風がその場に吹きつけた。
鉄の巨体に白い爪牙、赤い獣の眼。額には何か文字が刻み込まれ、その脇に妖魔の証の角が三本、反り返って伸びる。
空間を捻じ曲げて現われた妖魔を認め、ディーンは凄艶に微笑う。
「ようやく来やがったな」
顔にかかる髪をかきあげ、大刀を構えた。
唸り声を上げ、妖魔が飛びかかる。
すばらしい跳躍を見せて、ディーンは妖魔の背後に降り立った。振り向きざま、大刀を擦り上げるように斬りつける。
ところが、鋼鉄並みに強靭な毛皮は、刃を受け付けなかった。妖魔の鋭い爪が、大刀を弾き飛ばす。
「……ちっ」
退いたディーンは、革の腕輪に仕込んでいた棒手裏剣を投げうった。
だが、またも弾かれる。逆に今度は、空気の刃がディーンを襲った。
飛び込むようにして、ディーンは廃墟の柱の陰に隠れる。
ヒュ……。
口笛に似た鋭い風音と前後して、隠れていた柱が斜めに切れ、倒れる。ディーンは地面に転がって、隠れる場所を探した。
逃げる傍から、頑強な石の柱が、乳酪ででも出来ているように易々と切り倒されていく。
剣も手裏剣も利かず、防戦一方となったディーンは、窮地に追い込まれた。
迫り来る妖魔に、ディーンは覚悟を決める。
――これまでか……。
刹那、音ならぬ音が弾け、妖魔の額に刻まれていた文字が消えた。
妖魔の赤い眼から、戦意が失せる。
呪術師ヨギに操られ、ディーンを殺そうとしていた妖魔は、呪縛の源である水晶球が破壊されたために、正気に戻ったのだ。
「な……んだ……?」
そのことを知らないディーンは、状況が飲み込めずに戸惑う。
その間に、先に事態を把握した妖魔が、再び戦意を取り戻した。獰猛な雄叫びを上げて、おのれを操っていたものと同じ臭いのする生き物へ明確な殺意を向ける。
先程とは比べ物にならない強大な殺気に、ディーンの肌が粟立った。
二列生えた鋭い牙が、ゆっくりと迫る。
その時。
ひとすじの銀の光が空を裂いて飛来し、妖魔の眼球に突き立った。
《ギャオオオオォ……ッ!!》
妖魔が、身も凍る叫び声を上げて身悶える。銀の短剣が突き刺さった右眼から、魔力が血と共に煙となって蒸発していた。
「ディーン!」
駆けつけたレイが、大刀を投げて寄越し、妖魔との間に立ちはだかる。
「おい、一体どうなってんだ?!」
「どうやら妖魔は、ハディルの呪術師に操られていたようだ。たった今、その呪縛が解けたところだ」
「何だって?」
驚くディーンの声を背に流し、レイは冷たい美貌に闘志を燃え立たせ、妖魔と対峙した。
中剣を構えて、凛然と言い放つ。
「今度は逃れられぬものと思え。玉兎石の在処を教えてもらおうか!」
レイが投げた短剣は、ただの短剣ではなかった。優れた能力者であった母が、全霊をこめて能力を注ぎ込んだ、聖なる剣だったのだ。
神聖な力に右眼を灼かれ、力の弱まった妖魔にレイが斬りかかろうとした、瞬間。
それを阻むように、突然空間から、大きな犬に似た獣が躍り出た。
「……狼っ?!」
驚愕する二人の前に、同じく中空から一人の男が現われる。
黒装束に全身を隠し、その容貌は明らかではない。だが、圧倒的な存在感が、その正体を告げた。
唯一覗く青い眼に、冷ややかな光が浮かぶ。
「残念だが、これ以上戦わせるわけにはいかぬ。時間の無駄というものだからな」
言うや否や、男の背後に漆黒の空間が広がる。
中空に開いた穴は、すぐに妖魔を捉え、呑み込みはじめた。
「今回は見逃してやろう。だが、次に会ったときは、貴様の命はない」
「な……待てっ!」
追いかけようとしたレイは、眼に見えぬ[障壁]に弾かれ、膝をつく。その隙に、男は妖魔を連れて夜空にかき消えた。
暗い空間が、かすかに揺らいで元に戻る。
妖魔に加え、魔術師の出現に恐れをなしたハディルの用心棒たちは、すでに全員逃げ去っていた。アシャンティの砦に、ただ二人取り残されたレイとディーンは、しばし呆然となった。
やがて、
「大丈夫か?」
地面に座り込むレイの前へ、黒い革手袋をはめた手が差し出された。
深い紫の瞳が微笑う。
「さっきは助かったぜ」
レイはディーンを見上げると、少し微笑んで、その手を取った。
遠くの方から、警戒を告げる呼び子が鳴り響く。
街の明かりにまぎれていた幾つもの松明が、見る間に数を増し、騒ぎを聞きつけた州警察の青い人影が見えてきた。
二人は顔を見合わせて、溜め息をついた。
「――どうしたものだろうな?」
「素直に事情を話すしかないだろう。ま、信用はされないとは思うけど」
ディーンが肩をすくめて答える。
レイは夜空を見上げ、もう一度大きな息を吐いた。
漆黒の夜空には、いつの間にか現われた三日月が、まるで天船のように輝いて浮かんでいた。




