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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第1話 テス――闇月の夜
4/33

1-4

 


 そこは、まさに凄惨の一語に尽きた。

 賑やかな海岸通りから路地を隔てた南区の入り口、市街との狭間にあたる一画で、六人の男がおびただしい血の海の中で横たわっていた。

 ディーンは、まだ固まりきらぬ血痕から、駆けつける数ミヌテないし数十分前に起きたものと推測する。服装などから、男たちが街にたむろする無頼漢であることが見て取れた。

 彼らはいずれも、鋭利な刃物でばっさりと胸や腹を斬られている。首や手足を切断されているものもいた。


 それにしても、凄まじい手練である。

 犯行が単身か複数によるものかは分からぬが、辺りの壁や石畳まで深々と斬り割った刃風の勢いは、常人のものとは思われなかった。

 男たちにどこか見覚えのある気がしたディーンは、彼らの息を確かめて回った。首のない死体を調べ、鋭く舌打ちを洩らす。

 男の右肩で、数時間ホラ前目にした刺青のさそりが、毒々しい赤に染まって息絶えていた。


――アッバス……!


 いわれない敵として憎まれていた相手だったが、こんな死に方をするとは残酷すぎる。

 全員の死を確認し、ディーンは為すすべもなく溜め息をついた。

 立ち去ろうとして、石畳にぽつん、と置き去りにされたものが目に留まる。小さな藁紙わらがみの包みだ。

 不審に思ったディーンは、近づいて、爪先で紙包みを軽く蹴った。血に濡れたかたまりが、わずかに転がって中身を地面に吐き出す。


――人形……?!


 真新しい布製の少女の人形は、よほど丁寧に包装されていたのか、一点の染みもない。

 辺りを見回したディーンは、市街に通じる路地の一角に、ひとつの影を認めた。

 闇に慣れた眼が、その正体を知った瞬間、凍りつく。


「なんて……なんてことを……!」


 震える唇から、悲痛なうめきが絞り出る。

 それは、昼間会ったばかりの露店商人のサルフだった。

 サルフは、右肩から左腰にかけてただ一筋の傷を受け、路地の壁に座るようにしてもたれたまま、絶命していた。

 果物籠を積んだ荷車は真っ二つにされて路上へ投げ出され、売れ残ったカリカやピアの実が、血を浴びて点々と転がっている。

 帰宅の途中で、事件の巻き添えとなったものか。

 唇を噛みしめ、ディーンは、手のひらでサルフの瞼を閉ざした。

 おそらくこの傷では、痛みを感じる間とてなかっただろう。意外なほど穏やかな死に顔をみせる彼のかたわらに、紙屑がひとつ。

 拾い上げたディーンは、それが何であるかを知って、息を詰めた。

 真紅に染め上げられた、一羽の紙の鳥。

 見開かれたディーンの双眸に、堪えきれない涙が溢れる。


「なんで……なんでこうなるんだよ……っ! 親父、まだ死ねないって……そう言ってたじゃないか! そう言ってただろおっ!!」


 サルフは、四日前テスにやって来て、はじめて知り合った友達だった。

 彼の身の上は詳しく知らないが、陽気で楽しくて、あたたかい人柄が何より好きだった。

 サルフの亡骸を抱きしめて、ディーンは嗚咽する。

 銀の屑をぶちまけたような星空だけが、ただ黙って、彼らを包み込んでいた。


   *


 翌朝、砂塵の舞う石畳の上で、商人たちはいつものように露店を広げた。

 帝都から第三番目の自治州として認可されているテスは、二十四の自治州の中でもとりわけ大きく、十の都市を持つ。

 それだけに経済界でも重要な位置を占め、州都エル・ギザに隣接するタリア市にも、いわゆる豪商と呼ばれる人々が住んでいた。だがタリアの市場は、豪商たちの住む北側ではなく、むしろ砂漠に近い南側に、より活気が勝っていた。

 交易都市としての歴史の長さを象徴するように、街には様々な人種が入り乱れ、混血の割合も非常に高い。また血が混ざると共に文化も融合し、独特な開放感のある賑わいを見せていた。

 しかし、その朝はいつもと雰囲気を異にした。紺の頭布シェーシと上着に剣を帯びたいかめしい警官たちが、其処此処そこここに窺える。


 心なしか張りつめた空気の流れる市場を、レイ・セジェウィクは、汗だくになりながら歩いていた。

 レイは、紺色の上着を手に、同色の洋袴(ズボン)と白い麻の襯衣(シャツ)、腰に中剣を差した例のいでたちである。


「あいつめ……見つけたらただでは済まさん!」


 人混みをかき分けつつ、レイは口中で毒づいた。

 夜更けに目を覚ましたところ、机に置いてあったはずの護り石がなくなっていたのである。

 たいして隠すところのない部屋を探し回ったレイは、ディーンが朝になっても宿屋へ戻らないと知ると、当然のように一つの結論に辿りついた。つまり、ディーンが欲にかられて護り石を盗んだ、というものである。

 聖宝奪回を頭の隅に追いやり、ディーンを探しながら歩いていたレイは、息が詰まるほどの人熱れから逃れ、路地へ入った。大きく息を吸い、額や首筋に流れ落ちる汗を拭う。

 まだ朝の鐘が鳴ったばかりだというのに、気温は容赦なく上がり続けていた。何よりも西国の比ではない強烈な日差しが、痛いほど肌に突き刺さる。


 レイは、路地を海に向かって歩いた。ディーンが、浜辺でレイを助けたといっていたのを思い出したからである。

 砂浜には背の高い木々が立ち並び、緑の羽根帽子を被ったような樹冠を風にそよがせている。その間を、幾羽もの白い鳥たちが悠然と舞い、空と海の青さの中で行きつ戻りつしていた。

 初めての土地に油断していたのか。

 突然、レイの行く手を塞ぐように、若い男が二人現われた。


「よう、坊っちゃん。いい服着て、どこかへお出かけかい?」

「白い坊やが、勝手に俺たちの道を歩いてんじゃねえよ。通行料、頂こうか」


 いつの間にか、背後にも仲間らしき男が二人立っている。

 男たちは、褐色の顔に下卑た笑いを浮かべ、腰帯(ベルト)に差した刃物をちらつかせた。掛かっているのは、南方諸国で広く使われる湾曲した片刃の剣、(えん)(げつ)(とう)だ。

 単なる物盗りと判断したレイは、ちらりと向けた眼差しをすぐに前に戻す。


「断る」


 短く告げ、そのまま通り過ぎようとするレイに、男たちの薄笑いが消えた。


「舐めた口を叩きやがって、このガキぁっ!」

「痛い目にあわせてやるぜ!」


 手に手に剣を抜き払い、男たちは一斉にレイに襲いかかった。

 レイは身を沈め、左後方からの一刀をかわすと、正面の男の顔面に上着を叩きつける。そして振り向きざま、右から来た男の腕を掴むや、地面に投げ飛ばした。

 どこをどう打たれたのか、そのまま気を失った仲間の姿に、破落戸ごろつきどもが一瞬退がる。


「てめえ……」

「止せ」


 穏やかに呼びかけるレイは、息一つ乱していない。レイは腰の剣を抜かぬまま、右手を広げて前へ出すと、もう一度言った。


「やめろ。無益な争いはしたくない」


 右の中指にはまった指輪が、テスの陽光にきらりと輝く。

 獅子の横顔が刻まれた幅広のその指輪は、紛うことなき統一世界(カナン)公認の剣士のあかしであった。

 指輪の色は金。階級としては第二位の日位(にちい)である。


「分からぬのか。私は剣士だ。これ以上戦えば、怪我をするのはお前たちだ。退くがいい」


 だが、争いを避けようとする言葉が、かえって男たちの激情に油を注いでしまったようだ。


「ぬかしやがったなっ!」

「てめえが剣士なら、この場で倒して俺たちが名を上げてやるぜ!」


 叫ぶや、男たちは再び剣を振りかざした。

 レイは柳眉を顰め、真っ向から斬りかかってきた剣を、ふわり、と避けた。と、気がつくと左の男の脇に立っている。


「ぐ……っ!」


 驚きの声を上げる間もなく、脾腹を拳で突かれ、一人が倒れた。次いで、正面にいた男も足を払われ、首筋を手刀で強打されて昏倒する。残るは一人。

 軟弱そうな若者に、いとも簡単に仲間が倒されてしまった男は、訳も分からずに奇声を発して長刀を振り回してきた。


「わあああっ!」


 びゅんびゅんと空を舞う切っ先に、レイは身を屈め、下から男の手を蹴り上げた。勢いづいていた長刀が、風を切って跳ね飛ぶ。得物えもののなくなった男は、レイの右足を顔に、(たい)を返した左足を側頭部に受け、あっけなく地面に伸びた。

 レイは汗を拭うと、上着を拾い上げて埃を払った。

 直後。

 最初に倒したはずの男が、いつの間にか息を吹き返して、背後からレイの身体を羽交はがい絞めにした。


「卑怯な……!」


 強靭な腕で喉を絞め上げられ、レイが呻く。無頼ぶらい生業なりわいとする男は、薄く笑って嘲った。


「間抜けなガキだ。卑怯だろうがなんだろうが、勝ったほうが正しいんだよ……!」

「――じゃあ、やっぱりお前は悪人、だな」


 どこからともなく、艶のある低声がそう告げた瞬間。

 灰色の影が降下し、レイを掴んでいた男は、どう、とばかりに地面に倒れた。

 すでに倒されていた三人の男たちを眺め、


「ほお、たいしたもんだ。助けるまでもなかったかな」


 影と見えた灰色の人物が、外套の頭巾(フード)を脱ぐ。

 現われた人物の顔に、膝をついて息を整えていたレイは、目を疑った。


「……セレスディーン・グラティアス!」

「よお、大丈夫か」


 ディーンが朗らかに、片手を差し伸べる。

 レイは、その手を払いのけて起き上がると、激しい剣幕で詰め寄った。


「グラティアス。貴様、私の護り石をどうした!」


 居丈高な態度にディーンは吃驚びっくりしたようだったが、すぐに底意地の悪そうな笑顔になる。


「ああ……あれか。欲しけりゃついてきな」

「どういう意味だ」

「意味なんざ、てめえで考えろ」


 言い捨て、ディーンは頭巾フードを被り直すと、荷物を肩に担いで、滑るように路地を走り出した。仕方なく、レイもその後ろを追いかける。


 やがて二人は、 海岸の[紅華亭(ルビアンサス)]に辿り着いた。中途半端な時間のせいか、往来にも人の姿は見当たらない。

 ディーンは人目を避けるように、そっと開店前の店の戸を叩いた。


「誰だい?」


 顔を覗かせたルビアが、驚いて何か言いかける。それをディーンが、頭巾フードの下から目顔で遮った。

 緊迫したものを悟ったのか、ルビアは無言で店の扉を開け、二人を招き入れた。


「忙しい時に悪いな」


 短く謝り、ディーンは、街で会った友人としてレイを女たちに紹介する。

 開店の準備をしていたドーラとナナも、驚きを隠せずにディーンたちを出迎えた。


「どうしたんだい、こんな時間に」

「アッバスが死んだ。いや――殺されたって言ったほうが正しいな」


 ディーンの一言に、女たちが息を飲んだ。


「まさか……」


 蒼白となるルビアに、ディーンはきっぱりと言いきる。


「俺が殺したんじゃない」

「分かってるよ、そんなこと。……どういうことなのさ?」


 ルビアに促され、ディーンは昨夜の事件のあらましを語った。


 殺されたならず者と思われる六名の男と露店商人は、いずれも鋭利な武器で斬り殺されていた。

 極めて強靭な刃を用いたらしく、一撃で骨まで断たれた死体は、ばらばらの酷い有様だったという。よほど恨みが深いのか、狂者の仕業か、奇妙なことに人間だけでなく、辺りの石畳や塀も同様に斬り刻まれていたようだ。

 常軌を逸したこの犯罪は、すぐさま州警察の捜査の及ぶところとなった。当初警察は、この事件を通り魔による無差別殺人としたが、アッバスの首だけが発見されなかったことから、意図的な殺人であると推理した。その判断には、彼の情婦をめぐっての一昨日の乱闘騒ぎが念頭にあったのだろう。


 近くで酷い殺人事件が起こったことは噂には聞いていても、まさか顔見知りが殺されたとは思っても見なかったルビアたちは、ディーンの話に強い衝撃を受ける。

 同時にレイは、今朝見た街の物々しい様子に納得をした。


 殺人の狙いがアッバスであるとすれば、その容疑者の筆頭はディーンである。

 ちまたで乱暴を繰り返していた彼らを恨む者が他にいないとは言えないが、乱暴といっても無銭飲食や恐喝、窃盗程度で、凶悪な犯罪に手を染めていたわけではない。

 一昨夜の騒ぎは、殺人の動機として成り立つとは言わないまでも、疑いをもたれるには充分だった。

 心配そうに、ナナが尋ねる。


「それで……これからどうするの?」

「この若さで牢獄行きは勘弁したいからな。とりあえず、他国(よそ)へ逃げるさ」


 弱腰なディーンの発言に、レイは疑問を口にする。


「無実なら逃げる必要などないだろう?」

「旅行符も持たない他国人(よそもの)で、しかもアッバスと争ったことは大勢が知っている。それに、あいつらが殺される直前にも一揉めしたし、犯人の次に現場に駆けつけたのは、おそらく俺だ。そこを誰かに見られていないとも限らないからな」

「犯行の時刻に、現場にいなかったことを証明できれば……」

「無理だね。その時間にはここで飲んでたけど、相手の男は初対面だし、店も混んでいた。周りの客や女将たちも、俺がずっとここにいたと断言できるわけじゃない」


 最悪な状況にある当人は、極めて冷静な判断を下した。


「ま、逃げるが勝ちってことだ。命あっての人生だからな」


 確かに、あれだけの惨劇をディーン一人で為しえたと考えるには無理がある。だが、人間の所業とは思えぬその凄惨さゆえ、警察はいかにしても犯人を検挙せざるを得ないのだ。それが例え冤罪としても、誰かを血祭りに上げなければ、民衆の不安は消えやすまい。

 公正な捜査など願うべくもない。犯人として今一番適当なのは、ディーンなのだ。

 堂々とまかり通る不条理に、レイは苦い気分になる。

 その場の重い空気を破ったのは、当のディーンだった。


「そんなことよりもさー。なんか食うもんない? 俺、もう腹が減って死にそう」


 腹をさすりながら、情けない顔でドーラに哀願する。


「ちょうど今できたところだよ。ちょっとお待ち」


 いつでも〝できたばかり〟の料理を食べさせてくれるドーラが、大きな身体を揺らして厨房へ向かう。

 そこでようやく張り詰めていたものが解け、ルビアたちにいつもの元気が戻る。


「二人とも、楽にしておおき」


 言い置いて、女たちはてきぱきと働き始めた。

 ディーンは、外套をむしり取るようにして脱ぎ、壁際の椅子に座った。

 長袖の上着に代わって袖のない黒い胴着(ベスト)を羽織る以外は、昨日の服装と同じだ。

 レイは、細身に見える浅黒い肢体が、鍛えられてできたしなやかな筋肉の束であることに気付く。

 身体に刻まれたいくつもの薄い刀痕。そして右の二の腕に走る一筋の生々しい傷が、彼をより精悍に見せた。


――かなり遣うな……。


 剣士であるレイは、先刻の身のこなしと合わせ、彼の実力を相当なものだと見抜く。ふと、ここにやって来た目的を思い出した。


「グラティアス、護り石はどこだ?」

「ディーンでいい。とりあえず、食べてからにしようぜ。まだ逃げるつもりはないから、安心しな。ここの魚料理は絶品だぜ?」

「あ……ああ」


 レイは、ディーンに言われて初めて、空腹であることに気がついた。十数万公里(ミール)を亜空間で移動したので時差があるとはいえ、それでも水以外、一日近く何も口にしていないのだ。

 おとなしくディーンの隣に腰かけたレイは、ここが海と砂漠に面した南国の境にあることに思い至る。


――魚料理……。


 内陸で生まれ育ったレイの食生活は、森で獲れた鳥や兎、山菜等が中心であった。海の幸は帝都で食卓にのぼったのが最初で、しかも丹念に加工されて味など分からなかったというのが本当のところだ。食べ慣れているとは、とても言い難い。

 店内にたちこめる磯の匂いに、嗅いだこともない刺激的な香辛料が絡み合い、濃厚に鼻を刺す。

 厨房から漂う異国の香りに、レイは急に不安になった。

 レイの思惑など露ほども知らず、ディーンは嬉々として料理を待ち構えている。


「――お待ちどおさま」


 両手いっぱいに皿を抱えて、ルビアとナナが現われた。


   *


 絶品、というディーンの表現は、あながち嘘ではなかった。

 素材が新鮮なせいか、心配していた魚の生臭さはほとんどなく、軽い口当たりは肉よりも芳醇ほうじゅんだ。大量に加えられた香辛料も、複雑な辛さがかえって後を引き、味わうものの食欲をそそらずにはいられなかった。

 三杯目のスープを飲み終え、目の前に空の皿を山と積み上げて、ディーンは満足気に口の端を拭う。

 隣で慎ましく食事を終えたレイが、呆れを通り越し、むしろ感心してそれを眺めた。


「こんなにたくさん、どこに入るんだ?」

「食べられる時に食べておかなきゃな。これで、いざって時は二、三日食わなくても平気だ」


 ディーンは、まるで冬眠する熊のようなことを言う。


「ところであんた、金持ってる?」

「いや」


 当然といったレイの態度に、女たちが唖然とする。ディーンも苦笑して、


「そんなことだろうとは思ってたけど……とんだお姫さんだな」

「なに……」


 理解はできずとも揶揄されていることは分かったのか、剣呑になるレイに、だが慣れてきたのか、ディーンは構わず続ける。

 

「あんた、金も持たずに、どうやって飯食ったり泊まったりする気だったんだよ。持ってなけりゃ、作ればいいだろ?」

「金を作るとは、どういうことだ?」


 きわめて真面目に、レイが問い返す。

 帝都にいた頃は勿論のこと、エファイオスでも神殿の外へ出たことのないレイは、物を売り買いするということなど、知識でしかない。ましてや、金を持ったことすらないのだ。

 ディーンの顔が引きつった。


「……分かった。ここは俺が立て替えておく。後で絶対返せよ」

「おや、気前がいい」


 ルビアの皮肉に、ディーンはにやりと笑って、


「十倍返しを狙ってるのさ。女将、ちょっと二階(うえ)を借りてもいいかな?」

「構わないよ」


 目顔でレイを促し、二階へ上がった。

 [紅華亭]の二階は四つの小部屋に分かれており、客や従業員の休憩の場となっている。一昨日の夜アッバスと争った時も、ディーンはここでアイシャと〝密会〟していたのだ。

 ディーンは、階段を上った右手の一室に入ると、奥の引き上げ窓を大きく開け放った。生暖かい海風が勢いよく部屋になだれ込む。

 窓にもたれ、ディーンは、不審もあらわに着いてきたレイへ、何か光るものを放ってよこした。

 宙でそれを掴み、手を開けたレイは目を瞠る。


「これは……!」

「大事なものなんだろ。鎖が切れてたから、直しておいた」


 レイの手の中で、金鎖につながれた護り石は、少しの傷もなく青く輝いていた。

 早合点を悟り、レイは赤面する。


「どうやら誤解をしていたようだ。すまない」

「じゃ、恩を売ったところで本題に入ろうか」

「本題?」


 ディーンは潮風を背に受けながら、何気なく問いかける。


「あんた、泥棒を追いかけて来たって言ったけど――それって、妖魔じゃないのか?」

「!」


 瞬時にレイの顔が強張こわばる。


「なぜ、そのようなことをく?」

「昨夜のあの事件は、常人の仕業とは到底思えないからだ。だけど、この近辺で魔術師や妖魔が現われたって話は、数百年の間ひとつもない。だとすれば、その朝に突然現われた得体の知れない泥棒とやらを疑うのは当然だろう。空間移動トランスフェーズは、妖魔しかできないからな」

「……」


 レイは沈黙した。おそらくディーンは、昨夜の惨劇を妖魔の仕業だと考えているのだろう。

 彼の話から同じように妖魔の存在を感じていたレイは、覚悟を決めて頷いた。


「――そうだ。私は、妖魔を追ってここへ来たのだ」


 その答えに、ディーンは固く眼を閉ざす。


「そうか……。これであんたは、目指す敵の目処めどがついたってわけだな」

「おそらくは、そういうことになるだろう。察するに、アッバスたちは偶然妖魔を目撃して、殺されたものだろうが……」


 何となく釈然としないものを感じ、レイは言葉を濁した。

 妖魔がテスへ来たのは、レイと同じ早朝のはずだ。だが、事件はその夜、しかも到着した海岸の近くで行なわれている。それまでの間、妖魔は一体、何処でどうしていたのか。あれほど目立つ生き物が、半日以上も人の目に触れずいられるものなのか――大切なことが、どこか欠けている気がする。

 考えあぐねたレイは、銀髪をかきあげ、ため息をついた。


「何にせよ……酷い事件だ」

「ああ」


 癖なのか、ディーンは手の中で、小さな紙屑をもてあそんでいる。

 レイは護り石を首に掛け直すと、窓辺に歩み寄り、ディーンの隣に立った。


 タリア湾に面した[紅華亭]では、二階のどの部屋からでも海が見える。

 今日はまた、一段と快晴であった。

 まばゆい陽光の下、白い雲と浜辺が競うように照り映え、見渡す限り広がる海は、複雑に光を折り返して幾層もの青色に揺らめいている。その景色は、店の名となった華やかな赤い(ルビアンサス)の生垣が窓辺から飾るだけに、一層鮮やかに、神秘的に映った。

 レイは、しばらく無言でその景色を眺めていたが、


「これが、海なんだな……」


 ぽつり、と呟いた。ディーンが驚いて振り返る。


「見たことないのか?」

「ああ、ずっと内陸で育ったからな。想像していた以上に、美しいものだな」

「へえ……ってことは、ひょっとして魚もさっき初めて食べたとか?」

「ああ。初めて、に近いな」


 その答えに、ディーンの眼が真ん丸になる。


「金のこともそうだし、あんた、したことないことばっかりだな」

「そうだな。ここへ来て、新しい経験ばかりだ――皮肉な話だな」


 事実を述べただけの言葉に自嘲が滲む。

 聖宝が盗まれ、エファイオスでの平穏で閉鎖的な生活が破られなければ、レイが今ここにいることは決してないだろう。

 ディーンは窓枠に両肘をつき、身を丸めるようにしてレイを見上げた。


「きっかけなんてそんなものさ。人生、何が起こるか分からないからな」


 実感をこめて言う。そう年が違うようにも見えないが、親しみやすい、軽い調子の彼の態度の影には、どこか大人びた冷めたものがあった。


「ま、分からないからおもしろいんだけどな」


 レイは、そう言って笑うディーンの瞳が、深い紫色をしていることに気が付く。


――珍しいな。


 世界が統一されて混血が進む現在、青や緑、金茶など様々な色の眼の人に会ったことがあるが、紫の瞳の人間など、レイは今まで一人しか知らなかった。その人の瞳は、彼よりもはるかに澄んだ、美しい紫水晶(アメジスト)の色であったけれど。


――だけど、もう一人……もう一人どこかで会ったような……。


 レイが想いに捕らわれていると、慌ただしく部屋の戸を叩き、ナナが飛び込んできた。


「どうした?」

「アイシャが来ちゃったのよ。アッバスのことを聞いて、すごく取り乱してる。悪いんだけど、ディーン……お願いできる?」

「分かった。行こう」


 ナナとディーンに続いて階段を下りたレイは、食卓に座って泣いている若い女性を見つけた。

彼女の両脇では、ルビアとドーラが懸命に慰めの言葉をかけている。

 豊かな黒髪を垂らしたアイシャは、階段を下りてくる人に気付き、はっと顔を上げた。

 年の頃は十七、八。黒々とした大きな瞳と、肉感的な唇が魅力的な女性だった。


「アイシャ、大丈夫か?」

「ディーン!」


 アイシャは、椅子を跳ね飛ばして立ち上がり、彼に抱きついた。胸に顔を埋めて泣きじゃくる。

 ディーンは痛ましそうに、アッバスの情婦だった女の髪を、そっと撫でた。


「あいつも運が悪かったんだ。誰のせいでもない」


 ディーンの慰めに、アイシャは涙まみれの顔を上げる。

 やり場のない怒りと哀しみが、彼女の瞳に炎を宿していた。


「違うわ! あいつのせいよ。あたし知ってるんだから。あいつが……あいつがアッバスを殺したのよっ!」


 それは、一滴の毒のように全員の顔色を変え、恐ろしい沈黙をその場にもたらした。

 ディーンが、アイシャの腕を掴んで問いただす。


「どういうことだ、アイシャ。誰がアッバスを殺したっていうんだ?」

「――アラム・ハディルよ」




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