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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第4話 エデン――この夜(よ)の果て
26/33

4-4



 白いもやが、風のように眼の隅に現われては、流れ消える。

 それが雲だとディーンが気付いた瞬間、視界が晴れ、真っ青な空に包み込まれた。


「う……わっ!」

「すごいな」


 隣で、同じく獅子のたてがみに顔を埋めたレイが感嘆する。

 ディーンは首をのばし、ゆっくりと辺りを見渡した。

 九曜の魔力か、目に見えぬまくのようなものが彼らを覆い、獅子が切り開いて進む大気の圧力に、淡く青白く発光していた。

 普通ならば息もできぬ速度なのだろうが、風はほとんど感じられず、息苦しさもない。

 安定した飛行の中、体を動かしても平気だと悟った二人は、上体を起こした。

 眼下には、白い砂漠が無限に広がっている。

 振り返るともう、ラ・カスパ村は、小さな点となっていた。


《レイ》


 獅子となって天空を翔る九曜が、声をかけた。

 通常の肉声とは違うその声は、頭に直接伝わる不思議な響きだった。


「何だ?」

《目的地を確認したいんだけど、できるかな?》

「分かった」


 レイは、片手で体を支え、首に下げた護り石を取り出した。聖母によって強い霊力を得た石が、鮮烈な輝きを放つ。

 青い輝光は雲海を渡り、はるか彼方までまっすぐに伸びた。


《ようし。じゃ、超特急で行くよ》


 獅子が、勇ましい咆哮をあげる。


《落っこちないでよ!》


 九曜は、再び力強く四肢で空を駆り、翼を大きく動かして、護り石が指し示す方へ舵をとった。

 吹きすぎる雲間から見える大地は、いつしか白から炎のような赤銅色に染め変わっていた。

 そうして太陽が雲の切れ間に沈み、天上がほんのりと黄金の黄昏に浸った頃、獅子はようやく徐々に降下をはじめた。

 雲の下では、もう夜が、星のきらめく闇を広げていた。

 野営に適した大きな岩の傍に、獅子は翼をそろえ、軽やかに舞い降りる。


《ひとまず休憩ね》


 九曜は大地に伏せると、二人の人間を背から降ろした。

 レイとディーンは浮遊感が抜けず、しばらく足元をふらつかせていたが、獅子のたてがみから荷を解いて、野営の支度に取りかかる。

 九曜は翼を体内へ収納すると、魔力を弱め、その姿を変えた。

 しかしそれは今までの少年ではなく、獅子の面影を残した一匹の毛の長い仔猫の姿だった。

 前足をつっぱねて伸びをする仔猫を見て、ディーンが首をひねる。


「なんだよ、その格好」

「鈍感な人間には分からないだろうけど、さっきいた場所とは比べものにならないほど妖気が充満してる。この先どうなるか、考えものだね」


 猫の顔のまま、九曜は少年の声で答えた。

 ディーンは、後ろの連れに聞こえなかったかと振り返り、分からぬよう仔猫を小突く。


「馬鹿! そんなこと、絶対あいつの前で言うんじゃないぞ。ただでさえ、ぎりぎりでお宝を取り戻せるかって時なんだ。そんなこと聞いたら、魔王がどうのといらねえ心配するだろーが!」

「ごめんごめん」


 仔猫は、ぺろりと舌を出した。

 ディーンは猫のやわらかい首根っこをつまみ上げ、顔を寄せた。小声で、


「――本当なんだろうな、妖気が強いって話」

「僕は妖魔だよ。気付かないでどうするの」

「それってやっぱ、魔王のせいなのか?」

「まだ距離があるから断言できないけど、多分、ね」


 その返事に、ディーンは渋面を作った。


「レイには絶対言うんじゃねーぞ!」

「分かってる」

「ところで、妖気とその格好とどういう関係があるんだよ?」

「こんな危険なところで、軟弱な基本形態(ベースフォーム)はとれないよ。かといって、あの格好じゃ敵に居場所を知らせているようなもんだし……」

「ふうん。いろいろ変えられて便利だな」

「ま、ね。中間形態(ミドルフォーム)でいる限り、また襲われても魔力を封じられるような馬鹿な真似はないからね。用心しないと」

「――襲われた?」


 ディーンの眉がつい、と吊り上がった。

 彼が寝ている間に陵とリュカオンの攻撃を受けた九曜は、レイに黙っているよう言われていたことを思い出し、慌てて両方の前足で口にふたをする。

 妙に人間っぽいその仕草に、ディーンは恐い顔で詰め寄った。


「白状しろ!」


 妖魔のさがで嘘のつけない九曜は、すっかり一部始終を話してしまう。


「余計な心配させるからって、レイに口止めされてたのに……」

「おまえが悪いんじゃない。まったく……そういう態度が余計だっていうんだよ」


 言葉の後半は、九曜へ向けたものではなかった。ディーンは、岩陰で火を起こす銀髪の連れに、苦い一瞥をくれる。

 負担をかけまいとするあまり、一人ですべてを背負い込もうとするレイが腹立たしく、それを補いきれない自分が情けなく、悔しくてならなかった。

 お互いの思いやりがすれ違う二人の人間に、九曜は小さくため息をついた。


   *


 砂漠の旅での唯一の楽しみと称する食事が終わっても、ディーンは不機嫌なままだった。

 ぎこちない会話のまま、見張りの当番ではないレイは、一人天幕(テント)へ向かう。


「お休み」

「おう」


 顔を合わせもせず応え、ディーンは焚火に小枝を投げ入れた。

 たちまち小枝が火に絡めとられて燃えていく様を見つめる瞳は、いつもの覇気がない。


――どうかしてるぜ、俺は……。


 洩れるともない嘆息が、口から洩れる。

 傍らで丸くなる仔猫の耳が、ぴく、と動いた。

 一年間旅をしてきて、相手の事情をとやかく聞かないというのが癖になっていたディーンは、本人が素性を隠したい以上、追求するつもりはない。それは、このいわくありげな宝探しについても、同様である。

 話しても大丈夫だと相手が判断した時に、自然と事情は分かることだ。

 だが――。

 ディーンはもう、自分の心が分からなくなっていた。

 レイを見るたびに男だと確信したり女かと疑ったり、そのつど揺れ動く激しい気持ちの浮き沈みに翻弄される。その苦しみから早く抜け出すことを望む一方で、この旅が終わらないことを願う自分がいる矛盾。


――俺はどっちを望んでいるんだ……?


 もう一度息を吐いて夜空を仰いだディーンの腕に、ふと、やわらかなものが触れた。

 白い仔猫の姿を認め、濃い色の瞳が和む。


「なんだよ、起きてたのか」

「ねぇ、ディーン」


 九曜は小首を傾げて、名付け親の少年を見上げた。


「レイのこと、好きなの?」

「……」


 彫りの深いディーンの顔から、表情が消える。


「馬鹿言え。あいつは〝男〟だぞ」

「そんなこと気にしてるの?」

「そんなことって、おまえなー……」

「僕は、ディーンがレイのこと好きだから助けに来たり、一緒に旅をしてるんだと思ってた。違う?」

「――いい奴だぜ、あいつは。帝都の貴族にしてはな」

「十二年間神殿で育った人が、帝都人(アイテリアル)の感覚を身につけているわけないでしょ。西の大神殿とはいえ、神殿暮らしは質素かつ堅実が信条。中流階級の平民と暮らしぶりは変わらないよ」

「へえ。だからあいつは、ああも真面目なのか」


 九曜は猫の顔をしかめ、


「話をそらさないで。帝都人ってことが問題なの?」

「金持ちや貴族連中以外に、帝都を好きって奴はこの世にはいねぇよ」

「じゃあ、なんで旅についてきたのさ?」

「――」


 さあな、と口中で呟き、ディーンは沈黙した。

 自分でも想いを持て余しているような態度に、九曜も無言になる。

 火の衰えた焚火に再び枝を投げ入れたディーンは、仔猫の前足に、くたびれたように包帯が巻きついているのに気付いた。


「まだ痛むのか?」

「……あ」


 言われて九曜は、自分の前足に目を向けた。昼間転んで擦りむいた傷は、きれいになくなっている。獅子に変化した時高まった魔力のおかげで、意識する前にそれは治癒されたのだ。


「じゃあ、もうこれはいらないな」


 ディーンは、血のついた包帯代わりの手拭を取った。

 九曜はもの言いたげにそれを見ていたが、何も言わなかった。

 包帯のなくなった前足をじっと眺める仔猫の首に、ふいに、ちゃら、と冷たいものが回される。

 ディーンが、左手にしていた腕輪をかけて笑った。


「似合うじゃねーか」


 穴を開けた古い硬貨が、ちょうど飾りとなって、ほの白い胸にぶら下がる。


「だけど、これだとこの格好の時しか付けられないな」

「平気。大きさに合わせて魔力で自由に変えられるから」


 答えて、九曜ははっと口を閉ざす。

 これでは気に入ったと言わんばかりではないか。

 猫の姿のまま困る妖魔を眺め、ディーンの顔に満面の笑みが浮かんだ。


「そいつは良かった」

「何が言いたいの、その眼は」

「いやあ、よく似合う。うんうん」


 言いながらディーンは、くつくつと肩を震わす。

 九曜がむくれた。


「なにさ?! 言いたいことがあるなら、はっきり言ってよねっ」

「馬鹿、怒鳴るなよ。レイが起きる」


 笑いながらたしなめるディーンに、やわらかな低声が答えた。


「――もう起きている」


 天幕(テント)の布の扉を持ち上げ、レイが姿を見せる。

 ディーンと九曜は、ばつが悪そうに顔を見合わせた。


「悪い。起こしちまったか」

「いや。うとうとしていただけだ。何となく眠る気がしなくてな」


 そう言ってレイは、荷物から、葡萄酒(ヴィーノ)の入った水筒を取り出した。


「飲もう」


 二人の連れの目が、驚きに丸くなる。

 生真面目なレイが自分からそんなことを言い出すとは、思いも寄らないことだった。


「どうした? どうせ眠れないなら、このまま起きていても同じだ」

「おまえ、こういうときになあ……」

「こういうときだから飲むんだ。ほら」


 レイは笑って、葡萄酒を注いだ杯をディーンに手渡した。

 ディーンは、連れの思いがけないきもの太さに驚きつつも、微笑んだ。

 九曜にも、口の広い器に葡萄酒を注いで置く。


「では、無事に玉兎石を取り戻すことを祈って」

「俺たちの未来に」


 口々に言い、レイとディーンは酒杯を掲げた。

 自然と、笑みが洩れる。

 九曜とも乾杯をして、二人は杯を干した。

 酒を呑んだことのない九曜が、つられて器に口をつける。途端、舌を出して身悶みもだえた。


「うえぇ。にが……」

「さすがに酒は口に合わなかったな」


 レイが破顔した。

 冷たい印象の美貌は、笑うととてもやさしくて暖かい。

 人の心を和ませるその笑顔が、ディーンは好きだった。

 二杯目に口をつけつつ、ディーンは自分の想いをようやくはっきりと自覚する。


――俺はこいつに惹かれている。


 その想いは、どんな強い酒でも消すことはできなかった。


   *


 アル・リマール砂漠の終焉と称されるフィーネ山脈は、長年外界からの侵入を阻み続けてきた、世界の壁である。

 九曜の翼はその壁を軽々と飛び越え、未知の世界へと二人をいざなった。

 赤い岩肌に覆われた鋭い尾根を越えると、突然、一面に深い緑の谷が現われる。

 椰子、ジュラ、その他名前も分からぬ木々が濃淡の模様をつくり、四本に分かれた川が模様を分断している。中心となるその川の上流に、小さな村落があった。

 〝エデン〟である。


 レイとディーンは九曜の背から、想像もしなかった豊かな大地を見下ろしつつ、原罪者の村に辿り着いた。

 獅子は、軽やかに空を蹴って村落の上を旋回すると、森に程近い広場へ降り立った。

 村人は、明らかにアルビオン人のどの部族とも似ていなかった。肌は赤銅色、髪と瞳は黒から茶色。彫りは浅めで、鼻梁は幅広く、高い。背は低くないが、どちらかというとがっしりとした体型で、全身に刺青を施していた。

 一部を布で覆うだけの半裸ながら、長く伸ばした頭髪と、個々人が違う模様の刺青が描かれた肢体は、まさにそれが天然であるような見事さだった。

 空から降りてきた異邦人に、村中の仕事の手が止まり、視線が集まる。

 だがそれは、警戒や不審ではなく、純粋な興味の眼差しであった。

 戸惑いながらレイとディーンは獅子の背を降り、村人の前に立った。浮遊感などとはいっていられない緊張のもと、無言で取り囲む村人へディーンが愛想笑いを見せる。


「ど……ども」


 すると、ディーンと眼の合った老年の男性は、にっこりと笑い、両手のひらを胸の前で合わせて会釈した。

 顔を見合わせるレイとディーンの前で、村人たちが、声もなく左右に分かれていく。

 自然とできた道を、集落の方から数人を伴って、一人の若い女が歩み出てきた。

 女は地位のある者なのか、白い貫頭衣風の衣服を纏い、右腕に金の腕輪を嵌めている。髪は肌と同じ赤銅色で、濃い眉の下の瞳は、野生の鹿を思わせた。

 突然の来訪をレイが詫びようと口を開いたとき、女が、二人の前で深々と膝を折った。


「お待ちしておりました、(アステリオン)よ。火人の村へようこそおいでくださいました」


 なめらかな統一言語(アリンガム)で言うや、右手を胸に当て、帝都式の礼をする。

 村人も両手を合わせ、女と共に頭を下げた。その数は、いつのまにか数十名にまでなっている。

 驚きを隠せない二人に、翼の模様の刺青をした女は、顔を伏せたまま告げた。


「わたしの名は〝炎の鳥〟。おさの命により、お迎えにあがりました」


 彼女が合図をすると、二人の男が進み出て、獅子の背の荷物を取りあげて担ぐ。


「どうぞ、ご案内いたします」


 炎の鳥と、もう一人同じような服装の娘が現われ、村の中へレイたちを促す。

 訳が分からないまま、レイとディーンは歓迎してくれている様子の彼らに、素直に従った。

 村では身分による優劣があるようではなく、広場をちょうど二分する中央の道の左右にほぼ均等に家が立ち並んでいる。

 家は、棕櫚の葉の屋根に木を組み合わせた高床の造りで、ほっそりとしたしなやかな印象であった。

 そのひとつへ一行は向かい、


「こちらへ、どうぞ」


 もう一人の娘が、ディーンをその反対側に位置する家へ案内する。

 仔猫の姿になってついてきていた九曜は戸惑って立ち止まったが、ディーンに目顔で促され、レイの後ろに続いた。

 炎の鳥が、レイを先導しながら小声で教える。


「我々火人かじんは、成人した男女は同じ家で生活しないのです」


 どきりとするレイに、炎の鳥は、安心させるように微笑んだ。


「大丈夫。彼はこのことを知りません」


 まるで全てを承知しているようなその態度に、レイははっと、ラ・カスパ村で聞いたことを思い出した。


――すべてを見抜く眼……これがその力か。


 レイたちが来ることも、前もって分かっていたようであった。

 この様子では、聖宝を探していることも知っているに違いない。

 千里眼というのか、法術師でもこうはいかないその能力に、レイは内心舌を巻いた。

 火人というらしい彼らが、如何なる理由で〝原罪者〟となったのか、その事情は知らなくとも、彼らの能力が社会で排斥される理由はよく分かった。

 社会は多くの嘘や偽りで出来ている。特にその根幹を成す者たちにとって、真実を見抜く眼とは危険すぎる両刃もろはの剣であるに違いない。


 炎の鳥が案内した家は、他の家々から少し離れたところに建っていた。

 細い梯子をのぼって家に入ると、中は見た目よりも広々として涼しい。

 板張りの床はきれいに掃除してあり、水差しと、赤い花が一輪花瓶に生けてあった。

 直接おさに引き合わせてもらえるものと思っていたレイは、困惑した。


「我々にはあまり時間がないのだ。すぐに長に会わせてもらえないだろうか」

「星よ、焦らないで下さい。あなたは疲れています。物見の支度が整うまで、ここでお休み下さい」


 炎の鳥はなだめるように言い、荷物持ちの男と共に家を立ち去った。


 一方ディーンは、同じような造りの少し狭い家に通されていた。

 彼を連れてきた娘は〝白い篝火かがりび〟といった。


「どうぞしばらくここでお待ち下さい」

「ありがとう。あ、ひとつ聞いていいかな?」

「何でしょう?」


 つややかな黒い髪に一房の白髪をもつ娘が、わずかに首をかしげた。

 全身に花のように描かれた刺青は、名前からすると炎なのかもしれない。

 いくらか年長に見える娘へ、ディーンは、何気なく問いかけた。


「火人って、妖魔狩人(ハンター)と何か関係があるのか?」

「……」

「違っていたらごめん。だけど、以前カラム国で会った妖魔狩人(ハンター)も君たちと同じような刺青をしてたから……」

「我々火人は、原罪の償いとして数多の妖魔を狩らねばならぬ身。あなたが出会ったのも、その一人でしょう」

「じゃあ、君の知り合いかもしれないな。年は俺より一つ上で、確か名前は――〝火の眼を持つ者〟っていったかな」

「!」


 火人の娘が、激しく身じろいだ。答えようと口を開きかけた、そのとき、


「――そのような者は村にはおりません」


 突然現われた炎の鳥が、厳しい口調で言った。白い篝火が、驚いて振り返る。


『姉さん!』

『トウシャア、何を無駄話しているの。さっさと自分の役目に戻りなさい』


 炎の鳥は、村の言葉で白い篝火を叱りつけた。

 白い篝火は、呆気にとられるディーンをすまなそうに見やり、


「失礼します」


 頭を下げると、炎の鳥と共に立ち去った。

 三十分ほどして、再び白い篝火がやってきた。


「支度が整いました。どうぞおいで下さい」


 ディーンは白い篝火に案内され、村の中央道路を南へ向かった。

 集落を抜け、九曜が降りた広場とはほぼ真反対に位置するそこは、もう木々は見えず、渺渺とした白い荒野が広がっている。その荒野との狭間に、エデンでただひとつの石造りの建物があった。

 黒にも緑にも見える、鈍い光沢を帯びた御影石で造られた重厚なその建物は神殿のようで、長い石畳の坂を備え、正面中央には巨大な炎が揺らめいている。

 幾層にも割れた黒い石台の上で燃える炎は、不思議なことに、わずかに台から浮いており、火を灯す芯も油さえも見当たらない。


「永遠の炎――我々火人の守り神です」


 白い篝火が告げた。

 炎の不思議もさることながら、光明神教(ルクシオン)が布教するこの統一世界(カナン)で、火を神と言い切る彼らにディーンは軽い衝撃を覚えた。

 まさに異端。火人は、ディーンたちが知っていた世界とはまったく別のことわりの中で生きているのだ。

 神殿の中は涼しく、さほど暗さは感じられないものの、燭台が灯されていた。

 左右の壁には様々な場面の人物が浮き彫りされ、神秘的な陰影となっている。その奥に広い部屋があり、炎の鳥に連れてこられたレイと九曜がいた。

 部屋の床は一面、色鮮やかな文字とも記号ともつかぬ模様で埋め尽くされている。

 察するに、儀式のための魔方陣のようなものか。

 レイたちに目顔で頷き、部屋に足を踏み入れたディーンは、ぎくりとした。


――これは……。


 床の模様は、布などではなく、すべて色のついた細かな砂で描かれたものだったのだ。

 さりさりと砂を踏みしめて、白い篝火とディーンは、レイたちの隣に立つ。

 幾つもの円と線が重なり合う魔方陣の中心には大きな鏡があり、一人の老婆が座っていた。

 炎の鳥が紹介する。


「火人のおさ〝炎を渡る者〟です」


 金糸で飾られた白い貫頭衣を着る老婆は、大きな眼で、三人の訪問者を見上げた。

 座っているのではない。それは、高い帽子の先がレイの肩にやっと届くほどの、小さな老婆であった。

 褐色の顔には無数の皺が刻まれ、独特の刺青さえも埋もれている。

 髪も眉も失せ、大きな耳にぶらさがった耳環(イヤリング)と、ぎょろりとした巨大な目玉が、一際眼を引いた。

 レイが歩み出て、挨拶をする。


「初めまして。私たちは――」

「皆まで言わぬでよい。すべて承知しておる」


 炎を渡る者はしわがれた声で遮り、手招きをした。魔方陣の上に三人をひざまずかせると、


「動くなよ」


 短く命じ、長はレイの額に右手をかざす。

 すると、レイの首に下げた護り石が、突如光りはじめた。

 その光が目前の鏡に反射した瞬間、そこにはまるで絵のように、頑強な一基の城の姿が映し出される。

 三人は、声もなく息を飲んだ。

 様子を見守る火人の娘たちも、驚きを隠せない様子だった。


「これは鬼巖城――エデンより南西へ三百公里(ミール)の彼方、死霊しりょうの谷の中にある。これこそが、かの魔術師の城じゃ。奴はここにおる。もちろん――おぬしたちが探すものもな」


 淡々とした説明が神殿に響く。長が口中で二言三言呟くと、鏡の中の画面は、城の内部へと移った。

 門を潜り、いくつかの小部屋を抜けた先に、豪華な広間に出る。広間の壇上には女の肖像画がかかり、その前の玉座には、一人の男が座っていた。

 物憂げな褐色の面立ちに金の髪、紺青の瞳。


「これが目指す敵、ユダ・ネ=イ・ザンじゃ」


 音声は聞こえないが、男の唇がわずかに動き、この映像が現在のものであることを物語った。王者然とした男の傍らに、手のひらほどの涙形の石が、宙に浮かんで光り輝いている。

 思わずレイは、声を上げた。


「玉兎石……!」

「動いてはいかん!!」


 長が制止したと同時に、男がこちらを向いた。

 青い双眸が煌めく。

 次の瞬間、甲高い音を立てて、鏡が粉々に砕け散った。

 護り石の輝きが失せる。


「物見の鏡が……」


 炎の鳥が蒼褪めた。

 鏡の衝撃からレイを庇った老婆は、体を起こして破片を払った。レイがうなだれる。


「申し訳ない。私のせいで鏡が……」

「気にすることはない。どうせあれはただの物。いくらでも代わりはきこう。だが問題は、奴にこちらの動きを悟られたということじゃ。奴はすぐ城の警備を固めるであろう。早々に出発せねばなるまい」


 そう告げて長は、厳しい表情を緩めた。レイの頬に手を当て、


「星よ。おのれの心を信じるのじゃ。その信じる強さこそが、力となるであろう」


 聖母が残した言葉と同じようなことを言った。

 それから、脇に控ていた二人の娘に、出発の支度をするよう申し付ける。

 のけ者にされた形となったディーンと九曜は、顔を見合わせた。


「俺たちには何もなしかよ」


 それへ長は、ぎょろりとした目を向ける。


「おぬしたちは、何を言っても星を護るであろう?」


 火人たちがレイを〝星〟と呼んでいるらしいことに気付いていたディーンは、気軽に肩をすくめた。


「そりゃそうだけど……」

「戦うのが恐いか?」

「別に。やれるだけやるだけさ」

「なればよし。おぬしたちならば、必ず勝利するであろうよ」


 長は、微笑んで断言した。

 すべてを見抜くと言われる火人の長の言葉は、これ以上心強いものはない。

 三人は闘志あふれる笑顔で頷き、神殿を後にした。

 すべてのものがいなくなった後、異端の民の長は、一人きりとなった部屋で独り言のように呟いた。


「――出てきてはどうじゃ、地人ちじんおさよ」


 その声の響きが消えるか消えぬ時、広間の中空が歪んだ。

 漆黒の影が、灰色の獣を従えて現われる。


「火人の長の天眼は、さすがにごまかせぬな」


 黒い頭布(シェーシ)の下で、陵は親しげに微笑んだ。いつになく、声の調子も穏やかだ。

 炎を渡る者は、沈痛な眼差しで背の高い男を見上げる。


「地人の長よ。何故彼の者を手助ける?」

「火人の長よ。わたしはもう、地人ではない。角を失った九年前に、地人の長は死んだのだ」


 陵は、少し寂しげに言った。


「そなたこそ、何故帝都の者を助けた? 我らを原罪者として排斥する帝都を」

「おぬしとて同じではないか。その身に負った刻印を忘れてはおるまい」


 老婆の漆黒の瞳が、陵の胸に刻まれた六芒星(ヘクサグラム)を見据える。

 陵は押し黙った。

 六芒星は神の印――他でもない、光明神ルシアの象徴であった。


「おぬしの立場を、儂はよく知っておる。今の道を進めば、望みは叶うかもしれぬ。じゃが、このまま聖宝が彼の魔術師に捕らわれるならば、世界の崩壊は必定。角を失くしたとて、それが分からぬおぬしではなかろう」

「……」

「よく考えるがよい。一人の愚か者の私欲ごときに、おぬしが傷つくのをわしは見たくはない」


 深い、慈愛のこもった言葉であった。

 陵がこの世に生を受けてからすべてを見てきた老婆は、やさしい眼差しを向ける。

 その眼差しすら拒むように、陵は、黙って踵を返した。

 固い意志を宿す背中に、なおも老婆は呼びかけた。


「おぬしの息子は、まだ生きておるぞ?」


 広い肩が、かすかに強ばる。

 だが陵は、無言で外套(マント)を翻し、虚空へ――決戦の場へと消え去った。




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