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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第4話 エデン――この夜(よ)の果て
24/33

4-2



 夜の砂漠で焚火を囲みながら、楽しげに談笑する二人の少年――。

 だが、七、八歳に見える少年は、青味を帯びた白い巻き毛に虹色の瞳を持った、人外の身であった。

 そしてもう一人。気品の漂う秀麗な顔立ちに、深い蒼の双眸を持つ少年は、しかしある理由から男装を余儀なくされた成人前の少女であった。


 焚火の明かりを受け、闇夜に燦然さんぜんと輝くその髪は白銀。

 白でも灰色でもないその色は、彼女の住まう社会において、忌まわしき災厄のあかしであった。

 統一世界(カナン)創世の神話から、迷信深い彼らは、銀の髪を持つ女性を兇児として排斥する。

 少女が今ここにあるのは、養い親の神官の慈悲と父の権力のおかげであった。

 銀の兇児として殺されるのを避けるために、彼女は幼い頃から男装にその身を隠して生きてきた。

 凶を招くと言われる事実を立証するかのごとく、その髪は一切の染料も、また法術さえも受け付けない。

 代わりに男としての立居振舞を身に着けたレイは、自然と人と一線を画した付き合い方をするようになっていた。

 誰かとゆっくりと語らうのも、ましてや寝食を共にすることなど、レイにとっては初めての経験であった。

 その初めての相手である少年は今、一人天幕(テント)で毛布にくるまって寝入っている。

 それを横目に見、藍色の眼が細まる。


「まったく……よく眠る」


 思わず嘆息が洩れ出た。正直な感想に、九曜が笑う。


「そりゃあ、欲求に常に忠実なヤツだもん。お腹が減ったら食べ、眠たくなったら即、熟睡。単純そのものだね」

「本当、呑気なものだ」


 レイの口調の裏に一種の苛立ちを感じ、九曜は尋ねた。


「このまま黙っているつもり?」

「……」

「まあ、僕はレイの味方だけど……」

「……ありがとう」


 かすかに、少女が微笑む。


「今まで、レイが女だって気が付いた人はいなかったの?」

「そうだな……。口に出すものはいないが、テスで会った女将やテーベで泊めてくれた一家は気付いていたようだ。それから――陵とリュカオンも」

「へえ。なまじ誤魔化してる分、能力(ヴィス)のない人間の方が騙されにくいってことか」


 能力者(ヴィサード)の多い社会で生き抜くために、レイは女性特有の気を消す術を施されていた。肉体的には何の影響力もないものだが、高位の法術師でさえ簡単に見破られるものではない。


「九曜、おまえはなぜ気が付いた?」

「魔力が強いだけが妖魔じゃない。感覚と経験の差だよ」


 九曜は、幼い顔に余裕をうかがわせて言った。

 能力の強い者ほどその外見と実際の年齢に開きがあることは、レイもつい先頃知ったばかりだった。


「おまえは一体いくつなんだ?」


 過去の記憶を失う妖魔は腕組みをして、うーんと唸る。


「それが分かれば苦労しないんだけどねえ……」


 考え深げに呟いた、そのとき。

 パシ…ンと乾いた音が響き、二人ははっと立ち上がった。

 直後、夜空を切り裂く青白い電光に、九曜の体が包まれる。


「九曜!」


 叫ぶレイの目の前で、空間がゆっくりとひきつれ、一人の男が染み出してきた。

 漆黒の頭布(シェーシ)と外套、青い双眸。

 聖宝を盗んだ魔術師の仲間である、角のない魔獣使い――陵。

 レイの顔に、苦渋が浮かぶ。

 亡き妻の面影を彼女に見る陵の言動は、敵とは思えないほどあたたかだった。

 偶然が与えた皮肉か、魔王を復活させざるを得ないその立場をわずかながら知ってしまったレイは、彼をもはや敵として憎むことができないでいる。

 それは、魔獣であるリュカオンに対しても同様であった。

 彼の傍らに立つ狼は、電光の中に九曜を封じ、手出しできないよう見張っている。

 青白い魔力の球に閉じ込められた九曜が、声にならない叫びをあげた。


《ああああぁッ……!》


 縦長の瞳孔、長く伸びる歯、弓形の爪――徐々にその正体を顕わにしていく。

 リュカオンの眼に、焦りが浮かんだ。


《ミササギ、殺るんだったらさっさと殺るんだな。俺の魔力じゃ十分もたん!》

「分かった」


 頷き、黒衣の男はレイに向き直った。少女の腰に提げられた、光り輝くつるぎに眼を止める。


「神剣〝輝破矢かぐはや〟か……なるほどな。聖母はそれを託しに来たというわけか」


 驚きもなく言うと、腰の大剣をすらりと抜き払った。


「剣を抜け。わたしも、能力(ヴィス)の使えぬ者を魔力で殺す道義はもたぬ。これでおまえをあの世へ送ってやろう」


 レイは、苦しげな表情でかぶりを振った。


「陵、おまえとは戦いたくない。頼む、剣を収めてくれ」


 陵が無言で間合いを詰める。

 レイは後退りつつ、救いを求めるように天幕(テント)で眠る少年を垣間見た。


「無駄だ。奴の意識はわたしの魔力で封じた。しばらく目覚めることはない」


 抑揚のない重低音が、冷酷に告げる。


「抜け」

「断る。私はおまえとは戦えない!」


 叫ぶレイに、陵が、黒い疾風となって襲いかかった。白刃が閃く。

 激しくはがねのぶつかる音が鳴り、二人は位置を入れ替え、再び離れて立った。

 レイの右手には、いつの間にか、抜き身の輝破矢が握られている。

 陵の眼が、すっと細くなった。


「ようやく本気になったようだな」

「陵……」


 レイは、悲痛な表情を滲ませたまま、なおも相手に呼びかけた。


「頼む、陵。退いてくれ。私の望みは玉兎石を取り戻すことだけだ」

「なればこそ討たねばならん」

「何故だ?! 聖宝を手にしたところで、魔王の封印が解けるとは限るまい!」

「今さら命乞いか?」

「違う!!」


 怒鳴るように否定し、レイは、手にした輝破矢を地面に突き立てた。

 表情の見えぬ陵の眉が、わずかに動いた。


「何のつもりだ?」

「聞け。私は聖母の命を受け、聖宝奪回を任された身。いわば聖母の代行者だ」

「……」

「魔王を復活させる以外に、おまえの目的を果たせるすべがきっとあるはずだ。無事聖宝を取り戻すことができたならば、聖母が必ずや御力を貸して下さるだろう」


 その言葉に陵が一瞬動揺した。

 瞬間。

 魔力の球の砕ける音ならぬ音が空気を震わせ、妖魔が白い獅子へと完全な変貌を遂げた。

 咆哮が轟く。


《ミササギ!》


 リュカオンが使い手の元へ駆け戻った。同時に、獅子が二人へ踊りかかる。

 だが僅かに遅く、魔獣使いたちは、獅子の爪を掠める形で夜の闇に逃げ去った。

 星が震えるように、かすかに揺らいで、捻れた空間が元に戻る。

 乱れた砂跡だけを残し、言い知れぬ緊張と沈黙が、その場を色濃く支配した。


 やがてレイは、砂地に立てた輝破矢をさやに納めた。

 小さく息をついて夜空を見上げる。望まない戦いに、瞳が昏くかげった。

 獅子の姿のままため息をついた九曜は、ふと、天幕テントで眠る少年を覗いた。

 規則正しい寝息が響く。目覚める以前に陵の魔力で意識を封じられていたディーンは、何も知ることなく、一人平和な顔をして眠り続けていた。

 急にその寝顔が憎らしくなり、九曜は、太い前足で少年の体を思いきり、ぎゅう、と踏んづけた。


   *


 時を少し戻る。

 帝都の中心のさらに奥、乳白色の塔の立つ花卉の多い一角で、早朝の勤めを果たすべく数人の若い女たちが集っていた。

 白い法衣に六芒星(ヘクサグラム)の護符を肩から下げ、結い上げた髪の上から面紗(ベール)を被る。額の中央に差した鮮やかな五弁の朱斑が、彼女たちが特殊な巫女姫であることを告げていた。


 払暁の祈りの準備をする巫女姫たちは、突然、周囲に満ちる法力が強まるのを感じた。

 はっとなり、一斉に暁の空を見上げる。

 水底のごとく蒼闇の中、南方から飛来してきた黄金の光が、目前の塔の頂きに降り立った。瞬間、巨大な法力が放つ輝きはかき消える。

 慈愛そのもののようなその力は、巫女姫たちがよく知る人のものであった。

 普段は面紗(ベール)に隠されて素顔の見えないその人は、もう二十日以上も巫女姫たちの前に姿を現わしていない。

 彼女の世話を任とする巫女姫たちは、半身と言われる青年と女聖騎士の来訪以来、この[象牙の塔]に籠もりきりのその人を案じた。

 現在どんな事態となっているのか、それを知るほど彼女たちの法力は強くない。

 しかし、神官を統べる祭主の言動などから、世界がただならぬ危機に瀕していることは、おぼろげながら察知していた。

 そして今、統一世界(カナン)を護る聖母の霊体が、何処からか戻ってきた。

 この事実が、さらなる現実の厳しさを巫女姫たちに思い知らせた。

 まだ幼さの残る一人の巫女姫が、表情を曇らせる。


「聖母の御力をもってしてもいまだ終わらぬ危難とは、一体何事なのでしょう……?」


 思わず洩れ出た不安に、やや年かさの巫女姫も同意する。


「本当に……。お食事も取られず、ずっと塔にお籠もりになられて……このままでは御体が保ちませんわ。何かわたくしたちにできることはないのでしょうか」


 巫女姫たちの会話に、低い男の声が答えた。


「――祈ることだ。おまえたちの祈りが、聖母の御力となるだろう」


 朝露に濡れる深緑の茂みから、一人の青年が現われる。

 軍服調の服に逞しい長身を包み、外套(マント)をひるがえす姿は、まるで一幅の絵画であった。

 慌てて膝を折る巫女姫たちに頷きかけ、青年は、精悍な顔をほころばせる。


「朝早くから御苦労だな。これでは聖母も安心しておまえたちに仕事を任せられようものだ」


 外套(マント)を彩るようにかかる黄金の巻き毛が、武人然とした彼に華やかな印象を加えていた。

 だが、その輝きが眩しいだけに、疲れた顔色は隠しようもない。

 おさの印章をつけた黒髪の巫女姫が、頭を下げる。


「もったいないことでございます。少しでも聖母の御力になれますよう、その御言葉を励みに以後ますます研鑽を重ねさせて頂きます」

「殊勝な心構えだ。ところで、ノア・ライムスを知らぬか?」

「ちょうど今し方、水晶の宮よりお戻りになられた御様子です。あの……差し出がましいとは存じますが、少々お疲れの向きが見受けられますかと。お休みになられましては……?」

「何、天下を守るに帝都の我らが働かねばどうする。心配は無用だ。――では、失礼する。聖母を間近で支える大切な役目なれば、心して果たせよ」


 長に笑顔で応え、青年はその場から立ち去る。

 その颯爽とした挙動は、沈んでいた巫女姫たちの心に晴れやかな光明を差しかけたようであった。


「不思議な御方……。あんなに疲れておいでなのに、法力は弱まるどころか、ますます高まっていらっしゃる」


 幼い巫女姫の言葉に、他の者も無言で賛同する。

 祭主にして宰相、そして最強と謳われた太陽の騎士の再来と噂される彼は、この帝都において、まさしく太陽のごとくまばゆく輝いていた。

 黒髪の長が、一同を顧みて告げる。


「あの方の助けとなるためにも、わたくしたちは祈りましょう。祈りこそが、わたくしたちにできる最大の努力です」

「はい、長姫おさひめ様」


 巫女姫たちは、一様に頷いた。


 庭園から渡り廊下を通って宮殿内に入った青年は、衛兵の脇を擦り抜け、呼びかけもせずに奥の一室を訪れた。


「――?」


 書類の散乱した机には、誰もいない。首を傾げる彼に、隣室から声がかかる。


「ルーク様、こちらです」


 耳馴染のよい低声が聞こえる方へ彼は向かい、縦横にずらりと並んだ書棚に向かう長身の男を見つけた。金色の眉をひそめ、


「その呼び方はするなと言っているだろう」

「これは失礼を、ルークシェスト様。お気付きになっていらっしゃらなかったものですから」


 慇懃いんぎんな微笑で青年の非難をかわし、ノアは彼を見た。


「おや、随分とお疲れの御様子ですね」

「おまえにまで言われたか。やはり少し休むべきかな」


 二十歳そこそこの青年が苦笑する。ノアは手に持っていた本を棚へ戻し、呆れ顔になった。


「貴方は緩急のつけ方が下手すぎるのですよ」

「では、おまえを見習って会議中に寝るとするか」

「残念ですが、あれは私ではありません。結論の決まった会議など、代理で充分です」

「それはそうだが……確かおまえは議長ではなかったか?」


 自分も影武者を立て、法力で様子だけを探っていた青年が、皮肉を含ませる。

 

「代理が寝ていても務まる会議に、私がいる必要がどこにあります?」


 美しくもしたたかな笑顔で、ノアは、長老たちが聞いたら泡を吹くような台詞を言った。

 ルークシェストはようやく本当の笑顔になり、改めて、やってきた本題を切り出す。


「会議にも出ずにここに隠れていたということは、何か目星がついたのだな?」

「ええ――」


 女性めいたノアの美貌に、凄さが漂う。卓上に数枚の用紙を並べると、


「興味深い人物がいましたよ」


 二人は、聖宝を盗んだ人物を少なくとも祭司以上の上級神官の経歴を持つ者と推定し、過去十年間に神官を辞めた者の経歴を一人ずつ検めていた。

 無論、現役の神官が犯人であるという可能性がないわけではないが、神殿内の勤務管理は厳しく、神殿の統括を行なう祭主や聖母の耳に入らぬはずがない。

 今までそのような報告がない以上、犯人は元神官ということになるが、十年間での辞職人数は六大神殿で六十余名。真珠の宮だけでも十二人がおり、調査は難航していた。

 そうして列挙された被疑者の最終調査の結果を、ルークシェストは聞きに来たのだ。


「残念ながら、過去十年間の退職者のうち怪しむべき者はいませんでした。そこで真珠の宮に限り、二十年前までさかのぼって退職者の調査を試みました」


 用紙に書かれた名は十七名。ノアは、それをひとつひとつ示して解説しながら、最後に丸で囲んである名前に辿り着く。


「退職は十五年前――年齢は現在三十八歳。若いながら優秀な男で、法術師としては金位を得、十六歳の時に真珠の宮に入殿し、わずか四年で祭司まで上りつめています。その三年後、大祭司の試験を受けて落選。能力的には充分だったようですが、自己中心的かつ情緒不安定な彼の性情に問題があったようです。その後しばらくして解雇され、母国アルビオンに戻ったようですが、消息は不明。彼ほどの経歴ならば依願退職扱いされてもおかしくはありませんが、落選後の彼の素行に問題があったことと関連したものと思われます」


 やわらかな低声が、よどみなく説明する。


「彼は大祭司に選ばれなかったことを深く恨んでいたようで、西の宮長・香月かづき殿の闇討ちを企てたこともあるようです。幸いそれは未然に防がれましたが、玉兎石は真珠の宮――西の大神殿の管轄下。アルビオンで彼の身に何が起こったのか知る由もありませんが、動機を怨恨と考えた場合、彼は最も有力な被疑者と言えるでしょう」

「そして――彼の出自がこれ、か?」


 苦い面持ちで、ルークシェストは卓上に置かれた古い羊皮紙を取り上げた。


「もしやと思い、水晶宮の秘文書庫をあたってみたのが正解でした。おそらくは……これが彼の最大の動機です」


 日頃冷静なノアの声に、沈痛なものが漂う。

 〝抹消〟の朱印が押された文書を握るルークシェストの手が、わずかに震えた。


「なぜこんな事が、今まで知られていなかったのだ?」

「立場が立場ですし、事をおおやけにすれば非難を浴びかねないと判断したためでしょう……身勝手な話です」


 文書には、アルビオン人の女性が産んだ子供を正式に認知するむねが記載され、父親の名が署名されていた。

 その名を知らぬ者でも、銀貨に刻まれた横顔の人物と言えば、それと分かるだろう。

 賢帝ジェサイア――現皇帝セイデンⅢ世の実父である。

 ルークシェストは、やりきれない気持ちになった。

 状況が違えば、彼は前皇帝の息子として、また皇帝の弟として栄華に満ちた生涯を過ごせたに違いない。

 しかし、それを恨んで聖宝を盗んだのであれば、許すわけにはいかなかった。

 青年の重い口が、その名を紡ぐ。


「――ユダ・ネ=イ・ザン……」


   *


「失敗しただと?!」


 黄金の髪が宙に舞う激しさで、男は陵に問いただした。


「そうだ。神剣を持っている以上、能力者(ヴィサード)でなかろうと我々には歯が立たん」

「妖魔のうえに神剣だと?! 聖母め、小癪こしゃくなことをしおって……!」


 珍しく、男は語気も荒く独白する。

 束の間逡巡し、やがて褐色の頬に笑みを刻んだ。


「――よかろう。陵、奴らを見張れ。今度は、どんなことがあっても奴らをここへ無事に辿り着かせるのだ」

「この城へ?」


 黒装束に隠された陵の表情が、微妙に動いた。

 男が頷く。その態度は、爪を研いで得物を待ち伏せる野獣のごとく静かで、獰猛だった。


「そうだ。こうなった以上、下手に刺客を送り出したところで手持ちの駒を減らすのみ。ならば、この城へおびき寄せて一気に叩こうというものだ。こちらには――奥の手があるゆえな」

「……」


 何も言わず、陵がひた、と男を見返す。その視線の先には、聖なる光にかれ、まだなお傷の癒えぬ男の両手があった。


「何だ?」

「どうやら聖宝も満足に扱えておらぬようだが、それで果たして目的が果たせるのか?」

「……何が言いたい?」


 男の紺青の瞳に、殺気に似た光が宿る。


「わたしは魔王の復活を条件に協力を申し出た。それが叶わぬとなれば――手を引くまでだ」

「何?」

「まあ、見張れというなら従おう。だが、魔王復活が成されぬ時は味方でいるとは期待せぬことだ」


 薄く笑みを刷き、陵は捨て台詞を残すと、亜空間に身を滑り込ませた。


「せいぜい頑張ることだ」


 魔術師は、誰もいなくなった空間を暫時ざんじ睨み、つ、と立ち上がった。

 玉座の背後の壁一面に掲げられた、圧倒的に巨大な一枚の肖像画。

 玉座に座る人間よりも、誰よりもこの城を支配していると錯覚してしまいそうなその絵を、男は無言で仰いだ。


 絵の主は、若いアルビオン人の女であった。

 肖像画としては珍しく屋外で描かれ、黒い素肌は景色に溶け込んでいるようでもある。

 高々と結い上げた黒髪を頭布(シェーシ)で包み、鮮やかな緋色の長衣(ローブ)に素足。首には白蝶貝を幾重にも掛けて、手には棕櫚しゅろの葉。

 妖しくも官能的な肢体と顔貌ながら、その黒い瞳は、見る者の下心を高慢に嘲笑う。

 暗い岩屋に佇むその姿は、立ち昇るひとすじの火焔のごとく激しさに満ちていた。

 額縁の下には、女の名が刻まれている。

 ノアやルークシェストがその名を読めば、さぞ顔色が変わったことだろう。

 アデイラ・ネ=イ・ザン。

 三十三年前に没した彼女は、代々呪術師の家系に産まれ、自らも優れた呪術師として名を馳せていた。

 彼女の血を色濃く受け継いだ男は、よく似た顔立ちに何とも言いようのない表情を浮かべた。


「母様……」


 深く重い呟き。

 能力(ヴィス)だけでなく激情までもそっくり譲り受けた男は、万感の想いをこめて囁いた。


「あなたの無念を晴らすのも、もうすぐ……もうすぐです」


 男――ユダ・ネ=イ・ザンは、うっすらと微笑み、絵の女の足元に口付けた。

 その壁の向こうでは、深遠の闇がゆっくりと胎動をはじめ、目覚めのときを待ち受けていた。




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