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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第3話 テーベ――星の誓い
21/33

3-7

 


 光のまばゆさが、そのまま魔力の強さを映していることは、疑いようもない。

 魔術師マリウスの掲げた右腕に宿った光球は、次の瞬間、無数の光の砲弾となって放射された。

 その場が一瞬、真昼の輝きに染め上げられる。

 一陣の驟雨しゅううのごとく、光は、魔力の使えぬ陵に降り注いだ。ひとひらが肩を掠め、かかとを抉る。


「ぐ……っ!」


 陵が床に倒れ込んだ。

 防戦一方の陵に、なぶるような攻撃を続けてきたマリウスは、金色の巻き毛の先を指にからめると、つまらなそうに、冷たい灰緑の瞳で男を見下ろした。


「角のない鬼とはどんなものか見たかったのに、これではちっとも面白くありませんね。もう少し愉しませてくれると思っていたのですが……残念です」


 再び右手に魔力を集中させる。


「死んでいただきましょう」

「……下衆げすめ」


 うずくまる陵が、低くあざけった。

 笑わないマリウスの双眸が、愉しげに細められる。

 そのとき、夢から醒める瞬間に似た鈍く重い衝撃が、辺りを貫いた。

 知覚にならぬ何かが弾け、大気が流れはじめる。


「まさか結界が……?!」


 むしろ弱々しく、マリウスの口から驚きの声が上がる。

 ――と。

 中空から灰色の影が滲み出たかと思うと、魔術師の目の前をかすめ走って降り立った。

 白い頬に、たらり、とひとすじの鮮血が流れる。

 影は、一頭の大きな狼となって、陵の元に寄り添った。


《ひどくやられたな。いい男が台無しだ》

「……ああ、まったくだ」


 マリウスには唸り声にしか聞こえぬリュカオンの言葉に薄く笑い、陵が立ち上がる。その足取りは、なめらかだった。


「だが――大したことではない」


 強大な魔力が、彼を包む。

 マリウスが驚愕の息を呑む間に、血塗れの陵の身体から、傷がひとつまたひとつと、幻のように消えていく。

 陵は、乱れた半白の黒髪をかきあげ、埃のついた服を軽く払った。

 魔力を完全に取り戻した魔獣使いは、薄い月光色の瞳を相手へ注ぎ、にこりともせずに言った。


「さて……。おまえはどういう死に方が望みだ」


 質問ではない。相手へ死を宣告しているのだ。

 蒼褪めたマリウスは、握り締めた両手がじっとりと汗ばむのを感じた。


――このわたしが……怯えているというのか……?!


 屈辱が、両眼に緑の炎を灯す。


「死ねえっ!!」


 叫ぶや、マリウスは両手を広げて合わせ、最大の魔力を注ぎ込んだ。恐ろしい力を秘めた光の奔流が、陵に叩きつけられる。

 眉毛一筋動かさず、陵は、左手ひとつでそれを受け止めた。

 マリウスが、愕然となる。

 光は消えることなく陵の手の中に留まり、そしてそれは、ゆっくりと輝きを増していった。

 何が起ころうとしているか察したマリウスは、震える声で語りだす。


「お……おまえ、わたしの魔力の秘儀を知りたくはないのですか? あの〝闇の導師〟から与えられた呪法です。それを知れば、魔王でさえ……捕えることができるのですよ……」


 此の期に及んで滔々とうとうと流れ出る甘言に、陵の口元が弧を描いた。

 さげすみの笑いであった。


「この……この篭手ガントレットさえあれば、思うものを思うままに捕えられる〝魔の鎖〟を――」

「いらぬな。俺は、魔王を捕える気などない。それに妖魔を捕えるなど……もう飽きた」


 嘲笑すら乾ききった表情に沈めて、感情もなく陵は告げた。


「貴様にも、な……」


 マリウスが、一歩後退あとずさる。

 それへ、新たな魔力を注がれたおのれ自身の魔力の球がさらなる輝きを得て、戻された。

 脳髄を焦がすほどの真っ白な光の渦が、その場を包む。


「ぎゃあああ……っ!!」


 絶叫が上がった。


「どうして……どうして、このわたしが……おまえごときに負けなければならないのですぅ……?!」


 魔力の光にかれながら、マリウスが叫ぶ。


「愚かな奴め……」


 冷ややかに、陵が吐き捨てた。


「どうしてわたしがあぁ……っ」


 逃れようとするのか、燃え落ちてゆく豪奢な衣装と長い金髪を躍らせ、マリウスは光の中で身をくねらせた。

 身体をよじり、もだえるその顔が、次第に年老いていく。


「おおぉ……」


 体内から何かを絞り出されるがごとく、皺がより、眼が窪み、頬がこける。骨と皮になったマリウスは、やがてそのまま灰になると、音もなく崩折れた。

 光が消える。

 灰すらも残さずに灼き尽くした跡には、絨毯の敷かれた廊下が、変わらぬ姿で現われた。

 その上に転がる、煤けた金属の手袋がひとつ。

 陵は無言で眺め、無造作にそれを踏みつけた。さくり、と音を立て、篭手ガントレットちりになる。


《……やれやれ。往生際の悪い奴だ》


 呆れたように、リュカオンが言った。


《それにしても凄まじい。こんなに怒ったあんたを見たのは、久しぶりだな》


 陵は膝をついて身を屈め、相棒の首筋を手のひらで撫でた。


「よく来てくれた」

《面倒な結界のおかげで、尻尾の先が焦げちまったがね》


 珍しく軽口をたたいて、鈍色の狼は、太い尾をふさりと揺らす。


《そういえば、陵。この城の地下に、子供たちが閉じ込められていたぞ》

「なに?」

《人間たちが話していたのを聞いたが、どうやら売られるところらしい》


 陵は、ディーンから聞いた話を思い出して、ひとり呟く。


「では、生け贄になった子供たちはまだ売られていないのか……」


 突然リュカオンが背後を振り向いて、立ち上がった。

 廊下の角から現われたのは、レイであった。


「陵、無事か?」


 小走りにやって来たレイは、低い唸り声を鳴らす狼に、驚いて足を止める。


「これは……」

「わたしの相棒だ。――リュカオン、やめろ」


 陵にたしなめられると、鈍色の狼は唸るのをやめ、おとなしく座り直した。

 レイは不思議そうな顔をしたが、別のことを尋ねる。


「あの魔術師はどうした?」

「死んだ」


 事もなげに、陵が答えた。


「それよりも、生け贄の子供たちはまだこの城にいるらしいぞ。彼が見つけた」

「何? それはどこだ?」

「この城の地下らしいが、正確な場所は……」


 言い差して、陵は傍らの狼を見やる。


《地下一階。この真下だ》

「――そうか」


 頷くレイに、今度は陵が眼をみはった。


「おまえ、こいつの言っていることが分かるのか?」

「ああ。陵も聞こえるのだろう? さっき誰かと話しているようだったのは、彼とだったのだな」


 レイは朗らかに言ってのけた。狼が笑って、


《こいつは大したお嬢さんだ。使い手以外で俺の言葉が分かるのは、あんたが初めてだよ》

「お嬢さんというのはよしてくれ。虫唾が走る」


 レイが顔をしかめた。リュカオンはますます愉しそうに、長い口の端を持ち上げる。


《気に入ったよ。俺はリュカオン。ミササギの相棒だ》

「私はレイだ。陵との付き合いは長いのか?」

《もう二十五年もくっついている。いい加減、うっとうしいぜ》

「――人をできもののように言うんじゃない」


 会話を聞いていた陵が、渋面を作った。レイはくすりと笑い、


「仲の良い。……ところでリュカオン。子供たちは全員生きて地下にいるのだな?」

《ああ、間違いない。だが早くしないと、今日中に連れて行くって言っていたぞ》

「何?」


 レイの面差しが曇った。


「急がねば……。もう日が暮れる」


 その言葉に、リュカオンが陵を見上げる。陵は頷くと、レイの肩に手を乗せた。


「では――送ろう」


 瞬間、その場をまばゆい光が包んだ。

 光がかき消えた時にはもう、誰一人その場にはいなかった。


   *


 結界を破ったディーンは、レイを陵のもとへ向かわせると、一人妖魔と対峙していた。

 神呪が浮かぶ大刀を構え、じりじりと間合いを詰める。

 同じ破邪の祝福を受けたはずのレイの剣が砕かれただけに、どう戦うべきか、ディーンには思案ひとつ浮かばなかった。

 褐色の頬を、つ、と汗が伝う。だが、広間は妖魔の冷気で、夜の砂漠のごとく寒々としていた。

 緊張が限界に達した瞬間、乾いた音を立てて、空気が弾けた。

 妖魔の額の文字が消える。

 その状況をかつて一度体験する彼は、妖魔にかけられた呪縛が解かれたと知った。

 しかし、まだ緊張は緩めない。

 だが、正気に返った妖魔の眼からは、完全に殺意が消えていた。

 不審に思いつつも、ディーンは刀を下ろす。

 妖魔はまだ、青白い獅子の姿を保ったままだ。やはり戦闘形態(バトルフォーム)ではなかったらしい。

 ディーンは、妖魔が本気を出さなかったことに感謝し、額の汗を拭った。


「おまえも大変だったな。もう、あんな馬鹿な野郎に捕まんじゃねーぞ」


 微笑って、立ち去りかける。

 ――と。


《タスケテ……》


 小さな声が、ディーンの頭に響いた。驚いて、ディーンは妖魔を振り返る。


《タスケテ……ボクヲココカラダシテ……》


 その言葉に、彼の脳裏を一昨夜の出来事が鮮烈によみがえった。


「まさか……あれは、おまえなのか?!」


 ディーンがよくよく眼を凝らすと、蜘蛛の糸ほどもない、細く光る糸が妖魔の身体に縦横に巻きつき、その姿を空間に縫い止めている。

 ディーンは、戦っている間、妖魔がその場を動かなかった理由を悟った。

 動かなかったのではない。動けなかったのだ。

 おそらく妖魔は、一年もの間、この広間の閉ざされた空間へ、こうして縛られ閉じ込められていたのであろう――おのれをも縛る結界を護るために。

 ディーンは、氷山をくり抜いて創られたかのような妖魔へ、ゆっくりと近付いた。


「おまえ――ずっと、ここに閉じ込められていたのか……?」


 やさしく尋ねる。

 虹色の瞳が、頷くようにまばたいた。

 哀しげな唸り声をたてる。途端、妖魔を縛る糸が、目も眩む閃光を放った。

 魔力を封じる戒めに灼かれ、妖魔が悲痛な叫びを上げた。妖魔の動きを充分に奪い、光は、消える。


「よし……分かった。おまえを助けるには、これを切ればいいんだな?」


 ディーンは表情を引き締め、極細の糸に、軽く刃を近づけた。 

 すると、ちり…と音がして、触れもしないのに刃先が溶ける。

 ディーンは、慌てて大刀を引っ込めた。

 これでは、呪縛の糸を断つことは出来ない。

 ましてや、長く続いた激しい戦いのために、彼の右腕の疲労は限界を迎えていた。

 小刻みに震えはじめた右手を握り、ディーンは白い妖魔を見た。


「どうせ……一度は死んだようなもんだ」


 口中で呟き、何を思ったか大刀を鞘に納める。

 そしてやにわに、妖魔を縛る糸を右手で鷲掴みにした。

 じゅうっと煙が上がる。一瞬にして、手袋と手裏剣が蒸発した。


「――うわあああぁっ!!」


 ただの戒めではない。

 過去も情念も灼き清める、煉獄れんごくの業火。その火に鍛えられた鎖に触れたものは、魂までも灼き尽くされてしまう。

 骨の髄まで灼かれる激痛に、しかしディーンは、手を離さなかった。

 魔の鎖に秘められた業火が、彼の右腕をじりじりと燃やし、握ったところから細胞が音を立てて壊れていく。


「うおおおおぉっ!!」


 ディーンは渾身の力を振り絞ると、鎖を引きちぎった。

 澄んだ響きと共に、妖魔を縛る戒めが、はらりと解ける。

 光る糸を床に投げ捨て、ディーンは、がっくりと膝をついた。

 右腕は真っ黒な炭と化し、神経はおろか、骨までもぼろぼろになっている。

 鎖を握る手から伝わった業火が、彼の右半身を内側から破壊していた。

 呼吸することさえままならず、ディーンは床に倒れ伏す。


 空間を歪めてつないでいた鎖が断ち切れたせいで、広間の空間が、ほんの少し揺らいで正常な状態へ還る。わずかな揺らぎであったが、それは結界の解けた城全体に、ゆっくりと染み渡ってゆき、徐々に大きな振幅しんぷくとなってはね返ってきた。

 震えはやがて、連鎖的に急速に大きくなり、城全体を激しく揺さぶる波となって襲った。

 ぴしり、と天井に亀裂が走る。

 崩壊していく城の中で、もはや逃げる気力すらないディーンは、朦朧もうろうとする意識の隅で、歩み寄ってくる妖魔の姿を見た。


   *


 子供たちが捕えられていた地下牢へ空間移動(トランスフェーズ)したレイは、突然、城が揺れるのを感じた。

 壁へ手をつくが、激しさを増す振動に身体を支えきれない。


「一体、何が……?」


 そこへ、子供たちを街の広場まで送り届けた魔獣使いたちが、空間を裂いて戻ってきた。


「陵、リュカオン!」

「――レイ。おまえの相棒は、とんでもない奴だな」

「なに?!」


 驚くレイの肩を抱き、陵は厳しい顔で告げる。


「妖魔を捕縛していた魔の鎖を無理に解いたために、たわんでいた空間が急激に元に戻ったのだ。その反動で、今この城は崩壊しかけている」


 言い捨て、空間を転移した。

 気が付くと彼らは、宵闇の迫るテーベの城門の前に立っていた。

 ほの青いそらは、早くもきらめく星々に彩られている。


「悪いが、ここまでしか送ってやれん。あとは自力で何とかするんだな」

「いや、充分だ」

《あんたの連れは無事だ。じき、ここに来るだろう》


 魔力で察したものか、鈍色の狼が教える。レイは、つ、と身を屈めると、リュカオンの鼻面へ顔を寄せた。頬の毛を撫で、


「世話になったな」

《今度会う時は、敵同士ってわけだ》


 その言葉に、藍色の瞳がかげった。


『あんたとは、できたら戦いたくはないけどな』

「……私もだ」


 囁きで答え、レイは、立ち上がって陵を振り向いた。


「――ありがとう」


 様々な含みのある言葉に、陵はほんの一瞬、表情を緩めた。


「礼には及ばん。わたしは一度おまえを助け、おまえはわたしを助け出した……対等(イーブン)というわけだ」


 青い眼が、きらりと光る。


「次は――決戦で会おう」


 光が(ひらめ)いたかと思うと、二人の姿は何処とも知れぬ空間に消える。

 何とも言えない気持ちに陥ったレイは、深いため息をついて、空を仰いだ。

 途端、レイの眼に、轟音を発し、今しも崩れ落ちようとする城の姿が飛び込んできた。


――ディーン……!


 リュカオンの言葉も忘れ、レイは、思わず城に向かって走りかけた。

 そのとき。

 闇を切り裂き、白い獅子が音もなく、眼の前に現出した。

 ぎょっとしたレイは、妖魔の背中の上で力なくうつ伏せる黒髪の少年を見つけ、二度驚く。


「ディーン!」


 妖魔が、レイの足元へ、どさりと意識のない体を投げ出した。

 何があったのか、少年の右腕は灼け焦げ、肘から先が真っ黒に炭化している。

 レイは、転がり込むように地面に膝をつき、ディーンを両腕にかかえた。


「ディーン、大丈夫か?! ディーン!!」


 大声で呼ぶレイの声に、少年はうっすらと目を開けた。


「……っせーな。耳元で……わめくんじゃねぇ」

「よかった……」


 レイの声が潤む。血の気のないディーンの顔が、わずかに微笑んだ。

 傍らにたたずむ白い妖魔が、ふいに口をきいた。


《――おまえは封印を解いてくれた。ひとつだけ願いを叶えてやろう。何が望みだ?》


 レイは驚いてディーンを見たが、明らかに彼にも意外な台詞だったようだ。

 妖魔の無言のうながしに、ディーンは浅い呼吸を繰り返しながら、口を開く。


「望みなんざ……俺には、ないね。こいつの……こいつの、願いを叶えてやってくれ」


 (あご)で、レイをしゃくってみせる。

 レイが血相を変えて怒鳴った。


「馬鹿者! 死にそうなくせに、何を格好つけているんだ!」

「……へへ。死にゃあしねぇよ。悪運は強いほうだ」


 薄く笑い、ディーンは黒焦げの腕を眺める。


「こいつも、どうせ半分壊れてたんだ。全部壊れても同じことさ。――さあ、早く願いを言いな。おまえには……どうしても、しなきゃいけねえことが待ってんだろう?」


 ディーンの言葉にはっとなり、レイは妖魔を顧みた。

 人外の虹色の瞳が、頷く。

 唇を噛みしめ、レイは、はっきりと妖魔に告げた。


「彼を助けて欲しい。ディーンの傷を治してやってくれ」

《承知した》


 会話を耳にしたディーンは、一瞬右半身が動かないことも忘れ、レイの襟元に掴みかかった。


「てめえ、一体何を考えてやがんだっ!! 人がせっかく願いをやったってのに、それをドブに捨てるような真似をしやがって!! 自分の立場を分かってんのか、この大馬鹿野郎!!」

「大馬鹿野郎はおまえの方だ。少しは自分の身体のことを考えろ!!」

「うるせぇっ!! 俺の身体だ。おまえに指図される覚えはねえっ!!」


 二人が怒鳴り合っている間に、妖魔はその姿を変貌させはじめる。

 気付いた二人は、喧嘩も忘れて、息を呑んだ。

 青味を帯びた白い巻き毛をふわふわと散らし、白い肌にくっきりとした大きな虹色の瞳。

 にっこりと笑って立つその正体はまぎれもなく人外のものながら、それは七、八才の少年にしか見えなかった。


「やっぱり、おまえはあの時の……!」


 声を上げるディーンに、少年の姿をした妖魔は、黙って手をかざした。

 眼に見えない魔力が、彼が受けた大小さまざまな怪我に注がれる。乾いた大地に水が染み入るように、傷がふさがり、壊れた細胞がよみがえっていった。土色だった顔に、血の気が戻る。

 しかし依然として、ディーンの右腕は黒い炭のように焼けただれたままだった。

 妖魔の少年はその手を取って、なにやら独りごちる。


《これはもう、元には戻らないな。細胞が完全に破壊されている。分子レベルまで分解して再構成させても、人間の肉体が受け付けないだろうし……》


 愛らしく小首をかしげ、束の間考えた。


《よし》


 ひとり頷くと、妖魔の少年は眼を閉じて、胸の前で両手を包むように広げた。

 ボウ……と青白い光が集まり、何かがそこから、ゆっくりと立ち昇ってくる。

 ディーンとレイは、言葉もなく、目を丸くしてそれを見つめた。

 透き通った蒼い炎のごとく、滄々そうそうと光り輝く一本のつるぎ――。


《僕の分身〝冽牙れつが〟だ。これを右腕の代わりにあげよう》


 妖魔の少年が告げるや、剱は光となって、ディーンの灼け焦げた腕のなかへ吸い込まれていった。

 暫時ざんじ、青白い輝きが右腕を包み、腕全体を不可思議な紋様が埋めつくす。

 それらが消えた後には、一条の傷のはしる元の姿をしたディーンの右腕が、そこにあった。


《冽牙め。何もそこまで正確に複製しなくてもいいのに……》


 妖魔の少年が細い眉をひそめ、口中でぼやく。ディーンに向かい、


《動かしてみて。たぶん動きに支障はないと思うけど》


 不思議そうに右腕を見ていたディーンは、体を起こし、こわごわと肘を曲げる。そして指を動かし、手を握ってみた。


「……何とも、ない」

《それはよかった》


 レイは、まだ腑に落ちない様子で右手を見つめているディーンに声をかけた。


「どうかしたのか?」

「いや、その……何ともないどころか、完全に元通りなんだよ」

「どういうことだ?」

「つまり、火傷をする前ってことじゃなくて、昔妖魔から受けた傷……というか、違和感も治ってるんだ」


 レイは驚いた。二人の人間の視線を受けて、妖魔の少年が悪戯っぽく微笑む。

 その微笑みに、二人は悟った。

〝ディーンの傷を治してくれ〟――つまり、レイが願い事で時制を制限しなかったために、妖魔の少年は、ディーンの肉体の傷をすべて、その魔力で治癒したのである。


《治った、でしょ。これで願いは叶ったよね》


 屈託なく、妖魔の少年が言った。それを受けてレイも微笑む。


「よかったではないか。これでもう、腕を気にする必要はないな」

「ん……まあ、な」

「そらみろ。魔術師の居場所など訊かないで正解だった」


 つられて笑顔になりかけていたディーンは、その言葉で我に返った。


「そうだ、おまえ――!」


 声を荒げ、傍らの岩を右手で殴る。

 すると、ぴしり、と亀裂が入り、一抱えほどの岩が粉々になった。

 ディーンは思わず腰を浮かせた。レイも目を丸くする。


「すごいな。おまえがこんな怪力の持ち主だとは知らなかった」

「……俺も知らねぇよ」

「腕が元に戻ったからといって、そんなに張り切る必要はないだろうに」

「知らねーって。一体どうなってんだ……?」


 ディーンの呟きに、妖魔の少年が明るく答えた。


《僕の分身だよ。冽牙と同化したおかげで、その腕は通常の人間の数千倍の力を持つ、いわば死の腕になったんだ》

「なに……?」


 半信半疑のディーンは、両手で小石を握ると、軽く力をこめてみた。

 すると、実に小気味いい音がして、右手からばらばらと砂礫されきが零れ落ちた。

 レイが藍色の眼を見開く。

 ようやく事態が飲み込めたディーンは、血相を変えて妖魔の少年に詰め寄った。


「てめえ、だましたな! 元通りどころか、怪人じゃねぇかっ!」

《いいじゃない、楽しくて》

「ちっともよくねぇっ! つべこべ言わず、元に戻しやがれっ!」


 ディーンは、悪びれない少年の襟首をその右腕で吊り上げると、恐い顔で脅す。


「さっさと戻さねぇと、てめえがてめえの分身に殺られちまうことになるぞ……!」

《分身が僕に歯向かうわけないでしょう?》

「じゃあ、叩き斬るまでだ」


 ディーンは、少年を地面へ放り投げ、大刀に手をかけた。

 妖魔の少年は小走りに逃げ、レイの後ろに隠れる。


「どけ! レイファス」

「やめるんだ、ディーン。斬るのなら私を斬れ。この妖魔は私の願いを叶えただけだ」


 冷静な言葉に、ディーンがたじろぐ。

 レイは、洋袴(ズボン)の端を握りしめ、こわごわ顔を覗かせる少年へ、やさしく問いかけた。


「おまえ、ディーンの腕を元に戻せるのか?」

《……戻し方、知らないもん》

「嘘をつけ、この野郎!」


 ディーンは決め付けたが、妖魔が嘘をつけないのは周知の事実である。

 さすがにレイも困惑した顔で、尋ね直した。


「なぜ知らない。おまえも分身を渡したままでは困るだろう?」

《僕――記憶がないんだ》



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