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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第1話 テス――闇月の夜
2/33

1-2



 [西の塔]より聖宝が盗まれて、一時間ホラ後。

 エファイオス総督府でなおも深夜の混乱が続く頃、帝都はまだ暁闇も濃く、神官や侍従たちが勤めに励んでいるのみであった。

 カナンと呼ばれるこの世界を統べる、巨大な専制国家――それが、帝都である。

 帝都は、アルビオン、エファイオス、カルディアロス、リューン、ビグリッドの古五王国を含む三十二ヵ国と二十四の自治州の頂点に立ち、政治経済および軍事のすべてを一手に握っている。

 加えて、統一世界(カナン)全土で崇拝される唯一神ルシアの正神殿を祀る聖地でもあることから、その権力は絶大なものであった。


 その帝都最奥の聖域に、[象牙の塔]はある。

 名の通り乳白色の塔壁が、まっすぐに天へ伸びる。さながら、天へ向かって咲き初める一輪の花の蕾に似たしなやかな外観をそなえた塔の最上階に、三人の人物が集まっていた。

 そこは、高い丸天井が巨大な空間を思わせる部屋だった。


 天井には神を祀る精緻な彫刻が施され、部屋の奥には六芒星(ヘクサグラム)の聖布を掲げた小さな祭壇が設けられている。祭壇に焚きしめられた香が、むせるほど濃く、辺りに充満していた。

 日中であれば十二の天窓から自然光を取り入れるのだが、今はまだ、燭台に灯された炎が室内を照らしている。

 祭壇前の高座には、巨大な貴石を嵌めた宝冠(ティアラ)を戴き、面紗ヴェールと法衣とでその身を包んだ塔の主人が座り、右脇には武人らしい堂々とした体格の青年が侍する。その二人に相対して、聖騎士の正装をしたイリヤが下座にあった。事の急を告げるように、朱金の長い髪が外套(マント)に乱れ散っている。

 すでに強大な法力(ほうりき)によって異変を察知していた二人は、イリヤが到着したときには、早くもここで彼女の報せを待ち構えていた。

 報告を聞き終え、[象牙の塔]の主人が、玲瓏れいろうとした声音で告げる。


「御苦労でした、イルレイア・セリーナ・クリスタル。金剛の宮に帰って休むがよいでしょう。この件は一切他言無用です。祭主たる養父君ちちぎみとて同じこと――。よろしいですね」

「はい、誓って」


 イリヤはひざまずいたまま聖印を切ると、右手を胸に当てて礼を捧げ、退室した。

 女聖騎士がいなくなった部屋には、重苦しい沈黙が取り残された。

 赤い灯が揺らめいて、蝋が受け皿にぽたりと落ちる。まさに、それだけが時間の経過を告げていた。

 沈黙の重さに耐えかねたように、青年が独りごちる。


「魔術師に妖魔とは、これはまた最悪の組み合わせが、よりにもよってあの子の前に現われるとは――。伯父上たちが感づく前に、何とか事を始末できぬものかな」


 おのれの言葉に気が付いて、青年は額を押さえた。苦笑が洩れる。


「……この非常時に何を考えているのだ、私は」

「いいえ。その点を案じているのは私とて同じです。九年前の[大災厄(クライシス)]以降、強い能力(ヴィス)が関わった事件が多く見受けられます。不要な混乱を避けるためにも、事は隠密に運ぶべきでしょう」


 賛意を得て安心したのか、青年は改めて塔の主人に向き直った。束ねていない黄金の巻き毛が、肩口でふわりと煌めく。


「では、聖母。月の消失についてはいかがなされますか? 消失の規模は統一世界(カナン)全域にわたり、単なる魔力による幻覚とも思われませぬ。特に被害はありませんが、時と共に民衆が不安に駆られて騒ぎはじめるでしょう。このまま放っておくわけにも参りますまい」

「すでに手筈てはずは整えてあります」

「それはどのような――」


 尋ねかけて青年は、嗅ぎ慣れた香がいつもより強く匂うのに気がついて、思い至る。

 面紗ヴェールに隠れた聖母の顔が首肯した。


「月は、人間(ひと)の目からは消えたように映っておりますが、月そのものがなくなったというわけではありません。なんらかの力が働いて空間が歪み、一時的に見えなくなっているだけのこと。神術を用いて法力を凝らし、空間の歪みを正せば、元のように現われましょう。ただ今の(わたくし)では、そこまで法力を高めるのに少なくとも一日を要しましょうが……」

「御心配には及びません。一日二日ならば、私の方で何とか納めましょう。ですが、その方法ですと、聖母御一人に負担がかかるのではございませんか?」

「致し方ありません。長きに渡り空間を歪めたままにしておきますと、世界の均衡(バランス)が崩れる恐れがあるのです。私の法力が尽きぬ内に、玉兎石(ぎょくとせき)を取り戻すことができればよいのですが……」


 なかば呟くような聖母の言葉に、青年は怪訝な表情になる。


「どういうことです、聖母。聖宝が盗まれたことと月の消失の間には、どのような関わりがあるというのですか?」


 ためらうように、聖母は青年からつい、と視線を逸らした。

 聖母は人の身ながら最も神に近く、天の声を聞くただ一人の巫女である。[大災厄(クライシス)]で約半分を失ったという彼女の法力は、それでも、青年の持つ力をはるかに凌駕していた。


「これは、なるべくなら私一人の胸に納めておきたかったのですが――」


 うつむいた聖母の法衣に、すぎるほど長い髪が、黄金の輝きを放って流れ落ちる。


「貴方も承知しているように、聖宝は伝説などではありません。魔からこの世を護るために、初代(エヴァ)が我が主より賜ったもの。長らく封印の奥に秘され、その姿を外界に見せてはいないものの、歴然と存在するこの世の至宝です。その霊力に助けられ、私たちはすでに六度の聖戦を経、七度目を迎えようとしています」

「今さら何をそのような――」

「ですが、世界は幾星霜にわたる光と闇の戦いに均衡(バランス)を失い、それはもはや限界にまで達しているのです。聖宝がその位置を外された今、そのような状態に耐え続けるのは、不可能と断言しても過ぎるものではありません。空間が歪み、月が消えた真の原因も、おそらくはそこにあるのでしょう。私の法力の強さを考慮しても、一月以上玉兎石(ぎょくとせき)が[西の塔]に還らぬ時は――確実に世界は滅びます」


 痛いほどの静寂が、告げられた事実の重さを物語る。

 青年は、呻くがごとく呟いた。


「なんと……なんということだ――」

「聖宝奪回のために私たちに与えられた時間は、わずかに一月――。イルレイアの[追跡(トレース)]によりますと、妖魔の亜空間が開いた先はテス州の湾岸とのこと。レイファシェールが亜空間に入ったこともありますし、かの魔術師の本拠地である可能性は低いでしょう。ですが、相手は聖宝を盗んだほどの実力の持ち主です。レイファシェールへの助力も、慎重を要さねばなりません」


 青年の顔色が、さっと蒼褪めた。


「アストレア! それはどのような意味でおっしゃられるのです。もしや、あの子に聖宝奪回を一任なさるおつもりですか?!」

「私の希望はそうです。無論、レイファシェールに否やがあるならば無理にとは申しません。ですが、事を公にできぬ以上、限られた人物の中で玉兎石を取り戻すことができる者は、レイファシェールをおいて他におりません」


 あくまで冷静な聖母の言葉に、青年の驚愕は怒りへと変わる。


「私やイルレイアには、できぬとおっしゃられるのか! 法術も使えぬ、剣のみが頼りのあの子に――しかも、まだ十五の子供だというのに、本気で聖宝を取り戻せるとお考えなのですか! 貴女はあの子に、命を捨てろとおっしゃるのですか……っ!!」

「ルークシェスト」


 青い瞳を炎と燃え上がらせて反駁する青年を、穏やかな声が制した。

 面紗(ヴェール)から垣間見える紫水晶(アメジスト)の双眸が、瞬きもせず、青年を見つめる。


「感情に流されてはなりません。確かに、レイファシェールはまだ子供。ですが、帝都人(アイテリアル)として生まれた以上、その責を果たさねばならぬ義務があるのです」

「しかし――」

「それは、イルレイアや貴方とて同じこと。二人とも、この帝都でなさねばならぬことがありましょう。貴方たちにしかできぬことが――」

「……」

「信じるのです。レイファシェールは、必ずや聖宝を携えて戻ります」


 彼女の言葉の正しさを誰よりもよく知る青年は、その真摯な眼差しに打たれるように、うなだれた。


「失礼を……申し上げました……」

「いいえ」


 半身とも称される青年を見つめる瞳が、ふ、と緩む。


「それよりも、今の気持ちを忘れずにいることです。そうすれば自然と道は開けましょう。私たちにも、レイファシェールにも――」

「……ええ。あの子は、強い。強い心の者には、運が向かうといいます。ならば今、私にできるのは、祈ることのみ――無事であれ、と……」

「天も聞き届けて下されましょう」


 その言葉に、青年はしっかりと頷いて微笑んだ。

 小さな火を灯していた蝋燭が、かすかに揺らいで燃え尽きる。

 代わりに、天窓から差し込んだ一条の陽光が、静かに朝の到来を告げていた。


   *   *   *


 暑い。じっとりと、からみつくような暑さだった。

 どこからか吹いてくる風も、生温く、湿っている。

 あまりの暑さに寝苦しくなって、レイは目を覚ました。

 そこは、見たこともない薄汚れた室内だった。

 白い漆喰で四方を塗り固められた部屋には、出入り口と窓が一つずつ。調度品は、レイのいる寝台(ベッド)に加え、木製の机が一台と椅子二脚。極めて簡素なおもむきだ。

 開け放された四角い大きな窓から、まばゆい日差しの下を行き交う人の群れが垣間見え、鮮やかな色彩が目を刺す。

 その太い窓枠に腰かけ、少年が一人、外を眺めていた。レイの起き上がる気配(けはい)に気付いてか、振り向く。


「おう。やっと起きたな」


 少年は、統一言語(アリンガム)でぞんざいに言うと、身軽く窓から下りた。


「気分はどうだ? 今、水を持ってきてやるよ」


 言い置いて少年は部屋を出、水差しと木の椀を持って戻る。椀に水を注いでレイに手渡し、


「悪いけど、あまり水はないんだ。そろそろ乾季に入るからな」

「すまない」


 礼を言い、レイは水に口をつけた。少し白濁した水はぬるく、清潔とは呼べそうにはなかったが、それでもレイの渇いた喉を癒すには充分だった。

 少年は椅子にまたがり、背凭れの上に腕を組んで乗せると、日に焼けた顔をほころばせた。


「自己紹介するとしようか。俺はディーン。セレスディーン・グラティアス。旅人だ。あんたは?」

「私はレイ。レイファシェール・セジェウィクだ」


 そこでようやくレイは、落ち着いて相手を見ることができた。

 年はレイのやや上。二十歳前というところか。

 暗い色の髪と目。中背のどこの国ともつかぬ容姿は、窓から見える人々を同じような格好をするせいか、しっくりと風景に馴染んでいる。

 赤地に白い草花模様をあしらった布を頭に巻きつけ、たっぷりした上着と黒い洋袴(ズボン)。膝下までの編み上げ靴を履く。腰には、見たこともない反り身の大刀を帯びていた。

 耳や手首、首回りなどを色々な装身具(アクセサリー)で飾っているが、女性的というのではない。むしろ、野生動物を思わせる彼の雰囲気を引き立ててさえいた。

 レイは寝台の上で身を正すと、ディーンに尋ねた。


「ここは一体どこだ?」

「タリア市だ。第三自治州テスの町で〝アルビオンの入り口〟と呼ばれているところだよ」

「アルビオン……」


 レイは、その事実を確かめるように、口の中で繰り返した。アルビオンは統一世界(カナン)最南端の王国で、レイのいたエファイオスとは二十万公里(ミール)近くも離れている。


「今朝早く俺が浜辺で気持ちよく寝ていたら、突然あんたが降ってきた。そこで俺は、あんたを自分の宿へ連れて来た――とまあ、こういうわけだ。よかったら事情を話してみないか?」


 ディーンは、懐から取り出したものを手で玩びながら訊いた。


「君が助けてくれたのだな。礼を言う。だが事情は――」


 言いかけてレイは、何かを思い出したように胸に手を当てた。そこに何もないことを知って、ディーンの手元に視線が釘付けになる。

 金鎖につながれた、たぐまれなる青の宝石。


「それは……護り石?!」

「ん? ああ、これか」


 ディーンは、手の内で首飾りペンダントを転がしつつ、ほがらかに笑う。


「今朝、あんたと一緒に浜辺で見つけたんだ。すごく綺麗だな、これ。石の中に光が閉じ込められているみたいだ。やっぱり、あんたのだったんだな?」

「そうだ。触らないでくれ」


 硬い声で返すレイに、ディーンは戸惑う様子を見せたが、何も言わず首飾りペンダントを机の上に置いて、空の両手を上げてみせる。

 レイは息をひとつ吐いて、再び口を開いた。


「事情は込み入っているので、私の一存で詳しいことを話すわけにはいかない。だが、大まかなことなら――」


 そう前置きすると、真珠の宮の塔にいた時のことから亜空間へ飛び込むまでの経緯を、具体的な名称は避けて語った。これは、妖魔を追って来たとは知らぬらしいディーンに、危難が及ぶことが恐れたからである。

 月の消失。魔術師らしき犯人を追い詰め、逃がしてしまってこと。そして神殿での惨劇。

 話をしていくうちにレイは、昨夜の悪夢のような出来事が現実であることを、ようやく実感としてとらえていた。


「ふーん……。それじゃあんたは、これからその()()を探して、()()とやらを取り返すつもりなんだな?」

「ああ。後ほど国元から応援が来るとは思うが、それまで私一人でできるだけ探そうと思っている」

「出入りの激しい自治州じゃ、泥棒探しはちょっと難しいぜ。それにその家宝とやらだって、もう人手に渡っているかもしれないだろう?」

「それでも……そんなに困難でも、成し遂げねばならないことなのだ」


 沈痛なくらい真剣な面持ちとなるレイに、ディーンが興味深げな視線を送る。が、尋ねる代わりに微笑んだ。


「ま、覚悟が決まってるんなら頑張んな。俺もテスに来て日が浅いから力にはなれないと思うけど、しばらく居るつもりだ。宿が決まるまで、ここを使うといい」

「すまない。世話をかける」

「もう少し眠れよ。今はちょうど真っ昼間だから、人はあまり外には出ない。泥棒探しは、日が傾いてからにした方がいいぜ?」

「分かった。そうしよう」


 土地勘のないレイは、素直に頷いた。


「それから、この話は――」

「分かってる。誰にも話さねぇよ。さ、男は体力が資本だ。もう寝な」


 異国の少年は、警戒を解ききれないレイに、再びやさしく命じた。

 その言葉に、レイは何か言いたそうな様子をみせたが、横になると瞼を閉じる。

 ほどなくして、安らかな寝息が聞こえてきた。

 ディーンはかすかに笑って立ち上がると、窓の木戸を半分だけ、そっと閉めた。


   *


 とある宿屋の一室で、珍しい銀色の髪をした若者が眠る――その光景を、空間の狭間から見ている者がいた。

 黒い長衣(ローブ)を纏ったその男は、鋭い眼差しを送っていたが、


「帝都の追っ手がこの程度とは思えんが……。それにしても、奇妙な子供だ」


 呟いて、傍らに座る犬に似た大きな獣の首筋を撫でる。


「リュカオン。おまえも、そう思うだろう?」


 答えるように、獣が喉を鳴らした。

 黒衣の男は、そこが派手ないでたちの少年が出て行った他に変化がないとみると、小気味いい音を立てて、指を弾いた。

 途端、鈍い衝撃とともに、今まで目の前に映し出されていた景色がかき消え、足元に新たな空間の窓が開いた。

 映し出されたのは、レイが眠る宿屋からそう遠くない、ある邸宅だった。

 交易で栄える自治州だけに、雑多な文化様式を合わせもつ邸内を中空から見下ろすように探索し、黒衣の男は、一際豪奢な一室で動きを止めた。


 そこでは、二人の男が何やら話をしていた。

 一人は、首も手足も分からぬほど太った体を重そうに羽根座布団(クッション)に預けている。肥体は醜さを隠すように鈴なりの宝石で覆っているものの、それはむしろ王様に化けた蟇蛙のごとく、彼を一層醜く、不気味に見せていた。

 向かいには、対照的に痩せた小さな老爺が座っている。

 老爺が、男に侍る若い女をちらりと見た。男は指輪をはめた手を振って、気にするなと示す。


「シェーラのことは構わなくていいよ。口の堅い女だ。それで……何の用だね?」

「はい。先日、例の荷のことで取引をしたいと言ってよこしたものがおりましたが……」

「ああ」


 男は、侮蔑のこもった声音で短く言った。


「要求どおりに金を払ってやったのだろう?」

「はい。ですが、奴らもつけあがりまして、今度は黙っている代わりに五十万アルムをよこせと言ってまいりましたので……」

「なに……?」


 水煙管を口へ運びかけた男の手が止まった。

 十万アルムもあれば、この辺りの平均的な一家族が五年は楽に暮らせるだろうか。


「そいつは……随分とまた、大きく出たものだねえ」


 もの柔らかな口調を裏切るように、小さな眼に宿る光は冷たい。


「いかがいたしましょう、旦那様」

「アリ、相手の素性は分かっているのだろうね?」

「はい。先日の取引の際、若い者に尾けさせまして、その正体を突き止めてございます」

「それで……このアラム・ハディルを脅そうという身のほど知らずは、どこの誰だい?」

「東区にたむろしている破落戸(ごろつき)どもで、アッバスという若造が頭目です。我々にとっては蝿同然の小物ですが……」

「うろちょろされて、妙な噂を立てられてはかなわないねえ」


 アラム・ハディルは、水煙管を一口吸って、煙を吐き出した。


「消してしまいなさい。うるさい蝿は追い払うよりも、叩き潰すにかぎる」


 厚い唇に、酷薄な笑いを浮かべた。

 部屋を飛んでいた一匹の虻が、煙を巻いて部屋の外へ飛んでいく。


「今朝ちょうど、ヨギがおもしろいものを捕まえてね。近いうちに試してみようと思っていたところなのだよ。いくら愚かな蝿でも、引き際が肝心だということを思い知らせてやらないとねえ……」

「では早速……」

「任せたよ、アリ」

「はい。ですが旦那様、次官様には何もお伝えしなくてよろしいのでございますか?」

「たかが蝿数匹を片付けるのに、わざわざ次官様のお耳を汚す必要はないよ。だが、始末するのは早い方がいいだろうねえ」

「承知いたしました」


 頭を下げるアリへ、女が杯を差し出す。血のように赤い葡萄酒ヴィーノがなみなみと注がれた。

 酒杯を打ち合わせ、二人の男は陰湿な笑いを交わす。


 その様子を薄皮一枚隔てた空間の向こう側で見ていた黒衣の男は、眉をひそめ、口中で小さく罵倒の言葉を吐き捨てた。

 再び指を弾き、空間を移動させる。やがて男は、探していた場所を見つけ出した。

 同じ邸内にありながら、陽も差さぬがらんとした部屋。その暗闇の中で赤い光が二つ、狐火のごとく浮かんでいる。

 それは、巨大な生き物の眼であった。

 鋭く見抜いた、男の瞳が細まる。


「……捕らわれたか。ならば、無理に解くわけにはいかんな」


 意味不明の呟きを洩らし、男は、乾いた表情にかすかな笑みを刻んだ。


「しばらく様子を見るとするか……」


 男は長衣を翻すと、獣と共に、漆黒の空間の中へ溶けるように消えていった。




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