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オアシスの村マルタ・レインを出立してから二日後。
レイ・セジェウィクとディーン・グラティアスは、砂漠の都市テーベまでの道程を順調に旅していた。
徒歩での旅だが、進み具合はそれほど悪くない。
砂漠という環境に慣れたこともあってか、大した事件もなく、旅は進んでいた。
休憩を終え、日没と同時に二人は再び旅の歩を進める。
まだ熱気の残る埃っぽい大気に、レイは頭布の端に水を含ませ、首筋を拭った。
「ふう……」
どこか顔色の冴えない連れを振り返り、ディーンが声をかける。
「なあ、レイファス。腹、減らないか?」
日に焼け、赤かった肌を健康的な小麦色にしたレイが、妙な顔になった。
「何だ、その呼び方は?」
「え? おまえの名前レイファシェールじゃなかったっけ」
「そうだが?」
「だから。〝レイ〟じゃ寂しいかなーと」
「――好きにしろ」
自分の理解力をたまに超える連れを無視し、レイは足を速める。ディーンが追いかけた。
「無視するなよな。俺たち、友達じゃねーか!」
「友達?」
まとわりつく少年に、レイは冷ややかな眼差しを向けた。
軽くあしらおうとして、悪びれない笑顔に思いとどまる。
「……何が望みだ?」
「あはあは、恐い顔すんなって。ちょっとお腹が空いたなーと」
「おまえの頭には、食べることしかないのか?」
「砂漠の旅で、食べること以外ほかに楽しみがあると思うのか?」
即答で言い返され、レイは反論する気力を失った。
溜め息をひとつつくと、荷物を下ろして、小分けにしてある食料を一包み取り出す。
「ほら。その分、今夜の夕飯は減るからな」
「やった。さすがは友達」
「都合のいい時だけ友達扱いして……」
レイはぼやいたが、ふ、と表情を緩めた。
少々きつく見える顔立ちが、感情を表すことはほとんどない。
「友達、か……」
その呟きに、ディーンが、水と塩と小麦粉だけで作ったパンを頬張ったまま顔を上げた。
「ふぁに?」
「食べてからしゃべれ」
行儀の悪い連れをたしなめ、レイは、下ろした荷物に背中を預けた。
「以前テスで、ルビアに言われたことを思い出したんだ」
「言われたこと?」
「おまえと私は、必ず友達になる、と……」
懐かしげに、レイが笑う。ディーンはパンを飲み込みながら、考え深げに呟いた。
「ふぉ~ん。ほれには……俺には、そんなこと一言も言わなかったけどなあ」
自治州テスで会った気風のよい女将を思い返して、
「女将は好みがうるさそうだからな。ひょっとしたらおまえ、気に入れられてたんじゃないの?」
「そ、そんなことはないと思うが……」
赤くなって否定するレイに、ディーンは意味ありげな視線を注ぐ。
「ははーん。おまえ、ひょっとしてあーゆーのが好み?」
「そうでは……好みとか、そういうのではなくて、彼女は……ルビアは――」
言い澱み、レイはうつむいた。
「知り合いの女性に似ていた」
レイの脳裏に、朝焼けのような朱金の髪の女性の面影がよぎる。
顔立ちや姿ではなく、人目を惹く赤毛とルビアのあたたかな雰囲気が、レイに友人の女性を思い起こさせた。
「口が悪くて気が強くて、男顔負けのすげー女か?」
「言葉遣いはともかく、剣にしろ法術にしろ、確かに男には負けていないな。だけど、男性的というのではなくて、とても思いやり深くて賢くて女らしい。見事な朱金の髪をした美しい人で、曙の姫君と呼ばれるほどだ」
従姉にあたるイルレイアは、やさしげな童顔のために誤解されることも多いが、若いながら剣と法術の双方を極めた聖騎士であった。
帝都人の性情ともいえる高慢さはひとかけらもなく、口うるさい長老たちですら、彼女に対しては賛辞を惜しむことはない。
ディーンはレイの銀髪を綺麗だと言ったが、レイは、イリヤの朱金の髪こそ何よりも美しいと思っていた。レイが褒めそましてやまぬ髪が、今やその長さをとどめていないとは夢にも思わず、レイはイリヤを想った。
「へー。そこまで完璧だと、俺は、いくら美人でもごめんだけどな。その人がおまえの恋人ってわけ?」
「いいや。彼女は姉みたいなものだ。十二の時に初めて帝都に上がって、右も左も分からなかった私をずっと助けてくれた。恩人であり友人、かな」
レイの母は正式な妻と認められぬまま、父の知らぬ間にレイを産んで他界した。
それからずっとエファイオスの神殿で育てられてきたのだが、三年前、ふとしたことから父と再会し、正式に実子として帝都へ赴いたのである。
その話をディーンは、旅の道すがら、ぽつぽつと聞かされていた。
パン屑を膝から払い落とし、ディーンは考え深げに、論点とはまったく関係ない感想を洩らす。
「しっかし帝都人ってのは、おまえとかノアも含めて、みんな美人ばっかだな」
「……男に普通、美人っていうか?」
「言葉尻をとるなって。ノアとおまえって何となく似てたけど、親戚か?」
「いいや。だいたいノアは帝都人ではなくて、その能力から帝都の役職についた男だ。元を正せば、おまえと同じカルディアロス人だぞ」
ディーンは唇を引っぱりながら眉根を寄せ、ぼそりと呟いた。
「うーん。美人って造りが似てくるのかなー……」
呆れて言葉のないレイが、額を押さえる。
ディーンは気にも止めず、感心したような口ぶりで続けた。
「男ですごい美人なんてそういないと思ってたけど、いるもんだな」
「感心することか?」
「イイ男っつーなら、俺を含めて結構いるけどさ。おまえらってなんか、性別とか関係なしに綺麗じゃん」
「――褒められている気がしないが」
不機嫌そうに、レイは言う。ただでさえ銀色の髪に劣等感を持つのに、顔立ちまで特別と言われてはかなわない。
ディーンは、険悪になるレイの肩を能天気に叩いた。
「レイファス。美しいということはいいことなんだぞ。うまく使えば特別扱いされるし、女にだってもてる。人生薔薇色だっ!」
握り拳を作り、真顔で力説する。その真剣な様子に、レイは思わず、ぷっと吹き出した。
「何笑ってんだよ。俺は真面目にだなー……!」
「分かった分かった。そろそろ出発しよう。もう夜だ」
レイは軽くいなし、足元の荷物を担ぎ上げた。早足に歩き出すレイを、慌ててディーンが追いかける。
「ちょっと話を聞けってば……」
しつこく話し続ける連れに、レイは悩みも忘れて、笑いながら夜の砂漠に歩を進めた。
*
深夜に入り、予定より一時間ほど遅れて二人は野営を建て、遅い夕食を取った。
今晩は、レイが先に見張りを担当する。
レイは、荷物を椅子代わりにして座り、時々小枝を投げ入れながら焚火を調節した。
寝付けないらしいディーンが、天幕から顔だけ出して、その背中に声をかけた。
「――なあ、何考えてんだ?」
「別になにも」
背を向けたまま、レイは答える。赤い炎に照らされた横顔には、ひとかけらの感情も浮かんでいなかった。ディーンは重ねて問いかける。
「なにもってことはないだろう。おまえ、このごろずっと何を悩んでいるんだ?」
「……」
彼は、自分の気持ちをあまり表に出さない連れを心配していた。諾否ははっきり言うが、何を感じているかをほとんど口にしないレイは、言動からその気持ちを察するしかなかった。
マルタ・レインにいた頃から、時折何かを考え込んでいるような姿を見ていたディーンは、思い切って尋ねる。
「俺に話して解決することじゃないかもしれないけど、話してみろよ。すっきりするぜ?」
レイの背中は動かない。
「友達、だろ?」
その言葉に、レイはふ…と微笑んだ。
「ずっと……あの妖魔が言ったことを考えていた」
「言ったこと?」
「宝を盗んだ目的は、妖魔の王を復活させることだと――」
ディーンは、濃い眉をひそめた。
妖魔の王――魔王。それは絶大な魔力を持ち、すべての妖魔の頂点に立つ妖魔のことである。
もしも魔王がこの世に甦れば、統一世界を守護する聖母といえども、倒すことは難しい。
魔王に立ち向かうとなれば、聖母のもとへ五霊王が集う必要があった。それはすなわち、なかば伝説と化した聖戦が現代で行われるということを意味する。
[大災厄]を皮切りに、世界各地で異変が頻発し、少数ながらも妖魔がその封印を解かれつつある今、魔王の復活は必然なのかもしれない。
しかし、黙ってそれを見逃すわけにはいかなかった。
「盗まれたその宝は、魔王を復活させるだけの霊力を持ったものなのか?」
ディーンの質問に、レイは黙って、首を縦に振った。
想像を超えた現状の厳しさに、ディーンは深い息をつく。
「魔王の封印っつーものは、普通どのくらいで解けちまうもんなんだ?」
「分からない。私たちの探す宝――玉兎石は、意志を持ち、みずから持ち主を選ぶと言われている。だから、宝を手に入れたところで、簡単に霊力を我がものにできるわけではないのだが……」
「できたら最後、魔王は復活しちまうってわけか」
「……ああ」
レイは頷いた。ぎりぎりのところまで話してしまったという罪悪感が芽生えるが、なぜか心は軽い。
ディーンは寝そべったまま、頭の下で両手を組んで、
「一応、少し前に妖魔らしき化け物が現われて、街が半壊したってことでテーベに向かってるんだけどさ。ひょっとしたら、そこで魔王と御対面ってこともありえるわけだな」
「テーベは古くからある大きな都市だ。魔王が封印されているとは考えにくいだろう」
「可能性は捨てられない。そこが宝を盗んだ魔術師の居所であることを祈ろうぜ」
「ああ……そうだな」
答えて、レイはふと黙り込んだ。
どこからか冷たい風が流れ込んでくるような気がして、辺りを見渡す。
「あ……」
いつの間にか、一列に並んだ駱駝の群れが砂丘を越え、こちらへ向かってやって来ていた。
その意外なほどの近さに、レイは慌てて立ち上がる。
「ディーン、隊商だ」
「こんな時間に隊商が通るわけ――」
レイの声に天幕から出てきたディーンは、言いかけ、十数頭の駱駝の群れを見て、絶句する。
風が、二人の足元の焚火を揺らし、吹き消した。
それでも、星明かりだけでも充分見える距離まで、旅の商人たちは近づいている。
そのとき、何を思ったのか突然ディーンが天幕をたたみ、荷物をまとめはじめた。
「何をするんだ?」
「隊商なんて、なかなか会えないからな。いい機会だから一緒に連れて行ってもらおうぜ。行き先が一緒なら、半日は早くテーベに着ける」
そう言われたレイも、半信半疑ながら、片付けを手伝う。
二人の前へ、しゃん…と駱駝の鈴飾りを鳴らして、隊商が止まった。
恰幅のいい、ひときわ立派な顎鬚をたくわえた男が話しかけてくる。
「おまえたちは、どこへ行く?」
「テーベだ」
「そうか。では、我々と一緒だ。一緒に来るか?」
「ありがたい。助かるよ」
願ってもない申し出を、ディーンは笑顔で受けた。
男は、前にいる男の駱駝へディーンを、自分の駱駝の後ろへレイを乗せる。
「では、出発!」
号令と共に、二人を加えた隊商は、旅の歩を再開させた。
最初に二人に声をかけた男が、名をイスメッドといい、この隊商の隊長だという。
ディーンが乗る駱駝の男は、新米のサディク。最年少の彼は、まだ髭の生え揃わない若い顔に、常に笑顔を絶やさなかった。
隊の雰囲気を和らげる彼に親しみを感じたディーンは、興味のままに質問をする。
「どこから来たんだ?」
「サヴァ国です」
「聞いたことないな」
「マルタ・レインから二千公里もありますからね」
「へえ。一体どれくらい旅してるんだ?」
「三月ほど。でも、これでも短いほうですよ。旅に出て、半年や一年戻らない者もいますから」
「そういえば、俺ももう一年旅してる。放浪の旅ってやつだけどな」
「お国はどちらです?」
「カルディアロスさ」
滅多に聞けない異国の少年の話に、他の者もついつい話に引き込まれる。
それでも隊列が乱れないのは、さすがというべきか。
久しぶりの駱駝の背に揺られながら、レイはイスメッドに訊く。
「では、テーベへは戻りの旅なのだな?」
「そうだ。なかなかいい商売ができたので、早く帰ろうと思ってな」
「深夜は危険ではないのか?」
「そんなことはない。慣れている道だ。目をつむっても明日の朝までにはテーベに着ける」
イスメッドは、髭に覆われた顔をほころばせた。
旅の間、妻や子の姿をどれだけ思い浮かべただろう。帰り路を急ぐ気持ちも分かる。
サディクは、懐から櫛を取り出し、ディーンに手渡した。
紫檀で作られた櫛は、虹色に光る貝の象嵌が施され、使うのがもったいないほど美しい。
「綺麗だな。お土産か?」
「はい。妻に」
サディクは、わずかに顔を赤らめた。前を行く男が振り向いて、彼が新婚なのだとディーンに教える。
「じゃあ、早く会いたいよな。名前はなんていうんだ?」
「ライラといいます」
恥ずかしそうに答えるサディクを、周りの仲間たちが口々に冷やかした。
結婚して間もないうちに旅立ったサディクにとって、妻との再会は格別なものがあるのだろう。
サディクはディーンに、腰帯に提げた一本の紐を見せる。
光沢のある黒い紐は、よく見ると、人の髪を編んでより合わせたものだった。
「妻の髪です。我々旅の商人のお守りです」
誇らしげに、サディクは言った。
周りの男たちも皆、妻の髪で編んだお守りを首に下げたり、腕に巻いたりして持っていた。お守りを二本や三本持つものは、妻が多くいる者である。アルビオン人の男は、複数の妻を娶る習慣がある。イスメッドも、四本のお守りを持っていた。
「妻が何人もいては、争いにならないか?」
「いいや。強い男だけが大勢の妻を養う。妻を養えない男は、もっとも軽蔑される」
レイの問いに、イスメッドは強い信念をもって答えた。
砂漠という極限の環境の中で多くの子孫を残すには、一夫多妻制で強い男が多くの妻と子を養い、守る必要があった。
妾妃や愛人を囲うのとは、同じように見えてまったく対極にある彼らの考え方を知り、レイは好感をもった。
ふと、サディクの前を行く駱駝が足を乱した。
「――どうした?」
サディクが声をかけると同時に、左側方から、空中高く砂が吹き上がる。
イスメッドは、瞬時に手綱を引き、大声に号令をかけた。
「砂鬼だ! 下がれぃっ!」
だが、間に合わなかった数頭が砂に呑まれる。獣の絶叫が上がった。
砂鬼は夜目が利かず、本来は昼行性なのだ。どうやら隊商は、運悪く砂鬼の寝床へ入り込み、起こしてしまったようだ。
怯え、恐慌状態となる駱駝をなだめすかし、一行は安全な場所へ避難する。
しかし、大地はすべて砂鬼の縄張りだ。旅の足である駱駝が真っ先にやられ、足を失った男たちは、川の飛び石を渡るように別の駱駝へと移った。
威嚇の声を発し、一匹の砂鬼がサディクを襲う。
サディクは、偃月刀を振り回して追い払おうとするが、戦闘に不慣れであることは一目瞭然であった。
ディーンは後ろで、振り落とされないように駱駝に掴まりながら、腕輪に仕込んでいる棒手裏剣を抜いた。
唾を吐きかけ、砂鬼の頭めがけて投げ打つ。
風を突き破り、それは砂鬼に命中した――かに見えた。
「なにっ?!」
砂鬼はそのまま踊りかかり、彼らの乗った駱駝の前脚を喰いちぎった。悲鳴をあげて、駱駝が倒れる。
地面に投げ出されたサディクを、鋸のような大顎が狙った。
「うわあ……っ!」
「サディク!」
叫んだディーンの目の前で、サディクの肩を喰い破った砂鬼が、砂中に沈む。
ディーンは大刀を抜くと、わずかに反った刀身に右手をかざした。
怒りに任せて、持てる最大限の気を刀身に注ぎ込む。
神呪が、青白い輝きを放って浮かび上がった。
妖魔を倒した時の比ではない光を帯びた大刀を、一気に振り下ろす。
「うおおおおっ!!」
一刀の軌跡に沿って、青白い光が闇夜を駆け抜けた。
光は、数頭の砂鬼を巻き込んで切断する。その一撃によって、大半の砂鬼は撃退された。
隊の前側では、レイが、同じく光り輝く剣をふるって、残りの砂鬼を退治していた。
気力を出し尽くし、肩で息をしながら、ディーンはサディクの元へ走り寄る。
むん、と血の臭いが鼻孔をついた。
右肩の傷口から流れ出た血が、サディクの外套をぐっしょりと濡らしていた。
ディーンは、自分の頭布を外し、包帯代わりにしてサディクの肩に巻き付けた。だが、骨まで達する傷は深く、出血もひどい。
サディクは、虚ろな視線を空に向けたまま、震える手で象嵌の櫛を取り出した。
「こ……れを……妻に……」
浅く、早くなる息の下で、切れ切れに頼む。
ディーンは、櫛を握る彼の手ごと、両手でしっかりと包んだ。
「心配するな。必ず助かる」
「頼……。お……礼は……この……かに入っ……」
「分かった。分かったから、もう何も言うな」
サディクの土気色の顔に、小さな微笑みが浮かんだ。ゆっくりと瞼が閉ざされる。
「サディク……!」
アルビオン人の青年を抱えたまま、急激な疲労に襲われたディーンは、それを追うように気を失った。遠くで、誰かが彼の名を呼んだ気がした。
どれほどの微睡みを漂っていたのだろう。やがて、名を呼ぶ声がはっきりと耳元で聞こえ、揺り起こされたディーンは、覗き込むレイの姿を見た。
「ディーン、大丈夫か?」
「ああ。くそ……異常にだるいぜ」
気を放出しすぎたのか、ディーンは泥のような倦怠感に懸命に抵抗する。
「砂鬼は?」
「全部片付いた」
「そうか。それじゃ――」
ふらふらする頭を抱え、呟いたディーンは、おのれの言葉にはっとなった。
「そうだ……サディクは……イスメッドたちは――?」
レイの表情が、一瞬沈む。
嫌な予感を覚え、ディーンは砂漠を振り返った。と。
「まさか――」
そこには、砂鬼にやられたはずのサディクは勿論、イスメッドをはじめ、男たちが全員無事に駱駝に跨って並んでいた。
飛び起きたディーンは、疲労もどこへやら、彼らの元に走り寄った。
「サディク、あんた無事なのかよ?」
「はい。このとおり、どうにかまた旅へ戻れそうです」
まだ肩にディーンの頭布を巻いたまま、サディクが答えた。
仲間の薬が効いたのか、ディーンの止血が功を奏したのか、サディクの声は意外なほど力強い。それでも、破れ、血に塗れた衣服が生々しかった。
「これもあなたのおかげです。ありがとう。これで、妻のところへ帰れます」
「気にすんなよ。無事で何よりだ」
明るく言うディーンにつられ、サディクも顔をほころばせた。
やはり、まだ顔色が悪い。心なしか影まで薄く見えるのは、月明かりのせいだろう。
丸みを帯びた月の光を受け、不思議なほど銀色に輝く砂漠には、砂鬼の残骸が点々と散り、戦闘の名残をとどめていた。
再びディーンとレイが隊商に加わり、一行は夜の砂漠の旅を再開する。
ディーンは、サディクの傷に負担にならないように掴まりながら、先程手渡された櫛を差し出す。
「返すぜ。大事な奥さんへのお土産だろ」
「いいえ。それは、あなたが持っていて下さい。わたしの命を助けて下さった、せめてものお礼です」
「だけど……」
「いいのです。妻も……喜んでくれると思います」
サディクは振り向いて、にっこりと笑った。
ディーンは、手の中の櫛を見つめ、小さく呟いた。
「そうだよな。元気な顔を見せてやるのが、一番のお土産だもんな」
それが聞こえたかどうか、サディクは背中を返して、やさしく声をかける。
「疲れたでしょう。寝てもいいですよ」
砂丘の向こうには、もうテーベの街並みが見えていた。
大地に白く伸びる城壁に囲まれた街は、大きく豊かで、人々の活力に光り輝いている。
その中ではきっと、サディクの新妻やイスメッドの四人の妻と子供、兄弟親戚たちが彼らの帰りを待ち受けているのだろう。
ディーンは、サディクの背にもたれて目をつむり、もう一度深い、深い眠りの中へ落ちていった。
やがて明け方の急激な冷え込みに、ディーンは目を覚ました。よく寝たのか、昨夜の疲労感はすっかり消えている。
ディーンは伸びをして、大きな欠伸をひとつした。そして気付いた。
「――あれ?」
むき出しの黒髪を掻いて、首を傾げる。
サディクたち一行とは、夜のうちにテーベの城門の前で別れていた。
テーベ市民であり、家路を急ぐ彼らは夜のうちに市内へ入ったが、旅人のディーンとレイは翌日の検問を受けるために、ここで朝まで待つことにしたのである。
ディーンの脳裏には、門の衛兵に出迎えられ、嬉しそうに家路に向かう彼らの姿がはっきりと焼きついている。
だが――。
「なんだ、ここは?」
砂漠に、まるで茸のように場違いに、にょっきりと生えた岩や石積みを蹴飛ばして、ディーンは呟いた。
昨夜見た時は、確かに大きな鉄の城門があったはずだが。
ディーンは辺りを見渡して、柱に似た巨大な岩の前に佇むレイを見つけた。
「レイファス!」
ディーンは走り寄り、
「一体どうなってんだ、これ……?」
尋ねかけて、レイの暗い表情に言葉をとぎらせる。
「レイ……?」
蒼い双眸に涙を浮かべるレイに、ディーンは当惑した。
「一体どうしたってんだ? 何があったんだよ?」
「ディーン……」
「ここは、テーベじゃないのか?」
「――かつてはそうだった……」
囁きで返されたかすかな答えに、数瞬、ディーンの思考が止まる。
レイは、哀しげにディーンを見た。彼の両腕を掴み、ゆっくりと言い聞かせるように告げる。
「ディーン。昨日の隊商は、今生きている人たちではない。もっと、ずっと昔の時代の人たちだったんだ」
ディーンは、信じられないというように首を振った。
「何言ってんだ、おまえ……」
「よく聞け。私たちは昨夜、過去の人間と旅をしたんだ」
「――嘘だ!」
ディーンは叫んだ。レイの手を振りほどき、頭を抱える。
駱駝の臭いも、鈴の音も、男たちの笑い声も、サディクの背中の温かさも、みんなこんなにはっきりと思い出せるというのに。
それがすべて幻だったというのか。
力を失い、がっくりと膝をつくディーンを、レイは黙って見ていた。
「死んでいたっていうのか……サディクもイスメッドも……みんな」
「ああ」
「砂鬼も……?」
「そうだ。だから、おまえの手裏剣がきかず、神術を施した剣だけが奴らを倒すことができた――」
淡々と語るレイの説明に、少しずつディーンは落ち着きを取り戻した。
日に焼けた顔に、乾いた笑いが浮かぶ。
「……馬鹿みてー。死んだ人間としゃべったり、一緒に駱駝に乗ったり……」
「そんなことはない」
「充分馬鹿だって。おまえは、いつ気がついた?」
「自然を感じやすいたちだと言っただろう。生きている者と死んでいる者の区別は、一目で分かる」
レイの言葉に、ディーンは地面にぺったりと座り込む。
「なーんだ。俺のひとり相撲だったってわけか。砂鬼と戦ったりしてよー……」
「私も戦った。だが、そのおかげで、彼らは無事にテーベに辿り着けたではないか?」
かつて旅の途中で砂鬼に襲われて命を落とした彼らは、長い長い間砂漠をさすらっていた。彼らと出会い、ついていった者は、共に死ぬのが定め。
しかし、生者と信じて疑わなかったディーンの剣により、本来死ぬはずだった彼らは死なず、悲願の故郷に帰りついた。
あの城門や街並みは、彼らの記憶と想いが作り上げた幻想。
だが、本来の事実が捻じ曲げられて作った夢の中へ、彼らはあんなにも喜んで帰っていった。
もう彼らは、この砂漠でさすらうことはないだろう。
ディーンはレイに頷きかけ、かすかに微笑んで立ち上がった。拍子に、懐から何かが転がり落ちる。
無言のまま、ディーンがそれを拾い上げた。
息を飲んだレイは、思わず彼の肩に取りすがる。
「――ディーン……」
紫檀で作られた、女物の櫛。
年月を感じさせるように塗装は剥げ、自慢の貝の象嵌もほとんどなくなってしまっている。
レイは、櫛を握りしめる彼がどこかへ行ってしまうような気がして、何度もその名を呼び続けた。
「ディーン……ディーン。サディクはおまえにありがとうと、妻の元へ帰れると、そう言っていただろう。だから……だから――」
必死に慰めようとするレイは、動かない彼の両眼から一粒の涙がこぼれるのを目にした。
「ディーン……」
「どんなに――会いたかっただろうと……帰りたかっただろうと、そう思うと俺……!」
あとは、涙でつまって言葉にならない。
声を殺して泣くディーンの肩に、レイはただ黙って手を置いた。
人を思いやって泣くことのできる彼はすばらしい。そして、そんな彼と共に旅ができることを、レイは心から嬉しく思った。
穏やかな曙光が、廃墟に立つ二人を照らす。
傾いた過去の碑石に、今はもう薄くなった文字が、淡い影を落とした。
〝テーベ王国――統一暦九五八年建国〟
一陣の風が吹いて、さらさらと黄砂を巻き上げる。大地に積もる、人々の血と汗と涙と夢を抱えて。
砂漠に埋もれた無数の人骨の中に、ひとつだけ、異様なものがあった。
砕かれた右肩を庇うように包む、深紅の布――。
もはや擦り切れ、色褪せたそれは、無限の黄砂の中で静かにたなびいていた。
そうして、ゆっくりと砂に埋もれてゆく。
多くの喜怒哀楽を育んだ廃墟の彼方で、現在を生きるテーベの都が、遠くたたずんでいた。




