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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第2話 砂上幻想
14/33

2-7



 オアシスの村マルタ・レインを出立してから二日後。

 レイ・セジェウィクとディーン・グラティアスは、砂漠の都市テーベまでの道程を順調に旅していた。

 徒歩での旅だが、進み具合はそれほど悪くない。

 砂漠という環境に慣れたこともあってか、大した事件もなく、旅は進んでいた。

 休憩を終え、日没と同時に二人は再び旅の歩を進める。

 まだ熱気の残る埃っぽい大気に、レイは頭布(シェシ)の端に水を含ませ、首筋を拭った。


「ふう……」


 どこか顔色の冴えない連れを振り返り、ディーンが声をかける。


「なあ、レイファス。腹、減らないか?」


 日に焼け、赤かった肌を健康的な小麦色にしたレイが、妙な顔になった。


「何だ、その呼び方は?」

「え? おまえの名前レイファシェールじゃなかったっけ」

「そうだが?」

「だから。〝レイ〟じゃ寂しいかなーと」

「――好きにしろ」


 自分の理解力をたまに超える連れを無視し、レイは足を速める。ディーンが追いかけた。


「無視するなよな。俺たち、友達じゃねーか!」

「友達?」


 まとわりつく少年に、レイは冷ややかな眼差しを向けた。

 軽くあしらおうとして、悪びれない笑顔に思いとどまる。


「……何が望みだ?」

「あはあは、恐い顔すんなって。ちょっとお腹が空いたなーと」

「おまえの頭には、食べることしかないのか?」

「砂漠の旅で、食べること以外ほかに楽しみがあると思うのか?」


 即答で言い返され、レイは反論する気力を失った。

 溜め息をひとつつくと、荷物を下ろして、小分けにしてある食料を一包み取り出す。


「ほら。その分、今夜の夕飯は減るからな」

「やった。さすがは友達」

「都合のいい時だけ友達扱いして……」


 レイはぼやいたが、ふ、と表情を緩めた。

 少々きつく見える顔立ちが、感情を表すことはほとんどない。


「友達、か……」


 その呟きに、ディーンが、水と塩と小麦粉だけで作ったパンを頬張ったまま顔を上げた。


「ふぁに?」

「食べてからしゃべれ」


 行儀の悪い連れをたしなめ、レイは、下ろした荷物に背中を預けた。


「以前テスで、ルビアに言われたことを思い出したんだ」

「言われたこと?」

「おまえと私は、必ず友達になる、と……」


 懐かしげに、レイが笑う。ディーンはパンを飲み込みながら、考え深げに呟いた。


「ふぉ~ん。ほれには……俺には、そんなこと一言も言わなかったけどなあ」


 自治州テスで会った気風のよい女将を思い返して、


「女将は好みがうるさそうだからな。ひょっとしたらおまえ、気に入れられてたんじゃないの?」

「そ、そんなことはないと思うが……」


 赤くなって否定するレイに、ディーンは意味ありげな視線を注ぐ。


「ははーん。おまえ、ひょっとしてあーゆーのが好み?」

「そうでは……好みとか、そういうのではなくて、彼女は……ルビアは――」


 言い澱み、レイはうつむいた。


「知り合いの女性に似ていた」


 レイの脳裏に、朝焼けのような朱金の髪の女性の面影がよぎる。

 顔立ちや姿ではなく、人目を惹く赤毛とルビアのあたたかな雰囲気が、レイに友人の女性を思い起こさせた。


「口が悪くて気が強くて、男顔負けのすげー女か?」

「言葉遣いはともかく、剣にしろ法術にしろ、確かに男には負けていないな。だけど、男性的というのではなくて、とても思いやり深くて賢くて女らしい。見事な朱金の髪をした美しい人で、曙の姫君と呼ばれるほどだ」


 従姉にあたるイルレイアは、やさしげな童顔のために誤解されることも多いが、若いながら剣と法術の双方を極めた聖騎士であった。

 帝都人の性情ともいえる高慢さはひとかけらもなく、口うるさい長老たちですら、彼女に対しては賛辞を惜しむことはない。

 ディーンはレイの銀髪を綺麗だと言ったが、レイは、イリヤの朱金の髪こそ何よりも美しいと思っていた。レイが褒めそましてやまぬ髪が、今やその長さをとどめていないとは夢にも思わず、レイはイリヤを想った。


「へー。そこまで完璧だと、俺は、いくら美人でもごめんだけどな。その人がおまえの恋人ってわけ?」

「いいや。彼女は姉みたいなものだ。十二の時に初めて帝都に上がって、右も左も分からなかった私をずっと助けてくれた。恩人であり友人、かな」


 レイの母は正式な妻と認められぬまま、父の知らぬ間にレイを産んで他界した。

 それからずっとエファイオスの神殿で育てられてきたのだが、三年前、ふとしたことから父と再会し、正式に実子として帝都へ赴いたのである。

 その話をディーンは、旅の道すがら、ぽつぽつと聞かされていた。

 パン屑を膝から払い落とし、ディーンは考え深げに、論点とはまったく関係ない感想を洩らす。


「しっかし帝都人(アイテリアル)ってのは、おまえとかノアも含めて、みんな美人ばっかだな」

「……男に普通、美人っていうか?」

「言葉尻をとるなって。ノアとおまえって何となく似てたけど、親戚(しんせき)か?」

「いいや。だいたいノアは帝都人ではなくて、その能力から帝都の役職についた男だ。元を正せば、おまえと同じカルディアロス人だぞ」


 ディーンは唇を引っぱりながら眉根を寄せ、ぼそりと呟いた。


「うーん。美人って造りが似てくるのかなー……」


 呆れて言葉のないレイが、額を押さえる。

 ディーンは気にも止めず、感心したような口ぶりで続けた。


「男ですごい美人なんてそういないと思ってたけど、いるもんだな」

「感心することか?」

「イイ男っつーなら、俺を含めて結構いるけどさ。おまえらってなんか、性別とか関係なしに綺麗じゃん」

「――褒められている気がしないが」


 不機嫌そうに、レイは言う。ただでさえ銀色の髪に劣等感を持つのに、顔立ちまで特別と言われてはかなわない。

 ディーンは、険悪になるレイの肩を能天気に叩いた。


「レイファス。美しいということはいいことなんだぞ。うまく使えば特別扱いされるし、女にだってもてる。人生薔薇色だっ!」


 握り拳を作り、真顔で力説する。その真剣な様子に、レイは思わず、ぷっと吹き出した。


「何笑ってんだよ。俺は真面目にだなー……!」

「分かった分かった。そろそろ出発しよう。もう夜だ」


 レイは軽くいなし、足元の荷物を担ぎ上げた。早足に歩き出すレイを、慌ててディーンが追いかける。


「ちょっと話を聞けってば……」


 しつこく話し続ける連れに、レイは悩みも忘れて、笑いながら夜の砂漠に歩を進めた。


   *


 深夜に入り、予定より一時間ほど遅れて二人は野営を建て、遅い夕食を取った。

 今晩は、レイが先に見張りを担当する。

 レイは、荷物を椅子代わりにして座り、時々小枝を投げ入れながら焚火を調節した。

 寝付けないらしいディーンが、天幕(テント)から顔だけ出して、その背中に声をかけた。


「――なあ、何考えてんだ?」

「別になにも」


 背を向けたまま、レイは答える。赤い炎に照らされた横顔には、ひとかけらの感情も浮かんでいなかった。ディーンは重ねて問いかける。


「なにもってことはないだろう。おまえ、このごろずっと何を悩んでいるんだ?」

「……」


 彼は、自分の気持ちをあまり表に出さない連れを心配していた。諾否だくひははっきり言うが、何を感じているかをほとんど口にしないレイは、言動からその気持ちを察するしかなかった。

 マルタ・レインにいた頃から、時折何かを考え込んでいるような姿を見ていたディーンは、思い切って尋ねる。


「俺に話して解決することじゃないかもしれないけど、話してみろよ。すっきりするぜ?」


 レイの背中は動かない。


「友達、だろ?」


 その言葉に、レイはふ…と微笑んだ。


「ずっと……あの妖魔が言ったことを考えていた」

「言ったこと?」

「宝を盗んだ目的は、妖魔の王を復活させることだと――」


 ディーンは、濃い眉をひそめた。

 妖魔の王――魔王。それは絶大な魔力を持ち、すべての妖魔の頂点に立つ妖魔のことである。

 もしも魔王がこの世に甦れば、統一世界(カナン)を守護する聖母といえども、倒すことは難しい。

 魔王に立ち向かうとなれば、聖母のもとへ五霊王が集う必要があった。それはすなわち、なかば伝説と化した聖戦が現代で行われるということを意味する。


 [大災厄(クライシス)]を皮切りに、世界各地で異変が頻発し、少数ながらも妖魔がその封印を解かれつつある今、魔王の復活は必然なのかもしれない。

 しかし、黙ってそれを見逃すわけにはいかなかった。


「盗まれたその宝は、魔王を復活させるだけの霊力を持ったものなのか?」


 ディーンの質問に、レイは黙って、首を縦に振った。

 想像を超えた現状の厳しさに、ディーンは深い息をつく。


「魔王の封印っつーものは、普通どのくらいで解けちまうもんなんだ?」

「分からない。私たちの探す宝――玉兎石は、意志を持ち、みずから持ち主を選ぶと言われている。だから、宝を手に入れたところで、簡単に霊力を我がものにできるわけではないのだが……」

「できたら最後、魔王は復活しちまうってわけか」

「……ああ」


 レイは頷いた。ぎりぎりのところまで話してしまったという罪悪感が芽生えるが、なぜか心は軽い。

 ディーンは寝そべったまま、頭の下で両手を組んで、


「一応、少し前に妖魔らしき化け物が現われて、街が半壊したってことでテーベに向かってるんだけどさ。ひょっとしたら、そこで魔王と御対面ってこともありえるわけだな」

「テーベは古くからある大きな都市だ。魔王が封印されているとは考えにくいだろう」

「可能性は捨てられない。そこが宝を盗んだ魔術師の居所であることを祈ろうぜ」

「ああ……そうだな」


 答えて、レイはふと黙り込んだ。

 どこからか冷たい風が流れ込んでくるような気がして、辺りを見渡す。


「あ……」


 いつの間にか、一列に並んだ駱駝の群れが砂丘を越え、こちらへ向かってやって来ていた。

 その意外なほどの近さに、レイは慌てて立ち上がる。


「ディーン、隊商だ」

「こんな時間に隊商が通るわけ――」


 レイの声に天幕テントから出てきたディーンは、言いかけ、十数頭の駱駝の群れを見て、絶句する。

 風が、二人の足元の焚火を揺らし、吹き消した。

 それでも、星明かりだけでも充分見える距離まで、旅の商人たちは近づいている。

 そのとき、何を思ったのか突然ディーンが天幕(テント)をたたみ、荷物をまとめはじめた。


「何をするんだ?」

「隊商なんて、なかなか会えないからな。いい機会だから一緒に連れて行ってもらおうぜ。行き先が一緒なら、半日は早くテーベに着ける」


 そう言われたレイも、半信半疑ながら、片付けを手伝う。

 二人の前へ、しゃん…と駱駝の鈴飾りを鳴らして、隊商が止まった。

 恰幅のいい、ひときわ立派な顎鬚あごひげをたくわえた男が話しかけてくる。


「おまえたちは、どこへ行く?」

「テーベだ」

「そうか。では、我々と一緒だ。一緒に来るか?」

「ありがたい。助かるよ」


 願ってもない申し出を、ディーンは笑顔で受けた。

 男は、前にいる男の駱駝へディーンを、自分の駱駝の後ろへレイを乗せる。


「では、出発!」


 号令と共に、二人を加えた隊商は、旅の歩を再開させた。

 最初に二人に声をかけた男が、名をイスメッドといい、この隊商の隊長だという。

 ディーンが乗る駱駝の男は、新米のサディク。最年少の彼は、まだ髭の生え揃わない若い顔に、常に笑顔を絶やさなかった。

 隊の雰囲気を和らげる彼に親しみを感じたディーンは、興味のままに質問をする。


「どこから来たんだ?」

「サヴァ国です」

「聞いたことないな」

「マルタ・レインから二千公里(ミール)もありますからね」

「へえ。一体どれくらい旅してるんだ?」

「三月ほど。でも、これでも短いほうですよ。旅に出て、半年や一年戻らない者もいますから」

「そういえば、俺ももう一年旅してる。放浪の旅ってやつだけどな」

「お国はどちらです?」

「カルディアロスさ」


 滅多に聞けない異国の少年の話に、他の者もついつい話に引き込まれる。

 それでも隊列が乱れないのは、さすがというべきか。

 久しぶりの駱駝の背に揺られながら、レイはイスメッドに訊く。


「では、テーベへは戻りの旅なのだな?」

「そうだ。なかなかいい商売ができたので、早く帰ろうと思ってな」

「深夜は危険ではないのか?」

「そんなことはない。慣れている道だ。目をつむっても明日の朝までにはテーベに着ける」


 イスメッドは、髭に覆われた顔をほころばせた。

 旅の間、妻や子の姿をどれだけ思い浮かべただろう。帰り路を急ぐ気持ちも分かる。

 サディクは、懐からくしを取り出し、ディーンに手渡した。

 紫檀で作られた櫛は、虹色に光る貝の象嵌ぞうがんが施され、使うのがもったいないほど美しい。


「綺麗だな。お土産か?」

「はい。妻に」


 サディクは、わずかに顔を赤らめた。前を行く男が振り向いて、彼が新婚なのだとディーンに教える。


「じゃあ、早く会いたいよな。名前はなんていうんだ?」

「ライラといいます」


 恥ずかしそうに答えるサディクを、周りの仲間たちが口々に冷やかした。

 結婚して間もないうちに旅立ったサディクにとって、妻との再会は格別なものがあるのだろう。

 サディクはディーンに、腰帯(ベルト)に提げた一本の紐を見せる。

 光沢のある黒い紐は、よく見ると、人の髪を編んでより合わせたものだった。


「妻の髪です。我々旅の商人のお守りです」


 誇らしげに、サディクは言った。

 周りの男たちも皆、妻の髪で編んだお守りを首に下げたり、腕に巻いたりして持っていた。お守りを二本や三本持つものは、妻が多くいる者である。アルビオン人の男は、複数の妻を娶る習慣がある。イスメッドも、四本のお守りを持っていた。


「妻が何人もいては、争いにならないか?」

「いいや。強い男だけが大勢の妻を養う。妻を養えない男は、もっとも軽蔑される」


 レイの問いに、イスメッドは強い信念をもって答えた。

 砂漠という極限の環境の中で多くの子孫を残すには、一夫多妻制で強い男が多くの妻と子を養い、守る必要があった。

 妾妃や愛人を囲うのとは、同じように見えてまったく対極にある彼らの考え方を知り、レイは好感をもった。

 ふと、サディクの前を行く駱駝が足を乱した。


「――どうした?」


 サディクが声をかけると同時に、左側方から、空中高く砂が吹き上がる。

 イスメッドは、瞬時に手綱を引き、大声に号令をかけた。


砂鬼(オーグル)だ! 下がれぃっ!」


 だが、間に合わなかった数頭が砂に呑まれる。獣の絶叫が上がった。

 砂鬼(オーグル)は夜目が利かず、本来は昼行性なのだ。どうやら隊商は、運悪く砂鬼(オーグル)の寝床へ入り込み、起こしてしまったようだ。


 怯え、恐慌状態となる駱駝をなだめすかし、一行は安全な場所へ避難する。

 しかし、大地はすべて砂鬼(オーグル)の縄張りだ。旅の足である駱駝が真っ先にやられ、足を失った男たちは、川の飛び石を渡るように別の駱駝へと移った。

 威嚇の声を発し、一匹の砂鬼(オーグル)がサディクを襲う。

 サディクは、偃月刀えんげつとうを振り回して追い払おうとするが、戦闘に不慣れであることは一目瞭然であった。


 ディーンは後ろで、振り落とされないように駱駝に掴まりながら、腕輪に仕込んでいる棒手裏剣を抜いた。

 唾を吐きかけ、砂鬼(オーグル)の頭めがけて投げ打つ。

 風を突き破り、それは砂鬼(オーグル)に命中した――かに見えた。


「なにっ?!」


 砂鬼(オーグル)はそのまま踊りかかり、彼らの乗った駱駝の前脚を喰いちぎった。悲鳴をあげて、駱駝が倒れる。

 地面に投げ出されたサディクを、鋸のような大顎が狙った。


「うわあ……っ!」

「サディク!」


 叫んだディーンの目の前で、サディクの肩を喰い破った砂鬼(オーグル)が、砂中に沈む。

 ディーンは大刀を抜くと、わずかに反った刀身に右手をかざした。

 怒りに任せて、持てる最大限の気を刀身に注ぎ込む。

 神呪が、青白い輝きを放って浮かび上がった。

 妖魔を倒した時の比ではない光を帯びた大刀を、一気に振り下ろす。


「うおおおおっ!!」


 一刀の軌跡に沿って、青白い光が闇夜を駆け抜けた。

 光は、数頭の砂鬼(オーグル)を巻き込んで切断する。その一撃によって、大半の砂鬼(オーグル)は撃退された。


 隊の前側では、レイが、同じく光り輝く剣をふるって、残りの砂鬼(オーグル)を退治していた。

 気力を出し尽くし、肩で息をしながら、ディーンはサディクの元へ走り寄る。

 むん、と血の臭いが鼻孔をついた。

 右肩の傷口から流れ出た血が、サディクの外套をぐっしょりと濡らしていた。

 ディーンは、自分の頭布(シェーシ)を外し、包帯代わりにしてサディクの肩に巻き付けた。だが、骨まで達する傷は深く、出血もひどい。

 サディクは、虚ろな視線を空に向けたまま、震える手で象嵌の櫛を取り出した。


「こ……れを……妻に……」


 浅く、早くなる息の下で、切れ切れに頼む。

 ディーンは、櫛を握る彼の手ごと、両手でしっかりと包んだ。


「心配するな。必ず助かる」

「頼……。お……礼は……この……かに入っ……」

「分かった。分かったから、もう何も言うな」


 サディクの土気色の顔に、小さな微笑みが浮かんだ。ゆっくりと瞼が閉ざされる。


「サディク……!」


 アルビオン人の青年を抱えたまま、急激な疲労に襲われたディーンは、それを追うように気を失った。遠くで、誰かが彼の名を呼んだ気がした。


 どれほどの微睡まどろみを漂っていたのだろう。やがて、名を呼ぶ声がはっきりと耳元で聞こえ、揺り起こされたディーンは、覗き込むレイの姿を見た。


「ディーン、大丈夫か?」

「ああ。くそ……異常にだるいぜ」


 気を放出しすぎたのか、ディーンは泥のような倦怠感に懸命に抵抗する。


砂鬼(オーグル)は?」

「全部片付いた」

「そうか。それじゃ――」


 ふらふらする頭を抱え、呟いたディーンは、おのれの言葉にはっとなった。


「そうだ……サディクは……イスメッドたちは――?」


 レイの表情が、一瞬沈む。

 嫌な予感を覚え、ディーンは砂漠を振り返った。と。


「まさか――」


 そこには、砂鬼(オーグル)にやられたはずのサディクは勿論、イスメッドをはじめ、男たちが全員無事に駱駝にまたがって並んでいた。

 飛び起きたディーンは、疲労もどこへやら、彼らの元に走り寄った。


「サディク、あんた無事なのかよ?」

「はい。このとおり、どうにかまた旅へ戻れそうです」


 まだ肩にディーンの頭布(シェーシ)を巻いたまま、サディクが答えた。

 仲間の薬が効いたのか、ディーンの止血が功を奏したのか、サディクの声は意外なほど力強い。それでも、破れ、血に塗れた衣服が生々しかった。


「これもあなたのおかげです。ありがとう。これで、妻のところへ帰れます」

「気にすんなよ。無事で何よりだ」


 明るく言うディーンにつられ、サディクも顔をほころばせた。

 やはり、まだ顔色が悪い。心なしか影まで薄く見えるのは、月明かりのせいだろう。


 丸みを帯びた月の光を受け、不思議なほど銀色に輝く砂漠には、砂鬼(オーグル)の残骸が点々と散り、戦闘の名残をとどめていた。

 再びディーンとレイが隊商に加わり、一行は夜の砂漠の旅を再開する。

 ディーンは、サディクの傷に負担にならないように掴まりながら、先程手渡された櫛を差し出す。


「返すぜ。大事な奥さんへのお土産だろ」

「いいえ。それは、あなたが持っていて下さい。わたしの命を助けて下さった、せめてものお礼です」

「だけど……」

「いいのです。妻も……喜んでくれると思います」


 サディクは振り向いて、にっこりと笑った。

 ディーンは、手の中の櫛を見つめ、小さく呟いた。


「そうだよな。元気な顔を見せてやるのが、一番のお土産だもんな」


 それが聞こえたかどうか、サディクは背中を返して、やさしく声をかける。


「疲れたでしょう。寝てもいいですよ」


 砂丘の向こうには、もうテーベの街並みが見えていた。

 大地に白く伸びる城壁に囲まれた街は、大きく豊かで、人々の活力に光り輝いている。

 その中ではきっと、サディクの新妻やイスメッドの四人の妻と子供、兄弟親戚たちが彼らの帰りを待ち受けているのだろう。

 ディーンは、サディクの背にもたれて目をつむり、もう一度深い、深い眠りの中へ落ちていった。


 やがて明け方の急激な冷え込みに、ディーンは目を覚ました。よく寝たのか、昨夜の疲労感はすっかり消えている。

ディーンは伸びをして、大きな欠伸をひとつした。そして気付いた。


「――あれ?」


 むき出しの黒髪を掻いて、首を傾げる。

 サディクたち一行とは、夜のうちにテーベの城門の前で別れていた。

 テーベ市民であり、家路を急ぐ彼らは夜のうちに市内へ入ったが、旅人のディーンとレイは翌日の検問を受けるために、ここで朝まで待つことにしたのである。

 ディーンの脳裏には、門の衛兵に出迎えられ、嬉しそうに家路に向かう彼らの姿がはっきりと焼きついている。

 だが――。


「なんだ、ここは?」


 砂漠に、まるできのこのように場違いに、にょっきりと生えた岩や石積みを蹴飛ばして、ディーンは呟いた。

 昨夜見た時は、確かに大きな鉄の城門があったはずだが。

 ディーンは辺りを見渡して、柱に似た巨大な岩の前に佇むレイを見つけた。


「レイファス!」


 ディーンは走り寄り、


「一体どうなってんだ、これ……?」


 尋ねかけて、レイの暗い表情に言葉をとぎらせる。


「レイ……?」


 蒼い双眸に涙を浮かべるレイに、ディーンは当惑した。


「一体どうしたってんだ? 何があったんだよ?」

「ディーン……」

「ここは、テーベじゃないのか?」

「――かつてはそうだった……」


 囁きで返されたかすかな答えに、数瞬、ディーンの思考が止まる。

 レイは、哀しげにディーンを見た。彼の両腕を掴み、ゆっくりと言い聞かせるように告げる。


「ディーン。昨日の隊商は、今生きている人たちではない。もっと、ずっと昔の時代の人たちだったんだ」


 ディーンは、信じられないというように首を振った。


「何言ってんだ、おまえ……」

「よく聞け。私たちは昨夜、過去の人間と旅をしたんだ」

「――嘘だ!」


 ディーンは叫んだ。レイの手を振りほどき、頭を抱える。

 駱駝の臭いも、鈴の音も、男たちの笑い声も、サディクの背中の温かさも、みんなこんなにはっきりと思い出せるというのに。

 それがすべて幻だったというのか。

 力を失い、がっくりと膝をつくディーンを、レイは黙って見ていた。


「死んでいたっていうのか……サディクもイスメッドも……みんな」

「ああ」

砂鬼(オーグル)も……?」

「そうだ。だから、おまえの手裏剣がきかず、神術を施した剣だけが奴らを倒すことができた――」


 淡々と語るレイの説明に、少しずつディーンは落ち着きを取り戻した。

 日に焼けた顔に、乾いた笑いが浮かぶ。


「……馬鹿みてー。死んだ人間としゃべったり、一緒に駱駝に乗ったり……」

「そんなことはない」

「充分馬鹿だって。おまえは、いつ気がついた?」

「自然を感じやすいたちだと言っただろう。生きている者と死んでいる者の区別は、一目で分かる」


 レイの言葉に、ディーンは地面にぺったりと座り込む。


「なーんだ。俺のひとり相撲だったってわけか。砂鬼(オーグル)と戦ったりしてよー……」

「私も戦った。だが、そのおかげで、彼らは無事にテーベに辿り着けたではないか?」


 かつて旅の途中で砂鬼(オーグル)に襲われて命を落とした彼らは、長い長い間砂漠をさすらっていた。彼らと出会い、ついていった者は、共に死ぬのが定め。

 しかし、生者と信じて疑わなかったディーンの剣により、本来死ぬはずだった彼らは死なず、悲願の故郷に帰りついた。


 あの城門や街並みは、彼らの記憶と想いが作り上げた幻想。

 だが、本来の事実が捻じ曲げられて作った夢の中へ、彼らはあんなにも喜んで帰っていった。

 もう彼らは、この砂漠でさすらうことはないだろう。


 ディーンはレイに頷きかけ、かすかに微笑んで立ち上がった。拍子に、懐から何かが転がり落ちる。

 無言のまま、ディーンがそれを拾い上げた。

 息を飲んだレイは、思わず彼の肩に取りすがる。


「――ディーン……」


 紫檀で作られた、女物の櫛。

 年月を感じさせるように塗装は剥げ、自慢の貝の象嵌もほとんどなくなってしまっている。

 レイは、櫛を握りしめる彼がどこかへ行ってしまうような気がして、何度もその名を呼び続けた。


「ディーン……ディーン。サディクはおまえにありがとうと、妻の元へ帰れると、そう言っていただろう。だから……だから――」


 必死に慰めようとするレイは、動かない彼の両眼から一粒の涙がこぼれるのを目にした。


「ディーン……」

「どんなに――会いたかっただろうと……帰りたかっただろうと、そう思うと俺……!」


 あとは、涙でつまって言葉にならない。

 声を殺して泣くディーンの肩に、レイはただ黙って手を置いた。

 人を思いやって泣くことのできる彼はすばらしい。そして、そんな彼と共に旅ができることを、レイは心から嬉しく思った。

 穏やかな曙光が、廃墟に立つ二人を照らす。

 傾いた過去の碑石に、今はもう薄くなった文字が、淡い影を落とした。


〝テーベ王国――統一暦九五八年建国〟


 一陣の風が吹いて、さらさらと黄砂を巻き上げる。大地に積もる、人々の血と汗と涙と夢を抱えて。


 砂漠に埋もれた無数の人骨の中に、ひとつだけ、異様なものがあった。

 砕かれた右肩を庇うように包む、深紅の布――。

 もはや擦り切れ、色褪せたそれは、無限の黄砂の中で静かにたなびいていた。

 そうして、ゆっくりと砂に埋もれてゆく。


 多くの喜怒哀楽を育んだ廃墟の彼方で、現在いまを生きるテーベの都が、遠くたたずんでいた。





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