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「――ならん」
玉座に座る男は、妖魔・砂姫の申し出を一蹴した。
もうそれで話は終わりとばかりに立ち去ろうとする男に、蒼白となりながら、真紅の髪の少女はなおも追いすがる。
《お待ち下さい、御主人様!》
男が振り返る。くせのない黄金の髪が、動きを追ってさらりとひらめいた。
《お願いでございます。わたくしに彼らの討伐をお命じ下さいませ!》
「言ったはずだ。今後、奴らに関することは陵に任せる。去れ」
《ですが……!》
男の眼に、殺気が走った。
「去れ、と言ったのだ。おまえには、城の警護を命じる」
妖魔にとって、主と決めた者に逆らうことは罪悪。
血の繋がりを重んじる砂姫にとっても、それは逆らえぬ言葉であった。ぎり、と唇を噛みしめる。
《……承知いたしました》
血の滲むような一言を残し、少女は去った。
入れ代わりに、玉間の暗がりから闇を象ったような男が現われる。
「随分と酷い仕打ちをする」
黒装束から唯一見える瞳が、青く光る。
「妖魔は仲間の死を血でもって贖う種族――。それを知りながら、なぜサキの復讐をしりぞけた?」
金髪の男は、華やかな飾りの付いた外套をひるがえし、鼻先で笑った。
「所詮奴らは道具。道具に情けをかけてどうするのだ、陵? 気でも狂ったのか」
陵と呼んだ男の頭布の端を片手に絡めとる。
「まあ……おまえは、やつらと同類と言えぬでもないからな」
その手を掴み、低い声で陵は言った。
「そう言うおまえはどうだというのだ。帝都に復讐しようとしている、おまえは」
男の顔色が変わった。もぎ取るように陵の手を振りほどく。男の手首に、掴まれていた痕がくっきりと痣になって残っていた。
その痣を撫でつつ、男は奇妙な笑みを浮かべる。
「復讐? 勘違いをするな、陵。私は――世界が血で満たされるのが見たいだけだ」
くつくつと、忍び笑いが洩れる。
爪を長く伸ばした指が、再び黒い頭布をたどった。
「想像してみろ。奴が甦り、世界中の人々が恐怖し、逃げ惑う様を。我々はただ黙って待っていればよいのだ。人々が死に絶え、我らが世界の王に君臨するその日をな……!」
陵の瞳に、怒りにも似た感情が漂う。陵は、蛇のようにまとわりつく手を払うと、亜空間に消えた。
彼が空間移動した先では、一頭の灰色の狼が、不安定な空間で伏せて待っていた。
男の声が耳に残るのか、不機嫌そうに頭を振る陵に、狼の眼が細まる。
《――随分と嫌な男だ、あいつは》
通常の人間には獣の唸り声にしか聞こえぬ言葉を聴き、陵は苦笑した。
「あまりそういうことを言うものではないぞ、リュカオン」
《どうせあんたにしか聴こえん。なぜあんな奴と行動を?》
「仕方あるまい。奴に頼らねば、目的は果たせん」
青い瞳が、苦い色を湛える。
彼を見上げ、リュカオンは黙って太い尻尾をぱたり、と振った。自嘲気味に陵が呟く。
「嫌であれば、わたしを殺して自由になるがいい。今なら簡単にできるだろう」
《その気があれば、こんなに長く飼われてはいない》
二十五年という破格の年月を想い、陵の頬がかすかに緩む。後半の九年間は例外として恵まれたものであったが、しかし、それは決して幸福なものではなかった。
この身体も、日毎眼に見えて朽ちていく。
――時間がない……。
そのことは、誰よりも陵自身がよく知っていた。
人生を共にしてきた相棒が、ふ…と微笑う。
《俺の寿命と比べれば、十年の違いなどものの数には入らん。退屈しのぎだ。あんたの死を見届けるまでいさせてもらう。どうせあと一年も保つまい》
狼の毒舌に、陵の瞳が和んだ。
「どうかな。契約未満ということはないだろう。今回で終わることを期待するが、違っていれば、また振り出しだ」
《人間の執着には呆れる。……まあ、奴の目は間違っていなかったということか》
リュカオンは愉快そうに、和毛に覆われた耳を動かした。
万軍の主と称される契約者を〝奴〟などと呼ぶ相棒に苦笑しつつ、陵は隣で立て膝をつく。
「どうだ、様子は?」
《面白い。別に何が起こったわけではないのだが……》
「気に入ったようだな、リュカオン」
《退屈しのぎ、という点で勝るものはないという意味でな。実に、見ていて飽きない坊やたちだ。死に損ないのあんたと違って、生き生きとして楽しい》
ほのかに輝く足元を眺めるリュカオンは、また鈍色の尻尾を振った。
彼らの見下ろす先には、まばゆく光る砂の大地を旅する少年たちの姿が映し出されている。
「――どれ」
そう言って陵は、空間の狭間を覗き込んだ。
*
オアシスの村――マルタ・レイン。
昼すぎ、村に辿り着いたレイとディーンは、安い宿に一夜の宿泊を求めた。
砂鬼の襲撃などで荷物の大半を失ったこともあるが、長い旅になる以上、路銀は節約しなくてはならない。
一部屋を借り、荷物を投げ出した二人は、寝台で久しぶりの安眠を貪った。
起きた時は宵の刻を過ぎていたが、まだ日は高い。テスよりは、だいぶ南に来ているのだ。
ディーンは頭布を取ると、欠伸をかみ殺した。手拭を肩にかけ、
「今から風呂浴びに行くけど、一緒に行くか?」
彼が風呂と称するのは、村の共同の水場のことである。
村人はもちろん旅人も、すべてこの泉で一日の水を賄う。
レイは髪を手ぐしで梳き、音を立ててこぼれる砂に、うんざりした顔になった。
「髪を洗いたいから、後で行く。今は人が多いだろう」
「んなこと気にすんなって。俺は洗っちまうぜ。おまえも来いよ」
いつのまにか、レイのことをおまえと呼ぶようになっていた少年の腰を過ぎる黒髪に眼をやり、レイは顔をしかめる。
「では、なおのことだ。おまえが髪を洗うようでは、水が足りなくなる。私は後で行かせてもらうよ」
類い稀な美貌の連れは、頑固さも人並み以上だ。少年は肩をすくめた。
「好きにしろ。じゃ、行ってくる。離れ離れになったからって、寂しがるなよ」
軽口を叩いて、ディーンは出て行く。その背中を微苦笑で見送ったレイは、荷物の整理に取りかかった。
しばらくして汚れを落とし、清潔な服に着替えた二人は、部屋で思い思いにくつろいだ。
この五日間旅を続けてきただけに、なんとなく暇を持て余してしまう。
ディーンは、寝台に寝転がりながら、洗った服を干すレイを眺めた。
「なあ、体洗っただけで本当にいいのか? 風呂浴びたほうが、気分いいぜ?」
ディーンはいないうちに室内の盥で水を浴び、着替えまで済ませてしまったレイは、洗濯物の皺を丁寧に伸ばしつつ、
「そうでもない。泉で髪も洗ったし、結構さっぱりしている。おまえみたいに、水場に落ちることもなかったしな」
素っ裸で髪を洗っていたディーンは、人の波に押されて水場に転げ落ち、村人の爆笑を買ったのだ。
そのことを指摘され、ディーンはむっとする。
「仕方ないだろ。狒狒みたいな筋肉親父に突き飛ばされたんだってば!」
「見に行けばよかったな」
レイが笑う。砂をかぶって大笑いして以来増えつつあるその笑顔に、ディーンは少し機嫌を直した。
よ、と声をかけて上体を起こす。まとめていない髪が、長く裾引いて彼の動きを追った。
「重てー。早く乾かないかな」
まだ濡れている髪を持ち上げ、ディーンがぼやく。
ゆるく波うった黒髪は、硝子玉や飾り紐で止めたり、細い三つ編みにしたりして飾ってあるため、長い分だけ豪華だ。
濡れて青い光沢を帯びる長髪を眺め、レイが呆れたように言う。
「だったら切ればいいだろう。なぜこんなに長く伸ばしているんだ?」
「……お守り、かな。もう十年以上になる」
対照的に銀髪を短く刈ったレイは、頭の中で引き算をして驚いた。
「六つの頃から伸ばしているのか? めずらしい奴だな。それでこの長さ、か?」
「これでも切ってるんだぜ。あ、ここ一、二年は別だけど」
ディーンは髪をかきあげ、ふ、と笑ってレイを見た。
「もう……癖みたいなもんだ」
そう言う深い紫の瞳は、どこか遠くを見ていた。レイはなぜか、そこに右腕の傷と同じものを感じる。
ディーンは、ほどけた三つ編みを編み直しながら、レイに尋ねた。
「おまえは伸ばさないのか?」
すでに乾いたレイの短髪は、年若いにも関わらず、見事な銀白色だ。日の光を受けて、まるでそれ自体がきらびやかな装飾であるように、レイの美貌を引き立てている。
袖なしの綿の服に、青い護り石を首に下げる姿は、簡素なだけにより美しかった。
「いや。男が伸ばすのは変だろう?」
「じゃあ、俺はどうなるんだよ。せっかく綺麗なんだから伸ばせよ。似合うと思うぜ?」
レイは無言で、おのれの銀髪に手を触れた。ディーンが綺麗だと言った髪は、だが、一族では凶を呼ぶ色として忌まれているものだった。
ふいに、ぐー…と間の抜けた音が響く。ディーンの腹の虫が鳴ったのだ。
レイが吹き出した。
ディーンは赤くなってお腹を押さえるが、健全な胃腸は、またもや大声に空腹を主張する。
「き…緊張感のない胃袋だな」
「笑うんじゃねぇっ。胃袋まで黙らせておけるかっての!」
怒り出すディーンに、レイは笑いをこらえた。それでも、片頬が引きつる。
「食事にするか?」
「外で食べようぜ。店見つけておいたんだ」
即座に機嫌を直し、ディーンは寝台から跳ね起きた。
「ほら、早く行くぞ!」
上着を引っかけ、待ちきれないとばかりに後も見ずに出て行く彼を、レイも上着を手に追いかけた。
地下水の湧き出る水場の先に、まるで城砦のように寄せ集まった石造りの家々が立ち並ぶ。その窮屈な間を縫っていくと、小さな広場に突き当たり、ここが村の賑わいの拠点となっていた。
雨季ともなれば水を蓄える池も今は枯れ、生命力の強いジュラの木がまばらに生えるのみだが、すぐ間近に忍び寄る砂漠の影に、広場の活気は否が応でも輝きを増して見えた。
二人は、広場に面した、村で唯一の料理屋に入った。人の多さに圧倒されながらも、空いている席を見つけて腰かける。
「なんにします?」
黒い肌もつややかに、でっぷりと肥った中年の女が、注文を取りに来た。
「おすすめは?」
「やぎとくろうりのいためものと、ふぁばふぇる」
「え?」
「山羊と黒瓜の炒め物とファバフェル。ファバ豆のパンだよ」
「じゃあ、それを一品ずつ全部と酒を」
「私はピアの果汁で」
「おきやくさん、はつきりしやべらないと、なにいつてるかわからないよ」
二人は、訛りの強い統一言語に苦戦しつつ、料理と飲み物の注文を済ませる。
注文を取った女が奥へ消えていったと見る間に、二人の前へ、鉢と見紛う巨大な杯が置かれた。中には、白濁した液体が、泡を揺らして満々とみたされている。
芋を発酵させたらしい、強い香りのする酒を一口すすり、ディーンはいける、というように頷いた。
「おまえも飲む?」
「何だって?」
喧騒にかき消され、よく聞こえなかったレイは、耳を近づけた。
「おまえも飲むかって、聞いたんだよ!」
「おまえ、未成年に酒をすすめるのか? 法律で禁じられているだろう」
いかにも優等生然とした答えに、ディーンは肩をすくめる。
「固い奴だなぁ」
「私にはこれで充分だ」
レイは、自分の前に置かれた小さな高杯を取った。搾りたての果汁は淡い黄色で、テスのものより甘く、濃い。同じ果実でも、風土が違うと味も違うということか。
そうこうしているうちに、注文の料理が運ばれてきた。これもまた大皿に盛られた料理は、香辛料もたっぷりと効いており、二人はおおいに食べ、話し、飲む。
今日はなにやら特別な日らしく、店に集まった人々は皆、色鮮やかな頭布を派手に結び、腕輪や首飾りを幾重もつけて着飾っていた。
早くも祝い酒に酔った男が、店の女客にしつこく絡んではねつけられ、ふらふらとこちらへぶつかってくる。
決して小柄とは言えない男は、そのままディーンにもたれかかり、酒臭い息を吐きかけた。
「――よお、姉ちゃん。黒い髪がきれいだねえ。俺と一緒に一杯やんねぇか?」
どうやら、ごてごてと装身具をつけ、長い黒髪を背へ下ろしたディーンの後ろ姿を見て、女だと勘違いしたらしい。
ディーンは、左手に酒杯を持ったまま、肩にかかる男の腕を払った。
「悪いな。野郎と遊ぶ趣味はねえ。他を当たってくれ」
低い男の声を聞いて、酔った顔が、驚きに呆けたようになる。
男は、身を乗り出してディーンの顔をまじまじと見つめた。と、何を思ったのか男は、にやにやと近付くと、酒臭い息を吐きかけながら体をすり寄せ、引き締まった少年の脚に手を滑らせた。
「あんたとだったら、やってもいいぜ。いくらだ?」
ディーンは、おもむろに飲み干した酒杯を置いた。
凄みのある流し目をくれ、男の手を取る。
「聞こえなかったか。男に興味はない」
言葉が終わるや否や、男の体が吹き飛んだ。見事な弧を描き、巨体が椅子三脚を潰して叩きつけられる。
眼を回して床に伸びた男に、ディーンは怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎っ。誰彼構わず誘うんじゃ、発情したオス犬より性質が悪いぜ! そんな悪酔いする酒なんざ飲むんじゃねえ! 少しは頭を冷やしな!!」
鼻息も荒く席に戻り、ディーンは再び酒杯を取る。早くも二杯目を手にした彼は、しかし少しも乱れたところがなかった。
投げ飛ばされた男は、何が起こったか分からないまま、仲間に助け起こされて店を出て行く。
驚きの声や悲鳴も、すぐに潮騒が引くようにおさまり、噂話となってざわめきの中にかき消えた。
店内からは、誰もディーンを非難しないばかりか、好意的な眼差しを投げてくる。どうやらあの男は、酒癖の悪いことで有名な客だったようだ。
店主が片目をつむり、頼みもしない酒瓶を置いてゆく。
「大変な目に遇ったな」
「おうよ。女に間違われて誘われたことはあるけど、男と知ってもまだ誘ったのは、あいつが初めてだぜ。くそっ。腹が立つ!」
ディーンはまだ怒りが収まらないらしい。レイはそんな彼を可笑しそうに眺め、ピアの果汁を一口飲んだ。
その時、蛍光色の硝子杯の向こうから注がれる、強い視線が目に入る。
金髪と栗毛の髪を逆立てるように結い上げた、肌もあらわな二人の女だ。
ディーンも同様に気付いたらしい。二人が何も言わないでいると、女たちは酒杯を手にして、自分からこちらへ近づいてきた。
「隣、空いてる?」
「どうぞ」
ディーンの返事に、金髪の女が彼の方へ、栗毛の女がレイの方へやって来る。
さりげなくレイが席を立ち、女のための席を空けた。
「あら……」
黒い肌に浮く、淡い色の紅をひいた唇が、戸惑いの微笑を作った。
「紳士なのね、あんた。――まあ」
隣に座ったレイを覗き込み、女の眼が驚きに丸くなる。
「きれいなお顔……まるで天使みたい」
栗毛の女の嘆声を聞き、レイを見た金髪の女も、一瞬声を失う。
白い肌、薄い色の髪というだけでもこの地方では珍しかったが、その冴え冴えとした面差しは、美しいという言葉以上の何かがあった。
よくあることながら、賞賛と嫌悪の入り混じった視線に、レイは黙って杯を干す。
同じく酒杯を干したディーンが、貰いものの酒瓶で手酌しながら、女たちに釘を刺した。
「そいつを落とそうったって無理だぜ。お固い紳士だからな」
「固いくらいがちょうどいいのよ。ねえ、天使様?」
栗毛の女は媚びるように笑い、レイにしなだれかかる。
会話を始める二人に肩をすくめ、ディーンは酒杯を傾けた。その肩へ、しなやかな腕が回される。
明らかに染料で染めたと分かる金髪の女が、間近で覗き込んだ。
「あたしは、天使よりも……人間の男が好き」
「それはどうも」
「さっきあの男を投げ飛ばしたあなた、素敵だったわ。あいつ、いつもあたしたちにつきまとって、困ってたの。おかげで気分が晴れたわ。ありがとう」
少々化粧の濃い美女の台詞に、英雄のディーンも悪い気はしない。
言葉のついでに、濃厚な感謝の接吻を受ける。
その様子を見たレイが、突然、表情を強ばらせた。
「どうしたの?」
隣の女の問いかけを無視して、レイは立ち上がると、
「悪いが、急用を思い出した」
硬い声で言い、机に青銅貨を置いて上着を手に取る。ディーンが戸惑って、
「どうした? 何だよ」
「――先に失礼」
驚く一同を尻目に、レイは振り向きもせず、店を出て行った。
「おい、待てよ」
追いかけようとするディーンに、両脇から伸びた四本の腕が絡みつく。
「ちょっと、あなたまで行くことはないでしょう?」
「そうよ。あんな固い奴なんて放っておいて、三人で飲み直しましょうよ。ね?」
レイに振られた女にまで引き止められ、ディーンは迷ったが、
「……ま、それもそうだな」
すぐに笑顔を取り戻すと、再び席に腰を据えた。二人の女を独占して、両手に花とばかりに御満悦となる。
だが、しばらくの間上機嫌に酒を飲み、話に興じていたものの、だんだんとその笑顔に冴えがなくなってきた。さっきまであったほろ酔い気分も醒め、妙に酒の味が苦い。
――畜生……。
ディーンは、声もなく小さく毒づいた。
この一週間寝食を共にしてきた相手と、ほんの二、三時間別れただけなのに。
それでもディーンは、知り合ったばかりの女たちと酒を飲むよりも、気の知れた相手とただ語らうことを望んだ。
心が決まった。上着を手に、席を立つ。
「悪いな。俺も帰るよ」
引き止める女たちに銀貨を放り、ディーンは店を後にした。
*
宿に帰ったレイは、寝るでもなく、明かりを灯したまま寝台に横になっていた。ふいに、窓の木戸を叩く、とんとんという音が聞こえる。
レイはそっと起き上がると、枕元の剣を掴んだ。
壁に身を寄せ、左手で鯉口を切ると、勢いよく窓を開ける。
「誰だっ!」
ごん、と鈍い音がして、誰かがうずくまった。
外を覗いたレイは、窓の下にしゃがみこむ人物を見て、息を吐く。
「――ディーン」
「よお」
外開きの木戸と正面衝突をしたディーンは、頭をさすりながら顔を上げた。
レイは、安堵と呆れとで、一気に脱力した。怒りさえ覚えて、
「ディーン。部屋には出入り口というものがあるのを知っているか?」
「ちょっと、行くのが面倒で……」
言いつつ、ディーンは窓を飛び越えて、部屋に入る。
「面倒? 物臭な奴だな。泥棒と間違えて、叩き斬るところだったぞ」
物臭な侵入者は、剣を納めるレイに、にや、と笑いかけた。
「それは残念。日位の腕前を見損なったな」
「なんなら、ここで見せてやろうか?」
「遠慮しとく。俺、暴力嫌いだから」
先刻、誘ってきた男を投げ飛ばした少年が、ぬけぬけと言う。
呆れ顔になるレイに、ぽん、とトゥーバの実が飛んできた。
ごつごつした拳大の褐色の実を受け取ったレイは、それを皮切りにディーンの上着の下から次々と出てくる雑多な食べ物に、眼を瞠った。
羊肉の串焼き、葉野菜の肉包み、芋饅頭、肉桂の棒飴、等など。露店に売られている食べ物を一通り買ったような品が、ずらりと机に並ぶ。
極めつけに、葡萄酒の瓶がどん、と置かれた。
「どうしたんだ、一体?」
「祭りをやっていたから買ってきた」
「さっき食べたばかりだろう。こんなに入るのか?」
「何言ってんだ。おまえも食うんだよ」
逃げ腰になるレイを捕まえ、ディーンは強引に串焼きの棒を持たせる。
レイは、独特の臭さのある羊肉と香菜を一緒に串に刺したそれを、しげしげと見つめ、
「どうやって食べるんだ、これ?」
真剣な呟きに、ディーンは大仰に顔をしかめた。
「そのまま齧るんだよ。あ、串は食うんじゃねーぞ」
深夜を回り、小腹の空いていたレイは、おとなしく肉を口にした。
ディーンは、手持ちの茶碗に葡萄酒を注いで、
「これなら大丈夫だろ? 神の恵みの水って言うし」
光明神教の教典の一説をひいた台詞に、レイは笑って頷いた。
茶碗を手渡しながら、ディーンがさり気なく尋ねる。
「――なあ、さっきはどうしたんだ? そんなに大事な用事があったのか?」
どうやら、これらの品々は、レイの口を割らせるための布石だったらしい。
押し黙るレイに、ディーンは静かに問い重ねる。
「あの女に変なことでもされたのか?」
「そういうわけじゃない。ただ――」
レイは言いよどみ、一瞬あえぐように空気を呑んだ。
「ただ、私はあんなふうに軽々しく女性と付き合うのが嫌なだけだ」
その言葉に、ディーンはテスでの出来事を思い出す。自治州の街で痴話喧嘩に巻き込まれた彼は、納得したように頷いた。
「なんだ。俺に怒っているのか?」
「違う。そうではないんだ。そうではなくて――!」
レイは、何かに衝かれたように激しく否定し、急に黙ってうつむいた。
表情の乏しい美貌のなかで、蒼い双眸が葛藤を秘めて、激しく揺らぐ。
ディーンは何も言わず、ただそれを見ていた。
ややあって、レイが掠れ声で問うた。
「おまえ……好きでもない人と関係がもてるか? 男は、そういうことができるのが普通なのかな」
「人にもよるだろうけど……。俺は、お互いに好きな場合じゃないと嫌だけどな」
答えたディーンは、見つめるレイの瞳に、何か切羽詰ったものを感じた。
その瞳が、ふ…と逸れる。
「――私の母は、愛人だった。由緒正しい家柄の父は、母を捨てて決められた相手と結婚したが、後に母と再会し、私が産まれた……」
語るレイの頬に、冷たい怒りが浮かんだ。
「だが父はすぐに母の許を去り、十二年間私の存在すら知らなかった――母の死さえも」
レイは、こみ上げてくる激情を抑えるように、左手で口を覆う。
「私は父が許せない。父のように、軽々しく女を扱う種類の男たちを……!」
吐き捨てるような台詞に、一瞬辺りの空気が止まった。
「――おまえに愛される女は幸せだな」
ぽつん、とディーンが呟いた。
驚いて顔を上げるレイに、意外なほど優しさを湛えた顔が、笑みこぼれる。
「詳しくは分からないけど、別れた後また出逢ったってことは、そこに愛情があったからじゃないかな。それでおまえが産まれたんなら、少なくともおまえの命は、愛情によって授かったんだ。愛されて産まれてきた人間は、他人を心から愛することができる。おまえに愛された人は、幸せ者だよ」
穏やかな口調で、ディーンは言った。
再び訪れた先程とは違うあたたかな沈黙に、レイは突然、彼にすべてを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。
自分の素性も、立場も、聖宝のことも、今置かれている状況のすべてを彼に吐き出してしまいたかった。
だが、理性がそれを阻んだ。
――……知れば、きっと彼は去るだろう。
そんな想いが、レイに語ることを止まらせる。
その時、窓の外から、地鳴りのような音と共に大勢の人々の騒ぎ声が聞こえてきた。
それは、うねりとなって辺りに反響しながら、少しずつこちらに近づいてくる。
窓から首を出して覗いたディーンが、笑顔で振り向いた。
「祭り行列だ。行こうぜ!」
レイは、ディーンが祭りをしていたと言っていたことを思い出す。
「何の祭りだ?」
「乾季を迎える祭りだそうだ。雨のない季節に入る、景気づけってやつかな」
「旅行者の私たちが勝手に参加していいのか?」
「気にすんなって。こんな機会は滅多にないぞ。――逃す手はないぜ!」
陽気に言うや、ディーンはレイの手を掴んで、外へひっぱり出す。
街は、そこここに掲げられた祭りの松明に彩られて、赤く上気して見える。その赤い異空間の中で、思い思いに着飾った人々が、太鼓の奏でる早い鼓動に合わせて歌い踊っていた。
砂漠よりも熱い夜の街に、人々の汗と熱が、湯気となって充満している。
狂乱とさえ呼べる祭り行列は、深夜を回りさらに激しさを増し、見る者の興奮をかきたてずにはいられなかった。
最初は圧倒されていた二人も、次第に気分が高揚してくる。
「イャッホ―――ッ!!」
熱気におされるように、訳の分からない雄叫びを上げ、二人は祭りの渦の中へ身を投じていった。
*
翌日、日も高くなってから起きた二人は、村の市場へ買い出しに行った。
二人は、紛失したものや足りなくなってきた物資の表を片手に、露店を回る。
初めての買い物に楽しげなレイの後ろで、白地に青い唐草模様の頭布を目深に巻いたディーンは、いつもの覇気がない。
昨夜早々に引き上げたレイとは別に、村人と混ざり、勧められるままに酒を御馳走になったディーンは、二日酔いに悩まされているのだ。
合わせて、酔い潰れたところを村人に宿まで運ばれたことが彼の自尊心を傷つけたらしく、今朝のディーンはかなり不機嫌だった。
ならばそこまで飲まなければいいとレイは思うのだが、調子に乗るとどこまでも突っ走ってしまう彼の性情では、誘いを断るということを知らない。
むっつりと黙り込んだままのディーンを置いて、レイは順調に買い物を済ませていった。
頭の上に荷物を乗せ、村の女たちが器用に行き交う。
そうはいかないレイたちは、用意の荷袋に買った品をつめ、肩に背負った。
旅の中継地点とはいえ、自治州のテスと違い、旅人は多くない。村の住人も、黒髪黒い肌のアルビオン人がほとんどで、混血といっても近隣の部族間という程度だ。
黒い肌に映えそうな原色を中心とした色鮮やかな布地が並ぶ衣料店で、レイは新しい頭布を探す。
レイは、妖魔の手当てに使ってしまった頭布の代わりに、今まで外套の頭巾で我慢していたが、やはり無理があった。
白を基調とした布を見ていたレイの前に、ずい、と紺色の布が差し出される。
「おまえはこっち!」
紺から水色へと変わる地に、淡く蝶の模様が染め抜かれた布を持ち、ディーンが断言した。
「きれいな布だが、それでは暑いだろう」
「白い布は暑さ避け用で、日焼け避けは濃い色なの。だから、おまえはこっち!」
なまじ旅の経験があるだけに、ディーンが言うと妙な説得力をもつ。
「そうなのか?」
レイは、店主らしき店先の老人に尋ねた。
すると、それまで不機嫌を売り物にしているような顔で座っていた老人が、にかっと白い歯を見せた。紺の布は白い布に比べ、倍近く値段が高い。
「そのとおりよ、お客さん! 白い色は暑いの跳ね返すけど、お日さまは通り抜けちまうね。お客さん、色白だから濃い色にしといたほうがいいよ。本当よ、これ!」
店主は、片言の統一言語でがなりたてる。
眉を上げてみせるディーンと、しわくちゃで笑顔かどうかも分からない店主とに挟まれたレイは、仕方なく降参した。ディーンの手から紺の布を奪い取るようにして、店主に突き出す。
「いくらだ?」
「五十オン」
横合いからディーンが口を挟んだ。
「そいつはひでえ。反対の染めも荒いし、模様も乱れてる。十オンがいいところだ」
「何言ってる、旦那! これ、最高級のマラカ蛾の絹でできているよ。損はないよ!」
「だけど端の始末もいい加減だしなあ……。ほら、糸がほつれてる」
ディーンは芝居がかった手つきで、布の角からほどけた糸を引っぱり出す。
店主が、皺だらけの顔をさらに丸めた。
「いいよ、二十オンで持っていきな」
「十五だ」
「十七」
「もちろん、端の直しは無料でつけてくれるんだろうな?」
ディーンの駄目押しに、店主は無言で、虫でも払うように片手を振った。
「そいつはどうも。助かるよ」
店主は返事もなく、ひらひらと手を振る。
買い手が決まり、もう必要がなくなったと感じたのか、店のお針子にほつれを直してもらい、金を払ってレイたちが出て行くまで、結局店主は、来た時の数倍の不機嫌さでむっつりと黙りこくったままであった。
店を離れた途端、二人は顔を見合わせて吹き出した。
「店主のあの顔見たか?」
「すっげえ嫌そうな顔してたな。まるで、マズいもの食った猿みたいな感じ」
率直なディーンの感想に、早くも新しい頭布を巻いていたレイが、笑いに肩を震わせる。
「こら、おまえのせいでうまく巻けないではないか」
「俺のせいかよ」
「当たり前だ」
言いながら、レイはだいぶ慣れた手つきで長い頭布を巻き上げ、端を後ろへ垂らした。
「さてと……これからどうする? 買い物はこれで終わりだが、おまえが頭布を値切ったおかげで金が余ったから、一頭なら駱駝が買えると思うぞ」
いつのまにか機嫌を直していたディーンが、それを聞いた途端、思いきり渋面をこしらえる。真剣な顔で、
「レイ。頼むから、それだけは勘弁してくれ」
「なぜだ?」
「……あいつらはいい奴だが、俺の好みじゃない」
レイは失笑した。
おとなしそうに見える駱駝は、気性が荒く扱いにくく、乗り心地も馬に比べてかなり劣った。
ディーンは最初、乗った瞬間に地面に叩きつけられ、レイも振り落とされこそしなかったが御せなくて前へ進めず、乗りこなすのに相当苦労した。
旅の一日目は、砂漠よりも、駱駝に慣れずに疲れ果てたといった印象が強いほどである。
「私もできれば乗るのはごめんだ。だが、荷物はどうする?」
「とりあえずテーベまで保てばいいから、そんなに重くはならないだろう。担いでいこうぜ。そんなに辛くなかっただろう?」
途中駱駝を失った二人は、マルタ・レインまでの一日半を徒歩で来た。
荷物になるのはほとんどが食料品で、特に水である。テーベまではあと三日。途中足休めの小さな井戸もあり、持てない量ではない。
「そうだな。では、買い物も済んだことだし、食事にするか」
「イェーイ!」
財布の紐を握るレイの提案に、両手を上げてディーンは喜んだ。
旅の目的などまったく念頭にない様子で、一目散に店に走る彼の姿を見送り、レイは軽くため息をついた。同行を提案したノアを恨めしく思うのは、けだし当然の成り行きであろう。
「ほら、何やってんだよ。行くぞ」
「あ……ああ」
戻ってきたディーンに引きずられるようにして店に入るレイの姿に、別の空間から覗いていた男が、小さく笑いを洩らした。
「おもしろい子たちだ」
隣で伏せる燻し銀の狼が、彼を見上げる。
《別の意味でもな》
「ああ。まさか、あの子が銀の兇児とは思わなかったな。長生きはするものだ」
常人の半分の寿命も持てぬ男の言葉に、リュカオンは鈍色の尾をふさ、と揺らした。
《兇児の割にたいしたことはなさそうだが?》
「よく視ろ。あの子を護るように包む黄金の光を……」
青い眼を細めるように正視する陵に習い、リュカオンはその眼を凝らす。
ふ…と獣の顔が笑う。
《なるほどな。護られると同時に、その力を抑え込まれているというわけか。これでは誰も気付かぬはずだ。奴も、なかなかやる》
「連れはどうだ?」
《ふ……ん。おもしろいのではないか? 将来が楽しみだ。だが、今は我々の敵ではないな。――どうする、ミササギ。殺るのか?》
「いや――」
陵は、喧嘩をしながら食事をとる少年たちの姿を眺めつつ、首を振った。
「もうしばらく様子を見ることにしよう。殺すのに、たいした手間は取らないだろうからな。だが……不思議だ。なぜ聖母は、この二人を寄越したのだ?」
《捨て石ではないのか?》
「いや。聖宝がからんでいるかぎり、そのようなことはあるまい」
リュカオンは立ち上がり、大きく身震いをした。
《じきに分かるだろう。近い将来、何かが起こる。俺はそう思う》
「予感か?」
《確信だ。ミササギ、これは予想以上におもしろくなるぞ》
空間の狭間からマルタ・レインを見下ろす鋼色の狼は、まるで天から託宣を下すがごとく、おごそかに呟いた。




