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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第2話 砂上幻想
12/33

2-5

   


 砂鬼(オーグル)と妖魔との格闘に加え、砂嵐が来たことで辺りの様子は一変していた。

 陰にしていた砂丘は姿を変え、なだらかな砂の波が遠く続いている。

 黄砂から掘り出した荷物を片手に、ディーンは空を仰いだ。

 激しい風の渦が辺り一帯の塵を根こそぎ空へさらったのか、深く澄んだ大気に、鮮やかなまでの星天ほしぞら


「うっわー。すっげぇ空」


 ディーンの感嘆につられて空を見上げ、レイは息を飲んだ。

 漆黒の夜空に、無数の白い灯火が輝き、頭上まで降り注いでいる。

 レイは、壮麗な光景に打たれたように、しばらく声もなく立ち尽くした。

 その脇で、何を思ったかディーンが、せっかく掘り出した荷物を地面に投げ出し、ごろりと仰向けに寝転がった。


「こうやると気持ちいいぜ。やってみろよ」


 レイは、言われるままにディーンの隣で横になった。

 幾重にも重なる砂山の他に何もない大地に横たわると、頭から足先までを包む星空に、ぽっかりと浮かんでいる気さえする。


「本当だ……すごい」

「な?」


 寝転がったまま、二人は顔を見合わせて笑った。

 ディーンが、夜空に向かって手を伸ばす。


「こうすると、宇宙に堕ちてく気がする」

「気をつけろよ。私は助けないからな」


 意地悪く微笑むレイの右腕をディーンは左手で掴み、


「道連れ」


と言った。


 レイは、笑いながらその手をほどきかけ、ふと夜空に眼を向ける。

 母国エファイオスでも星はよく見えたが、障害物のない砂漠に寝転がって見る夜空は、まさに吸い込まれるほどに深く、宇宙の息遣いまでも感じられるようだった。

 まるで、世界と一体になって、宇宙を漂っている気さえする。


「……なんだか、大地と同化した気分だ」


 レイの呟きに、ディーンはにやりと笑って、


「じゃあ、あんたに掴まっておけば、俺は安全ってわけだ」

 

 馬鹿、と言い返すが、レイはなぜかディーンの手をそのままにする。

 堕ちないように、と掴んだ手。それが本当は、自分をこの場へ繋ぎ止めてくれる(いかり)のように、レイは感じていた。

 世界と、それを包む宇宙とに惹き込まれないよう、レイは眼を閉じて、大きく息を吸う。


――まったく、余計な能力だ……。


 その想いを読んだように、ディーンが話しかけた。


「なあ。妖魔を倒したときのあれ、何だったんだ?」


 先刻、蛇形の妖魔砂巳に襲われ、その変幻自在な攻撃に翻弄された二人だったが、レイが砂巳の襲う瞬間を察知し、それによってディーンの一刀が勝負を決したのだった。


「――私は、昔から自然と対話することができるんだ」


 レイは静かに口にした。


「じゃあ、あんたは……〝感応者シャマン〟なのか?」

「ああ」


 〝感応者シャマン〟とは、力の大小はあれど、動物、植物のみならず、この地上のあらゆる自然現象――風や雨、大地の動きなどを感じとることのできる力の持ち主を言う。謎が多く、能力者ヴィサードの一種とも全く別物ともされ、その形質は血によって受け継がれると言われるが、圧倒的に数が少ないため、詳細は不明だ。

 能動的な能力ではないものの、気象や天変地異の予測が可能であり、かつては〝予言者〟と呼ばれたこともある。正確には〝予兆〟に過ぎないが、神の思し召しとされる自然現象を感じとれる者は希少で、その血を濃く引いた一族がセントゲア大陸に大国を為した過去もあった。

 

「へえ。じゃあ、あのときも……?」

「ああ。大地と話して妖魔の動きを追ったのだ。それがうまく功を奏しただけのことだ」


 レイはあくまでも淡々としていたが、ディーンは興奮して上体を起こした。


「すげぇじゃん。あんた、実はすごい能力者(ヴィサード)なんだな」

「いや。ただ、普通の人より自然を感知しやすい性質たちなだけだ」

「充分すごいって。自然を感知するってことは、いつ地震が来るかとかも分かるのか?」

「私は予知能力を持っているわけではない。だが、自然現象には前触れというものがあるから、普通の人よりは少しは分かるだろうな」

「人間のことも分かるのか?」

「それは、法術師の範疇だ。人間は動物たちのように単純ではないからな。複雑すぎて、私には無理だ」

「法力、とは違うんだな?」

「ああ。法力のように自らの意志で統御できるものではなく、私の場合、受動的に感じるだけだ。下手をすると……自然の意志に引きずられる」

「ふうん。結構面倒だな」

「まあな。持っていても、たいして役に立たない能力であることは確かだ」


 レイは、自嘲気味に言った。


 代々優秀な法術師を輩出してきた家系で、唯一法力を持たないおのれをどれだけ卑屈に感じたことか。持っていることが当然の法力を一切使えず、周囲の感情に振り回されるだけの自分。

 こうして今、聖宝奪回を任されているのは、随分な皮肉だった。

 レイは、聖宝を無事に取り戻すことが、一族の異端であり、汚点である自らの試練だと感じていた。

 そんなレイの思惑も知らず、ディーンは崩れてきた頭布(シェーシ)を取り、明るく断言する。


「そんなの自分次第じゃねえの?」


 しゃん…という髪飾りの音とともに、長い髪が重く砂地に流れて落ちた。


「事実、さっきはあんたの能力で助かったわけだし。役に立ってるじゃねーか」

「私の力だけではない。おまえの剣が妖魔を倒したのだろう。見たこともない技だったが、あれはどこで学んだのだ?」


 問いかけ、レイは起き上がった。

 砂上で座ったディーンは、胡坐を組み、両手で足を抱えた。


「カルディアロスさ。養父母(おや)が死んだ後、俺を引き取ってくれた人が気の剣法の達人でね。いつのまにか弟子入りしてたってわけだ」


 気――すなわち、自然界すべてに備わったエネルギーのことである。

 ディーンは鍛錬によってそれを操り、剣に込めることで数倍の威力を得ているのだ。

 レイも話には聞いていたが、実際眼にしたのは、これが初めてであった。

 妖魔砂巳を倒した時の見事な腕前を思い出し、


「剣士にはならないのか? 日位にちいくらいなら取れると思うぞ」

「無理だよ。興味ないしな。あんたは剣士なのか?」

「ああ。年齢制限で月位だが、日位の試験には合格している」


 それを聞いて、ディーンが妙な顔になった。


「……ちょっと待て。あんたいくつだ?」

「十五だ。あと一年で成人だから、正式に日位が名乗れる」


 誇らしげに言うレイの言葉の後半は、しかしディーンの耳には入っていなかった。


「じゅ……十五だあ? 俺よりも二つも年下じゃねーか!」

「そうなのか?」

「そうだよ! 俺、絶対にあんたは年上か同い年だと思ってたぞ」


 年の割に背も高く大人びて見えるレイは、落ち着いた物腰もあって、傍目はためには二十歳近くに見える。

 真実を知って衝撃を受けたらしいディーンは、顎に手を当てて、


「うーん、十五か……」


 ぼそりと呟いた。

 その様子に不安を覚えたレイが尋ねる。


「何を考えているんだ?」

「いやあ、ちょっと年下って聞いたもんで、少し優位になるかなーと」


 レイは呆れた。


「今まで偉そうに命令していたのは誰だ」

「命令じゃない。あんたに気を遣って、俺はもお大変だったんだから」

「気を遣って? そうか、あの薬湯を何度も飲ませたのは、嫌がらせかと思っていたが、違ったんだな」

「あ、ばれてた?」


 ディーンは悪戯そうな顔をみせる。変わらぬ調子で、


「基本的に俺、貴族や金持ち連中って嫌いなんだよな。帝都貴族アイテリアルなんて、その中でも最悪」


 歯に衣着せぬ物言いに、レイの頬に苦笑が浮かぶ。


「それで嫌がらせを?」

「まあ、ね」


 ディーンはわずかに微笑んだ。


「だけど……あんたは例外だ」

「なぜだ?」

「妖魔を助けたからな」

「……」


 レイは、角を落とした妖魔に対して、なお戦意を向け続けていたはずの少年の言葉に、一瞬耳を疑った。


「どういうことだ。おまえは妖魔を殺そうとしていたのではなかったのか?」

「脅しただけさ。あんたが止めなくても、もともと俺にはあいつを殺す気なんてなかったよ」


 軽く言ってのけるディーンを、宇宙そら色の双眸が睨んだ。


「――試したな」


 元来、妖魔は魔界の住人であり、人の前に姿を現わすことは滅多にない。稀に人間世界に彷徨さまよい出てきたものも、神の使徒が降臨する六百年に一度の聖戦によって封印を繰り返され、ほとんど伝説化されている。

 同時に、その魔力と不気味な生態から光明神教(ルクシオン)の唱える悪魔(シェタン)と同一視され、見れば災いが訪れるとして非常な唾棄の対象でもあった。特にそれは、信仰の篤い貴族社会では偏執へんしつともとれるかたちで、今も色濃く根付いている。


 西の大神殿に帝都と、レイはまさにその〝常識〟の真っ只中で生活してきたといってよい。

 つまりディーンは、それを利用して、貴族であるレイの人間としての資質を確かめようとしたのだ。

 責めるレイの眼差しをかわすように、ディーンは、ひょいと肩をすくめた。


「怒るなよ。あんたが妖魔を殺そうとするか、俺に確かめる手段はあれしかなかった。口じゃ何とでも言えるからな」

「……妖魔は、角を落とされると魔力を失うと聞いた。魔力を失い、危険がなくなったものを殺す理由などないだろう」

「まあ、魔力がないから安全とは言い切れないけどな。だけど、あんたの意見には賛成だ」


 ディーンは穏やかに指摘し、あっさりと立ち上がった。


「さて、意見の一致をみたところで飯にするか。さっきから腹が鳴りっぱなしだぜ」

 

 虚を突かれた形となったレイは、呆然と、黒髪の揺れる背中を見送る。


「分からない奴だ……」


 心から呟いて、レイは、野営の準備をする彼を手伝いに行った。


   *


 砂鬼(オーグル)の襲撃で天幕(テント)を失った二人は、仕方なく、手持ちの備品と廃材を使って寝場所を作ることになった。

 折れた柱を拾い集め、荷物用の紐でしっかりと固定した上に、毛布を被せる。規模も小さく生地が重いため、強度に多少難があるものの、寒さをしのぐには充分だった。

 新たな野営地に火を起こし、レイは、天幕内側の補強をするディーンの代わりに夕食の支度に取りかかる。

 時刻は夜半を回っていた。

 ディーンの指示を受けながら乾燥肉で出汁をとり、豆を煮たレイは、さじで鍋をかき回しつつ天幕にいる彼を呼んだ。


「ディーン、できたぞ。食事にしよう」

「おう」


 いびつな三角錐となった布地の向こうから、返事が聞こえる。

 狭い中での力仕事のせいか、星が輝きを増して見えるほど冷えた砂漠の夜に、ディーンは少し汗ばんでいた。椅子代わりの石に腰を下ろす彼に、レイが食事をよそって手渡す。

 右手で受け取ろうとして、ディーンは、つるりと皿を掴み損ねた。熱い豆が、足元に派手に散らばる。


「あ……っ」

「ちゃんと取れよ」


 レイは笑って、中身のこぼれた皿を拾った。


「火傷しなかったか?」


 そう訊いて顔を上げたレイは、顔を顰め、右腕を抱えているディーンの姿を目にした。


「どうかしたか?」

「――なんでもない。いつものことだ」


 だが、笑ってみせる彼の表情には、いつもの余裕がなかった。

 見ると、渾身の力で握られた右手が、小刻みに震えている。

 思わず手を触れたレイは、右腕と、それを押さえる左腕に込められた力を知って、息を飲んだ。関節が白く浮かび上がるほどの力をもってしても、右二の腕の震えは止まらないのだ。


「大丈夫だ。すぐに治る」

「だが……」

「すぐに治るって言ってるだろう!」


 声高に怒鳴り、ディーンはレイの手を振り払った。


「――これが、俺が剣士になれない理由だよ」


 吐き捨てるように言う。その辛そうな背中に、レイは何も言うことができなかった。


 気まずい雰囲気のまま、二人は黙々と夕飯を食べる。

 ディーンの言うとおり、食事が終わる頃には、右腕の震えはほとんど止まっていた。

 彼を気遣い、レイは食後のお茶を入れようと、慣れない手つきで茶瓶ポットを火にかけた。黙ってディーンがそれを手伝う。

 湯を沸かす、ことことという音の中、ディーンが静かに口火を切った。


「さっきは悪かったな。心配してくれたのに、怒鳴ったりしてさ」


 いつもの口調に安心して、レイは首を振る。


「いや。もういいのか?」


 ディーンは、右肘から中指と薬指の間までをはしる、一条の傷を指でなでた。

 即死してもおかしくない、とノアが評した酷さを物語るように、それは今も白く生々しい。


「これが妖魔にやられたってことは話したよな? その時ちょうど知り合いの能力者(ヴィサード)が居合わせて、俺はなんとか助かったけど……。その治療も完璧にはできなくて、神経がうまくつながらなかったらしいんだ。機能回復訓練(リハビリ)をしてここまで使えるようになったけど、長時間使うとあんなふうにガタがくる」


 苦しかった当時を思い出したのか、深い色の瞳が翳る。


「やられた時は半分ちぎれかかってたんだから、まだましなほうさ」

「なぜ妖魔に?」

「運が悪かったんだよ。偶然、封印を解かれた妖魔に出くわしちまった。封印から解放された直後の妖魔は、正気を失ってるからな。逃げる暇もなく、ズバッ……さ」


 ディーンが左手で動きを真似る。

 レイは形のいい眉を寄せた。


「それでよく他の妖魔を助けようという気になったな」

「最初は憎んでた。ま、この怪我だけが理由じゃないけどな」


 さらりと肯定する。


「だけど、旅の途中で妖魔狩人(ハンター)の男に会って気が変わったんだ。そいつと一緒にいるうちに、妖魔もそう悪い奴ばかりじゃないってことに気が付いたのさ」


 妖魔狩人(ハンター)とは、妖魔の精気を糧として生きる魔剣を手にし、妖魔を倒すために世界を放浪する者である。概してそれは、神から見放された原罪者の一族であった。

 世の中の異端中の異端の名を簡単に口にする少年に、レイの常識が根元から揺るがされる。


「波乱万丈の人生だな」

「そうだな。こんな砂漠の真ん中に引っぱり出されるし」


 当てこすりに、レイは呆れ顔になった。


「罪の帳消しと礼金の代わりに引き受けたのは、おまえだろう」

「うーん、ちょっと後悔」


 ディーンが本気とも嘘ともつかぬ口振りで言う。


「ま、退屈はしないな」

「退屈はしない、程度で済めばいいがな。――どうして旅を?」

「ちょっと訳ありでね。国には戻れない身なんだ」


 その言葉に、レイはテス州での事件を思い出す。どうやら彼は、騒ぎに巻き込まれずにはいられない性質たちらしい。


「何をしたんだ?」

「実は俺、殺人容疑で指名手配中♪」

「嘘をつくな。そんなこと信じられるか」

「あんた……俺が今まで、何人人を殺したと思ってるんだ?」


 大きな切れ長の双眸が、凄艶な光を帯びる。

 一瞬レイの背筋を、冷たいものが走った。だが同時に、その瞳の奥に、絶望にも似た深い哀しみを見たような気がする。懐にしまった薬の小瓶が、ことん、と揺れた。


「私は――おまえが悪人だとは思わない。たとえ人を殺したとしても、それには何か理由があったはずだ」


 揺るぎない口調で、レイは告げる。まっすぐな眼差しを返す蒼い瞳に、濃紫の瞳が、ふ、と微笑わらった。


「……嘘。本当は、ちょっと他の国が見てみたかっただけだよ」

「旅行符も持たずにか?」

「あれ、取るの結構大変なんだぞ。今回はお偉方(ノア)が出してくれたけど、普通は旅の目的とか身元保証人とかいろいろ手続きやって、結局できるのは数年後だぜ。たまんねーよ。待ってられるか」


 ディーンは大げさに、天を仰いで両手を上げてみせる。

 レイがくすり、と笑い、それでこの話は終わりになった。

 砂鬼(オーグル)、妖魔、砂嵐と立て続けに事件が勃発し、まだ気がたかぶっているのか、天幕テントに入っても二人はなかなか寝付けなかった。

 横になったレイは、隣のディーンに顔を向けて、


「見張りはいいのか?」

「めんどくせーから、今日はなし。砂鬼(オーグル)でも何でも、来るなら来やがれってんだ」

「そういえば、おまえ昼寝しそびれたな」

「おかげで、ばっちり眼が冴えてるぜ。くそー」

「私もだ。――今、どの辺りにいるか分かるか?」


 寝転がったまま、不精な案内役(ガイド)が荷袋を探る。

 ディーンはうつ伏せになると、地図を広げ、外の焚き火の明かりを頼りにムーア大陸の北西部の一点を指差した。


「砂嵐に吹き飛ばされてなけりゃ、昨日とほとんど変わらず、この辺りだ。まあ、今日進めなかった分はしょうがねぇだろ。明日か明後日には、このオアシスの村に着ける」


 レイは、アル・リマール砂漠のほんの一握りにしか過ぎない道程を見、人間の小ささを思い知る。ましてや、二人は駱駝を失っていた。


「こんな調子で大丈夫なのか……?」

「平気平気」


 レイの心配を、ディーンが笑い飛ばす。


「オアシスに着いたら遊べるぜ~。すぐ元気になるって」


 的外れな励ましと、ディーンの目的意識の低さに、レイは頭を押さえた。


「なんだか、どっと疲れた」

「おや。レイ、一人で先に寝ようってのか? ずるいぞ、こら起きろ」


 寝床にもぐるレイの毛布をディーンが引きはがす。反動で、簡易の天幕が哀れに傾いだ。


「よせ、天幕(テント)が壊れる。――うわっ!」

「あーあ。せっかく建てたのに……」

「誰のせいだと思ってるんだ、馬鹿者!」

「え? ひょっとして俺のせいとか思ってる?」

「当たり前だっ。――こら、寄るな!」

「だって、俺の寝場所つぶれたのに……」

「だったら外で寝ろ!」

「外で寝たら、俺凍るかも」

「明日の朝、太陽が解凍してくれる」

「そのまま日干しなんてごめんだけど?」

「そうしたら水に漬けてふやかしてやる。朝食と一緒にな」

「――レイ。俺のこと人間扱いしてる?」


 からむディーンとレイの怒鳴り声は、その晩遅くまで絶えることはなかった。

 そうして、空が薔薇色に染まり、地平線のはるか彼方に一つ星(アースフィア)が輝く頃、二人はようやく眠りに就いたのだった。


   *


 この世の果てとも思える、切り立った断崖絶壁の渓谷のある場所で、二人の人物が話していた。

 いや、正確には彼らは人間ではなかった。

 そして彼らがいる場所も、切り立った断崖の谷間ではなかった。

 ほんのりと光が照らすそこは、同じに見えて、まったく別の次元にあった。

 谷間のある次元から、眼に見えぬ薄皮一枚を隔てた向こう――いわゆる亜空間といわれる場所で話しているのは、人々から妖魔と称される存在であった。

 苛立ちを隠せぬ様子で言葉をぶつける真紅の髪の少女を、黒髪の青年が低い声でなだめている。青年の右眼は、痛々しくえぐれ、潰れていた。

 その時、亜空間がひび割れ、一人の少年を産み落とした。


《砂巳!》


 少女は駆け出し、一瞬、足を止める。

 少女によく似たその顔は、灰のように青ざめていた。幼い身体が、ぐらり、と崩れる。

 悲鳴をあげて少年を抱きとめた少女は、自分の腕をぐっしょりと濡らす血に気が付いた。


《ああ、なんて……なんていうことを……!》


 出血は、砂巳の左胸からであった。

 肩から胸にかけてある、一条の太刀傷。それを庇うように巻きつけられた布ごと、何かを抉り取ったように、虚ろな穴が開いていた。

 少女の口から、言葉にならぬ呻きが洩れる。

 少女は、砂巳を背後からかかえるようにして膝に抱き、懸命に両手で傷口を覆った。人外の瞳が黄金に輝き、見えない力が少年に注ぎ込まれる。

 だが、肉体を貫通してできた穴は塞ぎようもなく、止まるところを知らない血が足元にしたたり落ちる。

 赤く血塗れた少女の手に、砂巳はそっと右手を触れた。


《……もういいんだよ、姉さん》


 少女は唇を噛みしめ、納得できぬというように、激しくかぶりを振った。

 かたわらにやって来た青年が、二人の手に手を重ねる。魔力を合わせて、


《すまない。俺が失敗したばかりに……》

雷呀(ライガ)のせいじゃない。僕が甘かったんだ。相手を……見くびりすぎていた》

《もう何も言わないで、砂巳》


 姉の呼びかけに、砂巳はかすかに笑いかける。


《いいんだ。もう一度……光が見られた。それだけで、もう――》


 人間の少年に角を斬られ、魔力を失った砂巳は、通常の人間を同じほど脆弱くとなっていた。

 それでも空間移動(トランスフェーズ)をして帰還し、かつこの傷を受けてここまで生きられたのは、妖魔の肉体ならではのことだった。

 しかし、流れ出た血は大量に過ぎ、左胸の傷はあまりに深かった。

 最後まで言い終わらないまま、金色の頭が、力を失う。

 少年の左手は、肩に巻かれた緑の布をしっかりと握りしめていた。


――ああ。光が……銀色の光が見える……。


 砂巳は、最後自分を助けようとしてくれた人間の銀色の髪に、封印の深い闇の中で求め続けていた光を重ねていた。

 新たな未来へと導く、希望という名の光――。

 その光に満たされた微笑みを残し、砂巳は眼を閉ざす。


《――!!》


 少女が、悲鳴ともつかぬ叫びを上げた。その腕にもたれ、妖魔砂巳は息絶えた。

 魂を喪った肉体は急速に形を失くし、塵芥となって少女の腕からこぼれ、空に消える。

 黄金の砂漠に還っていく、黄金の魂。

 見えない亡骸を抱きしめるように、少女は、おのれを固くかき抱いた。絶叫が起こる。

 泣くことのできない妖魔の少女の身も心も砕け散ってしまうほどの叫び声が、不安定な空間をがたがたと揺らした。

 ――やがて、涙の一滴まで叫び尽くした少女は、ふらり、と立ち上がった。


《雷呀》


 静かに青年の名を呼ぶ。


《わたしは砂巳の魂に誓うわ》


 はっと少女を見た青年は、爛々と輝く黄金の双眸に、息を飲んだ。


《砂巳を殺した人間を、この手で必ず血祭りにあげる……必ず》

砂姫(サキ)……》


 驚く青年を振り返り、少女は微笑む。

 それは、復讐に狂い、血の涙を流す夜叉の顔そのものだった。




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