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カナン・サガ1~月の雫~  作者: 藤田 暁己
第1話 テス――闇月の夜
1/33

1-1



****************************

 光明神ルシアは、人々を護るために六つの宝を世に賜った。

 太陽の翼、月の雫、無量寿の水、黄金律法、正義の輝光、

 そしてわれら統一世界人(カナナイト)すべての母、聖母その人である。


  ――法典より抜粋――

****************************



第1話 テス――闇月の夜



 月のない夜明けだった。

 ゆっくりと、光が滲むように、空が白んでゆく。

 オーケイア海の水をいだくタリア湾も今はぎ、アル・リマール砂漠に続く砂浜が、静かに熱を帯びはじめていた。

 なまぬるく湿度の高い空気が、重く澱んでいる。

 沿岸の街も、さながら睡魔の羽根に触れたごとく一時の静寂に満ち、わずかに浜辺の生き物の活動する音だけが、生命を感じさせた。


 おかへのぼる蟹たちを避け、海岸林の樹上でただ一人、束の間の眠りを貪るものがいる。

 若い、まだ少年と呼べる男だった。

 少年は、日に焼けた肌に薄汗ひとつ浮かべず、太い枝に身体を投げ出すようにして眠る。無防備な姿は、だが、棘の生えたシュラクの枝と長い葉で巧妙に周囲から隠されていた。

 ふと、少年の瞼が開く。

 そのまま、じっと気を張りつめ、何かを待っている。


 刹那。

 一陣の風が砂浜を叩きつけた。

 風は、上空のある場所から吹いていた。

 風が吹き出す、その一点。何もないはずの中空が、もうもうと砂煙の立ち籠もる中で、ぐにゃりと歪む。まるで巨大な指に摘ままれ、強引にねじ回されているようなその光景は、吹き出す風が強まるごとに歪みを増してゆく。

 星も闇も分からぬほどそらが捻きれた、瞬間。

 空間がはぜ割れ、そこから巨大な影が、猛然と躍り出た。

 黒々とそそけ立つ獣毛、鋭い爪牙、真紅の瞳。そして――角。

 この世のものとは思われぬその影は、砂浜に降り立つと、たてがみを一振りして辺りを睨んだ。

 苛立たしげな唸りが洩れる。影は、砂塵を巻き上げて跳躍するや、すぐにこの浜辺から姿を消した。

 上空に開いた穴が、不自然な捻れを解きほぐし、ゆっくりと狭まっていく。


 ――と。

 閉じようとする空間の隙間に滑り込むようにして、もうひとつ、小さな影が飛び出してきた。勢い余って砂浜に叩き落ちる。

 最後の影を吐き終えた空間は、すでに一片の歪みも残さず、正常に戻っていた。

 風は、止んでいる。

 何事もなかったかのように、海岸はまた静寂に包まれた。

 すべては、数瞬の出来事であった。

 そのすべてを、少年は見ていた。

 少年は、隠れていたシュラクの低木から滑り降りると、砂浜に墜落したものへと近づいた。彼が動くのに合わせ、装身具(アクセサリー)がしゃん…と音を立てる。


 それは、人間のようだった。気を失い、うつ伏せに倒れている。

 少年は、肩に手をかけ、そっとその身体を仰向けにした。淡く光る短髪が、意識のもどらない顔に乱れかかる。

 この辺りの者では決してありえない、白い雪の肌。

 濃い色の上着と洋袴(ズボン)に痩身を包み、腰に中剣、足には半長靴(ハーフ・ブーツ)を履く。傍らに、小さな貴石のひとつついた首飾りが落ちていた。

 簡素な身なりに思われるが、上着ひとつとっても、この辺りの者が一月は働かずに食べていける品である。

 暁闇の中でそれだけを見て取った少年は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。手のひらで意識のない顔を叩いてみるが、目覚める様子は一向にない。


「……やれやれ。とんだ拾い物だ」


 ため息をひとつ。少年は首飾りを懐に入れると、倒れる人間を両腕に抱え上げた。そのまま振り返ることなく、林の中へと去っていく。

 無人となった浜辺を、蟹や宿借ヤドカリたちが我がもの顔に歩き回った。

 水平線が、朝日を弾いてきらめく。

 気温の上がった大気は流れ、やがて、さらさらと波が砂を洗いはじめた。


   *   *   *


 時を二時間ホラほど遡る。

 タリア湾を臨むテス州から西へ十八万五千公里(ミール)の彼方、エファイオス王国の首都ヘスペリアでそれは起こった。


 そのとき、レイ・セジェウィクは真珠の(みや)の北塔、最上階にいた。

 真珠の宮は、統一世界(カナン)全土に信仰される光明神教(ルクシオン)の唯一神ルシアを祀る、エファイオス最大の神殿である。

 しっとりと蒼闇の垂れこめる、春の夜更け。

 満ちるまであと数日を要する月は、それでも神殿を囲むネミの森の果て――帝都の権力の象徴たる総督府の城までも、くっきりと照らし出した。

 中でも、森に横たわる湖は一際光をはらみ、もうひとつの月のごとく輝いている。その湖畔で [西の塔]は、ひっそりと佇んでいた。

 塔と呼ばれてはいても、実際は小さな祭儀場のような形で、六本の円柱が等間隔に輪を描いて建っているのみである。中央には、祭壇とおぼしき台が据えられていた。

 何時、誰が、何の目的で建てたのか、知るものはいない。

 古い言い伝えでは、古代、神が人々を護る宝を安置するために建立したものだとされる。その宝は、普段は人の目に触れることはなく、世界が危機に瀕したときにのみ封印が解かれ、神の使徒の姿をとって救済するという――今では神話と呼べる伝説であった。


 そんな伝説が生まれるにふさわしい見事な夜景を、レイはぼんやりと眺めていた。

 きらめく白銀の髪、藍玉の双眸。ぬけるように白い肌に細い線で描かれた顔立ちは、氷像のように冷たい。

 鍛えられてはいるが、背丈の成長にからだが追いついてない観のある細い肢体を、白い襯衣(シャツ)に紺の上下という装いで包む。特別拵えの両刃の剣は、剣帯から外し、脇に置いていた。

 十五歳の若さにありながら、レイは、ヘスペリアで屈指の実力を誇る剣士であった。


――まいったな……。


 石積みの塔の窓辺に頬杖をついて、レイは何度目かのため息を吐いた。

 このところ、妙に気が高ぶって、よく眠れないのだ。

 気晴らしをしようとここへ来たのだが、とりとめのない思いばかりが頭に浮かび、余計に目が冴えてしまった。

 息が詰まるような帝都での生活を二年余りで切り上げ、逃げるようにして生まれ育ったエファイオスに戻ってきたが、果たしてそれで良かったのか。

 答えの出ない問いは、レイ自身の立場と相俟って、重く複雑にのしかかった。

 一本だけ灯した燭台に、小さな蛾が群れている。

 それを横目に見たレイは、前髪をかきあげて、かすかに微笑んだ。


「……もう、よそう。何を考えたところで、仕方のないことだ」


 胸に下げた護り石を握りしめ、呟いた。その時。

 レイの心に、何かが触れた。

 導かれるように天を仰ぎ、レイは、驚愕に凍りついた。


「月が……消えていく……?!」


 錯覚ではない。

 雲ひとつない空に浮かぶ、上弦の月。

 今から満ちていくはずの円の曲線が確実に後退し、それは限界で逆の弧を描いて、三日月に変わろうとしている。

 まるで、急速に時間を巻き戻しているような光景だった。

 レイは混乱する頭をまとめ、慎重に事態を分析した。


 月が短時間で満ち欠けする要因は、全部で三つ考えられる。

 一つは月蝕。これは満月のときしか起こらないので、問題外だった。

 二つめは、何らかの障害物が月を隠している。それも、これだけ明るいのにも関わらず、物影が空に映らない不自然さから削除された。

 考えたくはないが、残りは一つ。能力者(ヴィサード)の仕業である。


――良心からの行ないではなさそうだな。


 忌々しく思う。

 だが、目的が分からない。幻術を用いての物盗りにしては、大げさすぎる。

 しかもここは、西の大神殿。神を祀る聖域である。


――いったい何のために……?


 やがて、同様に異変に気付いたのか、階下から声が洩れ聞こえ、神殿内に明かりが灯りはじめた。

 薄れゆく月光に代わり、篝火に照らし出される湖の方角を見て、レイの表情が微妙に変わった。

 様々な断片が集まって、明確な形へと変わる。その前にもう、レイは走り出していた。

 愛剣を掴み、階段を駆け下りるや自室へ飛び込む。


 外では、早馬が総督府の城へ走り、衛士が緊迫した様子で神殿の警護を固めていた。遠くの街並みも、次々と点灯されていく。

 レイは露台(バルコニー)に出ると、三階下の地面に向かって、一気に飛び降りた。

 しなやかな体が、夜空に一回転して着地する。レイはそのまま馬房へと走り、葦毛の愛馬を連れ出した。

 手早くくつわをはめ、鞍も乗せぬ馬の背にひらりと跨る。


「頼んだぞ、ファタル――はっ!」


 拍車を駆ると、レイは神殿を抜け、裏門からネミの森の前に出た。乗り手の意志を読んだのか、ファタルはためらいもなく湖への近道を選び、漆黒の樹海へ飛び込む。

 暗い視界の中で、馬は風のごとく木の間を疾駆した。まるで、木々が避けて道を示しているようにさえ思える。

 驚異的な速さで湖岸に着くと、レイは天をふり仰いだ。


――月が消える……!


 絶望的な気持ちで唇を噛む。湖も、傍らの[西の塔]も、闇に沈んでいた。


「……確かめなければ」


 ただでさえ白いレイの顔から表情が消え、蝋よりも白くなる。


――伝説であろうと、可能性がある以上、私はあれを守らねばならん……!


 轡を引き、[西の塔]へ馬首を回す。

 ところが、ファタルは足を動かそうとはしなかった。荒く息を吐き、何かに怯えたように竦んでいる。

 レイは、愛馬の怯えの原因を前方に認め、音もなく下馬した。左手で剣の鯉口を切り、木陰に身を潜めて様子を窺う。

 湖岸の丘陵に、一人の男が立っていた。

 踝までを覆う長衣(ローブ)を纏い、森を通して見え隠れする赤い灯を眺めている。


「……たやすいことだ」


 長衣の陰から、かすかな笑いがしのび洩れる。


「愚か者どもが……!」


 それが誰に向けられた言葉かは定かではない。それでも、吐かれた言葉以上に、男から放たれるものに、レイは総毛立つほどの不快感を覚えた。


――なんという禍々まがまがしさ……!


 思わず口を覆う。

 月が消えたことにどう関わっているのかは、明らかではない。しかしレイは、この男が私欲のために能力(ヴィス)を行使する魔術師であることを確信した。

 レイの思惑を察したように、男の肩がわずかに動く。

 嘲笑の余韻をとどめたまま、男が、告げる。


「出て来い、仔鼠!」


 宣告と同時に、目前の木が四散した。だが反射的に庇った体には、擦り傷ひとつない。

 弱いのではない。手加減されたのだと気づき、レイの身を羞恥と恐怖が包んだ。

 男がおもむろに、あらわになったレイを返り見る。


「ほう……。これは、これは――」


 頭二つ分の高みから、不躾な眼差しを注いだ。


「このようなところでお逢いできようとは、光栄の至り。それにしても、人の噂とはかくも虚言に満ちたものですかな。実に……お美しい」


 傷つけるためでしかない丁寧な物言いに、レイの瞳が光る。浮かぶのは確信と、純粋な怒りだった。


「黙れ! ここは西の聖域。いかなる訳で参られたか!」

「知れたこと」


 高飛車な口調を鼻先で笑って、男が答える。


「我が望みを満たすは、ただひとつ。真の神の力のみ」

「[西の塔]の聖宝か……!」

しかり」


 その答えにレイの右手が、白く関節が浮かぶほど強く、握り締められた。

 蒼い双眸が、半眼に伏せられる。


「ならば――」


 眼をかっと見開く。


「返してもらおう!!」


 レイは、瞬時に間合いを詰め、抜き打ちを放った。

 男がわずかに退いて、刃をかわす。

 それを予想していたレイは、手首を返すと、左手を添えて剣を振り下ろした。

 青い火花が散る。


「!!」


 渾身の力をこめて斬り下ろした剣が、男の頭上で止まっていた。

 男の気が膨れあがる。

 次の瞬間、爆発に似た衝撃が襲い、レイの体が弾け飛んだ。丘陵の草叢に勢いよく叩きつけられる。

 咄嗟に受け身をとったものの、すぐには立ち上がれずに、レイは男を睨みつけた。


「威勢のよいことだ」


 男は、薄い唇に笑みを湛え、倒れるレイを見下す。気がつくと、男の足元の地面が波打ち、その体をすくい上げていた。


「聖宝は渡さぬ。そして、取り戻すことも不可能だ。私が持っているのだからな。だが――銀の処女おとめよ」


 徐々に遠ざかる男の声が、うたうように囁く。


「来るがよい、我が居城(もと)へ……。私は、逃げも隠れもせぬ」


 ――愉しみに待っているぞ。


 笑いを含んだ声が、漆黒の夜空に溶ける。

 大地が、金色にきらめく鱗の波となってうねり、男を呑み込んだ。波が、砕ける。

 視界が晴れた時にはもう、男の姿はなかった。

 後にはただ、昏く、沈黙の闇が広がるばかり――。


「……勝…手な……ことを……」


 切れ切れの呟きに、怒りが宿る。

 幸い魔術師の興味の対象とならなかった馬が、森から現われ、低くいなないてレイに寄り添った。

 こすりつけてくるファタルの長い鼻面を撫で、レイは眼を閉ざした。

 緊張の緩みからか、全身が小刻みに震えている。

 レイは、深く息を吸うと、拳を握りしめて立ち上がった。


「あの男の好きにはさせぬ」


 低い、静かな呟き。

 だがそれは、男への宣戦布告のように、月のない夜空に向かってきっぱりと告げられた。


   *


 レイが再び神殿へ戻ったときはすでに、争いはほぼ終結していた。

 神殿の中庭で、灰色熊(グリズリー)に似た巨獣を中心に、衛士の死体は十四を数えた。

 さすがに巨獣も肩を切り裂かれ、右前肢を失っている。それを、無事な衛士二十人余りが、囲んで追い詰めていた。他の者は、神殿内へ立て籠もっているらしい。

 最後の攻撃とばかりに迫る衛士たちを見た、獣の眼が笑った・・・


「何!?」


 ざわり、と鬣が伸びる。と、骨肉を断つ不気味な音をたて、切られたはずの前肢がぐぼり、と生えた。


「馬鹿な……!」


 青ざめる衛士たちの前で、獣の肩が、背中が肢がめりめりと膨れあがり、黒い体は三倍に巨大化した。顎がせり出し、牙が長く伸びて二列揃う。

 最後に、眉間とその両脇に三本の角が生えて、変身が完了する。

 誰もがようやく、獣の正体を理解した。

 獣の双眼が、赤く燃えあがる。


「妖魔!! ――だめだ、逃げろっ!!」


 木陰からレイが叫んだ直後、疾風が衛士を襲った。

 一瞬時が止まったかに見え、次には真紅の血を迸らせながら、彼らは糸の切れた人形のように転がる。


「……っ!!」


 断末魔すら与えぬ、一瞬の死。そのとき、呆然となるレイの腕を掴んで、強い力で建物の陰に引き寄せる者がいた。


「――こちらへ」


 曙光で染め上げたごとく美しい朱金の髪。かぐわしい香気すら纏った、その人物が囁きかける。


「レイ様、よくぞ御無事で……」

「イリヤ……」


 それは、共に帝都から来た女聖騎士であった。姉ともいえるうら若き女性を、レイは安堵の思いで抱きしめた。

 手短に、今までの経緯を語る。その内容に、聖騎士の光環(アウレオル)を戴いた姫の秀麗な面差しが、見る見る引き締まった。


「あの妖魔は、おそらく [西の塔]から注意を逸らすための囮だろう。ならば、聖宝を盗んだ魔術師の居所を知っているはず――。今から私は奴を追う。イリヤ、貴方はこのことを至急聖母にお伝えしてほしい」

「なんて無茶を……危険すぎます!」

「承知の上だ」

「いいえ、貴方一人を行かせるわけには――!」


 イリヤがすべてを言い終わる前に、妖魔は行動をとった。

 鋼の鬣を逆立て、傷一つない体躯たいくに力をみなぎらせる。見守る二人の周囲で、空気がふわり、と動いた。

 風はすぐに木々を揺さぶる強風となり、竜巻と化して、妖魔に向かって集約しはじめた。

 巻き込まれないように壁に寄り添い、レイとイリヤは、奇妙な事実に気がついた。

 竜巻の昇りつめた中空の一点が、星空を捻じ曲げ、壊してゆく。


「亜空間にのがれるつもりか……!」


 妖魔を見据えたまま、イリヤが苦々しく呟いた。レイは、しばしその姫の横顔を見つめ、巨大な妖魔に視線を転じた。

 この妖魔が魔術師の仲間であることを、レイは信じて疑わなかった。そして、聖宝のありかへと導く、鍵となることも。

 迷う理由も時間もなかった。

 レイは、亜空間へ消えゆく妖魔に向かって、走り出した。


「レイ様――っ!!」


 妖魔はすでに、亜空間に飲み込まれている。

 レイは、イリヤの制止を振り切るように全速力で駆け抜け、閉じゆく空間に頭から飛び込んだ。

 亜空間が、予想外のことに瞬間揺らぎ、ゆっくりとかき消えた。




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