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光明神ルシアは、人々を護るために六つの宝を世に賜った。
太陽の翼、月の雫、無量寿の水、黄金律法、正義の輝光、
そしてわれら統一世界人すべての母、聖母その人である。
――法典より抜粋――
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第1話 テス――闇月の夜
1
月のない夜明けだった。
ゆっくりと、光が滲むように、空が白んでゆく。
オーケイア海の水をいだくタリア湾も今は凪ぎ、アル・リマール砂漠に続く砂浜が、静かに熱を帯びはじめていた。
なまぬるく湿度の高い空気が、重く澱んでいる。
沿岸の街も、さながら睡魔の羽根に触れたごとく一時の静寂に満ち、わずかに浜辺の生き物の活動する音だけが、生命を感じさせた。
陸へのぼる蟹たちを避け、海岸林の樹上でただ一人、束の間の眠りを貪るものがいる。
若い、まだ少年と呼べる男だった。
少年は、日に焼けた肌に薄汗ひとつ浮かべず、太い枝に身体を投げ出すようにして眠る。無防備な姿は、だが、棘の生えたシュラクの枝と長い葉で巧妙に周囲から隠されていた。
ふと、少年の瞼が開く。
そのまま、じっと気を張りつめ、何かを待っている。
刹那。
一陣の風が砂浜を叩きつけた。
風は、上空のある場所から吹いていた。
風が吹き出す、その一点。何もないはずの中空が、もうもうと砂煙の立ち籠もる中で、ぐにゃりと歪む。まるで巨大な指に摘ままれ、強引にねじ回されているようなその光景は、吹き出す風が強まるごとに歪みを増してゆく。
星も闇も分からぬほど宙が捻きれた、瞬間。
空間がはぜ割れ、そこから巨大な影が、猛然と躍り出た。
黒々とそそけ立つ獣毛、鋭い爪牙、真紅の瞳。そして――角。
この世のものとは思われぬその影は、砂浜に降り立つと、鬣を一振りして辺りを睨んだ。
苛立たしげな唸りが洩れる。影は、砂塵を巻き上げて跳躍するや、すぐにこの浜辺から姿を消した。
上空に開いた穴が、不自然な捻れを解きほぐし、ゆっくりと狭まっていく。
――と。
閉じようとする空間の隙間に滑り込むようにして、もうひとつ、小さな影が飛び出してきた。勢い余って砂浜に叩き落ちる。
最後の影を吐き終えた空間は、すでに一片の歪みも残さず、正常に戻っていた。
風は、止んでいる。
何事もなかったかのように、海岸はまた静寂に包まれた。
すべては、数瞬の出来事であった。
そのすべてを、少年は見ていた。
少年は、隠れていたシュラクの低木から滑り降りると、砂浜に墜落したものへと近づいた。彼が動くのに合わせ、装身具がしゃん…と音を立てる。
それは、人間のようだった。気を失い、うつ伏せに倒れている。
少年は、肩に手をかけ、そっとその身体を仰向けにした。淡く光る短髪が、意識のもどらない顔に乱れかかる。
この辺りの者では決してありえない、白い雪の肌。
濃い色の上着と洋袴に痩身を包み、腰に中剣、足には半長靴を履く。傍らに、小さな貴石のひとつついた首飾りが落ちていた。
簡素な身なりに思われるが、上着ひとつとっても、この辺りの者が一月は働かずに食べていける品である。
暁闇の中でそれだけを見て取った少年は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。手のひらで意識のない顔を叩いてみるが、目覚める様子は一向にない。
「……やれやれ。とんだ拾い物だ」
ため息をひとつ。少年は首飾りを懐に入れると、倒れる人間を両腕に抱え上げた。そのまま振り返ることなく、林の中へと去っていく。
無人となった浜辺を、蟹や宿借たちが我がもの顔に歩き回った。
水平線が、朝日を弾いてきらめく。
気温の上がった大気は流れ、やがて、さらさらと波が砂を洗いはじめた。
* * *
時を二時間ほど遡る。
タリア湾を臨むテス州から西へ十八万五千公里の彼方、エファイオス王国の首都ヘスペリアでそれは起こった。
そのとき、レイ・セジェウィクは真珠の宮の北塔、最上階にいた。
真珠の宮は、統一世界全土に信仰される光明神教の唯一神ルシアを祀る、エファイオス最大の神殿である。
しっとりと蒼闇の垂れこめる、春の夜更け。
満ちるまであと数日を要する月は、それでも神殿を囲むネミの森の果て――帝都の権力の象徴たる総督府の城までも、くっきりと照らし出した。
中でも、森に横たわる湖は一際光を孕み、もうひとつの月のごとく輝いている。その湖畔で [西の塔]は、ひっそりと佇んでいた。
塔と呼ばれてはいても、実際は小さな祭儀場のような形で、六本の円柱が等間隔に輪を描いて建っているのみである。中央には、祭壇とおぼしき台が据えられていた。
何時、誰が、何の目的で建てたのか、知るものはいない。
古い言い伝えでは、古代、神が人々を護る宝を安置するために建立したものだとされる。その宝は、普段は人の目に触れることはなく、世界が危機に瀕したときにのみ封印が解かれ、神の使徒の姿をとって救済するという――今では神話と呼べる伝説であった。
そんな伝説が生まれるにふさわしい見事な夜景を、レイはぼんやりと眺めていた。
きらめく白銀の髪、藍玉の双眸。ぬけるように白い肌に細い線で描かれた顔立ちは、氷像のように冷たい。
鍛えられてはいるが、背丈の成長に躯が追いついてない観のある細い肢体を、白い襯衣に紺の上下という装いで包む。特別拵えの両刃の剣は、剣帯から外し、脇に置いていた。
十五歳の若さにありながら、レイは、ヘスペリアで屈指の実力を誇る剣士であった。
――まいったな……。
石積みの塔の窓辺に頬杖をついて、レイは何度目かのため息を吐いた。
このところ、妙に気が高ぶって、よく眠れないのだ。
気晴らしをしようとここへ来たのだが、とりとめのない思いばかりが頭に浮かび、余計に目が冴えてしまった。
息が詰まるような帝都での生活を二年余りで切り上げ、逃げるようにして生まれ育ったエファイオスに戻ってきたが、果たしてそれで良かったのか。
答えの出ない問いは、レイ自身の立場と相俟って、重く複雑にのしかかった。
一本だけ灯した燭台に、小さな蛾が群れている。
それを横目に見たレイは、前髪をかきあげて、かすかに微笑んだ。
「……もう、よそう。何を考えたところで、仕方のないことだ」
胸に下げた護り石を握りしめ、呟いた。その時。
レイの心に、何かが触れた。
導かれるように天を仰ぎ、レイは、驚愕に凍りついた。
「月が……消えていく……?!」
錯覚ではない。
雲ひとつない空に浮かぶ、上弦の月。
今から満ちていくはずの円の曲線が確実に後退し、それは限界で逆の弧を描いて、三日月に変わろうとしている。
まるで、急速に時間を巻き戻しているような光景だった。
レイは混乱する頭をまとめ、慎重に事態を分析した。
月が短時間で満ち欠けする要因は、全部で三つ考えられる。
一つは月蝕。これは満月のときしか起こらないので、問題外だった。
二つめは、何らかの障害物が月を隠している。それも、これだけ明るいのにも関わらず、物影が空に映らない不自然さから削除された。
考えたくはないが、残りは一つ。能力者の仕業である。
――良心からの行ないではなさそうだな。
忌々しく思う。
だが、目的が分からない。幻術を用いての物盗りにしては、大げさすぎる。
しかもここは、西の大神殿。神を祀る聖域である。
――いったい何のために……?
やがて、同様に異変に気付いたのか、階下から声が洩れ聞こえ、神殿内に明かりが灯りはじめた。
薄れゆく月光に代わり、篝火に照らし出される湖の方角を見て、レイの表情が微妙に変わった。
様々な断片が集まって、明確な形へと変わる。その前にもう、レイは走り出していた。
愛剣を掴み、階段を駆け下りるや自室へ飛び込む。
外では、早馬が総督府の城へ走り、衛士が緊迫した様子で神殿の警護を固めていた。遠くの街並みも、次々と点灯されていく。
レイは露台に出ると、三階下の地面に向かって、一気に飛び降りた。
しなやかな体が、夜空に一回転して着地する。レイはそのまま馬房へと走り、葦毛の愛馬を連れ出した。
手早く轡をはめ、鞍も乗せぬ馬の背にひらりと跨る。
「頼んだぞ、ファタル――はっ!」
拍車を駆ると、レイは神殿を抜け、裏門からネミの森の前に出た。乗り手の意志を読んだのか、ファタルはためらいもなく湖への近道を選び、漆黒の樹海へ飛び込む。
暗い視界の中で、馬は風のごとく木の間を疾駆した。まるで、木々が避けて道を示しているようにさえ思える。
驚異的な速さで湖岸に着くと、レイは天をふり仰いだ。
――月が消える……!
絶望的な気持ちで唇を噛む。湖も、傍らの[西の塔]も、闇に沈んでいた。
「……確かめなければ」
ただでさえ白いレイの顔から表情が消え、蝋よりも白くなる。
――伝説であろうと、可能性がある以上、私はあれを守らねばならん……!
轡を引き、[西の塔]へ馬首を回す。
ところが、ファタルは足を動かそうとはしなかった。荒く息を吐き、何かに怯えたように竦んでいる。
レイは、愛馬の怯えの原因を前方に認め、音もなく下馬した。左手で剣の鯉口を切り、木陰に身を潜めて様子を窺う。
湖岸の丘陵に、一人の男が立っていた。
踝までを覆う長衣を纏い、森を通して見え隠れする赤い灯を眺めている。
「……たやすいことだ」
長衣の陰から、かすかな笑いがしのび洩れる。
「愚か者どもが……!」
それが誰に向けられた言葉かは定かではない。それでも、吐かれた言葉以上に、男から放たれるものに、レイは総毛立つほどの不快感を覚えた。
――なんという禍々しさ……!
思わず口を覆う。
月が消えたことにどう関わっているのかは、明らかではない。しかしレイは、この男が私欲のために能力を行使する魔術師であることを確信した。
レイの思惑を察したように、男の肩がわずかに動く。
嘲笑の余韻をとどめたまま、男が、告げる。
「出て来い、仔鼠!」
宣告と同時に、目前の木が四散した。だが反射的に庇った体には、擦り傷ひとつない。
弱いのではない。手加減されたのだと気づき、レイの身を羞恥と恐怖が包んだ。
男がおもむろに、あらわになったレイを返り見る。
「ほう……。これは、これは――」
頭二つ分の高みから、不躾な眼差しを注いだ。
「このようなところでお逢いできようとは、光栄の至り。それにしても、人の噂とはかくも虚言に満ちたものですかな。実に……お美しい」
傷つけるためでしかない丁寧な物言いに、レイの瞳が光る。浮かぶのは確信と、純粋な怒りだった。
「黙れ! ここは西の聖域。いかなる訳で参られたか!」
「知れたこと」
高飛車な口調を鼻先で笑って、男が答える。
「我が望みを満たすは、ただひとつ。真の神の力のみ」
「[西の塔]の聖宝か……!」
「然り」
その答えにレイの右手が、白く関節が浮かぶほど強く、握り締められた。
蒼い双眸が、半眼に伏せられる。
「ならば――」
眼をかっと見開く。
「返してもらおう!!」
レイは、瞬時に間合いを詰め、抜き打ちを放った。
男がわずかに退いて、刃をかわす。
それを予想していたレイは、手首を返すと、左手を添えて剣を振り下ろした。
青い火花が散る。
「!!」
渾身の力をこめて斬り下ろした剣が、男の頭上で止まっていた。
男の気が膨れあがる。
次の瞬間、爆発に似た衝撃が襲い、レイの体が弾け飛んだ。丘陵の草叢に勢いよく叩きつけられる。
咄嗟に受け身をとったものの、すぐには立ち上がれずに、レイは男を睨みつけた。
「威勢のよいことだ」
男は、薄い唇に笑みを湛え、倒れるレイを見下す。気がつくと、男の足元の地面が波打ち、その体をすくい上げていた。
「聖宝は渡さぬ。そして、取り戻すことも不可能だ。私が持っているのだからな。だが――銀の処女よ」
徐々に遠ざかる男の声が、謡うように囁く。
「来るがよい、我が居城へ……。私は、逃げも隠れもせぬ」
――愉しみに待っているぞ。
笑いを含んだ声が、漆黒の夜空に溶ける。
大地が、金色にきらめく鱗の波となってうねり、男を呑み込んだ。波が、砕ける。
視界が晴れた時にはもう、男の姿はなかった。
後にはただ、昏く、沈黙の闇が広がるばかり――。
「……勝…手な……ことを……」
切れ切れの呟きに、怒りが宿る。
幸い魔術師の興味の対象とならなかった馬が、森から現われ、低くいなないてレイに寄り添った。
こすりつけてくるファタルの長い鼻面を撫で、レイは眼を閉ざした。
緊張の緩みからか、全身が小刻みに震えている。
レイは、深く息を吸うと、拳を握りしめて立ち上がった。
「あの男の好きにはさせぬ」
低い、静かな呟き。
だがそれは、男への宣戦布告のように、月のない夜空に向かってきっぱりと告げられた。
*
レイが再び神殿へ戻ったときはすでに、争いはほぼ終結していた。
神殿の中庭で、灰色熊に似た巨獣を中心に、衛士の死体は十四を数えた。
さすがに巨獣も肩を切り裂かれ、右前肢を失っている。それを、無事な衛士二十人余りが、囲んで追い詰めていた。他の者は、神殿内へ立て籠もっているらしい。
最後の攻撃とばかりに迫る衛士たちを見た、獣の眼が笑った。
「何!?」
ざわり、と鬣が伸びる。と、骨肉を断つ不気味な音をたて、切られたはずの前肢がぐぼり、と生えた。
「馬鹿な……!」
青ざめる衛士たちの前で、獣の肩が、背中が肢がめりめりと膨れあがり、黒い体は三倍に巨大化した。顎がせり出し、牙が長く伸びて二列揃う。
最後に、眉間とその両脇に三本の角が生えて、変身が完了する。
誰もがようやく、獣の正体を理解した。
獣の双眼が、赤く燃えあがる。
「妖魔!! ――だめだ、逃げろっ!!」
木陰からレイが叫んだ直後、疾風が衛士を襲った。
一瞬時が止まったかに見え、次には真紅の血を迸らせながら、彼らは糸の切れた人形のように転がる。
「……っ!!」
断末魔すら与えぬ、一瞬の死。そのとき、呆然となるレイの腕を掴んで、強い力で建物の陰に引き寄せる者がいた。
「――こちらへ」
曙光で染め上げたごとく美しい朱金の髪。かぐわしい香気すら纏った、その人物が囁きかける。
「レイ様、よくぞ御無事で……」
「イリヤ……」
それは、共に帝都から来た女聖騎士であった。姉ともいえるうら若き女性を、レイは安堵の思いで抱きしめた。
手短に、今までの経緯を語る。その内容に、聖騎士の光環を戴いた姫の秀麗な面差しが、見る見る引き締まった。
「あの妖魔は、おそらく [西の塔]から注意を逸らすための囮だろう。ならば、聖宝を盗んだ魔術師の居所を知っているはず――。今から私は奴を追う。イリヤ、貴方はこのことを至急聖母にお伝えしてほしい」
「なんて無茶を……危険すぎます!」
「承知の上だ」
「いいえ、貴方一人を行かせるわけには――!」
イリヤがすべてを言い終わる前に、妖魔は行動をとった。
鋼の鬣を逆立て、傷一つない体躯に力を漲らせる。見守る二人の周囲で、空気がふわり、と動いた。
風はすぐに木々を揺さぶる強風となり、竜巻と化して、妖魔に向かって集約しはじめた。
巻き込まれないように壁に寄り添い、レイとイリヤは、奇妙な事実に気がついた。
竜巻の昇りつめた中空の一点が、星空を捻じ曲げ、壊してゆく。
「亜空間に逃れるつもりか……!」
妖魔を見据えたまま、イリヤが苦々しく呟いた。レイは、しばしその姫の横顔を見つめ、巨大な妖魔に視線を転じた。
この妖魔が魔術師の仲間であることを、レイは信じて疑わなかった。そして、聖宝のありかへと導く、鍵となることも。
迷う理由も時間もなかった。
レイは、亜空間へ消えゆく妖魔に向かって、走り出した。
「レイ様――っ!!」
妖魔はすでに、亜空間に飲み込まれている。
レイは、イリヤの制止を振り切るように全速力で駆け抜け、閉じゆく空間に頭から飛び込んだ。
亜空間が、予想外のことに瞬間揺らぎ、ゆっくりとかき消えた。




