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天の魚、地の翼。  作者: すにた
第二章「翔」
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2037年6月21日(木)、PM4:00(UTC)、イタリア、ローマ市、コンドッティ・ヴィア68

 イタリア、ローマ市、ヴィア・コンドッティ#68の交差点には、通りからは三階建てに見える瀟洒なビルがある。それは紛う方無き歴史的建造物である。しかし、その周辺は歴史的建造物ばかりが所狭しと立ち並んでいたので、その事自体はその建物(ビル)が際だった個性を発揮している理由にはならなかった。


 そのビルには外観的には目立った特徴はなかった。周辺に並び立つビルと似た様な柱構造に作られ、外装も同じ形式の装飾品で飾られていた。しかし、それでもコンドッティ通りの日常風景から明らかに浮いてしまっていた。


 何と言うか、付近の風景には十分溶け込めていないのだ。


 そのビルが、その歴史地区で、不思議な目立ち方をする直接的な原因は、もしかしたら・・・。


 ーーー通りに面した建物(ビル)の全面に、紅地(・・)()つの()(くさび)()()んだ()が掲げられていたせいかも知れない。


 うん、確かにそうだ。その旗が示す意味を知れば、誰もが「それはそうだ!」と納得出来て然るべきである。もちろん、西欧と中東の歴史に最低限(あるてど)の知識を持つ者であれば、という条件付きの「然るべき」ではあるが。


 ライト・ブラウンと言う、比較的穏やかな色に包まれたビルの正式名は「パラッツォ・ディ・ジョバンニ」と言った。マルタ島をナポレオンに明け渡した以後、しばらく流浪の身に落ちていた、聖ジョバンニ騎士団という宗教的軍事組織の本部(ヘッド・クオーター)として利用される宮殿として、世界中に散らばっているカソード系キリスト教徒から篤い敬愛の念を捧げられていた。


 その宮殿はローマ市内にありながら、カステル・バチカーヌス市国と同様に、施設そのものが独立国家の領土として取り扱われていた。つまり、イタリアに対して、完全な治外法権が認められているアンタッチャブル・テリトリーだと言う事になる。


 聖ジョバンニ騎士団は中世に行われた大規模棄民政策"十字軍運動"の時代、聖パレスチナ・エルサレム王国建国直後から続く膨大な歴史を誇る、カソード系キリスト教組織だ。現在でも、ローマ市内の宮殿敷地を領有する小国家として存続している。


 そう、聖ジョバンニ騎士団は知る人ぞ知る世界最小クラス"主権国家"だ。騎士団長を国家首相とし、団員を国民とするなど、まるで20世紀後半に日本漫画界を一世風靡した"潜水艦国家"のモデルとしても良いくらいに、国家の条件を満たしていた。また、国際連合へも発言権無しの協力国家として参加し、さらに約100ヵ国との外交関係を維持している。


 その都市国家ならぬ極小国家は、どう考えても中進国以上の政治的な発言力を備えている。もちろん、自力で社会インフラや国防を担うだけの能力(よゆう)は持ち合わせていなかった。だが、一番の友邦国イタリアが、それらの国民の権利と義務の両方を代行(はた)してくれていた。この点までもカステル・バチカーヌス市国と同じだったと言える(いずれもキリスト教系国家と言う点でさえ共通していた)。


 観光客が集まる方の大きく素敵な門で無く、あまり目立たない小さな裏門の方を潜って中に入ると、右手の壁に騎士団の由来を示す、王冠と4つの紅地で区切られた円を讃えた紋章が埋め込まれているのが見える。そして、さらに薄暗い通路を進むと、やがて明るい中庭(パティオ)へと辿り着く。実はそこは駐車場である。辺りをよく見回すと見たことも無いナンバーを掲げた自動車がたくさん駐車されている。


 そのパティオから空を見上げると、実はジョバンニ宮殿が四階建てである事にに気付かされる。許可無く進めるのはそこまでだ。何故なら、そこはすでにイタリアの法の力が及ばない他国であるからだ。


 そこから見える窓のある一室で、このやり取りがたった今、行われている。


 宮殿内のマーブルで覆われた床の上、さして大きくない部屋の中、窓際に立つ誰かに向かって、誰かが興奮した様子で吉事を性急に訴えていた。


「キリストの敵が死にました! ハレルヤ!」

「そうか・・・」


「奴は所詮、不滅の魂を持たない悪魔の使徒であった事が証明されました! 不滅の魂を持つ我等が神の栄光を穢す事は適わなかったと言う訳です!」

「そうだな」


「この地上にある人類の罪がまた一つ浄化されました。奴の魂は煉獄へ落ち、永遠の拷問に苦しめられるでしょう! 何と今日は素晴らしい日か!」

「ああ」


「これでやっと東洋の小狡い猿共も、明らかな神の勝利を目前にしてその見窄らしい膝を屈す事でしょう!」

「・・・」


福音伝達者(エヴァンジェリト)として、他所にもこの朗報を伝えに行かねばなりません。もっと長く、この神の奇跡の喜びを分かち合いたいのですが・・・失礼します。実に名残り惜しいのですが」

「ああ、そうだな。私も実に残念だ」


 騒がしい、瞳孔が不用意に開きっぱなしで、まるでヤバイ薬でもキメてからここにやって来たんじゃないか? と疑いたくなる壮年の男性が、さらに妖しくスキップしながら部屋から退出した。


 もしかしたら、普段は口数の少ない寡黙で知的な紳士なのかも知れない。何か心が躍る程に良い知らせでも受けて、頭の天辺から爪先までが興奮に包まれてしまい、今だけはもうどうにもならない位の激しい躁状態にあるに違いない。


 だから、明日の朝までに今見た出来事は忘れてしまおう。突然に静かになった部屋に残された、今一つ興奮し(づら)そうな性向を持つ老人は、そう決断した。


 彼は、その直後から突然に、ピントが十分に定まらない黒い瞳に苛つくかの様に、目を繰り返し(しばた)かせ始めた。


 ーーー疲れた、と彼は思った。


 心底から湧き上がって来た、隠し様のない本音だった。


「バチカーヌスの人材が優秀な事は疑いないが・・・授けられた知識を疑う価値観と言うものを持ち合わせてはいないものだろうか?」


 老人以外には誰もいないと思われていた部屋の中から声が帰って来た。


「それは我々と違って苦難の歴史を持たずに、正しさだけを永遠に追求出来るめぐまれた環境に裏付けられた文化を持つ者達が独占する特権では?」


 実はそこにもう一人いたのだ。ただし、まったく気配がしなかった。声を発した後でも、同様に存在感が極めて希薄だった。


「そうだな。敗戦の歴史も、引き上げの歴史も、流浪の歴史も、没落の歴史も、慈悲を受けるまで身を貶める経験も持たない無傷の価値観か。美しいな」

「しかし、純白のシーツであっても誰一人身体を休める者のいない事が前提のベッドに敷かれ続けると言うのは、美しくあっても無駄が過ぎませんか?」


「おいおい。それは穏やかではない。猊下に声が届けば破門されて地獄落ちになるぞ」


 地獄落ち、それはキリスト者にして見れば何よりも恐れるべき最悪の運命である筈だ。しかし、その存在感の薄い若者はあまりそれを恐れてはいない様だった。


「いえいえ。先ほどの様な正しい白痴(ばくち)ばかりが集められた天国とか言う楽園には特段の興味はないんです」

「お前はやはり・・・そこまでしてもあの女に会ってみたいか?」


「ええ。生前には適いませんでしたが。もし、死後に彼女と10分立ち話が出来るとの確約があるなら、地獄落ちも(やぶさ)かではありません」

「言の葉に乗せることも(はばか)る・・・」


 若者は老人の言葉を遮った。


「しかし、何故、我々は彼女を忌み嫌い、呪わなければならないのですか?」


 それを耳にして老人は笑った。


「教会としての統一見解は遥か昔に表明されている筈だ。それを読み直すが良い」


 若者は吹き出した。


「いえ、私は"もし、悪魔の使徒ならばどの様な見解を持つのか?"と言う仮定の話を伺いたいのです。私の様な若輩に、悪魔のやり口が如何なるものかをご教授願えないものでしょうか?」


 老人は初めて若者を見据えた。そして、この者であれば、もしかしたら自分が長いこと秘めて来た本音の価値を共有してくれるのではないか、と言う可能性に賭けてみたいと言う誘惑に駆られた。そして、敢えて悪魔の(ゆうわく)きに屈してみる事にした。人生、何事も経験であるからだ。仮に、余命幾ばくもない老人であっても、それは真理だ。もちろん、神学的にでなく、哲学的に、ではあるが。


「もし、キリストが再び復活された時、我等使徒は御子が目前に現れた時、直ちにそれを知る事は出来ると思うか?」

「歴史的には、教会組織トップによる承認が不可欠です。その承認は精霊が猊下(ひつじつかい)預言(ウィスパー)すると言う建前です。実際は、天の父を手を煩わせないために枢機卿会議、またはそこにさらに大司教を加えたコンクラーペ以上に規模の大きな封印会議が不可欠かと」


「そうだ。権威による承認のない復活は、それが御子であっても許さないと言うのは教会の方針だ。スペインの影響力が強かった時代なら、折角復活してくれた御子は直ちに火炙りにされて、地上滞在の最短記録を達成して天の父の元へ帰還される事になるだろう」

「そこに神の奇跡が起こって、火炙り直前に教会が悔い改めると言う可能性はありません?」


「過去に一度でもそんな事が起こっていれば、新教との分岐など起こらなかったろう」

「自らのために奇跡を示さない謙虚さが悪い方に働いていますね」

「それは飽くまで人の間違いだ。間違うのは常に人の側なのだよ」


 老人は疲れたのか、金糸で鮮やかに彩られた背もたれのある、見栄えの良い代わりに、座り心地が悪そうな椅子に腰を掛けた。


「ジャンヌ・ダルクは教会による承認が遅れた聖人だった」

「それがために火炙りですか。百年戦争の時代の英雄を21世紀になってやっと再評価を行なうなんて、無謬性を謳う我等にしては手抜かりが酷いですね」


「神が与えてくれる試練とはそう言うものだ」

「ジル・ド・レの前でそれを言う勇気はありますか?」


 老人は笑った。


「教会は判断するだけだ。告げる者は下位の者だ。上位の者は下位の者の犠牲は尊いと一言発すればそれは美談となる」

「私は御免被りますよ」


「人は何故、ジャンヌ・ダルクを聖女として認めたのだろうな? ただ、"預言"を受けたと自己申告しただけだと言うのに」

「シャルル王太子の代役を偽物と見破った奇跡によってでは?」


「いや、ならば、人は何故納得して、シャルル王太子の影武者への謁見を許したのか? ただの汚い、心の病が疑われていた田舎少女にそれほどの特権を与えたのだ?」


「それは、聖者に相応しい印象を人々に与える何かを体現していたからでは?」

「そうだ!」


 老人は満面の笑みを表した。若者は老人の期待を裏切らなかった。老人は、若者を重大な犯罪の共犯者に仕立て上げる事に成功する寸前まで漕ぎ着けた。


「印象操作だよ」

「ジャンヌ・ダルクがソ連時代の工作員の様に特殊な印象誘導技術を習得していたと?」


「違う。印象誘導技術とは研究室の中で仮説を研ぎ澄ませる事で生まれた技で無く、実際にそれを行使する無邪気な悪魔の振る舞いを真横から観察し続ける事で成立した自然科学の分野の一つなのだ」

「抽象的知識や理論的知識ではないと? ジャンヌ・ダルクが無邪気な悪魔だったと?」


「そうだ。観測がもたらした知識体系と言う意味で。もっとも、あの歴史的少女の事を悪魔と断言するのはやりすぎかも知れない。しかし、無邪気に天賦の才を凡人に披露し過ぎたのは事実だろう。それで(うら)まれ、(うと)まれた。その結果の薪身(ひあぶり)だ。稀に、生まれ付き凡人には思いも付かない様に高度な技を与えられて生まれてくる者がいる。それが天才、ギフテッドだ」

「努力皆無で、その非凡な才を生来獲得している、ですか」


「そして、実はその才能は天才者にではなく我々凡人へのギフトなのだ」

「訳が分かりません」


「我々凡人は天才者が駆使する技を観察して、解析して、応用する知恵なら持ち合わせている。神は我々にそれを学べ、と天才を介してその技を広めようとされているのだ」

「なるほど。オーバーテクノロジー、作動理論は解らなくても使い方さえ理解出来れば理由は出来ると。しかし、それでは天才とは生け贄に等しい・・・」


「天才はすぐに死ぬ。しかし、凡人は長生きしする。だから凡人でも研究の些事に10年かければ、天才が見せた技の末端くらいの理屈は解明出来る。そうすれば、技を再現する何らかの方法を追い求めて、最後には応用への道筋をつける。


 必要なのはきっかけだ。まさに中世に錬金術師達が訳も分からず薬品を作り出し、掛け合わせてこの世界の仕組みを解いていったかの様に、解明された知恵は爆発的に広まる」


「時に研究室内で物理的な大爆発を起こして、自らを殺してしまってもですか?」

「そうだ。どうせ後継者がどこからともなく現れて、技術は継承される。そして、爆発の原因もやがて突き止め、それすら利用する賢い愚者が現れる」


「しかし、これが先日大往生した"キリストの敵"を貶める理屈にどの様に通じるのかさっぱりです」

「そうだろうな」


 老人は、仕込みは終わったとばかりに、どう見ても悪人にしか見えない笑みを浮かべた。若者もそれを見て、妙な気分になった。自分は、気が付かないうちに智の牢獄に囚われてしまっているのではないかと不安になった。


「印象誘導技術。これは毒になる事が多く、滅多に薬にはならない」

「両刃の剣なら、道具は使い様ではないのですか?」


「我々の歴史を見れば解る。十字軍、特にパレスチナでなく東欧へ行った方だ。王公、王侯、兵、信徒達は敵は悪魔と信じて、正義を体現していると信じて、血のスープを作り続けた。そして、敵もまた我々を悪魔と信じて身を守るために血のスープに入れる具を刻んで継ぎ足して行った。共に同じ神を信じる者同士だと言うのにだ!」

「印象誘導技術は大規模な運動(キャンペーン)には不可欠で、大規模な運動(キャンペーン)は愚行に転じ易いと言う話ですか?」


「いや、印象誘導技術には認識世界を一新させる可能性に満ちていると言う事だ。それ以上でもそれ以下でもない・・・筈なんだが」

「実際は違うと?」


 老人は目を閉じた。呼吸を整える。ここで焦ってはいけない。すべての準備が台無しになる。


「"萌え誘導技術"とサイボーグ身体の融合。我々が"キリストの敵"として認定した本音はそれに対するヒステリーだよ」

「?」


「ジャンヌ・ダルクは聖女に過ぎなかったから彼女が持ち合わせていたと推測される印象誘導技術をすべて解析されても問題はない。それは時間をかけて人がやがては手にする程度の技だ。だが、しかし、もし、復活したキリストが使徒に訴えかける"自分は御子"だと言うメッセージ性の強い印象誘導技術の解析に成功してしまった暁にはどうなる? しかも、御子の復活前に偶然にそれを成し遂げてしまったなら・・・」

「!」


「想像出来たか? 答えてみよ」


 若者は視線を泳がせる。自らが思い付いてしまった可能性の恐ろしさに不安を覚えていた。


「解ったようだな」

「はい。それは"御子"であって"御子"でない。それでも"御子"の量産、乱立を招きます。本物であるかどうかは関係ない。偽物であっても本物であると、認識させる事が出来るのだから・・・」


「そうだ。世界中で"御子"が乱立する。それぞれのカルトがそれぞれの"御子"を手中にして、多くの良き信徒(ひつじ)達を迷わせる。神と言うのは歴史的に見て、概ねメリットの多い発明だった。しかし、そう言う良き時代が幕を閉じる」

「想像することも憚られる。そんな事は実現可能なのですか?」


「想像も憚るとは、答えは既に得ただろう。世界宗教の歴史では"偶像崇拝"を禁止する例は多い。それは始祖よりも神らしい外観の像の創造を禁じた、という側面あるとは考えられぬか?」

「ブッダ像の起源は"足形"と聞いた事があります」


「"神々しい足形"とか言う"創造の概念"を、芸術家とか言う厄介や奴らが具現化(さんじげんしょうかん)出来れば、人はそこに神を感じる。感じずには居られない。そんな誘惑には勝ち得ない。例え、そこに神は居なくても、だ」

「最後に来るのは、"仮に世界に神が居なくても"、と言う到達点ですか? ありふれて珍しくも無くなった神性に慣れ過ぎて、最後に先達は、羊飼いも、羊の生みの親の恩も忘れて、そう言う考えに至ると?」


 老人が若者の柔軟な思考に満足した。自分も、昔はそれほどに自由な発想を持っていたと、遥か昔を懐かしんだ。


「頭の回転が速いのも良い事ばかりではないな。考え過ぎだ。脱線したな」

「すみません。奔りすぎました」


「良い。構わんよ。続けよう」

「はい」


「ただの像であったなら、その"神性"は所有者の意志を経由して発揮される。その程度の純粋なものであれば懸念程度で済む。適当に褒め殺して博物館にでも押し込めておけば、即無害認定完了だ」

「はい」


「しかし、もし、その神性を宿した像に人の意志が宿ったならば、それほどに不純なものであれば、(クリアーで)ちに現実的(プレゼントな)危機(デンジャラス)となる」


「しかし・・・それほどの技を人の身で表現・体現出来るものなのですか?」


 老人は若者に、物語の核心となる残念な事実を伝える段階に達したと知った。


「もし、それが日本のサイボーグ"擬体(ぎたい)"であったならどうだろう? もし、お前が会いたがっていた"キリストの敵"、朝霧和紗氏が技術を手中に収めて体現したとしたら・・・」

「朝霧和紗氏が"キリストの敵"から"キリスト"にジョブチェンジすると?」

「あの女にそんな気があるかどうかは知らない。しかし、それが出来る可能性があると我々が思い付いてしまった事、その事実が最大の脅威となるのだ。本人の意志の有無や方向性など二の次だ。脅威ではなく危機だ。ピグマリオンの像にピグマリオンが宿る・・・。キプロス王ピグマリオンを救うためだけに女神アフロディーテが即興(インスタントに)で作ったガラリアの魂でなく、ガラリアを彫り上げた彫刻家としてのピグマリオンの魂が、だ」


「!(絶句)」

「"可愛いは作れる"と言う。これはどうやら今世紀初頭に日本から世界に広まった概念らしい。おそらく、朝霧和紗と言う個性を生み出す素養があの国にはあるのだ。それはつまり、あの女が死んでも、我々が言う所の第二、第三の"キリストの敵"とやらが次々と、無限に発生する可能性が高いのだ」


「身体代替システムを駆使した"御子"を体現する仕草の誘導(ガイド)、出来ると思いますか?」

「私の知性は無理だと結論付けている。しかし・・・」


「しかし?」

「朝霧和紗氏の"擬体"が初めて世界に紹介された時、あの"萌え誘導技術"を目にした記憶がある限り、その恐怖は払拭出来そうにない」


「?」

「我々は揃って朝霧和紗氏の"擬体"に"萌えた"のだ。恐ろしい事に、一瞬、そこに"御子"の復活の光景を重ねてしまったのだ」


「!」

「恥を忍んで告白しよう。ピグマリオンは神に祈ってガラティアを人間にした。我々は朝霧和紗に祈って"御子"を手に入れる誘惑に駆られる日が来かねないのだ。これほどに恐ろしい未来がありえるか?」


「精神汚染・・・」

「その通り。我々はあの女のニュースに触れる度に、自らの恥を自覚する。そして、将来に訪れるかも知れない信仰の崩壊を予感するのだ」


「果たして"御子"の摸倣など、本物を見ること無く可能なのでしょうか?」

「あの者達には"神懸かり"と言う手段による、人の理を超える何かと交流する技術(すべ)があるのだ。また、朝霧和紗氏は"神懸かり"を実際に経験した巫女上がりの研究者である事も忘れてはいけない。神を摸倣するための、何かしらの重大要素を実体験を通じて獲得している可能性もあるのだ」


 若者は、老人が本気で感じている恐怖を実感する事が出来なかった。しかし、それは本物の朝霧和紗氏を目にした事がない故の余裕である可能性も否定し切れなかった。それにしても、サイボーグであれ、生身の人間であれ、何かに萌えるとはどの様な衝動なのか、さっぱり解らなかった。


 若者は、それを自らの経験不足(わかさゆえのごうまん)にあると、結論を出した。続いて、ソクラテスが唱えた「無知の知」と言う概念を思い出して、自らを戒めさえもした。最後に、老人が口にした萌えと言う道の衝動を自ら体験してみたいと、強く欲している自身に気付いた。そのせいか、一つ、老人に対して一つの不躾な疑問を投げかけずにはいられなくなった。


「それで、今でも萌え続けていらっしゃるのですか?」

「いや、あの当時の萌え誘導技術は未熟であった事から、精神支配から脱する事が出来た。幸運な事にだ。しかし、しかし・・・! あの技術がさらに進歩した未来、再び魅せられてしまったら・・・もう一度も支配から脱する事が出来るという保証は何処にもないのだ」


「恐ろしい。本当に恐ろしいですね。それは神限定に技に留めておくべきでしょう。危険過ぎます」


 老人はその答えを待っていた。そこでたたみ込みに入った。最後の仕上げである。


「しかし、我々の歴史はそんな危機を幾度も体験している」

「そうなんですか?」


「ティベレ川の底から引き上げられたローマ・ギリシャ彫刻を初めて目にした時、ルネッサンス期にそれらに負けない彫刻を自ら作れる様になった時、コンスタンティノープルが陥落して東から新しい様式を取り入れた教会建築が適った時、産業革命直後に日本から写楽など手による美人画が西欧に初めて届いた時、インターネット時代になってグッドスマイリー社の粘土人形のアフィ広告に初めて触れた時、祖先も、我々も等しく魂の隙を突かれて、不覚にも萌えてしまったのだ。神の使徒たるべき我等が、無から生じたリビドーの捌け口を何処かに求めずにいられなくなったのだ。あれらはそれほどに、衝撃的なほどに素晴らしく恐ろしかった。不慣れな萌えは危険だ。人を気狂いに駆り立てる。お前もせいぜい気をつける事だ。」

「日本の人形(フィギュア)の造形師をミケランジェロと同じ舞台に引き上げるとは大胆ですね」


 老人は再び目を閉じた。


「若者には解らんかも知れんが・・・金銭的な価値から解脱して、本質だけを問う様になるとそうなる。一般常識に囚われると価値観を狭めてしまう。絶対的真実(われわれのしるかみのせいぎ)絶対(まちがいなく)不在(まちがいである)と知れ。その上で、自分が一体何を感じているのか、それに真摯に向き合って、自分の意外性に怯むこと無くそれを受け入れろ。さすればお前は私が達する事の出来なかった高みへと到達出来るだろう」

「その様に努力します」


「そうか。私は少し休憩する事にするよ。fede(フェーデ)・・・」

卿下(グランマエストロ)、それでは私は退出させていただきます」


 老人は何も答えなかった。椅子に座ったままうたた寝を始めたと思って、若者はそっと膝掛けをしてから、跪いて手の甲にキスを捧げて、振り返りながら静かに退出して行った。


 老人は実はまだ眠っていなかった。夢に落ちる手前で、微睡みながら、考え事をしていた。


 実は、彼は朝霧和紗との密かなコンタクト・ルートを持っていた。彼は"キリストの敵"が後継者をやっと見付けられた事を、本人から直接に伝えられていた。


 彼はそれを知った時、激しい嫉妬に襲われていた。聖職者である彼は、子宮を失っていた朝霧和紗を、共に子孫を残せない同志であると感じ、密かに連帯感を持っていた。だから、それを知った時は、一方的に裏切りにあったかの様な錯覚に陥ってしまった。そう、思わず床に伏せってしまう程にだ。


 しかし、彼はたった今、朝霧和紗と同じ手段で自らのmeme(ミーム)を伝えた後継者を作り上げる事に成功した。子孫と言うものは、決して遺伝子情報の伝達の結果物を示すだけの概念ではない。社会に於ける様々な革新情報を人から人へコピーする手段を思い付いて、それらを実行する事も含まれるのだ。それは知恵ではなく、むしろ価値観に近い。世代を超えて脳内から脳内へと受け継がれて来た"情報(ミーム)"を、途絶えさせること無く次世代に引き継がせ、そこからさらに進化させ続ける可能性を構築する事こそ、ある種の人々にとっては、自らの血統を後世に残す事以上に重要なのだ。


 そして、彼が見込んだ若者ならば、いつか自分達が犯した罪の本質に気が付いてくれると信じた。何故なら、この若者が自分と同じ道を歩くと言うなら、同じ(てつ)を踏まずにいられないだろう事は、彼には明白だったからだ。


 高度に発達した知的好奇心から発生するリビドーは、誰にも抑えられないものなのだ。


 それに、"可愛い"が作れるなら、"御子(かみ)"を制作出来ても不思議ではない。多くの人は神を"美しい存在"と捉えている。しかし、それは、もしかしたら誤解なのかも知れない。まさかとは思うが、神が"可愛い存在"である可能性も、十分に検討して見るべきかも知れない。


 老人を含む彼らは"あの会見(朝霧和紗降臨)の直後"に、その技術を利用出来れば(手中に収められれば)、恐れ多いことに、自らが、何よりも愛して止まない"御子"となれる可能性、または"御子"に自らが宿ったサイボーク体を捧げる事で、"御子"を独占するという、意地汚い夢の実現の可能性を思い付いてしまった事を。それこそが罪だった。人が抱える原罪そのものだった。


 考えてもみよ! 自分が羊を束ねる羊使いになる事を飛び越えて、雲の上の存在である筈の羊使いを一方的に支配出来る尊い可能性を、と。実は、彼自身はそれを思い付いてしまった罪が原因で、天国の門を潜れずに地獄落ちする死後をすでに覚悟していた。しかし、と・・・ばかりに、さらにその先まで考えを進めていた。地獄にはきっと朝霧和紗がいる。60年も待たずにFedeと呼んだ若者も到着するだろう。そうすれば楽しい、真理の探索へ共に旅立てるかも知れない、とも。


 その後、カステル・バチカーヌス市国は、朝霧和紗の死に対して何ら談話を出す様な事はしなかった。生前は朝霧和紗の活動に対して、事ある事に噛み付いていたのだが、その死に因ってこれ以上に脅威となる事はないと知ったのかも知れない。


 または、実はあの時に萌えを感じた者達は、揃って超弩級の喪失感に囚われて何らのアクションを取る事も出来なかったのかも知れない。


 ただ、7月なってから、パラッツォ・ディ・ジョバンニの壁には「散りぬべき 時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と言う意味のラテン語が1日だけ飾られた。


 後年の記録よれば、それは慶長5年7月17日に、西日本の大阪で殉教した細川ガラシャという女性を偲んだものだったらしい。なお、誰の指示で行われたのかだけは、克明に記される事が多い「記録」にも残されていない。

※Fede(読み方:フェーデ)。男性名であるFederico(読み方:フェデリーコ)の愛称。短縮名。また、イタリア語における信仰(しんこう)を意味する名詞でもある。

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