2037年6月18日(木)、AM11:25、東京都葛飾区柴又、矢切の渡し・葛飾側桟橋
すると、運転手さんはナビをセットすること無く、ありえない程クネクネした道を通過して、寅さん記念館の所で、ヘアピン・カーブして土手の道へと入った。土手を越えて河川敷に。少し上流に走った後で、左手に土手を降りる階段のある所で停車した。
「こちら、菖蒲池、または矢切の渡しとなっています。よろしいですか?」
私は「怪しいなあ」と思いながら「もちろんです」と答えて、ICカードのSuicaを差し出した。支払いはすぐに終了した。ナヲちゃんも何も言わないので、多分、ここで正解なんだ。
タクシーは来た道を戻って行った。私達は、と言うか、ナヲちゃんが私の手を引っ張って前を歩く。行き先は矢切の渡しの様だ。作家の伊藤左千夫の代表
作とされる「野菊の墓」の舞台であり、 さらに20世紀のヒット曲「矢切の渡し」で有名になったこの場所は十分に有名な観光地だ。
看板を見ると、運行時間は10時00分~16時00分と書かれているが、本日臨時休業いう書き殴ったチラシも張られている。それを見つけたナヲちゃはチラシを剥ぎ取って、丸めてゴミ箱の中に入れた。
「良いの?」と私が不安気に尋ねると「うん」と答えた。
「私達が通過した後は、しばらくしたら通常運行に戻る。しばらくしたらね」
どうやら、誰かが裏で手を回して周到に準備している様だ。船着き場へ進むと、手漕ぎボートが止められていた。ナヲちゃんと私が乗り込むと、船頭さんは何も言わずに、両腕でオールを漕いで、ボートを対岸に向けて離岸した。岸から10mも離れた頃、土手の道からタクシーや走って来る複数の人影が見えた。
船頭さんがそれを察すると、手漕ぎを止めて、おもむろに一本のロープを力強く引っ張った。すると何処に付いていたのか船外機の音が聞こえる。そして、さっきの牧歌的な感じとはぜんぜん違う、すごい速度で進み始めた。
何これすごい。と言うのが正直な感想だ。ナヲちゃんは空を見ている。梅雨入りしているので、空はどんより雲。雨でも降るのを心配してるのだろうか。そう言えば傘持って来てないな。身軽なのを優先したから。
葛飾側の船着き場の方では、何だか騒がしくなっている様だ。しかし、ボートはすべて松戸側に集められてしまっているので、私達の後を追う手段は残されてはいない。
あ、誰かが川に飛び込んだ。泳いで追う気なの?
ナヲちゃんも船頭さんそんな事は気にも留めず、早々に葛飾側の船着き場の桟橋に降りたってしまった。本当なら、観光地の野菊の墓縁の何かに寄って行くべきなんだろうけど、対岸の火事を見せつけられた今はそんな気分になれない。
しかし、この周辺。ただの住宅地で何もない。交通手段ない。多分、矢切の渡しは葛飾側で乗って、また葛飾側へ戻るという往復ツアーが前提なのだろう。
とにかく幹線まで歩くしか無いか、と覚悟すると、野菊の蔵なる建物の広大な車両転回所(?)に何処かで見た赤いスポーツカーが停車している。あれは、百合子さんのガゼールとか言う車だ。
ナヲちゃんはその車を目指す。久しぶりにお姿を拝見する、朝間家のお手伝いさん・百合子さんだ。車の中から出て来て、助手席の背もたれのレバーを引いて、後部座席に入れる様にしてくれた(2ドア・クーペなので、後部座席に直接乗り込める専用ドアがない)。
ナヲちゃん無言。百合子さんも無言。私、開いた口塞がらずにやっぱり声出せない。
乗り込んでドアを締めた後で、ナヲちゃんが「埼玉県三郷市高州3丁目・・・って何があるんですか?」と百合子さんに問いかけた。
「三郷公園」
百合子さんはまた無言に戻った。何だか、普段と雰囲気が違う。だから、私は口を挟まない事にした。




