2037年6月14日、PM11:45、茨城県鉾田市、万条菖蒲の日記帳の最新ページの上
物語に登場するカップルと言うものは大抵の場合は、賢いけれど判断力に劣るキャラと賢くないけれど判断力に優れるキャラの組み合わせが多い。例えば、道徳に雁字搦めに縛られて臨機応変に事態に対応出来ない学級委員長の女子と常識にまったく囚われない対処方法で次々とトラブルを解決して行く奔放過ぎる不良の男子、などと言う組み合わせがお決まりのカップリングだ。
どう言うわけか、賢くないキャラが賢いキャラの目の前で、極めて限定的なシチュエーションでのみ有効な、応用性など微塵も無さそうな手段で、目前に迫った難題の解決を繰り返す事で、飛びっ切りにセンセーショナルな体験を共有するのが、恋の自覚のイニシエーションとしては定番イベントらしい。
大抵の場合、それは自覚の追認に過ぎない。つまり、恋はすでにその段階ではすでに始まっていたわけで、それを互いに事後承諾することで何らかの新展開を迎えることになるらしい。
ふしだらな表現をするなら、そうやって二人して「一線を越える」のだ。
無自覚だった何かを自覚するのに必要な手続きとも言える。一応、この段取りは物語の進行上の演出としてどうしても無視できない王道らしい。
この流れから導き出される解は、そんな無茶なイベントが有ろうが無かろうが、どちらにせよ2人は恋に目覚めたに違いないと言うこと。イニシエーションまたはイベントは、その自覚・発覚の時期をやや早めたに過ぎない。と言うか・・・弁解とか言い訳みたいなもの。
もしかしたら、賢くないキャラが賢いキャラの窮地を救う事に失敗して、優秀性を示せなかったとしても何だかんだと理由を付けて、恋を強引に始めてしまった可能性についても検討に値するルートの一つかも知れない。蓼食う虫も好き好き、なんだろうな。
ここで、一つの変則的なカップルがいるとする。もし、賢くないキャラが賢いキャラが出会った後に、双方が異なる方向に賢いキャラへと育ってしまった場合、その恋は引き続き進展するのだろうか? 発展的解消とか言う、袋小路に陥ってしまったりしないのだろうか? どちらかが一方的な譲歩を常に引き出されるのが、委員長と不良の恋の鉄則だ。何故かと言えば恋するが故に。多少の理不尽は恋を加速させる上では必須のスパイスとなるらしい。しかし、互いが譲歩を必要としない場合、そこに定期的な理不尽が生じる事はなくなる。それだと、恋を燃え上がらせる要素不足に陥りはしないのだろうか?
恋の方程式の証明は可能だろうか? 例えば、
恋の強さ=(二人の共有する経験時間×一方的な譲歩の回数)/(二人の期末試験の合計点数の差^2)+二人の年齢差
こんな感じで。二次関数風に。いや、素数とかも利用すべきだろか?
私は今、あの2人の事を考えている。最初は、物語に登場する、"お約束テンプレート"を充分に纏い付くした、絶好の組み合わせだと感じていた(それもあり得ないレベルで)。上手くかみ合っているようでかみ合ってない所が微笑ましく、見ている様としてもついつい、助けてあげたり、守ってあげたりしたくなってしまう、不思議なカップルだった。
だった。そう、だった、だ。それはすでに過去形だ。別に2人が別れたと言うわけでは無い。ただ、去年に私を和ませてくれた、あの・・・女子力高過ぎの、ほんわかしていて、可愛気で、的外れで、でもそこが良いという雰囲気が失われてしまったのだ。
朝間ナヲミも、森葉子も、互いを寄り深く知り、更に一歩踏み込んだ”視界”と"価値観"の共有を求める様になった。そうなると互いにそれまでは見えてないかった部分が目につき始めてそれを、互いにそれに対する嫌悪感を意識して、一緒にいるのが辛くなったりしてはいないのだろうか?
二人の間に嫌悪感が有るのか無いのかは分からない。それでも二人の深い関係は継続中だ。だからと言ってその関係が何も変わっていないと言う訳でも無さそうだ。と言うか、もしかしたらだけれど、その関係が量から質へ、つまり、以前よりももっと高次な共存関係へと移行しつつあるのかも知れない。
そこまで達すれば、関係は恋ではなく、すでに愛へと・・・つまり、次の段階へと進んでいるんじゃないだろうか?
私、万条菖蒲は、まだ恋すら知らない。だから愛を知るなどもっての他だ。他人との深い共感なんてとても出来そうにない(妹のマヤとアイは他人じゃないから)。
だから、私が恋愛を語るには、歴史という過去に蓄えられた膨大なデータの助けが不可欠だ。過去の経験者達による膨大な活動記録を精査しながら、上手に推論するしか手がない素人だ。
もっとも、恋は盲目と言う見解には古今東西の賢者達が共感を示しているので、理解して状況を整理して、分析して、結論を導き出すにはあくまでも部外者である方が有利である可能性も捨て切れない。
2037年1月に発生した「会津大震災」は多くの人の運命を良くも悪くも加速させた。多くの場合、悪い方向に加速させたので、何とかギリギリ保たれていた均衡を一斉に破綻させた。それが更に交互連鎖的に働いて、社会的な活力までが奪われてしまった。
被害の程は「学校が無くなった」程度の話ではない。街そのものが消滅してしまったのだ。その表現には語弊があるかも知れない。しかし、経済活動基盤を支えるインフラと言う見地では、外からの援助無しでは人間が継続的に活きていけなくなった会津地方は、あの震災で一度死んだと言える。そして、今はまだ死体のままだ。
しかし、救いはある。街は人と違って「復活の呪文」が効くのだ。死んでも生き返る。何度でも復活する。セーブした時点からのやり直しは無理だが(そもそもセーブコマンドは実装されていない)。ただし、その呪文を正しく唱える事は易しい事ではない。過去に、多くの聖職者や魔術師などのジョブを選択した賢者達が挑戦を試みているが、成功率はとても低い。
私の父は、今それに取りかかっている。家族と別れて、瓦礫の海にたった一人になっても残る選択をして、運命に必死に抗うべく、ひらすら奔走を繰り返している。その姿は、娘である私から見ても「風車に突撃するドン・キホーテ」の後ろ姿に思える。しかし、私は出来ると信じている。何故なら、会津には明治政府が立ち上げられて以後、中央政府の甘言をはね飛ばして独自路線を取り続け来た経験があるからだ。
かつて、皇室から賜った錦の旗を手にして戦い、その後に逆賊と貶められた怨嗟は、その後の中央政府からの嫌がらせを撥ね除け、社会を再建させる原動力となった。
だから、私は父を真似て、まずは私立会津高校の再建に取りかかる事に決めた。そのために、会津から遠く離れた小美玉までやって来た。
何をするにも、先立つモノの用立てが一番大切だ。すぐれた理想や指導力も、それなしでは無意味だ。資金調達の方では、とても十分とは言えないまでも、それを見せ金にして中通りの信用金庫組合または大手都市銀からの融資を引き出せるところまでは漕ぎ着けた。
後は、両候補を競わせて手数料と利子の軽減交渉に努めれば良い。それは、選ばれる方から選ぶ方へと我々の立場が突然に入れ替わった瞬間でもあった。もしできれば税務署に、去年支払った税金の還付を求める交渉の席も作りたい。税金の取り立て人だって、将来的に安定して支払ってくれる組織の増加は歓迎してくれるはずだ。ちょっとした投資で、今後取り立て金額ゼロになるのを避けられるかも知れないのだ。だから、とにかく、お金だ。キレイでも汚くてもどっちでも構わない。
ただし、私達生徒が時給いくらで稼げる金額とは桁の違う金額の調達なのだ。それを忘れてはならない。
そして、それは大人には難しい集金事業だ。傷心で哀れな女子高生が、その身を憂うこと無く、まず世間に対して学校再建の資金を無心して回るのが最も効果的だ。
こんな事をしている自分は、やっぱり客観的に見て「情けない」と思う。しかし、大人がそれをやっても、先立つものを急ぎ用立てる事はできないのだ。何故なら、見る者に訴える強いドラマ性は、第二次性徴期を境に失われるからだ。
そういう意味でこの集金方法にも、役者が私独りしかいない様ならば、明らかにタイムリミットがある。せいぜいあと二年と言う所だろう。だから成果を急がなくてはならない。
正直、将来に度々自分で目にすることになるだろう、陳情風景を伝える記録写真に写っている自分の姿を想像すると情けなさが極まる。乞食をしている自分の姿を客観的に見せつけられて喜ぶ者は、特殊な性癖を持つ者以外にはいないと思う。しかし、他の人は代わりにやってくれないから、自分でやるしかない。
資金調達の好転には、先日帰国したハリー・ブライアント先生が背負って来てくれた援助金の貢献が大きい。先日、国際送金の完了が通知された。その額を見て、私は久しぶりに虫眼鏡を引き出しから取り出して、想定外に多く並んだ「0」の数を繰り返し数えてしまった。しかし、それに間違いは無かった。
大口の入金を確認した郡山の信用金庫組合は、今後も同種の入金を期待出来るとして、融資に対して「色良い返事」をしてくれた。突然に、だ。
そして、一連の不可解な出来事の流れには、どう考えて朝間ナヲミのというキャラの存在感が影響しているとしか思えない。本人はそんな事を、どこまで認識しているのか判らない。
特に震災以降の彼女であれば気付いていない筈はないだろう。しかし、それでも無言で私の計画を知ってか知らずか、手伝ってくれている。その真意はちょっと計り知れない。
震災以降、森葉子の様子も一変した。再会した時は別人かと思った。以前は、良く言えば奔放、悪く言えば状況を深くえぐって考える事のない、年相応の可愛い女の子に過ぎなかった。だから、友達としては好きだったが、とても社会戦略上のコマとして重要視する必要があるキャラではなかった。
しかし、どうだ。私が病院で見た彼女は、過去の森葉子と同一人物とは思えないほどの胆力を発揮していた。
震災後に柳津の病院で偶然に再会した彼女は、文字通り血の海の上に立っていた。震災で大怪我を追った人の生身を治療する準備として、爆発や感電の可能性のある義手や義足を激痛で暴れる患者を抑えつけながら取り外ししていた。作業を終えた彼女はかなりの返り血を浴びて、それでも外し終えた数本の義肢を両腕を抱えて処理箱へ運ぼうとしていた。
普通の人ならば目を背けるほどに凄惨な光景を両目で見据えて、その場で自分だけが出来る行動に徹する姿を見せられて、私は雷に打たれたようなショックを受けた。私はそれまで知っていた友人の知らなかった一面を知った事にショックを受けたのではない。私自身が、その時、するべき事を、まだ何もしていないと自覚したからショックを受けたのだ。
賢いと自惚れていた自分の拙さを、最も理解し易い形で示される事で、初めて恥じる事を学んだのだ。おかげで、私は自らを取り戻す事が出来た。そして、瓦礫と化した学校を何が何でも再建するという確かな目標を立てられた。
そう、今の私があるのは、すべて森葉子の御陰なのだ。その時から、私は彼女に感謝と尊敬の念を持つに至った。一つ借りを作ってしまったのだ。恥ずかしいから、本人にそれを告げる事はまだ出来ていないけれど。
朝間ナヲミにしてもそうだ。以前は才走り過ぎる気配が強かったのに、今では状況に応じて退いて見せる柔軟性を獲得している。ちょっと会わない間に、一体何を経験したのだろう?
もし、可能であるなら、我が儘が通るのなら、私は生まれて初めて自分の背後の守りを任せたい。もし、彼女が生徒会に入ってくれるなら・・・と考えずにはいられない。
しかし、それは夢想の域を出ない。何故なら、朝間ナヲミの背後を守っているのは森葉子であり、逆もまた然り。私が付け入る隙などなさそうだ。そんな彼らの間に割って入ろうとするヤツが現れるなら、犬に喰われるか、地獄の業火で焼かれる事になる。と思う。
他方から耳にした話に依れば、朝間ナヲミと一緒に瓦礫に埋められて救出されたそうだ。それが2人の変化の原因に? いや。それでは合点がいかない。何故なら、同じ体験をした生徒なら、他にも沢山いるのだから。
そして、その恐怖体験が精神に対してプラス方向に作用した者を、私はあの2人の他に知らない。他の生徒達はそれぞれはPTSDによるフラッシュバックに苦しんだり、学習障害に襲われたり、それを回避するために抗精神剤の服用を始めたりしている。
正直、我が校の生徒の精神不健康者の比率は、専門家達にも危険視されている。その点は私も同意するしかない。
地震の被害で転んでしまって、日常というレールから外れてしまった筈の森葉子は、瓦礫の海の上で立ち上がり、日常というレールの上に難なく戻って来た。しかも、自力でだ。これは驚いた。
おそらく、瓦礫に埋まっている時に、朝間ナヲミと特別な何かを体験したのだろう。それ以外に可能性を思い付かない。そして、その秘密を私が知る必要もないし、知る事もないし、それ以上に知ってはいけない事だと、なんとなく感じている。
人は弱い。しかし、それを対になって組み合わす事によって、ハニカム構造的な、原材料からは想定できない耐圧強度を発揮する事が出来ケースがある。おそらく、あの2人はそれに相当する"対"になったのだ。対極のベクトル的な属性を持つ2人で1人の共生体。
そう言うの羨ましいと思う。しかし、それを理解するには、もしかしたらそれから一歩離れて観測する必要があるのかも知れない。
どうしたものか。私はそれに憧れつつ、同時にそれに近付くのを躊躇している。
人はそれを古来から「恋」と呼ぶ。万病に効く秘薬であり、それでいて不治の病でもあると言う。少なくとも薬にも毒にもならないと言う役立たずではない様だ。
そう言う意味で、私は、今、恋に恋する乙女である・・・と書いたところで気恥ずかしくなってしまった。ペンが乗り過ぎた。鉛筆で書いておけば消しゴムで消せたのに。
後悔先に立たず。それは今日、学んだ知恵だ。恥という高い代償を自覚する事で。




