2037年6月14日、PM9:00、宮城県松島市、特定困難な場所に設置された仮想現実サーバーの会議室
ここは特定困難な場所に設置された仮想現実サーバーの会議室。
今、朝間ナヲミと相田つかさの二人がログインしている環境の設定は、1G、大気構成地球(+アクアフレッシュ臭素加味)、1000HPa、湿気40%、風力0.1m/h、20セルシウス度、天井2mの位置に100w電球4つ(4方向の影による合成陰影有り)、WB5778K(kelvin)、白基調の壁、屋根、床で囲まれた部屋の広さ10m^2。
足下に向けられた重力や、動作時に大気と摩擦する手足の肌の触覚などと言う、地球環境でありふれた感覚の90%以上(※)をシミュレートしている指標"☆☆☆☆☆(星5つ)"レベルをクリアしていると実感出来る筈だ。
もっとも、仮想空間での高い現実の再現率に対しては、万人が同意出来る訳では無い。それは、全員にその環境で感じる五感情報を違和感なく伝えるのは下記の理由でほぼ不可能と言われているからだ。
脳が受け取る情報のロスに限らず、自覚出来る感覚の主観的な"質"は、最低でもその人物の属する(1)文化特性(2)時代(3)地域、と言う3つの要素に左右される。つまり、3つの条件が同じで無い限り、同じ情報に対する共通(共感)性の強い"感想"は求められない。特に、肌で感じる触覚と鼻孔で感じる嗅覚において、これらの差違は大きな隔たりを産む場合が多い。
ーーー仮想現実の演算結果=情報処理器官=glandular cellが、物理(慣性)計算的に正しい情報を伝えても、受容者がそれを正しく感じられない事もある。
これは情報を受け取る側=受容者の問題だ。正確には生身の脳に対して、どの様な"味付け"で最大公約数的な"設定意図"を伝えるかと言うノウハウに求められる課題だ。しかも、最大公約数的を広げ過ぎると誰にも合致しなくなると言う本末転倒も起こりうる。
これでもかなりマシになったのだ。21世紀初頭から集められている合法大量取得・無作為抽出情報を叩き台にして、ログインする生体脳のプロフィールを"推論"して伝達データの改竄を行うことで、得意な個性の持ち主であっても「ちょっとした違和感」くらいに抑えられているのだから。
「アイダさん、レッドデビルズ戦は残念でしたね」
「あっちはプロですし、文字通り実戦を通じた同調制御の経験者達ばかりです。勝利確率の向上については今後の課題と言う事で」
二人は先日に私立会津高校小美玉校の校庭で行われた、日米綱引き対決の結果について話している。
「しかし、ああなると、本当に司令塔の影響力って高いんですね」
「ええ。互いに発生させる牽引力のムラ、それを周波数と捉えて、相手の牽引力が最低になった瞬間を狙って、こちらの牽引力の最大で攻撃するのが鉄則です。現状把握と未来予測、それとコミュニケーション能力が勝負の決め手になります」
「で、隊長さんは手強かった?」
「ええ。実戦で相見えるのは勘弁願いたいです」
相田つかさは、大げさなジェスチャーを見せながら、素直に負けを認めた。しかし、朝間ナヲミには、彼が本気で勘弁願いたいと思っているとは、とても信じられなかった。能ある鷹は爪を隠す、と言う格言にある通り、彼は本当の実戦の瞬間まで自らの手の内を、誰にも曝しはしないのだろう。賢くはあるが面白みには欠ける、と感じた。
「鴨田先生が到着の様です」
相田つかさが告げると同時に、会議室のドアが開いて、鴨田三佐が入って来た。それと同時に、セキュリティー・ロックが掛かる。これで、大規模ハッキングでも行わない限り、この会議室内で交わされる情報が外に漏洩する心配はなくなった。
「遅れてすまない。また東京和諧号が来ててね」
「夜間に来るんですか? それじゃ夜襲じゃないですか。普通は撮影会の為に、良く晴れた日の日中に行うのが礼儀だって言うのに」
朝間ナヲミの抗議に、鴨田三佐も同意した。しかし、意識が若すぎる組織と言うのは、発揮した無謀の大きさで組織内での評価の高低や立場の善悪が決まる傾向が強いと語った。それはつまり、現場も無茶を承知で意図的に暴発して、暴発を繰り返すことで、振る舞いのやばさがインフレを繰り返している状態と言う事だ。実に良くない傾向である。
「良いんですか?」
「良いも悪いもないよ。主導権は闖入者にしか無い。ただ、領海内で勝手に事故を起こさない様に、と心から祈っているしかないな」
それを聞いて、朝間ナヲミは呆れるしかなかった。現実って言うものはもう少し、きっちりと自由が制限された形で均衡を保っていると想像していたからだ。つまり、世界の何処でも国境が接するところでは多かれ少なかれ一触即発であり、都合の悪い状態で、ずっとあったし、あるし、これからもあり続けるのだろう。
「で、本題に入ろう」
「お返事は義父へ伺いを立ててからでも良いですか?」
「もちろんだ。未成年との契約には保護者の同意が不可欠だからね」
朝間ナヲミをレッドデビルズから警護するミッションを成功裏に収めたばかりの、航空自衛軍・第7航空団第302飛行隊は余裕を示した。日本としては、方針を変更して朝間ナヲミに注目し始めた合衆国が実力行使に転じる事を恐れていた。そこで、「オジロワシ」と呼ばれる第7航空団第302飛行隊をタイミングを合わせて百里基地に送り込むという政治的ジェスチャーを示した。
「オジロワシ」は2018年に、日本で初めてF-35Aを受領したマザー・スコードロンとなって以来、防空任務以外に政府や組織を代表する裏方の仕事を請け負うようになってしまった。それが理由で、小美玉(百里)に戻されずに松島に封印されたに違いない、と言うのが業界の一般的な見方だ。
兎に角、政治的ジェスチャーを受けてかどうかは判らないが、レッドデビルズはその場の監視者であれば誰でも気付く形でメッセージを残して、紳士的に岩国基地へと帰還して行った。それは綱引き大会が行われた日の夕暮れの事だった。校庭でのイベント終了と同時に、両国の広報で使用する宣材として、日米の戦闘機が並んで飛ぶ景色を撮影フライトを実施し、百里基地での訓練終了式を行った。
政治的ジェスチャー、それは残念な事に文明国同士でしか通じない上等な種類のコミュニケーションだ。紛う方無き紳士協定であり、対峙した責任者が現場を去ったとしても、その後継者はしっかりと申し送りを受けて、それを互いに慎重に維持する様に努める。そんな努力を繰り返す事で、現場での共存関係と抑止力が両立する。
合衆国はその意味で悪いコミュニケーターではなかった。旧ソ連も然り。しかし、日本海を挟んだ大陸国家の方はどうかと言うと、コメントし難い。それは堅実な政治家と投機的な冒険家に例える事が出来るほど、行動傾向と原理が異なるのだから。
それらに比べたら、生身と擬体の違いなど、共存する上でのコンフリクトを誘発する原因としては、極めて些細な問題に過ぎなかった。
「さて、我々、私立松島大学の意志として、朝間ナヲミさんに無人航空機"天鳥船“の開発への参加を正式に要請する。主な目的は新世代のSDD(システム開発実証)。どうだろう?」
「サイバネティクス科と航空科のどちらですか?」
鴨田三佐は首を振った。
「大学本体のプロジェクトとして。民間人をこちら側へ迎える以上、切り捨て可能な腕や尻尾で引き受ける訳には行かないからね。我々の相田つかさにも全力でサポートさせる予定だ」
この申し出に対して、朝間ナヲミとしては断る理由は皆無だった。これは彼女が望んだ結果であり、彼女の夢への第一歩となるの数少ない手段の一つだった。ただし、鴨田三佐が唱える「我々」とやらの思惑とこちらの夢が完全一致していない事は伝えておくべきだ。同床異夢と言うものは、一定時間が経過して誤解の基づいた信頼関係が構築されてから明らかになると、熾烈なトラブルになりかねない火種だからだ。
先日までの彼女であれば、そう言う問題の種への対処はすべて後回しにして、急いで結果としてもたらされる果実に齧り付いた事だろう。しかし、森葉子とのケンカを乗り越えた事で掴んだ新境地は、それを許さなかった。
違いを宣言する事と、指摘する事は異なる行為だ。前者は別に臆する必要は無い。もし、互いの宣言を受け止める胆力さえ持ち合わせていれば。そして、彼女として、胆力の問題は彼女の側にあるだけで、交渉相手には全く無いと、相手の方を十二分に信頼していた。
「私としては引き受けさせて戴きたいと考えています」
「しかし?」
案の定、思惑は把握されている、と彼女は読んだ。それなら話は早いと交渉を加速させる事にした。
「私が目指すところは、無人航空機の先にあるものなんです」
「と、言うと?」
「飛行機を五感センサーで操縦できる擬体へのアップデートです」
「具体的には?」
「統合型コアプロセッサーとパワー・バイ・ワイヤと第二小脳の同調インターフェイスの開発。これに平行して私の擬体のアップデートとアナログ操縦での飛行免許の獲得への援助を求めます」
鴨田三佐は驚いた素振りを見せる。大根役者だったが、それはこの場では相応しい。チョンマゲなドラマで見られる「山吹色のお菓子」のやり取りのシーンと同じで、これは互いの距離感を縮めて共感出来る余地があるのか、と言う相手の真意を測るアクティブソナーの様なものだからだ。つまり、作法に乗って来てくれれば、こちらの申し出に相手も乗って来る用意があるというジェスチャーなのだ。
「動機はどんなものだろうか?」
まず間違いなく、「我々」とやら、からの真意の確認と言う所だろう。朝間ナヲミは森葉子に伝えた動機をそのまま伝える事にした。
「本当なら生身を取り返したいのですがそれは叶いません。ですから、この擬体を生身と同等なものにしたいのです。それに見合う資金的裏付けを成立させる唯一の方法として、無人航空機"天鳥船プロジェクトを見い出しました」
言いたい事は全て伝えた。賽は投げられた。ボールは朝間ナヲミの手から鴨田三佐の手へと投げられた。後は、そのボールを受け取り、投げ手にとって都合の良い位置に投げ返してくれれば交渉は成立だ。
「何処かで聞いた事がある程に壮大なプロジェクトだ。我々のそれをも取り込むほどに、本当に壮大だ」
鴨田三佐は後方に控えていた相田つかさを振り返る。彼は少し居心地の悪そうな素振りを見せた。どうやら、彼もまた朝間ナヲミと同じ様に何か大きな夢を抱えていると言う事を悟らされた。
「それで、貴女はその壮大な夢の実現に足りる交換材料をお持ちだろうか?」
鴨田三佐のそれは、日本に帰化したばかりの女子高生にどれほどの覚悟があって、その申し出をしたのか量る意図があった。しかし、それは思わぬしっぺ返しを喰らう事となった。
「はい。あの、機体の表面のムズムズするあれ。あれの有効な利用法の提案です」
「なっ・・・」
そこで鴨田三佐は相田つかさの顔を確認する。相田つかさもだ。彼もまた、三佐と同様に間の抜けた、顎が外れた様な大きな口を開いているのを視認出来た。
「気付いていたのか」
「え? 普通に第二小脳経由で、五感センサーの触覚に連結していましたよ。触覚が筋肉に連結してるので最初は使うのに手間取りましたけど」
それを耳にして、鴨田三佐は相田つかさは一瞬前の動作をリピートした。朝間ナヲミの言う「ムズムズするあれ」とは、「我々」とやらが、ひた隠しにして来た「荷電抵抗操作材塗布技術」の事だった。抵抗操作材を混ぜ込んだ塗料を塗り、それに荷電する事で機体表面にぶつかってくる空気に対する表面抵抗を増減させる。
一言で表すなら、イルカの皮膚表面の「粘弾性皮膜のモデル化」を電子的デバイスに再現した、と言う所だ。
その処理を施した飛行機であれば、ラダーやエルロンなどの物理的な抵抗を作り出して大気の流れ阻害する事無く、思い通りに飛行体を機動させる事が可能になる。また、それをCCV(Control Configured Vehicle)と連結させれば、機体のフレームが持つ限りの無茶な機動が可能となる(ただし、パイロットが居る場合は過重制限(G設定)がネックとなるが)。
航空自衛軍では、それを「ドルフィン・スキン」と仮称していた。イルカが皮膚下の海面構造を利用して、皮膚表面の形状を操作しながら水の乱流を制御しながら高速で泳ぐ、と言うKramer/Carpenter&Garrad理論を応用して、速度に最適な振動解を実現する技術とされているからだ。
イルカは保有する筋肉量では不可能な水中での時速70kmの前進を、そのメカニズムで実現している。技研では、この技術によって低推力エンジン搭載機のアフターバーナー無しで音速を超えるスーパー・クルーズの可能性を模索中だった(もちろん、機体形状はソニックブームに備えて、音速用に再設計する必要がある)。
「あれ、あんなきっちりしたハニカム操作でなく、もっと幾何学的な模様をデザインして操作すればもっと効果的に運用できると思うんです。左右対称が基本と言うのはちょっと・・・」
「はあ・・・」
「で、最初はAI(人工知能)に模様をさらに実証させて、どんどんモディファイさせて・・・最後に、朝霧和紗さんが使ってた仮想人格技術を簡易的に使って、もう一人の自分に操作させれば操縦者の個性も出せて便利だと思うんですけれど」
「・・・」
「いかがでしょうか?」
「・・・大変参考になった。・・・申し出の件も含めて、後日回答させてもらうと言う事で良いかな?」
「はい。そのお返事を戴いたら、すぐに義父と連絡を取りたいと思います」
そう答えながら、朝間ナヲミは少し心配になった。もしかして、何か拙い事を言っちゃったかな、と。
「それと・・・"ムズムズするあれ"の件はしばらく伏せておいて貰えるかな? まだ運用評価中なんだ」
「わかりました。それ以外の話はルームメイトに話しても良いですか?」
質問に答えようとする鴨田三佐を塞いで、代わりに相田つかさが答えてた。
「今後も情報の開示は葉子さんまでに留めて下さい。それさえ守って貰えれば大丈夫です」
そう言った後で、彼は会議室のセキュリティーを解錠した。その象徴として、入り口ドアのロックが外れた。
「現実時間でPM10:10になりました。あと5分でリマインダーの設定時間です」
「あ、そろそろ戻らないといけません。明日学校に提出するレポートをルームメイトと仕上げなければいけないので」
「会議室はこちらで後始末はしておきますから、このままログアウトしちゃって良いですよ」
「じゃ、お願いします」
朝間ナヲミは立ち上がって、ドアの前で思い出した様に振り返る。
「それでは、鴨田さん、よろしくご検討ください。お願いします」
そう言うと勢いよく、会議室から退室して行った。電子的にログアウトした事を確認すると、鴨田三佐は頭をやっと遠慮無く抱えた。
「なんと言う事だ。国防機密が完全にすっぱ抜かれてるぞ。荷電抵抗操作材塗布技術の全容まで把握されるなんて、どう言うレベルのハッカーなんだ」
「"ムズムズするあれ"、把握と言うより、ソフト的な隔離が不十分だった様です。特別製の擬体と言うアドバンスもありますが、本質的には彼女の資質の高さを甘く見過ぎていた様です」
「と言うと?」
「例の衛星「朝霧5」へのハッキングと同じで、彼女は物理的/電子的に接続可能なネットワークを無意識に拡張出来る何か、我々が持ち合わせていない特別に鋭敏な感覚を持っているんでしょう。それがどんな要素なのかは不明ですが」
「拡張? どこまで出来ると言うんだ?」
相田つかさは、口にするのを憚った。もし、それが本当であるなら、ちょっとした問題になりそうだったからだ。だから、その可能性を三佐の意識の中から流してしまう事にした。
「まあ、手に触れられる範囲じゃないですかね? 今後は機密物は物理接続を外しておいた方が賢明でしょうね」
「そうだな。そうしよう」
「じゃ、会議室、パーティションごと初期化しますよ。退出してください」
誰もいなくなったサーバー内で、相田つかさは思い出したかの様に呟いた。
「ご苦労様です。かぐらさん、ドアは開いてますからどうぞ」
深呼吸一回分の猶予を持って、彼はパーティションの根元からの初期化を開始した。ここで話し合った形跡や、事実の痕跡を葬り去ってしまうためだ。
第二小脳保持者は、こう言うと乱暴だが、確実な証拠隠滅を好む傾向がある。それは、普通の工作では、どうとでも穿り返せる事を経験で良く理解しているからだ。
※AK式かぐら系標準擬体が搭載する五感センサーとの比較。生身の五感との比較ではない。




