2037年6月6日(土)、PM20:40、私立会津高校小美玉校、学生寮121号室
「夜遅いのにごめんね」
「いいよー。私達は友だちねー」
私は今、アーちゃんの部屋に家出して来ている。
アーちゃんとは、インド国籍の日本永住者のアーシュミラ・タックリさん。我が校で一番の美女とされるが、彼女の保護者だか、後見人だが、義父だが、旦那だか分からないオジサンにゾッコンな事は誰でも知っている。だから、粉掛けてくる馬鹿な男子はいない。
勝ち目の無い戦いに勤しむのはリソースの激しい無駄遣いだ。万死に値する。皆そう思う。だから、彼女の周辺は極めて平和だ。その結果として、悠々自適な高校生活を楽しめている。
一方、今の私の周りは全然平和じゃないし、悠々でも自適でもない。ついさっき、ルームメイトのナヲちゃんと初めての大ケンカをしてしまい、部屋から必死に逃げ出して、ここまで逃げて来たのだ。
「実家に帰らせてもらいます!」って言うケースに近いかも知れないけど、どう言うわけか、ナヲちゃんは私を止めて来てくれなかった。
それがショックだ。ケンカした事より、去って行く阻んでくれなかったのが一番のショックだ。
今となってはケンカの原因なんてどうでも良くなってしまった。とにかく、私達の仲がこんなに脆かったなんて事を知った事が何よりも辛い。
何の連絡もしないで、すごい格好で部屋の前に現れた私。部屋の中から出て来てくれたアーちゃんは、それを見て、驚いた素振りを見せる事もなく部屋に招き入れてくれた。そして、甘い紅茶を入れてくれた。ほんのりと暖かいティーカップを手に取ると、心臓の鼓動が少し緩やかになって来た様な気がした。
深呼吸をしてから、もう少しだけ湯温を冷まそうと紅茶の表面に息を吹きかけた。すると、水面に波が立つ。その波がカップの反対側にぶつかってこちらに戻って来た。それが繰り返されると、カップの表面にいくつかの波紋が続けざまに浮かんで来た。そして波紋同士がぶつかり合って、やがて四散して穏やかな水面が帰って来た。
諸行無常。やる事なす事、結果が負の面に転じた。
そんな感傷に囚われながらティーカップを見詰めていたら、何か泣けて来た。身体はどこも痛くないのに、両目から流れ出てくる涙が止まらない。
「死にたい・・・」
「死ぬのは簡単ね。その前に死ななくて済む方法考えるね。死ぬのはその後。日本人の順番それ」
怨嗟をそれ以上繋げる事が出来なくなって、私はアーちゃんを涙が溢れる目で睨んだ。すると、アーちゃんは優しい目元で、それを何でも無い事の様に軽く受け止めた。受け流すのでなく、きちんと全身で受け止めてくれた。
「きちんと、最後まで泣かないと駄目ね。途中で止めると悲しい事忘れられないよ。私これ日本で勉強したね」
アーちゃんが笑顔でそう言った。
「私も日本に来た時たくさん泣いた。その時、あの人は最初から最後まで私の側に居てくれた。だから、私は最後まで泣く終わるまで側にいるね」
そして、それを最後まで言い切ると、一人で音を立てて紅茶を啜り始めた。普段なら心を和ませてくれるアーちゃんの怪しい日本語が、今は心の一番奥の何かまでストレートに届いた。
「明日は日曜日ね。寝坊できるから朝までも付き合えるよ」
そして、私が泣くのを黙って見詰めて始めた。そう、何も言わずにただ、ただ、一緒に居てくれるだけだった。
私はその様を見て、遠藤周作先生が作中に好んで、繰り返し使っていたある表現を思い出した。それは、寄り添う犬だ。主人公が大きな精神的な衝撃を受けて沈み切っている時に、犬がただ、ただ一緒に居てくれる、と言うものだ。
私は何度も彼の書く小説や随筆の中でその犬のネタを読んで来たと思っている。しかし、もしかしたら、たった一度しか書かれていなかったのかも知れない。それでも、繰り返しに出て来たと思えるほどに印象的なシーンだったのだ。
犬は決して主人公が背負っているヘビー級の辛さをその身で一時的にでも引き受けてくれたり、潰されそうな重みを半分持ってくれたりする事はなく、単に一緒に居てくれるだけ。実は本当に役立たずだ。そこに居る意味は実利的には無い。しかし、それでも孤独な主人公の側から決して離れる事はない。決して見放す事はない、と伝え続ける二つの目で見守っていてくれる。
それに人は魂の救済の本質を見い出す事が出来る、みたいな風に私は勝手に解釈した。
つまり、世界中の各地で苦しむ複数の私は決して一人ではなく、誰かがその苦境を見て自分の事の様に心を痛めてくれる。そして、もう一度立ち上がれる様になるまで、どれだけ時間が掛かろうとも最後までずっと、誰かがすぐ側で見守って居てくれる。
もちろん、誰かとか神様その人(柱、かな?)の事である。
先生にとって神様とはそう言う「愛」、象徴なんかじゃなくて、そのものだったらしい。
神様、貴方はあまりに控え目過ぎないだろうか? もしかしたらそんな貴方の愛の事を誰も気付いてくれないんじゃないだろうか? しかし、それでも神は私達の側にいる。先生の文章はそう訴えていたのかも知れない。
先生の文章に込められていたのは、一人では抜けられない長い苦しみのトンネルも、誰かと苦境を分かち合えるなら抜けられるに違いないと言うメッセージだったのかもね。
もし、そうならば、きっと私達にとって、一番大切な事は苦境からは自力で抜けきる事であって、神様が猛威を振るえる神通力で安直にトンネルの向こうまで連れて行って貰えれば万事解決、という安直なストーリーではない。多分。
何よりも大切な事は「人は常に孤独ではなく、誰かに愛されている」と言う事を自覚させる機会を与える事なのかも知れない。それを時間を掛けて実感させてくれる事で、人は成長したり、心が強くなれたりするって事なんだろうな。
どうやら、その繰り返されるストーリーは、稀代の小説家の子供時代の体験に根付く逸話を元に想像されたらしい。私は、今初めて遠藤周作先生に心の底から共感できてしまった。どうやら、こういうのは絶望をすっかりと体験をして、打ちのめされて初めて分かる話だった様だ。
ティーカップを両手で抱えたまま、小一時間は泣いていただろうか。涙の勢いに負けて、心に小さな穴群に詰まって処理しきれなかった何かが流れ落とされた様な気がした。
そして、涙が止まると、さっきまで心の穴も何とか塞がってくれた様な気がした。そのせいか、アーちゃんにナヲちゃんとのケンカの事を聞いて欲しくなった。そう言う余裕がやっと出て来たのだ。
「アーちゃん、聞いてくれる?」
「簡単な日本語で言うね。難しいのは聞けるけど、理解は出来ないね」
そう言ってから冷えたティーカップを私の手から取り上げて、新たに紅茶を注いだ熱いカップを渡してくれた。どうやら、タイミングを見計らって待っていた様だ。もしかしたら一杯目のカップが少し冷めていたのは、私がまだ飲めないと見越しての事だったのかも知れない。
まさか、とは思うが、アーちゃんなら、それもあり得ると思えた。
アーちゃんは本当にいつもマイペースだ。それはきっと、日本に来る前にものすごい体験をし過ぎて、日常生活の中で焦るような事なんて見つからないからなのかも知れない。たった一度の不幸で故郷と、家族と、片腕を失ってしまった事を私は知っている。
しかし、目の前にいるこの娘は、そんな圧倒的な体験をした末に日本に辿り着いた事を微塵も感じさせない。どう見ても普通の女の子にしか見えない。それはどうしてなんだろう? もしかしたら、あの旦那さんと家族になれただけで、全て不幸を忘れられるほどに今は幸せなのかな?
「ナヲちゃんとケンカして来ました」
「それは想像付くね。原因は何したばよ」
「昼間、ナヲちゃんが自分の擬体じゃなくて飛行機の擬体に入っていたの」
「そんな事、出来るね??」
「電波を使って擬体でなく、飛行機に脳、Brainをくっつけたの。意識だけ入る感じ」
「それは気味が悪いね。悪い霊が良くやる悪戯みたいね」
「そうなの。私はそれが嫌だったの。だから止めて欲しいってお願いしたの」
「ふんつぁ、ふんつぁ」
「そしたらナヲちゃんが分かってくれないの。私がそういうの嫌だって言ってるのに」
「ぶじょー」
「いくら話してもまったく理解できないみたいだったの。で、あんまり腹が立ってほっぺた打って走って来ちゃった」
「よーふんつぁ!?」
そこまで話してナヲちゃんに悪い事したかなあ、と言う想いに至った。考えてみれば、ナヲちゃんは私が何を話しているのか、何を嫌がっているのか、何を苛ついているのかも、さっぱり分かっていなかったのかも知れない。
もしかしたら、もう少し違う説明の仕方をすれば、理解してもらえたのかも知れない。
何より、ほっぺた打ったのは謝らないといけない。
しかし、と思った。私はどうして些細な事でないにしても、ナヲちゃんの事でこれほど興奮してしまったのだろう? 今まで、こんなに自分を抑える事も思い付かないままに、直情的に、というか脊髄反射で人を攻撃してしまった事なんかあっただろうか。
その辺りをアーちゃんに洗いざらい話してみた。すると、彼女は私に強い共感を示した。それはこの場を取り繕う表面上の同意とかではなく、まるで同志を見つけたみたいにちょっと嬉しそうに話してくれた。
「私もいつも"あの人"に対してそうね。マ・ライ・マヤ・ラゲ・パチ、サッパイ・・・」
「ごめん、解んない。日本語でおけ?」
「ごめんなさい。興奮した。それはナヲちゃんの事を愛しているからね」
「ですか?」
「愛してなければそうなれないね。私も疲れるとそうなっちゃう」
「アーちゃんが? ぜんぜんそう見えない」
「私は"あの人"愛してる。だから、"あの人"の全て欲しい。私の事だけ考えて、私の言う事全て"はい"と言って欲しい。これ本当」
「そうなの?」
「ロービ、Greedy・・・日本語分からないけど。それ。我慢出来なくなる。欲しいは止まらない。だからしまう。しまうと新しい欲しい来る。困る。でも、新しくしまう」
「そうなのかあ」
「最初は子供産んだら満足すると思ってたね」
「子供っ! 大人っ!」
「あの頃は私が子供だったね。でも、それ違った。簡単でなく難しい。多分、私は死ぬまで満足しない、判った」
「私達がお母さんになるのか。想像出来ないな」
「私の国では普通。インドの友達は私より先にお母さんになった。結婚日本より早い」
「そうなんだ」
「私は死ぬまでGreedyなのは嫌い。だから、我慢する事勉強した。今でも欲しいけど、"あの人"の前では欲しくないしてる」
「どうして?」
アーちゃんは凄く驚いた顔をした。私の質問があまりに意外だったらしい。
「我慢しないと私、"あの人"を殺してしまうね。殺してしまったら、元も子もないね。だから、賢いなる。我慢すれば無くならない。仕方ないから、それで満足する様に自分に話してる」
「アーちゃんは私みたいにほっぺた打っちゃったりしたの?」
アーちゃん、目と目を合わせない。在らぬ方を向いて応える。声が上擦っている。
「しないね。絶対してないね」
「・・・そうなんだ」
嘘だ。絶対に嘘だ。きっとしたんだ。我慢できなかったんだね。
「どうして愛しちゃうとほっぺた打っちゃんだろう?」
「好きな人には、絶対に全部のお願い"はい"と応えて欲しい。"はい"と応えてくれれば、それ私と同じくらい私を好き、と判る。好きでない人ならそう思わない。好きでない人、私を好きな必要ない」
アーちゃん、すごく真剣だ。本音で喋ってるんだな。しかも、自分を抑制しながら、ぜんぶ日本語で話してくれてる。きっと、それは旦那さんに対する態度の抑制訓練で身につけたのかもね。
「女の我が儘、Take a restive horseする・・・・マネージする、それパートナーの仕事」
「ナヲちゃんも女だし・・・」
「関係ないね。葉子ちゃんも女ね。そういうの強い方が引き受けるね」
「やっぱりナヲちゃんは強い?」
アーちゃん少し考える。言葉を選んでいるみたいだ。
「今でじゃない未来、誰よりも強くなる。私判る」
「万条さんよりも?」
「強くなる。多分、違う強い人になる。万条さんは強い無い。心が硬い、賢い。万条さんはPolitician。ナヲちゃんは未来にProphetみたいな何かになる」
「Prophetって何?」
「ヨハネとかモーゼとかそう言う人」
「私達はスゴイ人の側にいるのね」
「ナヲちゃんも"旦那さん"もスゴイ人。でもただの人間ね。誰かに盗られるなら、その前に殺して私も死ねる。葉子ちゃんも盗られてから死ぬ良いね。人は神様と比べたら本当大した事ないね」
「そういうもの?」
「そういうものね」
そこで私達は笑い合った。
「私、日本に来て、日本人勉強した。旦那さん幸せにするために考え方知りたかった」
「インドと日本は人がそんなに違うの?」
「葉子ちゃん。インドでは隣に住んでる人も常識違う。私、タックリ−は侍族だからNobleね。下下とは守る道徳も、信じる神様も、食べられるご飯も、社会での立場も、許される我が儘の大きさも、全然違うね。価値観、多過ぎでケンカ絶えない。だから、インドでも家族以外の人とお付き合いする時は何時でも勉強するね。だから、日本でもインドでも同じ」
「想像が出来ない社会ね」
「隣の村に行けば外国語話す必要がある場所も多いね。だから、旦那さんが私が知っているどのジャートに近いのか知る必要あった。知らないと嫌われてしまうからね」
「ふーん」
「そしたら、どのジャートとも違ったよ。旦那さんもそうだけど、日本人は変ね」
「どう変なの?」
「考えすぎるね。何かする前に、絶対にたくさん考えて判断するね。だから、時間掛かる」
「アーちゃんは考えないの?」
「今は考える。インドに居た頃は、考える前に何かしてた。した後で考えたり、考えなかったりした。だから、間違い多くて、友だちとの付き合いいつもすぐ終わったり。でも、何度でもやり直しが出来た」
「良い社会じゃない?」
「違うね。やり直しが多いから、何時までも愛、大きく育たない。小さい愛がたくさんで、それ良くない。損だと思うね。私は大きい愛が欲しい」
「なるほど・・・」
「旦那さん、私と結婚してくれると言った時、すごくすごく長く大きく考えたね。その判断はきっと決断。自分の人生を本気で私に使ってくれると、たぶん、神様に命をかけて誓ったね」
「素敵ねえ・・・」
「旦那さんと違って私賢くない。私が結婚してあげると言っても、旦那さんのそれの高さまで届かない。同じ言葉使っても、意味も価値も全然別物ね。それを日本で勉強して知った。だから、私は嬉しかった。そんな大きな愛をくれると言ってくれた人、絶対に盗られたくない。こんな気持ち、初めて知ったね」
「私もナヲちゃんを盗られたくない」
「大丈夫ね。ナヲちゃんの言葉は人間とは思えないほど重いね」
「重い?」
「ナヲちゃんが葉子ちゃんに話す言葉は、私やチーちゃんやジェーンに話す言葉とは別。理由は葉子ちゃん知ってると思うね」
「・・・そうかな? そうなのかな?」
「ナヲちゃんの魂、葉子ちゃん隣に居ない時、無くなる。多分、身体を離れて葉子ちゃんの側に行く。ナヲちゃんの魂をここに留めているの葉子ちゃん。ううん・・・英語で良い?」
「ゆっくりとなら」
「Nao Chang's soul is so unstable that without an Anchor, it disappears at the end of the drifting. I mean Hako Chang, you're the only and sole Anchor that can tie it on the earth. ブズヌ・バヨ? 解る?」
「何となく」
「だから、ナヲちゃんには優しくしてあげて欲しいね。私、葉子ちゃんに会う前のナヲちゃん知ってるね。病院で会った。あの頃、Hedgehogみたいで誰も近寄れなかったね」
「へっじほっぐ?」
「身体全部に針がたくさんある生き物」
「ハリネズミか。はりねずみの憂鬱、だったんだ」
「そう。HedgehogなMelancholyね。でも、今は違う。でも、葉子ちゃんいないと帰っちゃうね」
「ーーー!」
「あんまりunstableにしては失敗するね。昔の私みたいにやり直し、繰り返し、良くない」
それを聞き終わる前に私は、ちゃぶ台の前から立ち上がっていた。
「ごめん、帰る」
なんか嫌な予感がして、居ても立っても居られなくなったんだ。
「雨降ってるね。チャタ、傘と一緒に行くね」
それを聞いてやっと気付いた。何時の前にか、かなりスゴイ雨が降っていた。6月だもんね。ジューンブライドよりも、日本では梅雨の季節なんだから。
「ありがとう」
私は玄関の横に立てかけてあった、黒い、コウモリ傘としか表現しようのないアンブレラを手に取る。玄関の引き戸を避けてから、外でコウモリ傘を開こうとした。
しかし、コウモリ傘は開かなかった。それを元にあった場所に戻した。そして、アーちゃんの部屋の玄関の引き戸を戻した。何となくさっきまで後ろから見送っていたアーちゃんの気配が消えて部屋の奥へ引っ込んだ気配を背中で感じた。
私は雨の中を、そろりそろりと、小さな足取りで前へと進んだ。
その脚が向かう先には、ナヲちゃんが立っていた。雨の中、びしょびしょになって立っていた。自慢の生え替わる人工金髪は完全に、水を吸った床掃除のモップみたいに小さな肩にへばり付いていた。
私と視線が合っているはずなのに、何の反応も示さない。まるで魂のない抜け殻みたい。そう、そこにいたのはナヲちゃんが抜けた人形としか思えなかった。
新しい擬体になってから、初めてナヲちゃんの擬体を人形みたいだと感じた。きっと、今まで妙に生々しいと感じていたのは、決して新型擬体のパフォーマンスなんかじゃなくて、宿っていた魂の技量によるものだったんだ。
ーーー人形遣い。
そう言う言葉が自然に思い出された。どんな人形でもその人が扱えば生命を得る、そんなすごい擬体保持者が居るという。どこで聞いたのかは覚えていたけれど、もしそう言う人がいるなら、それはナヲちゃん以外にはありえない。朝霧和紗さんの美しい身のこなしとは違う、技術でなく無機質に有機質な印象に一瞬で昇華させる圧倒的な存在感。それが、ナヲちゃんだったのだ。
だが、しかし、今のナヲちゃんからはそれが失われている。
そうしてしまったのは私なのだ、と何となく解った。
私は驚かさないように、ゆっくりとナヲちゃんに近付いた。そして、爪先でできるだけ身長を伸ばして、両腕を一杯に伸ばしてナヲちゃんの首の後ろに手を回そうとした。しかし、それは無理だったので断念して、両腕をナヲちゃんの背中に回して抱きしめた。
抱きしめた、という言うより、ナヲちゃんの顎の下に自分の頭を力任せに潜り込ませたって感じかな。本当は抱き寄せて、私の胸でナヲちゃんを受け止めたかったのだけれど、想いだけでは物理的な限界を超える超自然的な「不条理」を発生させる事は出来なかった。
それが本当に悔しい。そうしてあげられれば、ナヲちゃんをもう少し落ち着かせてあげる事も出来たろうに、と解りきっているので尚更だ。愛さえあれば地球の自転すら加速させて感動を共有できる夕焼けを召還できるとか、逆転させて過去へ戻れって事実を改竄出来るとか、そう言う力が自分にない事が本当に辛い。
しかし、今一番、私よりも辛いのはナヲちゃんの方だ。
「ナヲちゃん、私達の部屋に帰ろう」
「・・・うん」
ナヲちゃんは、蚊の鳴くような声で応えた。雨音にかき消されなくて本当に良かった。私はナヲちゃんの手を引く。ナヲちゃんは素直に従ってくれた。
雨の中、私は考える。部屋に着いたらどうやって謝ろうか、と。どうしたら、元のナヲちゃんに戻してあげられるか、その答えを直ちに知りたかった。ファウストの悪魔が契約書持参で目の前に現れたら、即効で契約してしまったに違いない。
しかし、そんな都合の良い事は起こらない。だから、私は私の力で私が犯してしまった過ちを償わなければいけない。
ああ、部屋に向かうこの足取り。一歩一歩がこれほど重くなる事があるなんて、私は知らなかったし、想像した事もなかった。
私は最初、出会った時、ナヲちゃんの注意をこちらに引きつけられれば、それだけで満足だと思っていた。やがて、その願いは叶った。すぐに、ナヲちゃんの好奇心を引きつけたいと願った。それもすぐに叶った。その内、ナヲちゃんの一番大切な人になりたいと思う様になった。年始年末のあたりに、そうなれたと実感を伴った確信を得るに至った。
私の願いは全て叶った。しかし、どうして私は決して満足しなかったんだろう。もっともっとと、常にその時に幸せに充実を感じないで、より多くの欲を満たす事にだけ真剣だったからなんだろう。
好きな人の幸せを願うなんて言っておきながら、実はただ一方的に大好きな人の善意をむさぼり食うだけの屍食鬼みたな我が儘女だったんだ。
ナヲちゃんにまず許してもらおう。そして、これからは再び餓鬼道に身を堕とさない様に我が身を律して行こう。そう、アーちゃんが旦那さんにしている様に、一方的に願いだけをぶつけないで済む様に。何よりも、好きな人を傷つけないで済む道を探求し続ける様にしよう。
アーちゃん、貴女はきっと、今、私よりずっと日本人らしくなっちゃってるんだね。私もよく考えて、やり直しを繰り返さない様に努めないと。
そんな事を考えていると学生寮118号室に辿り着いてしまった。
そして、これから私にとって人生で最も長い、正念場とも言える夜が始まる。
すべては身から出た錆なんだけどね。




