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天の魚、地の翼。  作者: すにた
第二章「翔」
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2037年5月4日、PM3:05、天叢雲会病院サイバネティクス研究病棟・医学博士朝間の研究室

「腸の完全な代替器官については現在の所、擬体に搭載するのは不可能だよなあ」

「人体サイズに押し込めるには無理がありますからねえ。小規模な工場一つ分の機能をあの省スペースに押さえ込めてる生身の方がおかしいんですよ」


 医学博士・朝間と擬体技師・津田沼は、天叢雲会病院サイバネティクス研究病棟・医学博士朝間の研究室で、優雅なティー・タイムを楽しんでいる。4ヶ月ぶりに会津全域の電力供給量(電流変動の上限値と一相の周波(ペース)形)が震災前の状態にまで復帰した。


 そこで、病院の給食センターは電力供給の完全復旧を確かめるために、それまで封印して来た巨大電気オーブンに"火"を入れた(電力は医療機器に優先的に回された)。そのテストとして、入院患者と院内員用にパン全体に敷き詰めてクッキーを焼いてみたのだ。


 それを知った、朝間はパンの端の方に自分で練ったスコーン生地をパンの片隅に置いてもらった。ただし、クッキーの焼き上がり時間に合わせるために、スコーンのサイズはかなり小さめになっている。そして、久々に使用されたオーブン室はまだ本調子でない様で、クッキーの端(特に(つの)の部分)が焦げていたり、パンの何処の位置に置いたかで、焼き加減にもムラがあった(失敗作はすべて院内員用に優先的に回ってくる)。これはオーブン室内の温度にムラがある事を意味している。今後、要調整と判明した。


「ちょっと内側までパサパサに仕上がり過ぎですね。ちょっと咽せる」

「仕方ないよ。クッキーのオマケに乗せてもらったんだから。まあ、紅茶もあるんだから、流し込もうよ」


「生身ってのは良いですね。こういう文句ですら楽しみでもある」

「ウチの()の前では喋ってくれるなよ」

「そのくらいの知恵(デリカシー)は持ち合わせてますよ」


「科学がどれほど進歩しても、腸が人類の痕跡器官になる未来はなさそうだな」


 津田沼は空になったティーカップに新しいお茶を注いだ。

「で、"X-AK系かぐら式次世代技術検証用擬体"の疑似消化器官の解析の結果は見込み通りでしたか?」


"X-AK系かぐら式次世代技術検証用擬体"とは、暗語だ。彼らの間では"試作擬体17番「かむなぎ」"を意味するが、諸般の事情で口に出せない。


「うん。宇留島さんの方でも同じ結論になった。やはり、まだ代替の域には達していない。優秀な疑似消化器官のままだよ。しかし、進歩はある」

「無きゃ困る。しかし惜しい。一般ほ乳類並の味覚センサーを持っていると言うのに」


「胃形タンクに取り込まれた固形物と水分の分離機能が格段に進歩している」

「水分の摂取機能の効率が上がったんですね」


「それだけじゃない」

 朝間は自分の腹を叩いていせる。

「水分を抜いて体積と重量を減らして貯蔵して、トイレで破棄する直前に水分を吸収させてよりスムーズに胎外に押し出せるようになった」


「まあ、便秘っぽいのは擬体の泣き所でしたからね」

「それが嫌で、食事を取らない人も多いからなあ」


 擬体保持者は擬体用の食事を取る事が出来る。しかし、栄養摂取の効率は生身の真似事レベルを脱していない。生体部位が生命活動を維持するに足りる栄養分(量)の摂取出来ないのは痛い。きちんと食事を取る生活に努めていても、一定期間毎に擬体が搭載する補助栄養剤タンクに有効成分を補填しなくてはならない。もし、世界の文明が滅亡してしまったなら、生身が全滅するはるか前の段階で擬体保持者が全員死に絶えるだろう。


 擬体にはまだ、自己完結性が備わっていないのだ。


 擬体保持者は食事を一切取る事なく、生体部位の生命活動を維持する事も出来る。それは、擬体が搭載する補助栄養剤タンク経由で十分な栄養を摂取すると言う選択をすれば良いだけだ。敢えて言うなら、タンク経由の補給の方が効率は極めて高い。


 食事機能とは、まだ生身だった頃の生活習慣の継続や、社会活動として食卓に着く必要性があって採用されたオプション機能から出発している。擬体保持者にとって、開発者達が思う以上に、ニーズが高いと判明したため、すぐに標準機能へと昇格した経緯がある。


 擬体保持者にとっての食事行為とは、生命維持目的にはほぼ不要な作業だ。森を見て木を見ないタイプの人からすれば、地球環境への負担を増大させる全くの無駄にしか感じられない。そういう人達には、実際に見た事も会った事も無い飢えたアフリカの子供達の惨状を、目蓋の裏や脳裏に焼き付ける種類の人達の割合が多いから大変だ。特に、西洋地域では、先鋭化した彼らの一部が、ネット言論の場で"高過ぎる意識"の融合と分裂を繰り返す事で、短期間に勢力を増幅させつつある(この件ではライトもレフトも両手で握手していると言う摩訶不思議)。


 もっとも、摂食とは擬体保持者にとって、精神のバランスを保つためにとても重要な要素だったりする。統計を見ても、食べている保持者の方が食べていない保持者よりも精神バランスの乱れが少な目と証明されている。第二小脳が生体脳へ干渉するホルモン分泌ログからもその推測の正しさは裏付けられている。


 だから、退院時のデフォルト設定では、生存のためには不要だと言うのに、生体脳の「飢え」を自覚させる様に、神経中枢を定期的に刺激する仕様が選択されている。なお、その空腹感誘因スイッチをオン/オフ出来る様になるのは、退院後のリハビリまで含まれる「社会復帰プログラム」が完全に終了してからの事だ(リハビリ期間中はそういう選択の自由があると言う情報を主治医から告げられない)。


 それは、自らが食事を必要としない身体に宿った事を、"現実認識出来るくらい"まで、患者が外因性心傷から回復したと担当医に判断されてから、と言う意味である。


 朝間ナヲミは、飢えのスイッチをずっと切らずに生活している。最初は切るのが面倒だったから放置していたのだが、森葉子と親しくなってからは絶対に"切らない"と決めている。


 森葉子と友人関係が成立した当初は、軽食を摂取ながら会話を楽しむと言うマルチタスク作業中に、食物を咀嚼して飲み込むペース配分を乱し気味だった。実際、擬体的過食=胃形タンクの危険域まで食事を取ってしまい、密かに医療的な指導を受けている。なお、新しい擬体を換装してからは、タンク容量の増加+圧縮効率のアップによって、以前よりも多く摂取・貯蔵出来る様になっている。


 擬体による食事のメカニズムは、基本は咀嚼した摂取物を胎内で固形物と水分に分離させて、水分とそれに含まれる栄養分を可能な限り生体パーツの維持用物質として"再利用"する事で成立する。


 固体は胎外へ排出するのだが、その前に圧縮して保存というプロセスが存在する。それは人間には、鳥類と違って、不要になったモノを糞として即座に自然環境へ排出すると言う生活習慣(または寛容)が無いからだ。なお、生身用の食物を取ると、保管中の固形物が胎内で発酵作用を起こしてガスを発生させたり、胎内器官を膨張させたりする事が問題となる。だから、本当は可及的速やかに排出するのが、技術的には望ましい。


 発生したガスによるタンクの破損などの事故を避けるために、擬体食では擬体の消化器系に負担を掛ける素材や調理方法を使用しない配慮がされている。なお、初期の擬体食とは、スポンジに加糖水やスポーツドリンクを染みこませた様な、とても食べ物とは呼べる代物ではなかったそうだ。


 また、過度な酸性やアルカリ性の素材の使用も厳禁とされている。それらは生身が好む酢物、アルコールに漬したスイーツ、焦げ目の多い焼き物などの事を示す。それらは胎内構成素材(消化器官系は生身では擬体と違って胎外扱いである)の溶解、融解、分解、酸化、還元などの化学反応を起こしかねない。


 混ぜるな危険、みたいに胎内で化合(化学反応)された末に、想定外の「何か」が生成されてしまうのが一番厄介だ。それは擬体の側でも対処が準備されていないので、手の打ちようがないからだ(非常警告サインが第二小脳経由でユーザーに伝えられ、直ちに擬体対応治療設備と搬送される事になる)。


 生身なら消化中でも途上のガス排出行為が伴うので、そういう心配はほとんど必要ないのだが(ただし、擬体では食中毒は起こりづらい。それは、摂取した物体を、擬体がどの様な理由であっても危険と判断した場合、直ちに"排出衝動"と言う無言の警告(あつりょく)が発せられるからだ)。擬体の場合、バルブの非常開放で対象する事情で、日常生活の中で不自然(めだたず)なく済ますのが難しい。実は、空かしっ屁などの行為は、人間独自の羞恥心の解消目的に先鋭化した特殊技能である(しかも後天的な)。


 それと、腸による豆類などの処理時に生じやすい放屁ガスに水素系が、ある一定の濃度を超えた状態で引火すると大変な危険を伴う(生身にも危険である事は変わり無い)。


「しかし、人の世に紛れ込むスペックがあるだけの事はありますよね。排出物、かなり人っぽい」

「まあ、下痢状ってやつだな。もし、トイレにマニアが潜んで覗いていたとしてもすぐにはバレないだろう」


「臭気までは加味されてませんからね」

「そんな悪いところまで真似る必要はないだろう?」


 実は、擬体が初めて摂食/排泄機能を搭載した頃の排泄物は酷かった。化学反応を抑える薬剤の影響や圧縮環境での濃縮により、さらに擬体内側で不要になった冷却剤の老廃物質などが混ぜ込まれているため、まるでコールタールの様な物質となっていた。その後、ソレとしか言い様の無かった物体は擬体バージョンのマイナー・アップデートごとに、体感的にはどんどんマイルドになって行った。そして、今では擬体保持者が生身用のトイレで用を足しても、何の問題も生じ無いレベルまで、人由来のソレに近付いた。


「いやいや、価値観の多様化は個人には想定も付かない需要を産みます。そこら辺はAIに尋ねてみるのが速いでしょう」

「頼むから、ウチの()には言ってくれるなよ」


「あくまで研究者としての興味ですよ。擬体だって先生が想定しなかった方向への発展もしてるでしょ?」


 朝間は苦い顔をして少し冷えた紅茶を喉に流し込む。

「ビクターのVHSビデオ開発陣だって、エロ・コンテンツの後押しで規格戦争の覇権を獲得する事になるなんて想定していなかったと思うよ」


 津田沼がティー・ポットを朝間に手渡す。

「規格管理は"やや緩やかな統制に抑える"のが最も効果的、ってヤツですね」


「まあねえ。製品はユーザーのモノという原則を忘れたら失敗する。ライバル会社はイメージを気にし過ぎて先行していながら"厳密管理"し過ぎて失敗したんだと思うよ」

「もっとも含セックス・介護用途向け機材としては、今のところ努力の甲斐も無く、駄目出しばかり喰らってるんですけどね」


「絶対に、ウチの()には言ってくれるなよ」

「・・・信用ゼロですかね?」

「お年頃真っ最中なんだから、腫れ物に触る様な取り扱いで・・・」


「痕跡器官と言えばご存知で? ニシキヘビの痕跡肢と疑われている肛門横のでっぱり骨構造、生殖行動誘因肢に転用されてるそうですよ」

「なるほど。何が幸いに転じるか解らないものだな。ここはやはりその分野の専門家との交流をさらに深めるべきか・・・」


「女性担当者なら是非合コンを」

「それ、セクハラで訴えられるぞ」


 食事をしながら排泄物の話題に没頭出来る様な大人達、朝間と津田沼の両人の価値観は、明らかに一般的人のソレからはかけ離れていた。

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