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天の魚、地の翼。  作者: すにた
第二章「翔」
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2037年4月15日、AM10:30、茨城県、小美玉市下吉影、私立会津高校・小美玉校、体育館 〜その1

前書きがあまりにも長くなり過ぎたので、前書きだけ分割部分化して、一時間前倒しで公開予約しました。本編はいつも通り本日19時(一時間後)に公開されます。この回はすっ飛ばしても問題無いです。

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 2037年4月15日、私立会津高校に於ける"2037年度"の学習カリキュラムが始まろうとしていた。


 2036年度の方はと言うと、新潟県魚沼市の片隅でひっそりと終了していた。


 散々だった2036年度三学期の終了と同時に、私立会津高校・西名新田分校は短い歴史に終止符を打った。


 震災以来、同校の高校生達の寄り合い所として機能するという、大役をそつなく(こな)した末の閉校だった。


 3年生のための卒業式を行うには至らず、将来的に適切な時期に行うとメッセージを出すに(とど)められた。さすがに、それに対して異論を唱える卒業生はいなかった。


 ただし、学校が発行する公式書類だけは、例えば卒業証明書などは学校のサーバーからのダウンロードという形で全て揃う手筈が整えられた。


 そして、閉校の宣言に続いて、会津若松にあった本校の代替施設として、茨城県小美玉市の廃校施設を使って本格的な学習の場の準備が整っていると情報開示が行われ、翌年度からの校舎の移転提案が提示された。生徒会の方も、生徒会長代行の万条(まんじょう)菖蒲(あやめ)の署名によって、即時に提案の受け入れを承認した。


 会津地方最大の教育機関の東北地方から関東地方への移転は、以上の手順を踏む事で、極めて民主的な手順をもって可決された。


 ただし、それは飽くまでも代替校であって、一時的なものであって、決して恒久的なものではないと条文が話し合いの末にわざわざ採択された。


 そう言うコンセンサスが取られた後、茨城県小美玉市を去る時は「跡を濁さず」と言う全参加生徒による宣誓が続いた。そして、「何が何でも4月15日に現地での再会する」として、会場確保に失敗したために寒空の下で行われた終業式は締めくくられた。


 全ては、あくまでも形式的な儀式であって、所詮は予定調和に過ぎなかった。だがそれでも今の彼らには必要な"無駄"だった。決して"贅沢"ではなかった。そのおかげで、彼らはやっと前へ進む事が出来る様になるのだから。


 私立会津高校・小美玉校の設立とそこへの移転の経緯は上記の通りだ。


 茨城県小美玉市、現地での引っ越しの正式な受け入れは、4月13日とされた。現在寮生達が利用している仮寮施設は全てが大型トラックに積まれて、現地まで運ばれるので引き続き利用できるという話だった。だから、家具などはそのまま置いて行けるのだが、壊れ物は貴重品は一時的に引き上げて欲しいと注意喚起された。

 朝間ナヲミと森葉子が通う事になる、私立会津高校・小美玉校の立地は、西に茨城国際空港や常陸利根川病院、南に霞ヶ浦、東に北浦、北に涸沼(ひぬま)となる。東の北浦の先には太平洋が広がっている。ただし、宮城県の私立松島高校(私立松島大学付属高等学校)と違って、沿岸部に建っているわけではない。海抜こそ低いが、海からはかなり離れている。ただし、霞ヶ浦や北浦は太古は海であったわけだから、物理的には遠くても精神的には近いかも知れない(だいたい、その周辺は関東ローム層の縄張り内だし)。


 最寄りの駅は茨城国際空港鉄道の国際空港駅。JR東日本の石岡駅からの乗り換えとなる。ただし、国際空港駅から一時間に一本しかないタウンバス「私立会津高校行き」を利用する事となる。所要時間は20分で、空港の北側の周回路を往復するコースだ(南側には肥料工場による悪臭公害があるので、誰も近付きたくないのだ)。


 ただし、治療頻度の高い生徒達のほとんどは、会津本校と天叢雲(あまのむらくも)会病院が復旧するまで、宮城県にある私立松島高校への短期留学を余儀無(よぎな)くされた。それは教育とサイバネティクス医療サービスを両立させられるのは、会津の天叢雲(あまのむらくも)会病院と私立会津高校のタッグ以外には、私立松島大学医科学研究所附属病院の石斛(せっこく)会と私立松島高校の組み合わせの他に選択肢がなかったからだ。


 小美玉校の隣に位置する常陸利根川病院を、サバネティクス医療を必要とする子供達のバックアップとして活用する事も検討された。実際、天叢雲(あまのむらくも)会病院から人員派遣や、機材の貸し与えなどの予備調査は行われた。だが、そちらに余力を割くと、本拠地である会津復興の妨げになるという判断で見送られた。


 この地への校舎の一時的な移転は、会津大震災直後から検討されていた。それは常陸利根川病院側から、身近な廃校の利用や病院拡張予定地への仮設住宅設置と言った提案が行われていたからだ。


 実は、この病院からも大震災翌日には医療援助チームの第一陣が会津へ送られいた。茨城国際空港の隣にあった航空自衛軍百里基地救援チームの移動に力業で便乗して来たのだ。その時は震災後の混乱で会津へ電話も繋がらなかったので、通告無しで天叢雲(あまのむらくも)会病院へ二人の医師と二人の機械化身体治療可能な看護師が身一つで乗り込んで来た(本当に買い物用のマイ・バッグ一つだけ持ってやって来た。それは彼らの持ち込んだ医療装備が、自衛軍輸送機の離陸重量制限に引っ掛かってしまったからだ)。


 どうやら、その医師達の1人は朝間ナヲミから、瓦礫に埋まった被災者300人分のGPSを添えた救助要請だったと噂される「ナヲミ・リスト」をBCCメールで受信していたらしい。と、言う事はその彼は、2036年3月13日の全日空NH9便で朝間ナヲミの近くに座っていた誰か、と言う事になる。


 そんなわけで、やや遅れたが私立会津高校は無事、新年度を迎える事が出来た。全校生徒数は震災前と比べると1/3まで減った。それは1/3が宮城県にある私立松島高校への短期留学となったサイバー治療受診者、残りは他校への越境留学者だったので、出身地の高校へ一時的に編入して会津の本校が復旧するまで待つという者達だった。


 誰もが会津への帰還を心待ちしていた事は同じだった。そんな彼らはそれぞれの方法で一年をやり過ごすと決めたのだった。


 なお、私立会津高校生徒達の犠牲者は最終的に5名に上った。その数が多いか少ないかは、当事者達が決める事であって、部外者達が偉そうに評したり、指摘して良い事案ではない。


本日19時(一時間後)公開の本編に続く。

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