インターミッション *〜● 01
〜 The Asama note.
擬体の定義とは詰まるところ"人形"だ。多くの人は義肢の拡張規格の"義体"である、と勘違いをしている。特に、日本語では"擬体"と"義体"の発音が同じである故に、日本ではその様に誤解している人が多い(もちろん、表記は異なる)。悩ましい事だ。
しかし、操作系(や操縦系)を理解する者であれば、私の言わんとするところは同意出来るはずだ。
擬体の全機能は、神経系に直結している訳ではない。擬体側、そして脳に付与された第二小脳に「依頼」する事で作業を貫徹する。中には、私の養女のナヲミの様に直結制御を行える者もいるが、それは例外中の例外だ。元来、生体脳は「外部」の「道具」を器用に使い熟せる様にデザインされてはいない。それはきっと、創造者がそう言う可能性を設計時にまったく考慮していなかったからに決まっている。
多くの擬体保有者は、擬体の操縦には、まるで自らの手で人形(doll)の手足を動かして遊ぶ、ままごと遊び、または人形遊びをやっているかの様な違和感が伴うと言う。
そう、それは正しい感性だ。それは人生の配偶者に対して、何かの作業を説明する通りに行ってくれる様に依頼する行為に似ている。最初は、依頼手も受け手も慣れないためにコミュニケーション上のやり取りの中で、予想外に多くの誤解が生じて、その誤認の数だけの失敗を体験する事になる。これを避ける手段は無い。しかし、慣れてくれば逆に阿吽の呼吸で・・・何も指示しなくても受け手は依頼手の意に沿う様になる。
一番大切なのは、失敗の繰り返しに挫ける事無く、何が何でも乗り越えたいと言う強い動機を抱く事だ。その苦闘の末で約束されているものは、人形遣いと人形が互い相方を慈しむと言う共生関係の成立だ。その様は客観的に美しい様子である必要は絶対にない。ただ、人と物が互いが納得出来てさえいれば良い。
だから最初は・・・むしろ、ぎごちなくともそれを苦としない、双方で気負わずに済む関係を築けるのがベストだ。
それこそがユーザーと擬体のもっとも正しい姿だ。そう言う意味で、私の養女のナヲミのパートナーとなった擬体は可哀想だ。何故なら、ユーザーは擬体に少しも寄り添う事無く、擬体以外の何かをずっと見詰めているのだから。彼女にとって、今宿っている擬体とはあくまで通過点に過ぎない。
遥か未来に実現するだろう、まだ見ぬ、より生身に近い擬体だけを探求のゴールとして求めている。(しかも、人工物で構成される以上、生身と瓜二つの人工身体と言うものが、あらゆ価値観から評価しても極めて不効率な製造物になるだろう見通しを承知しながら)。
こうも言える。彼女は現存レベルの擬体の機能的な不備を徹底的に、一方的に自らの操作・認識技術で補う意志を持っている。そこには"擬体側が彼女をサポートしてくれる"と言う期待値が入り込む余地は無い。最初から、擬体に何も期待していない、とも取れるこの付き合い方は良くない。私個人としては、ナヲミがもう少し擬体に配慮し、尊重し、耳を傾けてくれれば、と願ってやまない。
(生身と同じでなければいけないと言う事はない。四本足の動物に二足歩行を強要するのは愚かだ。つまり、生身と擬体は構造上の明らかな違いがある。それが解消されない限り生身と擬体が同じと言う事ににはならない。これは人間が神の上位種にでもならない限り実現しないだろう。だから、擬体には擬体なりの違った文化なり、共感なり、作法が確立されて然るべきなのだ。もっとも、これを決めるのは飽くまでも擬体保持者なのだが。生身の人間が、擬体保持者に対して「こうあるべきだ」と語りかける事は傲慢だ。ただし、その件を考えたり、願って、胸の内に秘めるたりするに留めるならば問題ないだろう。)
話を元に戻そう。何故、我々が擬体に、そんな概念の操縦系を採用しているのか? についての説明が簡単だ。それに貴方が共感出来るかどうかは判らないが。
"義"※と言う言葉が充当される"義肢"は所詮は使い捨ての道具である。"義体"しかり。そんな物に魂が宿る筈がない。また、そんな不浄な物が神を降ろす器となり得る筈が無い。何故なら、使い捨ての道具には、"萌え"という概念はまったく無用だからだ。
※プロテーゼ、Prothese(ドイツ語)、Prosthesis(英語)。日本語では補綴が該当する。
擬体とは幼児期の女性、言うなれば幼女が自らの分身として、時に親友として、時に世界の象徴として抱きしめ、慈しむ対象である"人形"なのである。そう言う物にこそ、"萌え"は芽生える。
もしかしたら、貴方にも"萌え"の概念は想像しがたいかも知れない。しかし、それを的確に英語に訳すための言葉がまだ未発見である以上、とにかく想像してもらうしかない。兎に角、これについては考えるより、触れて、感じる事が重要なのだ。
実は"人形"とは、幼女が誤認する様な、自己でも、自己の延長では決してない。自己とは厳密に隔たった外界の存在だ。それを認めて、慈しみ、再び自らの内側に受け入れようとする意識をもって、機械化身体は擬体へと昇華・成立する。我々が擬体に"萌え"を散りばめるのはそのためだ。可愛く、美しい方が万人に受け入れ易いのは自然の摂理だ。
我々は我々が作った人形が、より愛されるようにと願う。それは第三者だけでなく、ユーザー本人にもだ。生身とは明らかに違う機械化身体を、違いを認めながらも愛す。その愛を動機として、残りの人生を共に歩むという選択を取りやすい様にと祈っての事だ。
我々は全ての擬体を慈しみ育てた娘と思って世に放つ。そして、優しいパートナーと出会い、彼や彼女たちと長い時を・・・健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、互いを愛し、互いを敬い、互いを慰め、互いを助け、その命々ある限り、共に真心を尽くし合って欲しいと願っている。
これは芸術的な比喩的表現でなく、本音の赤裸々な発露だ。
Prof. Morimoto、貴方は、果たして、そう言う想いに共感出来るだろうか?
もし出来るというなら、私は貴方の挑戦に対して出来るだけの便宜を払うと約束しよう。
2036年、9月1日。会津にて。朝間より。
このメールは書き終えた後、直ちに送信された。しかし、このメールが送られた時、受信すべき相手は次の輪廻への旅立ちの途にあった為に、熟考された文面に込められた想いが伝わる事はなかった。
日本時間で2036年、9月2日、Prof. Morimotoは、富める者には絶望的に困難であり、駱駝が針の穴を潜るより無茶と、生前にジーザスが語ったとされる天国回廊・最大の難所「天国門」の通過に成功した。
朝間がその不幸を知ったのは、しばらく後に届けられた業界紙に掲載された訃報欄のニュースに依てである。
この番外編は、予約中 2018/03/12 00時 の 第53部分 インターミッション *〜● 02 へと続きます。




