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天の魚、地の翼。  作者: すにた
第一章「起」
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2037年3月12日、AM12:20、栃木県芳賀郡茂木町茂木13xxコーポセイホウ#102

 暦の上では春。しっかりと太陽が照っている日なら、もう冬の寒さが緩んでも良さそうな物だ。しかし、その日の関東北部の天気図は、日本海北部に発して太平洋まで達する豪快な縦縞模様の等圧線によって完全に支配されていた。


 縦縞模様の等圧線は、日本海の西側にある大陸上空に留められておくべき凄まじい寒気を、日本列島へと絶え間なく運び続けていた。こう言う場合、上空5,500mの気象環境は、日本にありながらエヴェレスト頂上部(世界の屋根)の厳しさに相当している筈だ。


 そう言う事情で、その日の栃木県茂木町周辺は、昨夜から続く激しい寒風に曝されて続けていた。


 茂木町周辺の地形は南北に低い丘で囲まれる。そのため、真岡市方面から流入して来る風にとってはチョークポイントになる。そこで圧縮された空気は、茂木町西部のあたりから急に風圧が増し、結果として風速が上がる。


 とどめに、茂木町茂木の手前にある道の駅から急激に地面の標高が下がる事から、冷えた空気が滝を下る激流の様に降りて来る。


 季節外れの大寒波のせいで、茂木町名物の20世紀から続くレトロ調商店街では、人影は全くと言って良いほど見られなかった。誰もが屋内に身を潜めて、寒風が去って行くのをひたすら持ち続けていた。


 そんな事情で、茂木の周辺では、一時的にではあるがまるでゴーストタウンになってしまったかの様な寂しさや侘しさが漂っていた。


 茂木駅の一つしか無いプラットホームに、モオカ22形ディーゼル・カーから一人の女性が降り立った。思い詰めた様な表情を湛えて、無言で改札を抜け出ると、一台だけ客待ちしていたタクシーには目もくれずに、勝手を知っているかの様に徒歩で移動を始めた。


 全身を足下まで覆う長い、そして厚く黒いコートや大きな帽子で包んでいるが、その襟元からは、椿油を塗り立てではないかと思えるほどに、美しく、しなやかで、それでいて長い黒髪が収まり切らずに溢れ出ていた。


 その女性が駅前広場から左折し、パチンコ屋の所にある真岡鐵道の踏切を超えると、右折して用水路に沿って進む。そして、老人ホームを超えて、すでにボロボロの廃墟に成り果てている元縫製工場の裏手から私道と思われる小道を右折した。


 硝子が割れ、塗装がはげるどころか、ボディ全体が錆て朽ち果てつつある多数の廃車で埋まっているのが見えた、おそらく、そこは元駐車場で、誰も注意を払わないため長年に渡って乗り手がいなくなった自家用車達が放置されているのだろう。


 女性の右手側には『党』や『民』という文字が書かれた四角い二つのパネルが日に焼けて、ボロボロになって元縫製工場の壁に斜めになって、まだ落ちずに、辛うじてぶら下がっている。


 さらに、女性の左手側には撤去費用を捻出する事が出来ずに、永遠に放置される運命を背負わされたと思わずにはいられないほどにへたれた古い二階建てアパートがあった。


 その周辺は、とても日本の風景とは思えないほどに高度な廃墟ぶりを発揮していた。


 不意に、鉄道踏み切りの鐘の鳴る音が聞こえて来た。暖かい季節が来るまで放置されているらしい畑の向こうに、真岡鐵道の緑色の鉄道車両が廃墟の隙間から突如現れて、けたたましいディーゼル音を立てながら丘の上にある道の駅の方角へと走り去って行った。


 鐘の鳴る音が止むのを待って、女性が玄関が3つ並ぶ、アパートの西面へと向かった。二階へ上る階段の下に集められている電気メーターに一瞥(いちべつ)をくれる。その中で一つだけ、メーターが回っているのを見つけた。


因幡(いなば)、やっと貴方を見つけたよ」


 女性はそう呟くと、102号室の玄関のドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていない。そのままドアを開いて中へと入る。玄関で一応、靴を脱ぐ。


 様子を探ろうと、辺りを見回す。室内はさして荒れていない。いや、荒れているように見えるのは部屋の老朽化による損傷に過ぎず、住人の私物の配置に乱れはまったくなかった。


 ただ、少しだけ埃が積もっていた。それは、几帳面に生きていた住人が、残念な事にそれを続ける余裕を失ったという事に違いない。


 女性はさらに奥へと進む。(ふすま)の様な引き戸を開けると、外が見える部屋にたどり着いた。部屋には粗末なシングルベッドがあり、そこには起き上がる体力も残されていそうにない男性が横たわっていた。


 彼女の嗅覚センサーは、生身であれば鼻に付くほどの尿の臭いを検出した。おそらく、その臭いの元である本人はそれに気付いてはいないだろう。最大限の努力を払っても、どうにもならない事というものはある。特に、老齢によって発生する問題と言うものは。


 不快を消したければ嗅覚センサーを切れば良いだけだ。しかし、彼女はそんな事を思い付かなかった。ただ、ありのままを受け入れようとしか考えつかなかった。


「見つかって・・・しまいましたか・・・。これでも必死に隠れていたつもりなんですれど・・・」

 寝ている様に見えたベッドの中の老人が、不意にしゃべり出した。


「私は貴方の事は常に知っていたつもりなんだけどね」

 女性はベッドの横に両膝を付いて、老人の顔の真横へと自分の顔を近付けた。


「貴方が私の事を気に掛けていてくれるなんて・・・これほどの幸福を生涯の最後の時に味わえるとは思いませんでした」

「何を馬鹿な事を。私は年下の貴方を見つけたときからずっと、貴方の事を眩しい存在だと思い続けていると言うのに」


 女性は粗末な布団の中へ手を入れて、老人の手を握った。かすかな反応的な動きはあるが、すでに掴み返す力は残されていないようだ。


「すみませんでした。私は貴女を穢したばかりか、貴女に相応しい擬体を送る事すら出来なかった。許してください。お願いですから許してください・・・」

「許す事なんて何もない。私はただ、自分の想いに従っただけ。私の心残りは貴方にもう一度でも『神懸かり』の光景を見せてあげられなかった事。頑張ってはみたけれど力不足だった。私はその不始末の許しを請うためにやって来たんだから」


 彼女は知った。この老人はだいぶ前から目が見えていなかったのだ。しかし、神楽の世界に於いて、伝説の『(おきな)』として一度は大成した男だ。おそらく、この場を劇場とすれば、すべてを気配の流れだけで隅々まで把握出来ているのだろう。


「それを聞けただけで・・・もう思い残す事はありません」


 彼女は理由は知っていたが、老人に想いを吐かせるために敢えて質問をした。

「しかし、どうしてこんなところに貴方はいる? 弟子も家も捨てて誰からも忘れられようとしている?」


 老人は誇りをもって応えてくれた。

「擬体開発への資金援助が過ぎました。家の財産を貴女が居た会津への企業誘致のロビーイング資金としてすべてつぎ込み、協会の金を使い込んでさらに技本(ぎふ)での試作擬体をどんどん造らせて、最後に何重抵当かも分からないほどに大手銀行、資本家、信者・・・最後には極道の金にまで手を出して、貴女のために"試作擬体17番「かむなぎ」"を作り上げました。おそらく、奴らは血眼になって回収できる見込みの無い金を追って、今も私を探し続けているでしょう。だから、私は貴女の元に行けなかった。つまり、試作擬体17番の目論見が成功していたとしても、どの面下げて会いに行けるか分かった物ではなかったんです」


 口調こそ謙ってはいたが、そこには確固たる信念が宿っていた。彼はこう言いたかったのは。企みは失敗したが、それでも満足が行くほどにやり尽くした、のだと。


 女性が毅然とした態度でもう一度問うた。

「それでは私はお前の想いにできる限り応えさせて欲しい。何なりと言ってみて欲しい」


 老人は迷わず言った。

「貴女の鈴舞いで送ってください。右手の棚の硝子ケースの中に鈴(鉾鈴)が入っています。使ってやってください」


 女性は応えて立ち上がる。

「相分かった」


 女性は鈴を手に取ると、呆気に取られた。それには見覚えがあった。大分、古くなってはいるがよく手入れが行き届いている事が一目で分かった。

「これは・・・あの時の・・・」


 老人も意を得たとする。

「そうです。貴女が私に初めて見せてくれた鈴舞いで使用していたものです。今までずっとお預かりしていましたが、今ここでお返しさせてもらいます」

「有り難く使わせてもらう」


 女性はそう応えると厚いコートを脱ぎ捨てる。内側にはできる限り正装に近い巫女装束を纏っていた。最初から、そのつもりでここまでやって来た様だ。


 足下から、草履は無く白い足袋のままだが、(かかと)まで届く緋袴(ひばかま)上指糸(うわざしいと)白衣(しらぎぬ)、そしてその上には千早(ちはや)を羽織っている。胸元にある結菊綴むすびきくとじが美しく、それを中心にあしらわれた鶴文様の青摺(あおずり)がさらにそれを引き立てる。そして長く漆黒の髪は絵元結えもとゆいで留められていた。


 これらの装束は、特に、千早(ちはや)は、神楽(巫女舞)を舞う場合の正装だ。その姿は、女性が老人に対して最高の礼を示している事を意味した。


「おお・・・その絹の擦れる音は・・・」

 盲いた老人は目前で繰り広げられるだろう光景を、心の目で捉えた。


 女性は、本当にすまなそうに詫びた。

「すまんな。までは用意できなかった」


 そして、老人から託された鈴を手に取り直してこう続けた。

「ただし・・・この朝霧和紗、生涯最初で最後の、神では無く人への神楽を奉納しよう。この神楽殿にて、な」


 感極まる老人。

「おおおおぉぉぉ・・・」


 ただし、彼にはそれ以上の反応を示す力が残されていなかった。それを悟り、女性は事を急ぐ事にした。


「しかと受け取られよ。私はお前を看取り、その魂を天上へ送り届けてやろう」

「ぉ・・・」


 ーーーしゃんっ!


 一振り。鈴の音は一瞬で、何の変哲も無いボロアパートの一室の穢れを祓い、神聖な浄土へと清め上げた。


 女性は、無言で、鈴を鳴らしながら、ベッドで横たわる老人に向けて神楽をたった一人で舞い始めた。本来、神楽は神棚などに向けて舞われるものだ。だが、その舞いは老人のベッドに向けて舞われた。


 巫女の舞いとは本来は祈念の舞、つまりは自らが神懸かりするための舞いである。しかし、彼女はその神に奉納すべき物を理を破って一人の老人の為に舞い続けた。


 彼女は死に逝く者に対して、たった一人で舞い演じ始めた。本来は巫女の舞いを支える雅楽が(はやし)し立てられる。だが、それらの不足は巫女の技量ですべて補われ、名のある神楽殿で大人数で行われる舞いに決して劣るものではなかった。


 老人は女性の想いを悟り、心の中でその全てを受け取った。彼が生涯でたった一度愛し、そして今も慕い続けている女性が、自ら禁忌を犯して自らに尽くしてくれる事を知り、人生最大の幸福に心を振るわせた。


 老人は失われていく感覚に包まれながら確信した。『我が生涯は一点の濁りも悔いも無い最高の道だった』と。最後に鈴の音を認識できなくなったところで、


「和紗・・・」

「様・・・」

「ありが・・・」

「と・・・」

「お・・・・」

「く・」

「れ・・・・・・」

「てっ・・・」

「参・・・

「り」

「す」


 と、木漏れ日に照らされながら、菊の花が風に(そよ)ぐ音ほどに小さな声で漏らした。


 それは確かに小さな、簡単にかき消されてしまうほどの音量に過ぎなかったかも知れない。しかし、そうであっても、良く晴れた冬の雪原の耳鳴りほどに、脳髄にまで響く鮮明な意志が込められていた。


 ーーーしゃんっ!


 女性はそれには目もくれずに一身で舞いを演じ続けた。

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