2037年1月30日、夕刻、天叢雲会病院サイバネティクス研究病棟・一般病棟個室
時制は前回の部分より少しばかり過去に戻る。
ここは天叢雲会病院、サイバネティクス研究病棟に併設された一般病棟個室。朝間ナヲミは脳核に新品の擬体を換装されて、クリーンルームから新しい病室へ移送されて来た。脳核が擬体内に収納されたため、もうICUに設置されていた特殊水槽の中へは戻る必要は無くなった。
医学博士・朝間、本人が押しているストレッチャーがちょうど到着したところだ。震災被害への対応で慢性的な人手不足に陥っている。だから、看護師や介護士の補助を頼みたいところがだ、忍ぶしかない。
個室のドアは引き戸式だが、『万が一の事態』に対応するための二次的機構として、バネ力復元式の自動閉鎖パネルとしても利用できる。だから、キャスター付きベッドの前方をぶつけて、ガツンと押し込めば、そのまま内側へ押し入ることは簡単だった。しかし、朝間は手前でストレッチャーを止めて、キャスターにロックを掛けて、最後に進行方向に頭を持ってきてから、敢えて室外からドアをノックした(移動時は脚を進行方向に持ってくる規則がある)。
「葉子ちゃん、ナヲミを連れてきたよ」
10秒ほどの沈黙があった。もう一度、朝間がノックしようかどうかと悩んでいると、ドシンと一度何かが転倒した様な音がして、続けて森葉子が凄い勢いで飛び出て来た。どうやら途中ですっ転けた様だ。
目の前に現れた葉子の頬の辺りには、自分の髪の毛の跡が残っている。どうやら待ちきれずに眠っていたようだ。それも仕方が無い。彼女は朝間ナヲミから引き離されてから、すでに8時間以上が経過している。それほどの長い時間を、寝不足の少女が不眠不休で待ち構えられるはずがない。
それにこの娘もまた、朝間ナヲミと等しくサバイバーの一人でもあるのだ。精神的な疲労や傷からもまだ回復にはほど遠い。
「遅くなってごめんね。でも、換装は上手く行ったよ」
笑顔で気軽を装って喋るように努める。朝間としても、まさか「機械の精度では不十分だったから、無茶を承知で48系統のI/Fを無理矢理に手動で嵌めたちゃったよ。上手く行って良かったね」などと、長時間の手術待ちに耐えて神経をすり減らした女子高生に向かって、自分の功績は自慢できる筈がない。
とにかく、何事も問題なく、すべてが予定通りに終わった。簡単に完了した、と受け取って欲しかった。
「ナヲミを部屋の中に入れるから、ドアを少し開けて押さえていてくれるかい?」
森葉子は素直に朝間に従った。朝間ナヲミが室内に入ると、室内に設えられたモニターやセンサーが可動を開始した。朝間ナヲミの第二小脳が一部機材を支配下に置き、それ以外は病院の中央コンピューターと第二小脳が太いネットワークを再接続された(エレベーターや通路の中は主にWi-Fiなどのネットワークを使っていたので、やり取りできるバイタル/メカニカル・データの量も限定的だった)。
朝間が森葉子がもじもじしていることに気付く。
「どうしたんだい?」
森葉子は意を決したように、それでもどこか気弱な口調で朝間に尋ねた。
「あの、ナヲちゃんに触っても良いですか?」
「良いよ。もちろんだよ」
葉子はおずおずと、毛布の下に手を差し込んで、ナヲミの右手を握った。心配そうにごそごそと掌をまさぐっていたようだが、すぐに動きを止めた。朝間には理由は分からなかったが、何か安心できる根拠を発見出来たようだった。
「良かった。本物のナヲちゃんです」
「分かるのかい?」
朝間は興味深げに応えた。果たして少女特有の強烈な思い込みなのか、逆に少女特有の神懸かり的な感性なのか、どちらの感覚なんだろうか?
「はい。確かにこの手は以前に繋いでいた手とは違います。それでも、この手には今、一瞬だけナヲちゃんが宿りました。今はまた・・・寝ちゃった? かな。そう感じます」
最初は朝間にまっすぐに向けられていた。しかし、すぐに目が泳ぎだして、最後に足下に落ちてしまった。おそらく、彼女自身も言っていることに疑問を持ったのだろう。そして、そうであると分かりきっているのに、それを説明する言葉を持ち合わせていないことに気付いた様に思われた。
ーーー主観と客観が相互監視を厳重に行っているわけだ。この年で自然にそれをやってのけるとは、これは将来が楽しみだな。
朝間は本当に感心した。しかし、そんなことは微塵も表に出さずに状況を説明した。
「予定ではあと20分程度で目を覚ます予定だ。しかし、この娘は寝坊助なんでね、もう少しかかるかも知れない。なんせ、最初に目を覚ますのにもかなり長い時間が掛かって、我々を慌てさせてくれた前科があるんだ」
「目を覚まさなかったらどうするんですか?」
朝間は、暗くなったのに開けられたままだった窓のカーテンを閉めてから、両手を白衣のポケットに突っ込んだ。
「その時は王子様のキスかな。寝坊助が眠り姫へとジョブ・チェンジする最初で最後の機会になるんじゃないかな?」
「ーーー!」
次ぎに朝間は部屋の端に寄せてあった、補助ベッドを使用状態に変形させた。
「今晩からナヲミの部屋へ引っ越すと良い。補助ベッドで悪いけれど、今空きのベッド数も切迫しているので、そうしてくれると病院側も助かるんだ」
驚く葉子。朝間は戸棚からシーツと毛布と枕を取り出してベッドメイキングを終える。
「良いんですか?」
「この娘を退院までお願いしてしまって良いかな?」
そして、朝間はナヲミの手を握ったままで、ベッドの横に立ちっぱなしの葉子へと椅子を運んだ。
「良いも悪いも、この娘に今一番必要なのは君なんだからねえ」
「責任を持ってお預かりします」
朝間はポケットの中からスマート・ウオッチを取り出して葉子に渡した。
「何かあったらこれで呼び出してくれ。目が覚めてもそのままで良いよ。一応、こちらでもモニターはしてるから、30分以内に診察に戻って来るよ」
「わかりました」
一礼してから差し出された椅子に座る葉子を見て、朝間は好ましいと思った。
「それじゃ、また」
「はい」
朝間はそのまま、ナヲミの個室から振り向きもせずに出て行った。葉子に対してとてつもなく楽観的な展望だけを伝えてしまったが、一抹の不安はあった。
ーーー48系統の極太バスと17番の凄まじい量のセンサー・フィードバック、果たしてあの娘は耐えられるだろうか? 場合によっては一度蛇口を絞って、段階的に開けて行った方が良かったのかも知れない。
朝間は敢えて、48系統の極太バスを全開放設定していた。こういうことは第一印象が一番大切だと考えていたからだ。AK系かぐら式標準体とは比べものにならない鋭い感覚、それは生身であれば日常的に捌いている程度の情報量に過ぎないからだ。
ーーーまずは様子見だな。気絶しちゃったら設定変更しよう。
そして、総務に電話をした。一般病棟の方にある森葉子のベッドを開放して、翌朝以降に荷物を朝間ナヲミの個室の方へと移動させるように、と依頼するため。




