2037年1月19日、PM、天叢雲会病院サイバネティクス研究病棟・仮想現実(ヴァーチャル)応接室
水槽の中からは絶対に出られない不都合の多い現実世界から、身体がなくても自由に動き回れる(気がする)仮想現実へとフル・ダイブした。
ICUの水槽から飛び出して、仮想現実で電子情報的に構築された方の病室の床の上に両足で立つ。
病院内の仮想現実エリアは、現実世界に限りなく近く仕立てられている。そして、これに拡張現実もまた平行して構築されている。3つの世界が平行して存在しているか、と勘違いしかねないほどにシームレスにマネージングされているので、今は自由に歩き回るための身体が無い私にとってもかなりの慰めになっている。
しかし、あまりに現実的な仮想現実と言うのも問題だ。
私は仮想現実に降りてから、後ろを振り返った。するとそこには自分がいた。温度や圧力が厳密に管理された水槽があった。そして、その中でぷかぷかと浮かんで漂う金属の器が見えた。
・・・・。絶句。
その金属の器の中身こそ私自身=脳核部だ。
繋がれたチューブやコード類が見える。まるでそれらに拘束されているみたい。そうでなければ、今の私は首輪を鎖を繋がれた犬みたいなもんじゃないかと、思い知らされて気分が滅入る。
それが今の私。身体を再び失ってしまった私。そしてこれが不愉快なことに、私の本当の姿。あの金髪と青い目の外観は作り物で、すべてはまやかしなのだ。
何だか、今の私は飼育中の熱帯魚みたいだな。と自虐的に囁いた。
実際、水槽は低深度級の深海魚が住めるくらいに管理が行き届いている。それは脳核を電磁波、化学物質、細菌、ウイルスなどの外界には有り触れている危機要素による汚染を避ける努力の結晶だ。
擬体保持者が持つチタン外装の脳核は、最も外側の層(=外殻)には、圧力が掛けられた状態で着色生理用食塩水が詰められている。もし、外装部に『穴』が出来た場合、そこから着色水が勢いよく漏れて不具合を視覚的にも知らせる仕組みになっている。また、水槽自体もほぼ拮抗する圧力が加えられながら、微妙に陰圧に設定されているので、着色水の流出が素人目にも判定できる工夫が成されている。
「自分で自分の脳核の状態を監視できるとか、あり得ない」
仮想現実へのフル・ダイブは、以前は生理的な嫌悪の対象だった。でも、今はこれでも無いよりはマシな機能だと思える様になった。現金なモノだ。擬体がなくてもこの機能の御陰で、情報的と言う制約はありながらも、何処へでも行ける(気がする)という"自由"を享受出来ているからだろうな。
この世界に最初からある物、神が造ったかも知れない物とは、『現実世界』だけである。しかし、今では人間の想像力によって、新たに二つの世界が付加されている。それらは『仮想現実』と『拡張現実』で、あくまでも『現実世界』のオマケであり、摸倣に過ぎない。人間はまだ神ほどに大胆で広大な想像力を持ち合わせていないので、それらは二つとも習作として、神の猿真似をして造ってみた程度の半端な世界に過ぎない。
まず人間が最初に創造したのは『仮想現実(VR)』だった。それは意図して造ったものではなく、気が付いたら結果として成立していた副産物的な世界だ(アラン・チューリングやその同輩達はおそらく、その可能性に気付いてはいなかったと思うよ)。同異義語として"電脳空間"という古語が筆頭に上げられるだろう。二進法からなる虚構の世界なのだが、そこでは人が理を自由に決められる無限の可能性を秘めた世界でもある。その一方で、自由を成立させるためには、人自身が多くの辻褄を合わせる努力が必須となる。さもなければ、そうそうに行き詰まって停止してしまう。
それを人は"バグ"と呼ぶ。辻褄の合った法則設定を怠ったり、失敗すれば、その『仮想現実』は成立しない。だから、これを造るには相応の知識と経験が不可欠でもある。
人間は、最初はその世界へ平面的な文章の入力と出力によってのみアクセスしていた。20世紀後半には、CGIなどの技術の御陰で、チャットや会議室への参加するなどの手段を用いれば、『仮想現実』での不特定多数の人間同士の出会いが可能となった。
人間はそれには飽き足らなかった。やがて、自らが『仮想現実』の中へ入る手段を探し始めた。そうして最初に誕生したのがVR(仮想現実)ヘッドセットなどの機具だ。それらは一様に人間の五感を経由したもので、あくまでも仮初めのアクセス術だった。
それらによって『仮想現実』における活動の幅は飛躍的に広がった。
『仮想現実』とって、『現実世界』と言う存在はあくまでもパクリ元に過ぎず、大して重要な要素ではない。
しかし、それをつまらないと思う者が現れ始めた。彼らは『仮想現実』を『現実世界』そっくりに仕立て始めた。
同時に、GPSの普及によって、『仮想現実』を仕立てること無く、『現実世界』をそのまま利用することが可能となった。そうやって創造されたのが『拡張現実(AR)』だ。『現実世界』の上のGPS座標に、意図したデータをリンクさせておけば現実的な仮想世界を体験できるようになった。
その後、人間に五感を経由せずに『仮想現実』へアクセスする技術が確率された。人間の脳と『仮想現実』をA/D・D/A変換によって繋ぐダイバー技術だ。それはサイボーグ技術などと上手に混ぜ合わされ、人間は初めて重力1G、気圧1hPa、可視光下限定の視覚、音速の限界などの現実世界とは異なる環境を体感できる様になった。
『現実世界』、『仮想現実』、『拡張現実』の統合は必然となり、緩やかに結びつきはじめたのが、私達が生きる2030年代だ。これらの技術は、運転などの作業のスタイルを今までのそれから大きく変え始めている。
それらを併用することでコミュニケーションの効率が上がり、誤解をかなり減らした・・・わけではないんだけどね。人間は馬鹿だから、折角稼いだマージンを浪費するんだ。だから、スタイルは変わったけれど、昔ながらのコミュニケーション・トラブルはまったく解消されていない。
仮想現実は拡張現実とも重なる様になった。だから、全身麻痺状態の人でも脳が機能していれば、現実世界にかなり近い仮想現実の中で自由に動くことが出来た。また、役所関係の雑務や通信販売の注文なども自ら行えた。いや、仕事による収入の確保すら可能だった。
生身の人々はそんな彼らを"電脳世界の住人"と呼んだ。そして、生身の人々でもVR(仮想現実)ヘッドセットやAR(拡張現実)ヘッドセットがあれば、"電脳世界の住人"達とのコミュニケーションが可能だった。
簡易プラグインすら施されていない完全な生身の、私の葉子ちゃんであっても、それらの機具を使用すれば、今は"電脳世界の住人"となっている私とのダイレクトなコミュニケーションは可能だ。しかし、彼女はそれではなく、私の脳核との直接対話を望んでくれた。私にはそれがちょっと嬉しく、誇らしかった。
もちろん、どうがんばっても、仮想現実側から現実世界への干渉はできないけどね(ただし逆方向、現実世界からの仮想現実世界への干渉はできる。不平等だけと仕方ない)。葉子ちゃんは、私と同じでそれが嫌だったんだと思う。
兎に角、今の私の側から現実世界は見てるだけ。見てるだけ。見てるだけー。TVの画面の中の世界みたな、近そうで実はとっても遠い世界だ。
スリッパはどこに放り出したっけ? もしもだが、AR(拡張現実)ヘッドセットかVR(仮想現実)ヘッドセットを付けた葉子ちゃんが、こちら側を覗く様なことがあれば、それはきっと大変なことになる(私の社会的信用と言うものが崩壊してしまいそう)。
実はICU内の床の上は・・・仮想現実的には、たくさんの私に私物にデータが散乱してすごいカオスな状態になっている。読みかけの漫画、映画とかゲームが入ってる記録メディア(コンテンツ・ファイルの具象化)、着替えて放り出したままの服とかが、辺り一面に散らかっている。
その中から学校の制服のデータを探し出す。現実じゃなくたって、アイダさんにこのジャージ姿を見せるわけにもいくまい。
ICUで最低限の身だしなみを整えてから、天叢雲会病院サイバネティクス研究病棟の仮想現実応接室の方へとスリッパでペタペタと歩いて行く。これは現実の病棟には無い、仮想現実の方にだけ用意された施設だ(仮想現実の住人が、拡張現実の住人からの覗きを防ぐには、現状では隔離スペースを作るのがもっとも効果が高いとされている)。
たしか、場所は地下サーバー内の空きスペースだったよな。
第二小脳、それで正しい?
ーーー間違い有りません。ガイドしますか?
お願い。
天叢雲会病院が設定している仮想現実は、一律に1Gの重力や1気圧の大気という環境。現実世界とまったく同じ設定で作られた嘘の世界だ。それは、ここでは現実世界、拡張現実、仮想現実の三軸が重なって作られているからだ。現実世界と拡張現実だけでなく、仮想現実の方も死角の無い院内カメラ網から収集される情報で風景がアップデートされる。
だから、病院内では辺りに誰も見えないからと言っても気が抜けない。例えば、AR(拡張現実)ヘッドセットを付けみたら、実はそこにはダイブ中の誰かが歩いているかも知れないのだ。そのため、会議などをする際は電波暗室化する阻害装置のスイッチを入れる必要がある。
さすがに現実世界、拡張現実、仮想現実の三軸が重なって作られている施設はまだ一般的ではない。
また、有料/無料に関わりなく仮想現実空間だけ、と言うのは有り触れている。エンターテインメント重視の仮想現実空間の中には無重力空間とか、水中とかいう設定のものあるらしいけれど、私はまだ入ったことがない。
それじゃ、仮想空間ゲームの意義はなくなるじゃん。非現実にまで現実感を抱きたくない。ゲームでは勝てるようになるかも知れないけれど、それ、ゲーム本来の楽しみ方じゃないから。
そういう訳で、私はゲームはVR(仮想現実)ヘッドセット支持派に属している。
仮想空間とは、やっぱり嘘の世界だ。ありえない世界をいくらでも作れるし、リセット出来るんだ。創造性次第で多数のヴァリエーションを生み出せる。だって、設定数値を弄るだけだから。まあ、背景美術とかに拘るのもありだけど、それじゃ解像力競争に没頭してた20年前のTV業界の失敗の二の舞になるよ。
でも体験することのすべてが嘘という訳でもない。例えば話し合って出した結論や、分かち合った経験は、現実世界のそれと大した違いはない。つまり、仮想現実に慣れた物同士であれば、互いに信頼や連帯感を構築することも可能だ。
嘘にもなるし、真実にもなりえる。とどのつまり、すべては受け手次第ということでもある。
さて、アイダさんが話してくれるのは嘘か真実か? 私はそれをどう受け取るのか?
私は応接室のドアをノックする。
「アサマです。アイダさんはいらっしゃいますか?」
中から声が聞こえる。
「どうぞ。先に入って寛いでますよ」
うわ。嘘臭え。でも、記憶通りの白々しいアイダさんらしい。今なら解る。そういう個性の人なんだ。つまり、扉の向こうにいるのは絶対に本物だ。
ドアを開けて中へ入る。アイダさんが三人掛けのソファーの端で肘掛けに寄りかかって座っている。本当に寛いでるよ。この人。それとも演出なのかな?
私は正面にある一人がけのソファーに腰を掛けた。
「先日は私達の命を救っていただきました。心から感謝しています」
私はまずお礼を伝えた。私が今、水槽の中に浮かびながら退屈出来るのも、全てはこの人の御陰である。この人が来てくれなければ、まだ葉子ちゃんと一緒に瓦礫の下にいたかも知れないのだ。
案外、化石化して一億年後に発掘されて、生き物と機械が共存していた例、と誤解された論文と一緒に学会で報告されて、ゆくゆくはどこかの博物館の入り口にオブジェ的に飾られていたかも知れないな。そういうのも面白いかも。うん、永遠の愛の形の一つかな。でも、南極物語の主役犬、タローとジローの様に分けて、別々の博物館に飾るってのは無しよ。
「いえ、お互い様ですよ」
アイダさんは本気でそう思っている様だ。多分、良い人なんだ。軽薄そうな外観に惑わされてはいけないね。
しかし、いろいろと解らない事が多い。なんであの時、アイダさんは軍事衛星の中にいたんだろう。あれ絶対に衛星にフル・ダイブして、自分の身体の様に全機能を自由に利用してた。多分、全能のパスとドライバーを常時に保有しているんだろう。
でもね。地表からかなり離れた衛星軌道に未登録衛星があるだけでも不思議なのに、それを利用できるってどういうこと? いったい何をやっていたんだろう。ちょうどこっちを覗いている真っ最中だった。地上での分解能1mmという超高画素撮像素子、高解像レンズ、高速画像処理エンジンを併せ持つ、スパイ衛星だったぞ。ストーキング?
ん? でも変だな。スパイ衛星なら、低軌道に配置するもんじゃないの? 被写体からの距離をわざわざ長く取るメリットがまったく思い当たらないよ。
「さて、いろいろと疑問に思っていることもあるかと思いますので、それを伝えに来ました。こっちもやっと落ち着いて来たので・・・。お見舞いに来るのが遅くなってすみません」
「そんなことないですよ」
「それと一番最後で良いので、私の質問にも応えて貰えると助かります」
「はい」
やべえ。色々と法律を踏みにじりすぎたからなあ。不正アクセス禁止法違反で、普通なら禁固何十年という重犯罪に相当してるはず。初犯だから執行猶予ある?
個人の端末を500基以上制圧、天叢雲会病院のサーバーの不正利用、東電の社内イントラネットの不正利用、そして未登録スパイ衛星の不正利用。難民認定はもうもう無理かな? ぜんぜん後悔はしてないけど。
「私はどうなっちゃうんでしょうか?」
素直に、一番気になることから質問してみた。
「どうにもなっちゃわないと思いますよ」
「へ?」
拍子抜けして変な反応をしてしまった。
「ああ、多分、事態が沈静化した後に、内閣総理大臣の名前で表彰状が出ると思いますよ。最低でも福島県県知事が表彰すると思います」
「何を表彰するんです? ハッキング・スキルをですか?」
今度はアイダさんが不思議な反応をした。
「貴女が作成した要救助者のGPSリストで一体何人の命が救われたかご存知ですか?」
「知りません」
「現在の所・・・287人・・・今増えました288人が一命を取り留めています。全員、瓦礫の下から掘り起こされましたよ」
「・・・・」
私としては複雑だ。最低でも500基のGPSのリストになっていた筈だ。つまり、1/3は助からなかったことになる。もう少し、早く外界へとコンタクト出来ていればもっと多くの命を救えたかも知れない。
「確かに・・・間に合わなかった方もいますが、それでも遺体だけは確実に遺族の元へ届けることができています。さらに、今この瞬間でも救助隊は貴女の送ってくれたリストを頼りに生存者を探しているんです」
「はあ」
「もっと誇りに思って良い。貴女は誰にも出来ないことをやってのけた。しかも、自分の命も危険に曝されている状況下でだ」
「はあ」
「貴女が即興で成功させた要救助者座標特定の方法は、関係機関によって細部まで効果や作業効率を"If"を交えて完全に検証されます。そして、今後の災害救助作戦で検討される標準的な作業の一つとして取り入れられるでしょう。その際は、各省庁へのご協力のほど、よろしくお願いしますよ」
アイダさんが何かのデータ・ファイルを応接室内で再生した。
「"みちびきIII級情報衛星"、表向きには日本版GPS用の中軌道専有衛星として開発された"みちびき"の孫に当たる高軌道専有衛星です。貴女がハッキングしたのはこちら。日本国・航空/宇宙自衛・軍情報衛星"あさぎり8号"の詳細です。あ、表向きには自衛三軍の連携組織ですから、聞き慣れない組織名ですよね」
「はあ・・・っ(汗)」
「疑っている通り、これは紛う無き軍事衛星ですよ。ただし武装はゼロです。普段は隣国上空・・・こいつの場合は旧満州から極東ロシアを監視しています。しかし、あの時は会津の真上に無理矢理持ってきていました。一番近くにあったので」
「はあ」
「あの時、私はEP-2という飛行機に身体を預けて、"あさぎり8号"へとフル・ダイブしていました。目的は瓦礫に下に埋まっている要救助者の捜索とズレた地層に対するGPSの振り直しです」
「はあ」
「赤外線フィルターなどをこねくり回してレイヤー化すれば、何処でどのくらいの地下に何人が閉じこめられているかを検出できるんじゃないかと努力してたんです。しかし、たくさんの火事が起こってしまって、赤外線系はすべてホワイト・アウト。どうしたものかと思案していました」
「はあ」
「で、低軌道まで"あさぎり"を落として、可視光パッシブやX-バンド・アクティブで精密走査できる様に上の方へ掛け合っている真っ最中に、貴女が破城棍で城門をたたき割って突撃して来たんです。驚きましたよ。無理矢理に腕をもぎる様に一部の機能を持って行かれた訳です」
「あー。すみませんでした。痛かったですか?」
「いえ、驚いただけです」
「良かった」
「そして、こちらのリアクティブ・シールドの攻撃を喰らいながらも、果敢に私が撮影した地上写真を一枚コピーして行きました。で、どこの何奴かと思って通信を辿ってみたら見知った擬体IDでした。それで話しかけてみたわけです」
「ごめんなさい。泥棒しました」
「とんでもない。で、同時に貴女が送信した要救助者GPSリストが私のメアドにも届きました。あとは解ると思いますが、全バンド走査を用いてGPS地点に生存者が高い確率で埋まっていることを確認した上で、そのリストをエライ人に送って、各救助隊の派遣先をそのまま割り振ってもらいました」
「はあ」
「こっちはでまったく検出できなかったもので」
「はあ」
「で、私は"あさぎり"で貴女と葉子さんの熱源を確認して、アサマ先生に連絡してEP-2でそのまま現場へと向かって、二人の英雄を救助するという栄誉に授かったわけです。会津高校では火事は起きていなかったのが幸いでした」
「英雄、ですか?」
ものすごい違和感だ。泥棒を英雄と呼ぶのは、それが義賊であった場合だけだ。私は葉子ちゃんを救うためだけに、無茶苦茶に横車を押しただけなのだ。でも、アイダさんは配慮無しで突進してくる。止めて欲しいよ。
「そうです。あなたが作成したリストの御陰で再会できた家族、恋人、クラスメート・・・ああ、GPS付き首輪をしていた犬と飼い主というケースも1件ありましたけど・・・彼らは一様に貴女に感謝していますよ」
「私は不正アクセスを咎められて、逮捕されたり、国外退去させられるものかとずっと怯えていました。だから、ほとぼりが覚めるまで擬体が戻ってこないのもありと思ってました。まさか、脳みそだけの状態で日本から出て行け、と言われないと思ってたので」
「ああ、それは大丈夫です。すべてを知った朝霧和紗氏が、貴女の一件はすべて預かると地震の翌日未明に宣言しました。あの人を敵に回すほど愚かな人間がこの国の指導層にいるとは思えません」
「どういうことなんですか?」
「我々の"お母様"が貴女の勇気を全面的に支持したと言うことです」
「朝霧和紗氏とはそれほどの影響力を持ち合わせているのですか?」
「例えば私が情報衛星"あさぎり8号"へフル・ダイブできるのも彼女の御陰です。みちびきIII級がすべて実装しているインタープリティング・フィルターはすべてお母様のお手製です。それで軍管轄の物は"あさぎり・シリーズ"という愛称を与えられているんです」
「無罪放免、と考えて良いんですか?」
「良いんじゃないですか? ただし・・・」
アイダさんは少し間を置いて続けた。
「どうやってたったナノ・セカンドで私が専有していた"あさぎり8号"へ侵入出来たのか・・・それだけは教えて戴きたいんです。それほどに大きなセキュリティー・ホールが開いていたんでしょうか?」
なるほど。これが後からすると言っていた質問か。誠心誠意で応えよう。
「演算はすべて天叢雲会病院のスーパー・コンピューターに任せました。ツールは一般的に出回っているshiva_bipassとUNIXターミナル・コマンダーを使いました。それと第二小脳が、私が普段使用している世界中に散らばっている無料・有料サーバー上に保存してあるスクリプトやソフトを、倫理規定無しの無制限で使用しています。どこを突破されたかそちら側のログに残っていませんか?」
「はい。ログがそこの部分だけ壊れています。後でハッカー的に修正されたのでなく、その場で同時に壊されています。しかも、壊された事を自動チェック機能が自動検出できないんです。それが大きな問題になってます。いったい、何をしたんですか?」
できるだけ落ち着いて伝えるべく努力する。馬鹿にしていると誤解されない様に。
「実は、助けてもらっただけなんです」
「どういうことですか?」
「第二小脳、天叢雲会病院のスーパー・コンピューター、情報衛星に"お願い"したんです。"私の友だちを助けさせてください"って。何度もお願いしたら、感覚的には情報衛星が"仕方ないな。今回だけだぞ"って感じで扉を開けてくれました。東電のイントラネットも"どうぞ"って道を空けてくれたんです。信じてくれますか?」
アイダさんがリアクションするのも忘れて、動きを止める。少しの間、何かの演算をしてみたい。それが終わって帰ってきた。
「信じますけれど・・・ウチのマシンが困っている少女に対して紳士力を発揮して手を差し伸べた、と言う話ですか?」
「その様に感じています」
詰問する感じではなく、そういうこともあるのか、と驚きながら、質問は続く。
「主観的にはそう感じると納得しました。しかし、客観的にはどの様にお考えですか? 再現性はありますか?」
「今やれ、と言われても無理です。あの時は何故か"そこに穴がある"と解ったんです。それがまるで彼らに教えてもらったみたいだと感じるんです。あまりに都合の良過ぎる話に聞こえるしょうが、あれは限界まで追い詰められた者だけが刹那的に取得できた直感だったと思います」
「もう少し、詳細を」
「火事場のくそ力という奴です。一般的に生身では非常時にあり得ない怪力を出すことがあるそうですが、擬体保持者の場合は身体がないので、きっと脳がありえない演算能力を発揮するんじゃないですか?」
「・・・天叢雲会病院のスーパー・コンピューターを最適化して全力演算したとして、最短で34時間かかるとシミュレート結果が出ているんです。それと人間の脳が補助するだけで、ナノ・セカンドでやりとげるなんて・・・あり得るのか・・・」
アイダさん呆れてるな。嘘とは思ってないけれど、上にどうやって説明しようか悩んでる。
そうだ・・・。
「じゃあ、私がハッキング作業をしていた当日のPM3時40分00秒〜3時46分00秒の記憶をアイダさんに"同期"しましょう。そちらにコピーしたものを、隅々まで検証してもらって構いません」
「いいんですか?」
「命の恩人に隠す事なんかありません」
半分嘘だ。PM3時46分の後は葉子ちゃんとのプライベートなイベントが発生しているので、その後の同期は絶対に認められない。
「じゃあ、お願いします。助かりますよ。一つ"借り"とさせてください」
「私の方こそ"借り"を返す立場ですよ」
私はアイダさんへと手を伸ばす。アイダさんも。仮想空間だから本当は嘘なんだけれど、手と手が重なって情報が流れる。同期はナノ・セカンドで終了した。今の同期で取得した記憶で、アイダさんが困惑してる。私の言い分に嘘はない、と納得するしかないと悟ったわけだ。
「今、私の評価も添えて上にすべての情報を送信しました」
「ご苦労様です」
アイダさんは人差し指を口の前に立てて、思い出したかの様に付け足した。
「あ、第二小脳保持者が衛星にフル・ダイブできることはまだ秘密しておいてください。各国も近い将来追いつくでしょうが、今は日本だけの技術なんですよ」
「約束します」
そこで突然、彼の態度が少し変わった。さっきまでの白々しさが、まるで雲が四散するかの様に消え去った。そこに居たのはただ真摯に感謝を伝えようと努力する人だった。
「そうだ。こちらもお礼を言わなければいけなかった」
「はい?」
「貴女が来なければ、私は間違いなく・・・そう、"あさぎり8号"を大気内へ落とそうとしてたんです」
「?」
「実はあの時、すでに上の承認無しで、独断で衛星を減速させて低めの軌道へ遷移させている途中だったんですよ。だから、出力の低い東電のパラボラ・アンテナでも"あさぎり8号"のドアをノックできたんだと思います。普通なら、民間アンテナの出力で高速データ通信が維持できるほどに低い軌道にいる衛星じゃないんです」
「はあ。しかし、またなんで?」
「実は、あの時は事故を装って、極低軌道への投入を狙ってました。上層大気に突入させて、オーストリアのオイゲン・ゼンガー博士が言ってた"水切り"の要領で突入と離脱を繰り返すことで、低い高度で第一宇宙を維持しながら被災地を観測したかったんです」
「はあっ?」
「その場合・・・大気の圧縮熱のダメージですぐに観測機能が低下します。10周も会津の上させれば姿勢制御も不能となる。しかし、それだけの時間だけ可視光線で多軌道観測できれば、瓦礫の下の状態のマッピングデータを繰り上げる自身があったんです。しかし、それに挑戦せずに済みました」
「・・・・」
「もし挑戦してたとしたら、多分、"あさぎり8号"は今日の今頃に燃え尽きていたでしょう。インドシナ半島上空で大気圏に突入して、太平洋上空で燃え尽きるコースになったんじゃないかな? それとも何処かのヤバイ衛星に激突なんて言うスペシャル・イベント発生も有り得たかも知れません」
「ものすごいお金を使って、H3Aロケットで打ち上げた情報衛星じゃないですか!」
「そこに助けられる命があるなら、それを出来る誰が必ずやらなければいけなかったんです」
「すごいですね・・・」
「すごくないですよ。結局、貴女の御陰でちゃんと静止軌道まで戻すことが出来ましたし。でも、こういう時こそ本当にお互い様、なんじゃないですか? 貴女がやったこともそれと同じです。出来る立場にある人間が責任を持ってやり遂げなければいけないんです。それとも、あの状況で傍観者に徹する自信はありますか?」
「無理です!」
−−−やだ。この人、本当に良い人だ。
「結果として、貴女は、"あさぎり8号"、この国の情報収集継続能力、そして私の立場をも救ってくれたんです。本当にありがとうございました」
しばらく沈黙。こんな人が本当にいるとは驚いた。こういう人こそこの国の財産だな。私は偶然にも、散財を防いだ訳か。
そして、アイダさんの気配はいつもの白々しい方に戻った。
「ところでアサマさんは空を飛んでみたいとは思いませんか?」
「?」
これは抽象的な質問で、実は今回の訪問の真意が込められているんじゃないかと直感した。でも、アイダさんはそれを即座に否定した。
「文字通りの意味です。本当に鳥になって空を飛んでみたいとは思いませんか?」
「まあ、確かにそういうことを子供の頃に夢見ましたけれど・・・」
それを聞いてアイダさんの表情に変化はなかったけれど、何故か心底喜んでいるのが見て取れた。
「私達にはその夢を簡単に叶える手段があるんですよ」
彼はそう言うと胸ポケットから小さな箱を一つ取り出してテーブルの上に置いた。手に取ってみるとデータがコピーされる。どうやら、何かのアプリだった様だ。
「もし、興味がおありでしたらこのアプリとドライバーをそちらのサンドボックスエリアでかまわないので試装して見てください。便宜上アプリと言いましたが、実施的にはちょっと大きなソフトウェアです。しかし一旦ロードした後は、ATAのPIOのMode1でもリアルタイムで実行可能です」
「はあ・・・」
それを告げるとすべての用事は終わった、とアイダさんは、早々に天叢雲会病院の仮想空間からログアウトして行った。本当に、目的以外のことに興味がない人だな。まあ、それもまた個性ってやつか。
あ、いけない!
そう言えば、アイダさんがどういう人なのか、尋ねるのすっかり忘れてたよ。やられたっ! やっぱり、あの人は一筋縄では行きそうにないなっ!




