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天の魚、地の翼。  作者: すにた
第一章「起」
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2037年1月15日(木)、PM4時15分、私立会津高校の保健室(だった瓦礫の海)

 ナヲちゃんが全く動かなくなった。スリープモードに入ると言っていた。絶対にまた会えると約束してくれた。


 実は、ナヲちゃんが嘘付いてることは気付いてた。でも、敢えて気が付いていない振りをしたんだよ。だから結果として私も貴女に対して嘘をついちゃったんだ。


 でも、でも、それは貴女が何かに追い詰められていて、どうやらそうするしかないと確信しているのを察したからだよ。そうしないと、貴女が安心して意識を閉じられないと、悲鳴(ひめい)染みた本音が伝わってきたからだなんだよ。


 盆暮れの辺りから貴女との間で「仕方ない」が流行っていたね。だから、きっと今日も仕方ないよね。


 ナヲちゃんにはもう余裕がなかったから、気が付けなかったんだよね。・・・実は貴女の擬体は治療できるのかどうか判らないくらいボロボロに傷付いていた。


 まず、ちょっとした動きで聞こえてくる雑音と振動が凄かった。摩擦の音だけでなく、絶え間なく何かがショートして焼ける音や臭いがしてた。全身に触れる擬体の温度の分布も無茶苦茶で、火傷しそうなくらいに熱いところ、氷みたいに冷たいところがいくつもあったんだよ。それに擬体から少しずつ漏れ出る何か・・・液体が私の身体を絶えず湿らせていたね。


 何より。声が普通じゃなかった。なんか、相田さんのスピーチソフトを使った会話みたいだったかも。きっと顎関節とか、いろんな所が正常に作動しなくなってたんだと思う。きっと忖度(そんたく)の域にあった私たちだからこそ、何を言葉で伝えようとしてるのか、お互いに理解し合えたんだよ。


 貴女の声はそのくらいに壊れてたんだから。感謝して欲しいわ。きっとそんなこと察する暇も無く意識を失っちゃったんでしょうけど。


 擬体から貴女が居なくなってからどれだけ時間が経ったんだろう? 私に密着するナヲちゃんの擬体。私への酸素の供給はまったく問題なく機能しているよ。ありがとうね。


 私はナヲちゃんが大好きだよ。


 だからかも知れない。判るんだ。今、私を守っている擬体には、実はナヲちゃんが存在していないよね。何故かと問われたら、全く説明は出来ないし、証明に足りる根拠もない。


 でも断言できる。ここに"ある"のは、今私が口吻しているのは、さっきまでナヲちゃんが宿っていた抜け殻に過ぎないんだ。まるで人形だ。何の温もりも感じない。


 ナヲちゃんが以前に言っていた、擬体保持者は「人になる努力を怠れば人形のまま」でいるしかない、と言うのはこういうことなのか。良く分かったよ。あの時は哲学者っぽいと感心したけれど、そんなことはない。観念的な例え話でなく、簡単に観察可能な自然現象の一つだったんだね。


 私は貴女の身のこなしに魅了されてるんだ。出会ったときからずっと、もちろん今でも大注目してるよ。立てば芍薬、座れば牡丹。その姿は誰よりも美しく、見る者を魅了せずにはおかないんだ。本当に思ったんだよ。私は貴女であればって。私も貴女を飾る美しさの一つになれればって祈ったんだよ。


 あ、泣けてきた・・・。


 誰も聞いていない。だから遠慮無く泣いてしまうことにした。


 私は生き残る。そして、貴女から絶対に離れなたくない


「ぐっしゅっ。ぶえっ!」


 ごめん。クシャミしちゃった。唾とか飛んだよね。ナヲちゃんの顔に付いちゃったかな? もう一回(もっかい)ごめんね。


 真っ暗な閉鎖空間の中にいると気が狂いそうになる。怖くてパニックに陥ってしまえば少しは気が紛れるかとも思える。でも、そんな自暴自棄にはならない。だって私は貴女と約束した。また会おうって!


 だから、私はどんな事をしてもこの状況を脱出してみせるから。良く分からないけれど、今も貴女が私の横に居て、私を守り続けてる。貴女の魂は擬体の中にいなくても、私の魂に寄り添って居てくれていること、肌で感じて分かっているよ。


 きっと、ナヲちゃんが意識を失う時に耐えていた怖さは、こんなもんじゃなかったよね。だから、今は身体を失って魂だけになってしまった貴女を、私が守ってあげないといけないんだ。そのためには今だけでも強くあらねばならない!


 ナヲちゃんが眠ってから、どれだけ時間が経過したんだろう。1分しか経っていないかも知れないし、もう1時間以上経ったような気もする。もう時間の感覚がなくなっちゃったよ。


 何か辺りがうるさくなって来た。カーンとかいうドーンという音がさっきから脳天に突き刺さる。腕を動かすスペースがないから、両耳を塞げない。これじゃ鼓膜が破れちゃうよ。


 心の中で文句を繰り返していると、今度はすごい振動と音が伝わってきた。

 また地震が来たんだろうか?

「大丈夫。ナヲちゃん、大丈夫だからね」

 上下の歯がガチガチぶつかり合っているので、全然大丈夫そうじゃない。

 それでもナヲちゃんにそう思って欲しい。

 今の私にできることはそれしかない。

 大丈夫、何があっても一緒にいるから。


 そう思って最後の一瞬を覚悟して身構えていると、右方向の視界の隅がぼーっと明るくなった。

 続いて、がっつんと鈍い擦るような音が聞こえる。その後でサラサラとナヲちゃんの頭を伝わって砂みたいなものが顔の上に落ちてくる。


 誰かが助けに来てくれたんだ。叫ばないといけない。私たちはここにいると伝えなければならない。でも喉がからからで声が出ない。でもなんどか絞り出す。


「あ"ーーーーーーーっ!」「あ"ーーーーーーーっ!」「あ"ーーーーーーーっ!」


 私たちがここに居る。助けて! そう怒鳴ったつもりだったんだけど、多分できてなかった。


 それなのに突然に、私たちを覆っていた天井が力任せに引きはがされた。


「お待たせしました。ナヲミさん。森さん」


 そこには巨大な二足歩行パワーユニットに組み込まれた相田さんがいた。カフェ『朝霧』であった擬体の人の相田さんだ。ナヲちゃん。連絡が付いたって言ってたっけ。


 辺りは真っ暗。どうやらいつの間にか夜になっていた様だ。いや、ナヲちゃんと保健室に居た時、もう辺りは暗かったな。


 相田さんのパワーユニットのボデイに備え付けられた、ものすごく明るいライトがこちらを照らしている。あまりに光線が強すぎて辺りが何も見えないくらい(相田さんにこちらが見えていることの方が重要なんだろうけど)。


 影のシルエットだけで判断すると、迷彩模様で彩られた大きな機械に日本の腕で天井をめくり上げているみたいだ。続いて、天井を持ち上げる支点あたりの液体状の何かを放出した。それはすぐにパリパリと音をコンクリートの様に乾燥した。どうやら瓦礫固定用のシーラントらしい。


「瓦礫の固定完了!」


 そう大声で誰かに伝えてから、相田さんが巨人の様な重機の腹部から飛び降た。生身では絶対に持ち上げられそうにない巨大なサバイバル・パックを軽々と持って近づいてくる。


「ナヲちゃんを助けて! ナヲちゃんがっ! ナヲちゃんがっ!」

 私は水に溺れてもがく猫の様に喚いていた。もう誰でも良い。何でも良い。とにかくナヲちゃんを何とかして上げて欲しい。飛び起きて、辺りからできる限りの注意を引こうとすると、相田さんに肩を押されて、動きを止める様にとジェスチャーと骨伝導スピーカーで伝えられた。


「動かないで! 森さん、ごめん! 今は一秒が惜しい!」

 相田さんがサバイバル・パックからいろんなチューブを引っ張り出している。気が付くと、朝間先生の家のお手伝いさんの百合子さんがすぐ横に控えていた。ナヲちゃんの擬体を真ん中にして、挟んで相田さんと百合子さんが対峙している。


 百合子さんは慣れた手つきで、ナヲちゃんの擬体の肌で覆われた端子類をメスに様な機具でえぐり出す。


「頸椎、および背面の端子はすべて使用不能」

「靴脱がせて。足の裏に踵を破壊して動力ケーブルを直接繋いでください!」

「足の裏、動力ケーブル接続。深頸(しんけい)リンパ(せつ)左右、酸素供給ケーブル接続」

「了解。擬体を強制再起動します!」


 必死に処置する二人。私に今出来ることは何もない。ううん。見守って、祈るくらいしか出来ることはない。


「脳への酸素供給の開始を確認」

「了解。移動可能を確認。朝間先生、ヘリを降ろしてください!」


 相田さんが空に向けて明るい棒を振りかざしている。百合子さんはナヲちゃんの擬体にコード接続された医療用電子パッドを睨んで、殴るようにタッチ操作をしている。


「マイクロマシン注入開始します」

「ありったけ!」


 擬体に外観上の変化は起こらなかった。暗かったり、ものすごい照明が入り交じっていたので、目をこらしても正直、良く見えていなかったのだ。


「ログ確認。酸素供給停止から9分! 心停止から8分。第二小脳自己診断を完了!」

 百合子さんが手にしていた医療用電子パッドをチラ見しても、相田さんの顔はまったく変わらない。無表情のままだ。

 一方、百合子さんはと言うと診断結果を見ると一気に力を失って、床に両手を突いてその場にへたり込んでしまった。


 二人は同じ判断を共有できているらしい。怖い。ナヲちゃん身に何が起こっているの?


「ナヲちゃんは大丈夫ですか?」私は恐る恐る尋ねてみた。


 百合子さんは、瓦礫だらけの床に両手を着いて、しばらく項垂(うなだ)れたままだった。


 しかし、辛うじて私に向けて何とか片腕を持ち上げて、ゆっくりと親指を上げて見せてくれた。続いて、消耗し尽くしたことが一目で分かる表情を見せてくれた。その口元に、確かな微笑みを宿しながら。


「大丈夫。間に合った。脳に障害は残らない」

 相田さんが骨伝導スピーカーを使って、ナヲちゃん生還の事実を私に伝えてくれた。


「おかえりなさい」

 ゆっくりと伝えた。それと同時に、さっきまで人形その物だった擬体に、不思議な変化が生じた。彼女を取り巻く空気があからさまに変わった。それと同時に、"ナヲちゃん"がこの器に"再び"宿った様な気配を感じたのだ。


 これで安心だ。


 そう思ったら、私も完全に、精神的に腰を抜かしてしまった。張り詰めていた心の全てが一瞬で弛緩した。もしかしたらちょっと漏らしちゃったかも知れない。そのくらい、身体が一瞬だけ浮いたかの様に見事に力が抜けてしまった。


 そして、人間が配慮を受けた際には「ありがとう」と感謝を伝えると言う、人間社会ではとても大切な習慣をまだ実践していなかったことに気付いた。それは心の余裕を取り戻したということだったのだろう(ナヲちゃんただ一人が助かれば、「どんな犠牲を払っても良い」というのが本音だったわけだ)。しかし、まともな感情の起伏を取り戻してみると、それはそれで大事件となった。


 今まで力業で心の奥に閉じこめていた色々な感情が、爆発的に盛り上がって来る。怖さ、恐ろしさ、安堵、嬉しさ、ポジティブとネガティブの感情がごっちゃごちゃに、未整理なまま表層心理に次から次へと浮かんで来ては、氾濫する川の濁流のように心の土手を越えて溢れ出して行く。


「ありがろうっ! ごほっ。なをはんをたすけてくれへありあほうっ!」

 どんなに頑張っても、言葉にならない。泣いてるんだか、吠えてるんだか、咽せってるんだか、何だか分からないお礼の言葉を繰り返してしまった。


「葉子ちゃん、ウチの()の支えになってくれてありがとう」


 百合子さんが仰々しく頭を垂れた。どうやら、私は感謝されているらしい。


 それから、気を取り直したらしく、ナヲちゃんの擬体の応急処置を再開する。相田さんも何をするのか判っているらしく、さっきの様にナヲちゃんを挟んで片足を地面に付いてかがみ込む。


「SMFSC(バイオ燃料二次電池)、緊急停止(スクラム)作業開始」

「パラジウム・アノード引き抜き用意良し」

「酵素・アノード引き抜き用意良し」

「3、2、1、ゼロ!」

「カソード側で連鎖反応(チェーンリアクション)の停止を確認。緊急停止(スクラム)を宣言!」


 その宣言が出たせいか、迷彩服を着た人達が大量に押し寄せてきた。近くで待機していたらしい。航空自衛軍の人達みたいだ。どうやら、この一帯を掘り起こすらしい。私たち以外にも瓦礫に埋まっている被災者がいると見当が付いているんだろう。


 相田さんと百合子さんは、この場で行うべき全ての作業が終了したらしい。


 百合子さんがナヲちゃんにシーツの様なものをかけてくれる。そして担架の上に擬体ごと移動されてくれた後で、私を抱き起こしてくれる。そして、アルミ箔の様な布を肩から掛けてくれた。なんか、凄く暖かい。そうか・・・今は一月、冬真っ盛りなんだ。そう思うと、やっと寒さで身体が震えて来た。


 相田さんに支えられた私は、シーツの下で担架に横たわっているナヲちゃんの様子を確認しようと近づいた。


「お願い。見ないであげて」百合子ちゃんが肩を掴んで私を止めた。「今のあの()はとても他人に見せられる様な姿じゃないのよ。解って」


「他人じゃありません」私はその手をふりほどいた。

 ーーー家族ですから。


 私はふらふらだったで膝も腰も笑ったままだった。しかしそれでも、相田さんの支えも振りきって、自分だけの力でナヲちゃんの担架へ近寄る。そして、両膝を瓦礫の海の上に付いて、そっとシーツをめくった。


 辺りに立てられたたくさんの作業用ライトや、ヘリコプターから伸びてくるサーチライトが行ったり来たりして、よく見えない。もう日が暮れていたので、よく見えない。真っ暗で、よく見えない。


 そう思って目を凝らしていると、どこからかサーチライトの光線がやって来て、ほんの一瞬だけナヲちゃんの上を通過して行った。


 私は見た。


 さっきまであれほど近くにいたのに全然判ってなかった。


 見ようとしていなかったんだね。


 ごめんね。本当にごめんね。


 そこに横たっわっているのは・・・紛れもなくナヲちゃんだった。


 少し離れて見て、はじめてどんなことになっているのか解った。


 ナヲちゃんの顔は後頭部から側面にかけてかなりひしゃげた。


 キレイだった金髪は半分くらいが皮膚ごと剥がれて垂れ下がっていた。


 ナヲちゃんだ。私の命を救ってくれたナヲちゃんだ。大好きなナヲちゃんだ。


 私は涙を堪えて、そっと彼女の唇にキスそした。私からするのはきっと初めてだったはずだ。


「約束通りに1日で退院して来てね。絶対だからね!」


 ナヲちゃんの顔から私の顔を離そうとした刹那、ほんの一瞬だけ、義眼に強い意志が宿ったような気がした。


 私は確信した。私たちの日常はすぐに戻って来ると。そう、取り戻してみせる! 絶対に!


 気が付くと真上でヘリコプターがホバリングしていた。ナヲちゃんを回収して病院へ向かうのだろう。自衛軍らしい人達が、引き上げるために担架をロープに固定している。


 ここでお別れか。今度は何時会えるかな? としょんぼりしていると相田さんが誰にでも聞こえるように怒鳴っている。

「要救助者一人追加。擬体保持者の家族!」


 誰かが応える。

「了解。要救助者一人追加!」


 百合子さんが、チョッキの様なベルトだらけの服を着せてくれる。

「あの()に付き添ってくれるわね?」


「ーーーはい!」

 迷いはなかった。私は10秒後に自衛軍の人のお腹に強制的に連結されて、そのままヘリコプターに引き上げられた。


 ヘリコプターの行き先は、柳津町にある天叢雲会病院の研究所の方だそうだ。朝間先生の城だ。これで安心だ。


「私達は助かった」と確信して、もう完全に気分は上向き。これで世界は救われたっ! くらいな脳天気な状況認識に舞い上がって、鼻歌すら歌い出しかねないほど無節操に自ら授かった幸運を噛みしめて、浮かれ切っていた。


 さあ、ナヲちゃんが直ったらどこに遊びに行こう? また映画が良いかな? 泊まりがけに海に行くのもいいな。春になったら・・・


 そこでふと気が付く。果たして会津の街はどうなっているんだろう? と。二人の集合場所のルクラ・バックスは大丈夫かな? とも。


 つまり、さっきまでこの身に降りかかっていた心配事が、すべて他人事になったと確信したことで、ようやく周囲に気を配る余裕が出来た。


 地上はどんなことになっているんだろう? 興味本位で視線をナヲちゃんから外して、今更ながらやっと震災に見舞われた会津の街を自分の目で確認してみる気になった。


 開けっ放しにされたまま飛ぶヘリコプターのドアの所から外を見ると・・・


「!ーーーーーー」

 これが会津? なの?


 そこから見えた光景は、今まで体験したどんな非日常をも一瞬で吹き飛ばすほどのインパクトに満ちていた。本当に後頭部をハンマーに殴られたような衝撃に襲われた。


 何故なら、


 『惨状』としか良い様のない地獄絵が展開されていた・・・


 からだ。


 会津盆地がどこもかしこも瓦礫の山と化していた。盆地北部の喜多方市まで、所々から火の手が上がり、どす黒い煙が立ちこめている。盆地の縁の尾根からは雪が丸ほど消えている。ぜんぶ落ちて雪崩れたんだ。じゃあ、裾野の住宅地は雪崩れに巻き込まれているかも知れない。


 ヘリコプターみたいな飛行機がそこら中を旋回している。専門家達もどこから手が付けて良いか解らなくなるほど、すべてが壊れていた。


 その時突然にヘリコプターが大きく揺れた。

「地震です! 大丈夫、ヘリは落ちません」

 誰かがインカムで教えてくれた。


 ヘリは機体を軽くロールさせながら、進路を只見川に沿いへと変移した。


 大きなショックを受けた。ヘリコプターが大きく揺れたことにじゃない。『ナヲちゃんさえ救われれば悪魔とでも契約して、どんな代償を支払わされても構わない』と心の底から信じていた、自分の軽薄さが怖くなった。『どんな犠牲』がどんな支払いになるかなんて想像しもしなかった。


 もし、これが私が独断で支払わされた代償の顛末であったとしたら、どうお詫びしたら良いのだろうか!


 お父さん、お母さんは大丈夫なの? どこに?

 クラスのみんなは?

 万条さんは?

 アーちゃん、ヂェーン、チーちゃん!


 ごめん。知らなかった。周りでこんな事になってるなんて、ぜんぜん知らなかったんだ。私はそう心の中で言い訳を繰り返すことしかできなかった。本当に、ナヲちゃんのこと以外、誰一人のことも考えていなかったんだ。


 世界は私が思っていたよりも大きかった。

 私達二人の世界はあまりにも小さかった。

 だから私達だけが幸せなら世界も安泰! なんてありえないんだ。

 私達はあくまで世界の一部、

 世界に生かされている数ある末端に一つに過ぎないんだ。


 瓦礫の下にいた時は、私とナヲちゃんが世界で一番不幸だと思っていた。しかし、それは単なる私の主観的な感想でしかなかった。客観的にはもっと不幸な人達がいっぱいた。


 だって、このヘリコプターの床の下で、火事の炎から、余震で倒壊するビルの破片から、この冬の寒さから、今この瞬間も逃げ惑っている人達がいる。もしかしたら親しい人達ともう二度と会えないのかも知れない。今、何か出来ればまた会えるのかも知れない。それなのに、私は何もできない。


 ナヲちゃんは私を救った。しかし、私はまだ何もしていない。

 施しを受けただけで、まだ何も出来ていない。


 今まで勝手に思い描いていた自分と、今対面している本当の自分との間に、これほどの格差(へだたり)があったという証明、これほどあからさまに突きつけられると愕然とするしかない。


 これが私が生きてきた世界である訳がない!


 でも、私はすぐに考え直した。間違っているは世界ではなく、私の認識の方だと、勇気をもって受け入れようと決心した。何て浅はかだったんだろう。一方的な思い込みがもたらした誤解こそが、「この世界は良いことだけしか起こらない優しさだけに満ちた世界」と言う子供じみたフィクションを支える唯一の根拠だったと認めるべきなんだ。


 私が今まで生きてきたのはこんな世界だったんだ。

 知らなかっただけだ。

 こんな情け容赦のない、過酷な世界だったんだ。

 そして、今日のナヲちゃんはこんな世界の脅威から私を守ってくれたのだ。

 でも私はあまりにも弱い。

 私はこんな世界で・・・

 これからもこの愛する人を守っていけるのだろうか?

 共に生きていく資格はあるんだろうか?

 本当に恐ろしい。

 身体がこわばっていくのが判る。

 怖くて怖くて仕方ない。


 本当に無力である自分を確信すると、すべてが、それまでの日常すら恐怖の対象へと変化した。しかし、私はこれから、それに立ち向かって、理想の自分と本当の自分の乖離を解消する様に努めなければならない。


 その結果、その行為は耐えがたいプレッシャーに対して、自分を剥き身の状態で曝すこととなった。

 ここで心を折られる訳にはいかない。何が何でも持ちこたえて見せなければならない。だから、何か心の支えになるものはないかと目を泳がせた。


「そうだ! お月様!」

 藁をも掴む思いで、心の救いを求めて空を見た。月を求めて空を見回した。けれども、月は空の何処にも見当たらない。


 燃え崩れて行く街の上には、月の代わりに今にもこぼれ落ちて来そうなくらいにたくさんの星々が激しく煌めいていた。それらが集まってできた天の川が、壊滅状態にある会津盆地から上がる火炎の渦たちを覆い尽くす様な勢いで、この機会につけ込んでその存在感を示そうと暴れているかの様にも見えた。


 これほどまでにたくさんの星々が私達の頭上にあるとは、昨日までの私は知らなかった。そして、こんな不幸が私達に降りかかるなんて、昨日までの私は考えもしなかった。不幸なんてものは、実は・・・いつもすぐそこの闇の中に隠れていて、ちょっとした油断を突いて私達に襲い掛かって来るものだったんだ。私はそれに気が付ずに脳天気に楽しく生きてただけだったんだ。


 怖い。本当に怖いよ、ナヲちゃん。

 貴女は私のためにこんな恐ろしい不幸と戦っていてくれたんだ。

 そして私を守り抜いてくれたんだ。


 自分がさっき戦うと決めたばかりの敵の、本当の大きさを、初めて思い知らされてしまった。背筋が寒くなった。私は本気で怯んでいた。決心がぐらつく。ダメ。そんなんじゃダメだ。でも、膝のガクガクが止まらないよ。しかし、そこで転機が訪れた。


 気が付くと、誰かが動揺する私の手を力強く、頼もしく握ってくれている。


 えっ? 誰? と思って左手の方へ視線を落とすと、担架のシーツの下から腕が一本にょきっと生えて来ていた。


 良く見ると指はたった三本しか残っていなかったけれど、それは間違いなくナヲちゃんの腕だった。何度も握り返した貴女の掌の、あの尊い感触は絶対に忘れるはずがない。


 すぐそこの闇の中に隠れているのは巨大な不幸だけではなかったらしい。何と、弱い私を支えてくれるたった一人の味方もすぐ側にいてくれた!


 私も震える手で握り返した。

 その闇の名前はきっと"パンドラの箱"。

 すべての厄災が飛び出した後に、最後に残されていたものこそ希望。

 そして、その希望こそナヲちゃん、貴女だったんだね。


 今度こそ本物の決意が宿った。もう、この想いが揺らぐこともないだろう。何故なら、この決心は私一人のものでなく、私達二人のものに違いないから。


 これほどに残酷な世界であっても、この()が一緒に居てくれれば戦っていける。

 ナヲちゃんが居てくれれば、世界の有り様がこの有様でも生きていける。

 貴女が背負っている生身と擬体への複雑な想いもこれからは分かち合う様に、私は努力する。


 私は新たに獲得した家族のおかげで、この不幸だらけの世界へと立ち向かう勇気を獲ることができた。それこそが、人生の中で学んだもっとも価値ある知恵であったことを、この時の私はまだ知る由もない。


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