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ヴァンヴェール

 春になると、成田の丘陵からは緑の風が吹きあがる。それは人の心にも草木にも優しく吹き込み、傷ついた心を優しく包み込む。それに心を任せて祈るときに、静かな奇跡が生れる。


 その丘陵地を開いた空港にはVIPのための待合室がある。そこから見通せる窓の外には、新緑の風に吹かれる丘陵と広大な滑走路群が広がっている。

 その一室を借りて、富士重工業の知人たちによるアキラのための送別会が開かれていた。彼らに混じって、智也、圭太らアキラの高校時代の友人たちが見送りに来てくれていた。新しい年が明けて、早三ヶ月。彼らは皆、再び巡ってきた光の春に押されるように、昔の友人たちと旧交を深める季節を楽しんでいた。今日も墓参のためにアメリカの支社から一時帰国したアキラの見送りと称して、みんなが集まっていた。

 宴もたけなわとなった頃、ふとアキラが目をあげると、四人の男女というより、二組の夫婦がアキラと目があった。茶谷智也と吉野圭太には見覚えがあった。とすると女二人は加奈子とまなみということになる。一年先輩の加奈子とまなみたちまで来たということは、亡き沙羅の追憶を辿るためであったのかもしれない。

 まなみはアキラの顔を見ながら、腫れ物を触るように聞いてきた。

「あなた、いまは幸せなの?」

 アキラは、慰めはありがたいが十分だよという顔をしながら答える。

「寂しさにはもう慣れました。僕にはあっちに沙羅の子供達が待ってくれています。彼等はとても沙羅に似ているから、わたしにはこれ以上望むべくもない。わたしの妻は、彼女以外あり得ませんし。」

 そう語らいながら、五人は彼女らは人生という夢の途中で目をつぶらざるを得なかった沙羅を偲んでいた。


 皆と別れ、アキラは機上の人となった。カリフォルニアへの飛行機から眺めた空には、アキラの飛行機や雲たちを運ぶジェット気流があるはずだった。窓の外を覗き込んだアキラはそれを見たのだろうか。再びヘッドレストに頭を戻し、アキラは祈っていた。アキラの魂は、外の空で緑の風に吹かれ抱かれていた。

 沙羅は慕い続けた先輩だった。デウスの名において互いに兄弟姉妹と呼び合う仲だった。最愛の妻だった。しかし、彼等を包むデウスの慈愛の中には、さらに強い深い結びつきが隠されていた。それらは、まるで、まるで春の風によってかき集められた光の煌めきだった。


 緑の風がはるかに続く空に、自らの身と沙羅の面影とを浮かべつつ、アキラ,ハルディ-カワハラは父の故郷のカリフォルニア、子供達ともいうべき甥姪の住むカリフォルニアへと帰って行った 。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 第一章 青春の摂動一


 沙羅は、継母の由美と言い争ったまま、学校へ来てしまった。言い争いの原因は、継母の連れ子真美が、勝手に母花奈の形見のペンダントを身につけて遊んでいたことだった。

「ちょっと触っていただけじゃないのさ。」

 沙羅は継母に食ってかかった。

「ちょっとじゃない!。留め金をいじって曲げちゃったじゃないよ。」

「飯を食わしてやっているんだから、そのぐらい我慢しな。」

 沙羅は、朝食の席を立ち去った。継父は黙っていた。彼はもう味方をしてはくれなかった。沙羅は全くがまんならなかったが、それでもこれ以上争うと由美に何をされるかわからない、と日頃の勘が教えてくれていた。手元に戻ったペンダントには、幼い彼女がカリフォルニアを後にした時に別れた父ジュリオ ジョーディと母相楽花奈のそれぞれの写真が収められており、亡き母が事故死の直前にくれたものだった。


 中間テストが終わって空は皐月の初夏だった。高校までの道の途中、普段どおり青砥駅で加奈子とまなみが待っていた。

「おはよう。」

「どうしたの、暗いなあ。」

「うん、ちょっとね。母親と喧嘩したの。」

「そう。よくあることよ。気にしないで、さあ、元気良く行こう。また、あの坊やが挨拶してくれるって!」

 沙羅は、思わず反対側を向いた。赤面した顔を長い髪に隠して、反論していた。

「えっ、彼は単なる後輩よ。」

「まあ、どうしたのよ。耳まで赤いわよ。かわいいわね。」

 ワイワイ言いながら学校へ向かおうとしたとき、まだ新しい制服の河原アキラが荷物用自転車をこぎながら、挨拶して行った。坊主頭が朝日に光っていた。

「センパーイ。おはようございます。」

 いつもならにっこり笑顔で返せるのだが、彼の名前が出たばかりのこの場ではますます顔を赤くして俯いてしまい、ろくな返事が出来なかった。気まずい様子のアキラは少し戸惑った顔で、

「失礼します。」

 と、過ぎて行ってしまった。沙羅からアキラへ入部を誘ってあるのにそっけないことをしてしまった。このままでは彼に申し訳ないし、新入部員のいない生物部は廃部になってしまうだろう。

 現実に、廃部の危機は迫っていた。大量の国債償還により国家や東京都の補助金削減も、教育現場や課外活動費に影響を与え、特に低調なクラブには容赦がなかった。また、東京に直下型地震の可能性が高まってから、曳舟断層の上にある学校は移転のための費用工面が急がれていた。

 この学校移転には、沙羅は個人的にも不安を感じていた。移転先が通える場所なのか、それとも学校をやめなせればいけない場所なのか。社会や学校の変化を前に、高校生一人は無力であった。確かに、三年生が多くいた昨年度は考えたこともなかった事態ではあったが、引っ込み思案な沙羅には展望が開けているはずもなかった。ぼんやりそんなことを考えていると、加奈子とまなみが背後から突っついて来た。

「そんな顔していると、彼、ハンサムでモテるから逃げちゃうよ。」

「そうだった。彼を誘わなくちゃいけなかったのに。」

「へええ。沙羅、積極的!。」

「デート?」

「違います!。生物部に!。このままじゃ、生物部は廃部になっちゃうから。」

「沙羅はねえ、生物は得意なのに、男は不得意だものね。」

「男は嫌いなの。」

 確かに、沙羅は男子生徒と話すのが苦手だった。しかし、加奈子たちは容赦がなかったし、また良き相談相手でもあった

「男だって生物だよ。」

「うーん、彼は吉田先生のクラスよね。そうなら、吉田先生に頼んでみたら?もともと吉田先生は生物部の顧問だからさ。」

「あっ、そうか!」

 なぜ沙羅はそのことに考えがいかなかったのだろうか。アキラたち下級生のフロアへわざわざ行くことには、アキラがいることで逆に心理的に意識してしまう。しかし、行く大義名分が出来て、沙羅の顔があかるくなった。加奈子が言った。

「現金な女だわ。というより、正直なのかな。」


 沙羅は、アキラの教室を通りすがりのふりをして覗いてみた。

「河原アキラ君いますか?」

 彼の友人らしい吉野圭太、茶谷智也たちが出て来た。ウエーブした髪の持ち主たちだった。彼等は、沙羅の付けているクラス章から二年生であるとわかったのか、ていねいな態度だった。

「はい、彼は今、当番で片付け作業が終わっていないようです。」

「ありがとうね。」

「失礼ですが、お名前をいただけますか?。」

 沙羅は名前を告げた後、気落ちしながら、生物教官室の吉田先生を訪ねた。生物教官室は、校舎中央の螺旋階段の薄暗い上がり口にあった。短髪の淡々とした吉田先生は、静かに返事を返してきた。

「どうぞ。」

「相楽です。生物部の相談です。入ります。」

「なんでしょうか。」

「先生のクラスに河原君がいると思います。彼が私に、生物に興味があると言ってくれたことがあります。」

「確かに居ますよ。ふーん、彼が興味を持っている…?。では、貴女から彼に入部を誘って見てくれませんか。人数が二人になれば、部費は増えますしね。」

「私からですか.…?。実は、今朝も彼を見かけましたが、彼に気まずくさせることをしてしまいました。ですから、先生から…。」

 ためらいがちな沙羅のことばは、それ以上続かなかった。吉田先生はそれ以上聞こうとはせず、微笑んでこう引き取った。

「何か事情がありそうですね。幸い今の私には時間が出来たし生物部の存亡にも関わりますから、普通はやりませんが担任ですし、私からも聞いてみましょう。」


 アキラは、入学してから既に三カ月目であった。彼は、毎朝、東向島から古い荷物用自転車を走らせていた。この自転車は、掃除をした力を込めればそれなりに軽快に動く。今朝も、入り組んだ路地を抜けて、四木橋を渡ってから曳舟川沿いに進んでいった。やっと覚えた道順に、クラスメイトから聞いた道を重ねて、毎日の通学路にしていた。荒川河川敷や地区センターを左手に見ながら、お花茶屋駅前広場をやり過ごして真っ直ぐに進み、駅を通り過ぎて差し切ったところで、たいてい目の前に沙羅らを見つけていた。アキラはこの亜麻色の髪の笑顔を見る喜びのために、修行のような高校生活を耐え忍んでいた。しかし、この日は沙羅に笑顔はなく、何やら戸惑ったような赤い顔をしていた。普段は怒らない先輩が顔を強張らせていたことにアキラは戸惑い、学校に着いてからも心を重くしていた。同じクラスの女子達数人が何やら勧誘して来たが、生返事しかできなかった。


 ホームルームも終わって、生物教官室へいきかけたアキラは、溜息をついていた。唯一の喜びが消えてしまったために、英語や国語、社会のわからない授業に出ることも学校にさえ来ることも、無意味に思えてきた。しかも気の滅入ることに、授業料免除の手続きが国籍確認の遅延のために遅れていた。他方では、副教材費の請求、PTA会費、修学旅行の積み立てなど、様々な督促が身元引受人の河原重蔵にも来ていた。ホームルームのあとに、担任の吉田先生からの呼び出しも、そのせいだろうと思われた。アキラは気持ちを何とか集めて、勢い込んで声を出していた。

「河原です。失礼します。」

 生物教官室前の暗い廊下に声が漏れてきた。

「どうぞ。」

 吉田先生の声は幾分低めであった。

「ここに座って。」

 アキラは、切羽詰まったように返事をして畳みかけた。

「はい…。先生、待ってもらうことはできないでしょうか?叔父の話では、国籍の確認の手続きが、戸籍原本の紛失だとかで、まだ認めてもらえてないんだそうです。学校を退学しなくちゃいけないんですか?」

 アキラは吉田先生に食い掛った。

「退学するの?。そんな話はないと思いますよ。…それより生物部に入部する気はありませんか?。君は生物のテストもよかったようですね。」

 吉田先生は、おどろきつつもいつもの静かな顔に戻ってアキラの覚悟を決めた顔を覗き込んだ。

「さっき、生物部の相楽さんがきて、頼まれたのです。部の顧問の私が君の担任であるからでしょうが。彼女は、君が入部してくれないかもしれない。と言っていましたよ。君達二人は気が合うんでしょ?。だから君は入部してくれると思っているんですが。」

 吉田先生の話は、アキラの覚悟とは無関係のことだった。拍子抜けしたアキラには、また、別の衝撃があった。相楽先輩から頼まれたということ、しかも自らは意識していないのに、沙羅と仲が良いのだろう、と先生から言われて、戸惑うやらビックリするやらで、頭の中はいろいろな激情が渦を巻いていた。しかし、次の瞬間、沙羅の名前に反応して、突然に頭頂部から汗が吹き出していた。

「僕が朝、相楽さんを気まずくさせてしまったみたいで。」

「後で部室へ行きましょう。もう、相楽さんもいるでしょうから、話を進めましょう。」

「えっ、これから相楽先輩と会うんですか?。でも、部員が二名しかいないということは、男女が二人だけで同じ部屋にいることになります。」

「教師の私もいるでしょうが。」

「でも……。」

「化石みたいなことを言うんですね。とにかく、生物部に入部するんでしょ?」

「だ、だから同じ部屋に二人だけになるから、ためらっているんです。」

 坊主頭の汗が背中の汗に代わって、すっかり汗だくだった。アキラは急な展開について行けず、ためらっていた。しかし、吉田先生は、アキラの肩をポンと叩いて促した。

「君は、正直の上にバカがつくんですね。融通がきかないというか、唐変木というか……。」


 生物部部室は、東端の古い校舎にあった。すでに、傾いた西陽が壁を鈍く照らす時間帯だろうか。この東端の校舎は、蔦が覆い尽くした大戦前からの建物だった。中は細かく部屋割りを指定され、運動部や文化部の部室として使われていた。生物部は、最上階の隅にあった。今は三年生の数人と二年生の沙羅だけが所属する生物部だが、人数に似合わない大きなテーブルが部屋の大部分を占めていた。昔は、大人数のクラブだった名残である。片隅に彼女の持ち込んだポピーの蕾が、一輪挿しに飾られていた。沙羅は一番に来て、その大きな机の角に座っていた。彼女は自らのノートを完成させるつもりでいた。授業の復習も、ここで済ますことが多かった。沙羅は大学ノートを取り出した。そこには、文化祭の構想のメモなど、家族にも友人にも見せられない秘密があった。企画力に限界があることを感じながら、カサカサと書き付けていった。階段を上りきった音があった。このサンダルの音は、きっと吉田先生だろう。しかし、もう一人の足音は誰だろう。部室のドアが開くのを見つめていた。

「さあ入りなさい。」

 吉田先生がアキラを導き入れた。

「やっと入部にこぎつけたね。」

 アキラは、右手と右足が同時に前に出て、緊張と気後れと恥ずかしさが顔いっぱいに現れていた。その時に、沙羅とアキラの目が合った。

「先輩、僕…ただ、でも、なんか…怒らせてしまいましたよね。すみません。」

「河原君、私の方が悪かったのよ。吉田先生、大変ご迷惑をおかけ致しました。」

 吉田先生は、二人が互いに謝っているのを、横から見ていた。

「何が原因で諍いがあったのですか?。相楽さん、河原君はあなたに悪いことをしたらしいけど。まだ、今も彼は何を言っているのか…頑固というか、鈍いというか、混乱していますね…。」

 沙羅は先生を前にしていることもあって、頭に血が上っていた。自分の火照りの原因がアキラであることも、はっきり分かっていた。しかも今、彼が気後れしながらも目の前に来ていること、顧問の吉田先生が二人の間に諍いがあると思い込んでいることで、どのように返事をしたら良いかわからなかった。思わず、汗の引かない頭をノートで扇いでいた。

  アキラはアキラで、周りを困らせているのが自分だと考えはじめていた。しかし、入部させたい吉田先生の手前、出て行くこともできなかった。男らしく言い訳はしない。しかし、謝るべきは謝りたい。今か今かとそればかり考えて、頭をフル回転させていた。

 

 吉田先生は、ニコニコしながらふたりに握手をさせて言った。

「これで仲直りして下さい。とにかく河原君は入部をしてくれますね。それだけはっきりさせてくれれば、良いのです。」

 西日に照らされて、強張ったままの二人を握手させて、安心した吉田先生は、手を振りながら出て行ってしまった。髪の毛が逆立った二人は、吉田先生が出て行った戸口を暫く見つめていた。しばらく手を離すことを忘れていた。

「これで仲直り…ね?。」

 沙羅はやっと口を開いた。

「はい…。新入部員です。よろしくご指導されてください。」

 アキラが硬くなった口調で返事を返してくれたことをきっかけに、沙羅は冷静さに返ることが出来た。

「でも、中間テストはどうだったの?。テストは、初めてでしょう?。勉強した?。吉田先生は、学業優先が原則みたい。本格的な活動は、先生に聞いてからにしましょうね。」

 


 第二章 青春の摂動二


 沙羅は、小岩の自宅に戻った。しかし、自宅の灯りは落ち、誰も居なかった。今朝の諍いが原因で、沙羅を置いて出て行ってしまったのだろうか。それとも、事故?。様々な不吉な予測が浮かんできた。家の中は、食事の後片付けがまだ終わっていない状態だった。継母の由美は保育園に真美を迎えに行くために、後片付けが終わらないまま出かけることがあった。しかし、食器を集めて置いただけの済ませ方は、いつもと違っていた。沙羅は、なにかあったに違いないと手紙を探したが、その代わりに、診察券が棚の引き出しからはみ出していた。病院へ行ったのだろうか。

 沙羅は食器類を洗い終え、簡単な食事を自分で済ませることにした。誰も居ない夜は、母が亡くなった夜以来初めてだった。母が奪われ、更にまた、誰かを奪われるのであろうか。予習も済ませ、洗った食器も片づけた九時半ころに電話があった。継母の由美からだった。

「沙羅かい。お父さんが心臓の発作を起こして、今、墨東病院に来ているのよ。」

「お継父さんの容態は?」

「うーん、今は小康状態ね。気づくのが早かったから、よかったよ。ところで、私は今晩から付き添いをしなければならないんだよ。真美も今一緒にいるんだけど、迎えに来てくれない?。それで、明日保育園へも連れて行ってほしいんだよ。」

「・・・わかったわ。どこまで迎えに行けばいい?」

 沙羅は真美を連れ帰り、途中で銭湯に寄ることにした。真美は、自分の母親由美と沙羅との間の微妙な空気を知っていたのか、帰路は静かにしていた。銭湯で真美の長い髪や身体を洗ってやりながら、ぼんやりと考えていた。継父は亡くなってしまうかもしれない。母の入院の時もそうだった。そして、自らの白い肌と長い亜麻色の髪を洗いながら、長く先の暗くなった自らの未来に目を瞑った。真美を寝かしつけたのは十一時になってからだった。明日は二人の朝食を作ることになる…。真美と沙羅、二人だけの夜だった。


 アキラは、東向島の自宅に帰宅したときに、叔父の重蔵によってすでにメザシとおひたしなど晩飯が用意されていた。食堂入口で立ち尽くしていたアキラは、手も洗わず食事もとらずに、手に残る沙羅の手の細さと冷えた柔らかさを思い出していた。彼は、宝物がもう一つ増えたと思った。沙羅の笑顔の記憶、沙羅の指先の記憶……。

「おめえ、呆けていやがるな。なんかあったな?」

 重蔵が突然声をかけて来た。カンと論理思考の鋭い母方の親類らしく、重蔵はアキラの行動から何かを鋭く指摘することが多い。

「なんでもないです。」

「手も洗わねえで、手を見つめて呆けていやがったな。女の子か?」

 アキラは急に鼓動が速くなった。重蔵は苦笑しながらアキラを睨んでいた。アキラは慌てて食事を済ませて、自分の部屋に逃げ帰っていった。

 次の日の朝食前にアキラは重蔵に手続きの進捗を確かめに、仕事場まで彼を追っていった。そこには、新しく小さい子供が両手を合わせて祈る絵が飾られていた。

「彼は誰なの。」

「これかい、これはサミュエルの子供の時の姿さ。彼は昔の偉い人だぜ。」

「なぜ飾っているの?。」

「デウス様の前で祈ることを忘れないためさ。」

「祈ることを忘れないため?」

「そう、おめえにもそのウチわかるだろうよ。おめえの死んだ父さん母さんも、よく静かに祈っていた。そんな人々は、天国でも祈っている。みんなのため、お前のためにな。」

「他の人のため?」

「そう、祈りのタラントを持つなら祈りつつそれを活かすんだ。御心にかなう祈りは、物事を動かすことができる。朝飯の前は断食しているようなものだから、ひとつ、朝飯の前に祈りを捧げてごらん。」

 アキラはふと、沙羅を思い出していた。この時、アキラは沙羅のために祈ることを考えた。しかし、その祈る両手が静かに組み合わされていても、彼の祈りは拙く幼かった。

「えーと、デウス様の御名により先輩、相楽先輩、というか、沙羅先輩のために祈ります。よろしくお願いします。」

 アキラの横をクスッと笑うかのように柔らかい風が通って行った。


 次の朝、沙羅が作ることができたのは、卵焼き、ソーセージ、キュウリとトマトのサラダだった。食パンを一枚ずつ食べて、沙羅は真美とともに家を出た。

「お母さんは帰ってくるのかな」

「お父さんがどうなるかによるわね。」

「お父さん死んじゃうの?」

 そんなことはない、とは言わなかった。沙羅の母親、相楽花奈が亡くなったのも、沙羅が八歳のころだった。

「分からないわ。」

 真美と同じように、沙羅も不安と寂しさを覚えた。おぼえず涙を流していた。天を仰いだ時、後ろから肩に暖かい手のような風が、囁くように触れていった。まるで、真美にそっと添える自分の手とリンクするかのように、やさしい触れ方だった。急いで後ろを振り返ったが、誰もいなかった。そのとき、沙羅は初めて名前も知らない守護者への祈りを意識した。その言葉は、継父が教えてくれたものだった。

「私は主のはしためです。御言葉通り、この身に成りますように。」

 それは、継父が時々独り言のように繰り返していたものだった。保育園に真美を預けてから、いつもより遅い時刻ながら京成小岩駅へ向かった。御花茶屋駅前に加奈子と真奈美の姿があるはずもなく、遅刻ギリギリだった。放課後は一人になりたくて、生物部の部室へ逃げるように向かった。

 沙羅は一人で考えたかった。幼い時の母は、朧げな記憶と一枚の写真しかなかった。その母の死別後、五年経って再婚した継父はもう沙羅独りのものではなかった。まだ優しさを残した継父だったが、彼も奪われようとしていた。それは継父による収入の道を断たれたることをも意味し、そのあと何が起きるかは想像に難くなかった。

「御言葉どおりにこの身になりますように。」

 口に出して唱えてみた。しかし、何故そんなことが祈れるのか。そんな祈りは沙羅にとってとんでもないことだった。


 アキラは放課後に部室へ行くと、すでに部室には人のいる気配があった。戸を開けたとき、アキラは沙羅の滲んだ目と絡み合ってしまった。そして、後ろに振りかえり隠す顔には、拭ったはずの目から更に涙が流れていた。悔しさで涙を流す男女は珍しくない。悲しみを訴え、慰めを求める涙も身近にまたドラマでも見たことはあった。しかし、これは、諦めと疲れとを深く沈めた孤独な涙だった。それも憧れと笑顔の先輩に、見るはずのない泪だった。アキラは、狼狽えながら少し離れた所で座った。吉田先生を待つべきか迷った。慰めの言葉なども知らなかった。

「相楽先輩…。」

「ごめんなさい。誰にも言わないでね。」

「はい…。」

 沙羅は、泣き顔を洗いに洗面所へ出て行った。入替わりで、吉田先生が部室へ入って来た。

「相楽さんは、なにかあったのかな?」

 いつもの淡々とした調子で、吉田先生は質問をして来た。それでも、心配そうな口調は伝わってきた。部室へ帰ってきた沙羅は、心配そうなアキラの視線をうけとめ、いつもの穏やかな吉田先生の姿も見つめることができた。先生は沙羅を見つめて言った。

「尋常ではありませんね。今日の授業にも、身が入っていなかったですよ。」

 しばらくして、沙羅は事情を断片的に語り出した。吉田先生は何も言わなかったが、アキラは沙羅の不安と孤独を自分のことのように感じていた。


「整理をしよう。」

 吉田先生の静かな声が響いた。

「継父さんが倒れた。心配だ、これは事実ですね。亡くなられたら、孤独なあなたにとって生計が成り立たないし、高校も通えないだろう。独り生活の見込みも立たないかもしれない。これらは、まだ可能性のみ。それなら、事実のみで考えてみませんか。」

 アキラも続けた。

「相楽先輩。死んでしまうなど、先のことはまだわからないのですよね。試練のなか、耐えるしかないことなんだと思います。でも、一つできることがあります。あの、祈りとともに分かち合っていけば…。僕も何かやります。先輩の継父さんのために。先生のために、学校のために、未来のために…。僕、何言ってんだろう。」

 吉田先生が、ほほう、というようにアキラを見た。沙羅は、涙目で驚いた顔をした。忍んで祈って分かち合うなどとは、まるで沙羅の継父のようなことを言う子だ。

 

 アキラから伝え聞いた重蔵は言った。

「そうさな、その相楽さんとかいった娘さんは、家を出なきゃならないかもしれねえ。その継父さんは、沙羅さんとかいったっけ、結婚前はそのお嬢さんに家事やってもらっていたんだろ。片やお嬢さんの小さい頃を知らねえ継母さんが、家事の中心になったらぶつかるさ。ましてや継父さんまでお嬢さんとは他人だったら、新しい継母さんはお嬢さんになんの未練もないぜ。」

「そうなんだぁ。」

 アキラは改めて、沙羅の境遇の不安定さを思った。アキラ自身も父母を亡くしている。しかし、今は母親の親戚に引き取られている。それに対して、沙羅には他に身寄りがなかった。重蔵は続けた。

「その継父さんが生きていることが、頼みの綱だな。俺もおめえも祈るしかねえな。朝は一緒に祈ろう。」

 アキラは、幻をいや希望を持って静思することを、この時初めて意識した。彼女のため、彼女の継父さんとその家族のために。


 沙羅の継父義男は、なんとか一命を取り留めた。アキラたちの祈りが通じたのかもしれなかったが、しかし、心臓には重い障害が残り、無理をするとすぐに発作を起こしかねなかった。症状の落ち着く一か月ほどは、入院が必要で、病室の継父の義男は、やつれがひどかった。しかし、言葉はしっかりしていた。

「沙羅、あんたの死んだ母親について伝えておきたい。」

 見舞いの沙羅は、事前に、義男から大切な話があると言われていた。

「おまえの母親、花奈さんは、お前が八歳の時に、亡くなったよな。……花奈さんと知り合ったのは、あの時………。たまたま俺が恩のある牧師の小金原の教会のクリスマスに行っていた時、お前のお母さんは、アメリカから赤ん坊連れで逃げて来ていたんだ。そこで、おれがお前をあやしたら、泣き止んでさ、それから二人で付き合うようになったのさ。……あまり事情を話してくれなかったけどな、頼る人もいなかったようだ。おれも長く独りもんだったんで、二人で洗礼受けて結婚したのさ。でも、しばらくして交通事故で死んじまった、俺とお前を残してな。あん時から独りにさせてしまってすまなかった。あれから……、お前の母さんが死んでから、小金原へ礼拝にも行く気がしなくて、ずうっと行ってなかったよ。でも、今はまた行きたいと思っているんだよ、この体じゃ無理だけどな……召される方が先だな。おれが召された後、あんたが独りになるかもしれない。でも、あんたはデウス様を知っているだろ?。この世を作った方はデウス様というんたがな。あんたも洗礼を受けたんだ。だから、もうあんたは、俺と同じようにデウス様のものさ。だから、忍耐すること、祈ること、皆と分かち合うことを忘れなさんな。それから…、アメリカから来た時のあんたのパスポートと、あんたの生まれた時の品とを、今の連れ合いが持っているはずだ。それからなあ、あいつがあんたに辛く当たるのを、許してやってくれ。あいつは可哀想な奴なんだ。」


 沙羅は、今更ながらに自らを見つめた。五十日祭が間近いた夏日であった。継父義男の入院から三カ月。入院生活が始まって、継母由美は看病と仕事のために毎日遅く、真美の迎えはアルバイトとともに沙羅の日課となっていた。夏休みの間に、部活はおろか学校へ行くことはほとんどできず、学校では校舎でも部室でも沙羅を見かけることはなかった。そんな夏休みのお盆過ぎ、アルバイトが今日で終わりという日、斉藤加奈子と庄野まなみが、沙羅の家に補習の教材や学校からの連絡事項を持ってきた。沙羅と仲のいい斎藤加奈子と庄野まなみは、沙羅を助けようと、これまでも受験コースのノート取りや支給物受け取りなどを、代わりにしてくれていた。

「これは、今週末までの受験コースの五教科ね。それから、これは生物部の吉田先生の伝言よ。」

「沙羅!。二十五日以降に西新井のプールに行かない?」

「継母さんに聞いてみないと。」

「皆んな都合を沙羅に合わせるから、行こうね。」

「うーん。」

 沙羅は静かに応えた。沙羅の家は狭く、近くの江戸川土手で三人は話していた。夏の終わりを告げるヒグラシとツクツクボウシが河川敷に響きわたって、初秋を歌う夕日が沙羅の頬を紅く染めていた。


 アキラは夏休みの間、重蔵の手伝いに明け暮れていた。アキラは、午前中は補習授業に行くほか早朝と午後は職人の技を仕込まれていた。草履は、膠で材料を何度も重ね貼り合わせては、プレスする根気のいる仕事だった。また、積層するシートや出来上がった草履の形を整えるために、回転ヤスリで側面を削って行く器用さも必要だった。

「手つきが良くなっている。さすがは血筋だな。二十五日以降は休んでいいぞ。出かけてこい。」


 若い娘ら三人が揃って出かけた西新井のプールには、後輩の男子アキラと、吉野圭太、茶谷智也もきていた。沙羅は、アキラが来ていたことに驚いた。

「えっ⁈。まなみ!聞いてないわ!。どういうこと? ということは、このお下がり水着をくれたのも、このため?。」

「たまたまよ。でも、よく合っているわ。」

 沙羅の水着は、加奈子からのお下がりで、パレオが付いた昨年のビキニモデルだった。カラフルな加奈子達の水着とは対照的にパステルの青一色だった。沙羅はラテン系の血がある為か長身で少々プロポーションが目立った。その上、サイズを確認した昨年の採寸よりも成長していたため、その小さめの水着は彼女の胸の質感をさらに強調していた。そこに、引っ張って来られたアキラと圭太、智也三人は、初めて見る先輩たちの姿に呑まれて緊張していた。所在ない彼等のなかでも、アキラや沙羅は貧しさのために、競泳プールはまだしも遊園地プールや海水浴などは経験がなかった。他方、圭太や智也は後輩ながら、まなみや加奈子と打ち解け始めていた。そんなわけでは沙羅とアキラは、脇へ放って置かれ、隣同士で座らされていた。二人とも周りが押すことで、肌と肌は多少とも接していた。

 アキラは競泳用水着だったが、ほか二人は、高校生らしくバミューダ姿だった。それでも三人ともに痩せた筋肉質の全身を晒していた。特に、毎日重量級の荷物用自転車を駆るアキラの上半身は、大胸筋と腹筋と背筋から構成された見事な逆三角形であった。しかし、かわいそうなアキラは沙羅とのフィジカルな接触がイメージしていたものと全く異なることに戸惑い、何処へ視線を合わせれば良いかと迷い、乾いた口を動かすことができなかった。沙羅は沙羅で、ずれてくる水着に戸惑い、体を硬くしていた。

「あっあの。今日は良い天気ですね。」

「そっ、そうね。」

 横で聞いていたまなみたちがちゃちゃを入れてきた。

「沙羅、それはなんの会話?」

 智也たちも調子を合わせてきた。

「アキラくーん、元気ないね。」

「うるさい。本当は、若い男女は席を同じくすべきではないんだ。」

「いつの時代の話だよ。」

「そうよ、アキラくんは、ほんと、唐変木ね。」

「さあ、スライダーヘ行こう。」

 その声に、沙羅もアキラもホッとした。取り敢えずこの状況から抜け出せる。しかし、スライダーとはどういうものか、沙羅もアキラも知らなかった。遊び慣れている他の四人は慣れている様子で、彼らのいうにはたかが滑り台のはずだった。しかし…。


「本日はご利用ありがとうございます。また、混雑の段、誠に申し訳ありません。このため、本日スライダーでは、グループの方々は二人一組でご利用をお願い申し上げます。」

「どういうこと?」

「ペアで滑り落ちていくのよ。」

「手をつないで?そんなの恥ずかしいわ。」

「そんなことはしないわ。」

 まなみが笑って居た。いっとき安心した沙羅は、次の言葉に凍りついた。

「後ろの男の子を座椅子にして前の女の子が脚の間に座るように、滑っていくの!」

「座椅子⁈」

 今度はアキラの声が裏返って居た。

「やり方は、ほらあそこを見て。」

 まなみが笑って答えていた。列の先端では、男の子が女の子を抱えながら滑って行く姿が見えた。沙羅は悲鳴を上げた。

「えー。」

「やだよ。それなら引き返すよ。」

 沙羅は猛然と戻ろうとし、背中を丸めたアキラがその後にコソコソと続いた。しかし、加奈子たちは、冷たく言い放っていた。

「二人とも、ハシゴ段を登ってきたから、ここまで来たら戻れないわよ。」

 沙羅はそれを聞いて我を失い、アキラは目を白黒させていた。かれらは、競泳用プールのように普通に泳ぐ練習すると思ってきたのだが…。でも、まだ男女のペアで滑るとは決まっていなかった。それに気づいたアキラは、圭太に

「一緒に滑ろう」

 と誘った。しかし、圭太は悪戯ぽく微笑んで、

「俺はまなみ先輩とすべることになっている。智也も加奈子先輩と組んでいるよ。仲良く滑られるしね。」

「お前達、謀ったな。僕が女の子を苦手なことを知りながら、僕を騙した!。」

「騙したとは聞こえが悪いぜ。配慮お膳立てと言って欲しいなあ。ねえ、まなみ先輩、そうですよね。」

「そうそう、沙羅の面倒をよく見てあげてね。」

 沙羅が焦り始めていた。

「なんてこと。はしたない。」

「沙羅!。今時、そんな化石みたいなこと言わないでよね。今からでも、抱えてもらう練習をしたらどうかしら?。手をつなぐのはもう卒業してね。」

「そんなことしないわ。」

「沙羅ったら、アキラ君と手をつないだこともないの?」

 答えがなかった。

「本当に?。手もつないだことがなかったら、前抱っこですべるときどうするの?」

 二人とも黙っていた。アキラが立派に返事をすべきなのだが、沙羅に情けなさそうな目で助けを求めていた。もちろん、沙羅はそんな余裕があるはずもなく、変な汗までかき始めていた。話せば茶化されるか、冷やかされるかだけで、誰も沙羅やアキラを助けようとはしていない。

「では、男の子が先ず座って下さい。そう、脚を開いて座椅子になって。その間に女の子が収まります。安全の為に、男の子は女の子の胸の下をちゃんと抱えて。では、スタート。」

 前の組が、そのようにして出て行った。アキラにとってその格好は、いかにも男が女をベッドで抱き押さえているように見え、罪深く艶めかしく感じていた。アキラは沙羅に背後に来て背中に掴まるように言い、目の前に沙羅がいないことで、ようやく落ち着きを取り戻した。アキラの背中で沙羅の胸も隠すことができるし……。

「さあ、これで大丈夫です。」

「アキラ!。その態勢はヤバイぞ。」

 圭太たちは、二人の態勢を間違いだと指摘したらしいが、アキラ達はその態勢のままで出発して行った。しかし、アキラの予想を裏切って、その後の二人にとっては災難が待っていた……。アキラのゴツゴツした肩と背中は沙羅の腕をしばらくは受け止めていたものの、二人がスライダーの始めの方で大波により後ろへ倒された拍子に、沙羅はアキラの顔と頭に両腕と上体を、彼の腹に両脚を強く巻きつけてしまった。アキラは姿勢を直そうと沙羅の方を向き、それでも沙羅はアキラの頭にしがみついていた。沙羅とアキラはそのままの状態で流れ落ちていき、その後にあったことは、顔を赤く染めた彼らだけの秘密であった。


 さて、高校では九月下旬に学校祭が予定されていた。生物部の予定は、水性動植物の生態展示と解説だった。しかし、八月下旬になっても準備は出来ていなかった。といっても、沙羅にもアキラにも今までほとんど暇はなかった。アキラが沙羅の家を訪問したのは、プールの次の日だった。彼が加奈子やまなみから、一緒に来るように言われていたからだった。沙羅が気付いた時、相楽家の玄関口で御用聞きのように自転車を止めたアキラが立っていた。

「相楽先輩。き、きのうは失礼しました。加奈子先輩まなみ先輩から、今日来るように言われましたので、参上しました。」

「ええっ?」

 沙羅は突然の訪問に驚いていた。昨日の今日でどんな顔をすれば良いのか。二人とも、下を向いたまま会話をしていた。

「せ、生物部展示の準備は始まってもいません。」

「それは…。」

「お二人は来ていますか?」

「え、来るなんて、聞いてないよ。」

 二人は思わず顔を上げて、また下を向いた。

「てっきり手伝ってくれるのかと、思ったのに。」

「確かに、休みは今日までだわ。でも、…」

 やらなければならないことははっきりしていたので、沙羅は体操服に着替えて出てきた。アキラは沙羅のバンダナと体操服姿を前にして、着痩せするという意味を初めて理解していた。沙羅も、下級生とはいえ痩せた筋肉質のアキラに、学生服の彼とは違う暑さを感じていた。二人は無言のまま、自転車で土手の道を水元の小合溜へ向かった。

 小合溜では、タモ網や割り箸を使って牛乳ビンをいっぱいにすることができた。しかし、二人とも昨日の疲れのために、草むらに足を滑らせ折り重なってしまった。足がつった上にしたたかに膝と脛を打った沙羅は、激痛のためしばらく動けなかった。ほんのちょっとの間の接触なのに、沙羅は激痛の治るに従い、自らの腕と頬を受け止めたアキラの胸板の広さと厚さに驚いていた。アキラは、己の上半身で受け止めた柔らかさと髪の香りと自分の体の反応とに、いつものように慌てていた。彼等は、次第に甘美な感情の波に揺らされ揺らされ、香りと触覚と混乱とに我を忘れていた。

「ご、ごめんなさい。」

「いや、うっ、僕がしっかり立ってなかったのがわるかったんです。」

 沙羅は余韻を噛み締め、アキラは衝動を抑えようと自らを打ち叩いた。夕日は既に傾き、その赤い日が互いの頬の赤みを巧みに隠していた。しかし、互いが接した感覚は、火照りとなって二人の体に残った。それは、その後の日々、経験のあまりに少な過ぎる彼らの就寝の悩みとなり夢となり想いとなって、彼らの疼きを増すことになった。

 秋の学校祭は、二人や新部員となった友人たち、生物部の先輩達の協力で無事に終了した。沙羅の継父が二度目の発作で倒れたのは、その一週間後だった。



 第三章 青春の摂動三


 危篤の枕元で、継父義男は沙羅に短い言葉を遺した。

「絶えず祈れ。心から神に感謝を。御心のままを受け入れよ。」

 しかし、沙羅は理解できなかった。

「何故、かなしいこと苦しいことがあって、御心のままにこの身になりますように、と祈れるの?。わたしは我慢出来ない。」

 あまり動けない義男は、困った顔をした。

「確かに、俺は今苦しいばかりだ。俺が召されるのは間違いない……。でもな、喜びを感じているんだよ。こんなときだから分かる。聖霊なる神が居て私と共にいてくれていると信じられるから。」

「そんなのわからない。なんでそういえるの?。」

 苦しい息の下で、義男は肩を落としていた。

「そうか、あんたにはまだわからないか…」

 それでも、もう一度力を絞って言った。

「でもな…絶えず祈れよ。心からデウス様に感謝し続けろ。いつか…必ずデウス様が……。」

 その夜、義男は息を引き取った。馴染みのない小金原の教会での葬式の夜、由美は言った。

「おとうさんが死んじゃって、収入がなくなっちゃったのよ。本当は、一度目の発作の時から、生活は苦しかったのよね。でもなんとかできていた。でももう、貯金もなくなって、この家も売ることにしたわ。暮らすのが大変になっちゃったからね……。そこでね、相談があるの。私の故郷の大阪箕面へ帰って、生活保護を受けようと思うのよ。」

 沙羅にとって、半ば予測できていたことだった。それでも実際にお金がない生活を目の前にして、絶望のみがあるだけだった。返事はできなかった。単なる高校二年生の女の子に何ができるのだろうか。家族のために、学校を辞めて働くことを考えもしていた。ところが、次の日に、由美と沙羅は衝突してしまった。由美が勝手に沙羅の母の形見の和服まで換金しようとしたことが原因だった。

「それなら、出て行きなさいよ。」

「ここは、元は私の母さんと継父さんの家よ。なんで私が出て行くのよ?」

「そんなこと、知ったことではないね。法律上では、相続した私のもの。好きにさせてもらうわ。」

「でも、これは、私の母の遺品なのよ。」

「そんなこと言ってられないわよ。わからないの?」

「でも…。」

「私のいうことが聞けないなら、出て行きな。どうせ来週には出なくちゃいけないんだ。」


 こうして、由美たちは小岩を出て行き、沙羅も長年住み慣れた家から、出されることになってしまった。金の切れ目は縁の切れ目だった。その日、生物部の部室に沙羅の友達、アキラ達が集まっていた。斎藤加奈子と庄野まなみは、問題の大きさに言葉を失っていた。

「いまはどうしているの?」

「あと一週間は、居られるんだけど。」

「担任の先生は相談に乗ってくれたんでしょ。なんていっているの?」

「二つしか選択肢はないらしいって。一つは、継母さんに従って大阪へ行くこと。その場合高校を辞めることになる。もう一つは、継母さんと養子縁組を解除して、東京で生きていくこと。この場合、施設に入ることになるけど、高校は続けられるって。でも、来週からすぐに住める場所は、ないって。」

 アキラは沙羅の境遇が想像を超えていたことに、無力感を感じた。

「それじゃあ、来週からどこに…,?。」

「わからない。」

 アキラは突然に提案をした。

「それなら、うちの経営するアパートに来れば。空室もあるし。」

「えっ?。」

 予想もしない提案だった。しかし、そんなに都合のよいことがあるだろうか。

「でも、住めるかしら。家賃も少ししか払えないのに。」

 沙羅は、持たざる者の弱さを感じていた。


 アキラは沙羅を連れ帰った。アキラはおもむろに重蔵に説明をしはじめたが、重蔵は遮った。

「アパートかい?。高校に行き続けるためだから良い選択かもしれない。こんなボロアパートだから、家賃は知れている。しかし、問題は、未成年がひとりで契約は出来ねえこと。かといって、若いお前のいる我が家に、お嬢さんを住まわそうってことはできねえな。お前がこれらのことを言い出すのは、このお嬢さんを憎からず思って居るからだろうが。お嬢さんも、お前が後輩なのにここまで来ているってえのも、お前のことを憎からず思っているからさ。一つ屋根の下にいるってぇことは、ママゴトしようってぇいうことじゃねえんだぞ。おまけにこの家には、余計な部屋もねえんだぞ。」

 アキラと沙羅は二人の心のうちを読まれて、また同じ屋根の下という言葉の意味を改めて考えて、答えが見えなくなってしまった。

「可哀想だが、来週から卒業まで施設に入るしかねえ。」

 そういうと、重蔵はすぐに日比谷公園横にある家庭裁判所に行ったが、施設へ簡単に入所できるわけでもなかった。大阪へ去った由美と養子縁組をしていたことと、それを解除するための裁判所手続、施設探し…全ては時間のかかることだった。 裁判所から夜に自宅に戻って、重蔵はアキラと沙羅に報告していった。

「仕方ねえなあ。うちに来てもいいけどなぁ。契約はできないままでもこのアパートで暮らすしかねえじゃねえか。うーん、いつ希望者が来るかも分からねえし、もし、アパートの希望者がきたら、アキラ、お嬢さんにはおめえの部屋を使ってもらいな。そんときは、おめえは裏の工場の仮眠場所で過ごせ。」

 沙羅は恐縮していた。

「すみませんでした。」

「僕なら工場でいいよ。」

 アキラが気楽に考えていたのは、明らかだった。

「馬鹿野郎、おめえは軽々しく考え過ぎだ。このお嬢さんは、おめえを好いているし、さらにはおめえにも申し訳ないと思っている。それは危険なんだ。」

「なんでだよ。」

「それが弱い立場の人間なんだよ。もっと気を使いやがれ。」


 沙羅の借りた部屋は、二階の隅だった。慣れた頃には、もう木枯らしが吹き始めていた。借りたママチャリで学校から帰ってくると、ストーブと雨戸の無い一室は寒々としていた。銭湯から帰って勉強と夕食の後片付けの後、丹前をかぶりながら窓を開けると、住み慣れた小岩とは異なる風景が広がっていた。風の向こうから聞こえる機械音、これは工場街のもので、リズム感のある人間たちの仕事場の音だった。大家の家から聞こえるのは、食器の音、男たちの話し声、何かを研磨している音だった。たまたま聞こえたやりとりは、重蔵とアキラの会話だった。

「アキラ、明日納品の草履の仕上げは終わったのか。」

「もう、箱に入れてあるよ。」

「何読んでいるんだ?。『自動車エンジン工学』?? どこで買ったんだ?」

「学校の図書館にあったんで、借りてきたんだ。」

「へえ、血は争えねえな。アキラ。お前の親父さんも、機械技術者だったんだぜ。」

「へえ?。僕が聞いていたのは、イギリスの会社に勤めていて、日本に来ていたってことだけだよ。」

「そうだ。なくなったオメェの親父さんはメキシコ人でな、腕のいい技術屋さんだったらしい。」

「そんな人が・・・・。」

 会話を聞いていた沙羅は、メキシコ人という言葉に耳をそばだてた。

「お前の親父、フリオさんは栃木のカトリック教会で、お前のお袋さんと知り合ったらしいぜ。お前のお袋、志んちゃんは、俺のただ一人の姉貴だった。俺も、いまのカトリック教会のミサで、御両人と一緒だったこともある。」

「僕にはほとんど記憶が無いけど。親父は僕が生まれてすぐに死んじゃったんだものね。」

「そうだな。でも、姉貴はお前を堀切の小学校までしっかり出してくれたんだぜ。姉貴も苦労したのか、早く死んじまったなあ。」

「お袋は、よく親父のことを話してくれた。頭のいいメキシコ人だったってね。小学校までは勉強も教えてくれたから、そのとき親父のことを教えてくれたんだ。」

「俺にとってお前は、二人の忘れ形見だ。そういやあ、沙羅さんとかいうあの子のお父さんも、メキシコ人だったとか言っていたな。」

 沙羅は、自分のことが話題にされていることに興味を唆られた。

「お前も混血の顔立ちで、目は母親似だけど、鼻の高さはラテン系だな。」

「沙羅先輩もそうだよ。目は潤んでいてぱっちりだから、美人なんだよね。おまけに優しいし…。」

「お前がそんなことを言っていることが、危険なんだぜ。彼女にこんな話を聞かれてみろよ。お互いの熱情が抑えられなくなるぜ。だから、アパートの話に乗り気じゃねえんだよ。」

 アキラは黙ってしまい、重蔵も話を続けず、あとは外の風の音しか聞こえなかった。

 


 第四章 青春の摂動四


 沙羅は、熱情の他にもう一つ大きな問題を抱えていた。大学受験だった。年が明けて、二年生も受験モードとなった。授業料免除となっている沙羅は、在学中はある程度成績が良くなければならなかった。それに、沙羅は特待生制度を有する独協大学を目指していた。

「あけましておめでとう!」

「おめでとう!」

 加奈子やまなみが沙羅と新年のあいさつを交わした。

「沙羅、アキラくんちのアパートは、居心地いい?。」

「今度遊びに行くね。」

「確か、近くにボーリング場が無かった?。」

「じゃあ、来週の土曜日、学校が終わったら、みんなで行こうね。」

「うーん。料金が高いんじゃないの?」

「一名様無料のクーポンがあるから、心配するほどじゃないと思うけど。」

 まなみが言うボーリング場は、向島百花園の近くにあった。四、五年前のブームの頃に建てられた地域の娯楽場だった。ボーリング場は階段を上りきったところにあった。沙羅は、バイトでやっと稼いだ二千円ほどのお金を握りしめたまま、加奈子とまなみを待っていた。加奈子は時間どおりだったが、まなみが遅れて来るということだった。

「早くまなみが来ればいいのに。」

 加奈子が楽しそうに沙羅に話しかけていた。そのとき、まなみがアキラと話しながらやって来た。最近、周りが沙羅とアキラの仲を深めるお節介が目立っていた。

「庄野先輩、魂の救いを求めている人って、結局誰なんですか?。明日のミサにその人を連れて行きますよ。」

「そうね。その思いが大切かもね。」

 まなみはなんだかんだと言って、アキラをここまで引っ張ることができた。アキラは叔父の重蔵とともに、毎週錦糸中学校近くのカトリック教会に通うのが常だった。その延長線上で、彼は重蔵が知人を教会へ連れて行くのと同じ行為を考えていたのだが、目の前に連れてこられたのは沙羅だった。アキラは狼狽して思わず食ってかかってしまった。

「庄野先輩。沙羅先輩はいつも顔を合わせていますし、生活が大変なら直ぐに援助は出来ます。でも、この会は何が狙いですか。」

 沙羅は、アキラの剣幕を見て申し訳ないやら恥ずかしいやらで、その場を離れようとした。それを見て、まなみは思わずアキラを詰った。

「この唐変木。なんで素直に一緒にいたいという気持ちに応えられないの?。あなたねえ、沙羅が救いを求めているのは確かでしょ。」

「しかし、若い男女二人だけが席を同じくするのは…。」

「そういって恋路に変な理屈を持ち込む奴は、馬に蹴られて死ねと言われているのよ。……。そう、分かったわ。圭太君と智也君を呼べばいいのね〜。」

 そういうと、まなみはさっさと赤電話へ行ってしまった。

「あっ、それはもっと困る……。」

 と言ったアキラの声は無視されていた。その後は、暫く気まずい時間が流れていた。

「アキラ!」

 圭太が声をかけて来た。

「聞いたぜ。先輩が救いを求めているのに、アキラは何もできねえのか?」

 智也がアキラの脇腹を突いて窘めていた。

「明日、沙羅先輩を教会へ連れて行ってあげなよ。」

 沙羅は思わずアキラを見た。

「アキラ君、毎週教会へ行っているの?。」

 沙羅は、それで合点がいった。肝心な時に会話ができないほど鈍重なアキラが、祈ることと耐えることなど言いそうもなかったからであった。アキラは言った。

「本所カトリック教会へ行っています。」

「貴方、カトリックだったの。」

「父と母がそうだったので。」

「私も、継父がキリスト者だったようで、…。」

 周りは、この種の話についてこられなかった。

「庄野先輩、アキラたちは二人だけで話していますよ。俺たち、こなくても良かったんじゃないですか?」

「チェ、なんだよ。二人だけで盛り上がってら。そのまま熱くなって爆発しちまえ。」

「そうね、確かに世話の焼けるお二人さんね。」

 四人は二人の不器用さと不意の盛り上がりに、当惑していた。


 次の日曜日に、重蔵はアキラと沙羅を連れて本所カトリック教会へ向かった。

「沙羅さんも、キリスト者だったのかい。」

「いえ、そういうことではなく、私の継父がキリスト者だったのです。」

「でも、良かった。歓迎するよ。」

 アキラは二人の会話を聞くだけで、何も言わなかった。彼は、自らを律するための沙羅との間の壁が、また一つ欠けてしまったように感じていた。そうしているうちに都会らしいお御堂につくと、ミサがはじまり聖体拝領とともに司祭のメッセージが語られた。

「デウス様は、愛する者たちが忍耐を通じて幸せになることを願っているのです……。」

 しかし、沙羅はメッセージの内容にがまんならなかったようだった。

「私の周りには、苦しみしかなかったわ。少しも楽になれる道はなかった。努力しても、上を向いても、道は何処にもない。」

 ミサの帰り、重蔵とアキラは、沙羅の言葉を静かに聞いた。

「私の継父は、苦労して苦しんで死んでいきました。それなのに、忍耐して祈って分かち合って御心のままにこの身になりますように、などといつも言っていました。でも、ただ苦しみつつ死んで行くところに、どんな救いがあったのでしょうか?そして、私は継母と別れて、将来が見えていません……。」

 精神的な支えとなる親も親族もいない、大学受験のストレスや不安感も強かったのだろう、二時間ほど語っては涙を流して沙羅は語り疲れ切っていた。激情を出したことで満足したのか疲れ切ったのか、沙羅は静かに目をつぶっていた。重蔵はアキラに目配せをして言った。

「ただ黙って、沙羅さんを部屋に送って来い。彼女の絶望は、深いようだね。」

「はい。」

 アキラは重い心のまま、沙羅を送り届けた。沙羅はアキラの腕を掴みポツリと言った。

「母がアメリカで捨てた父を探しに、ロサンゼルスへ行くわ。」


 沙羅たちの学園では、私立高校らしく、二年生最後の時期に西海岸ロサンゼルスへの修学旅行があった。沙羅たちの目指したロスはこの頃典型的な車社会であり、地下鉄やバスの代わりにハイウェイが発達した街だった。学生たちは、グレンデールのグリフィス公園近くのホテルに泊まり、エンジェルス国立森林公園をめぐり、次の日はシティホールを訪れていた。しかし、沙羅は古い米国のパスポートを持っていたために、皆から離れて空港事務所に連れていかれていた。沙羅には、日系人のガイドが付き添って居た。沙羅の事情を察した係官は、シティホールの市民課と連絡し、探し当てた記録を読んでいった。

「貴女は、サラ・ジョーディ-サガラという名ね。お父さんは…、この記録ではジュリオ,ジョーデイという人ね、もう何年前になるかしら? 」

 と係が書類を示しながら、ガイドに話しかけていた。 ガイドは,沙羅の身の上を係官に説明していた。そして、新しい米国のパスポートとともに係官から教えられたのは、沙羅が生まれた時に住んでいたという家の住所だった。次の日の自由時間にガイドとともにその住所を訪ねると、彼らが住んでいた瀟洒な家はまだあったものの、今の家の主はジュリオを知らないと言った。手掛かりを見失った沙羅は、その家の前で泣き出してしまった。もう、宿へ戻らねばならない時間だった。

「あの隣の住人に聞いてあげよう、これが最後かな。」

 そこに住んでいたのは、気のいい黒人夫妻だった。

「その一家なら、よく覚えているよ。メキシコ人のご主人と日本の奥さんだったな。赤ん坊を産んでから、そのお母さんは精神的に折れてしまった。赤ん坊はサラ・ジョーディ-サガラといったかな。ダンナが止めるのも聞かず、赤ん坊を連れて帰国しちまった。そうかい、この人がその時の赤ん坊かい?大きくなったね。お父さんを探しに来たのかい。そうさねえ、ダンナも、しばらくして仕事を貰って、日本の富士重工とかいう飛行機メーカーへあなたたちを日本へ探しに………。」

 気のいい黒人の主婦はそう答えて別れ際には、祈っているよ、成るように成る、と言ってくれた。ガイドがまとめてくれたストーリーは、こんなものだった。先ほどの瀟洒な戸建に、かつてジュリオ ジョーディというメキシコ人が住んでいたらしかった。そして、その妻はハナ サガラだった。子供はサラ ジョーディ-サガラといい、それは誕生半年後に日本へ行った沙羅のことであった。その際、ジュリオ ジョーディは妻ハナに捨てられたことも分かった。しばらくして、彼はアメリカから去って、母子を探しに日本へ行ったということだった。

 


 第五章 青春の摂動五


 一九七六年四月、沙羅たちは三年に、アキラ達は二年にそれぞれ進級した。受験モードとなった沙羅達は、補習とグループでの勉強会とに明け暮れた。その頃に行われた実力テストの結果は一応上位の成績で、翌年夏休み早々には独協大の給付生に決まっていた。

 九月になって、沙羅は父親が沙羅を探しに日本へ来たことを思い出した。日本の何処かに父がいる。沙羅はそのことだけに希望を託していた。

「あの、アキラ君いらっしゃいますか?」

「アキラ?いまは草履を浅草橋へ納品に行っているよ。自転車で出かけているから、帰宅は夕方だな。」

「そうですか…。」

「どうしたんで?」

 沙羅は徐に重蔵に事情を説明した。

「そうかい。そんなら、四日の土曜日なら、あいつも俺も空いているぜ。大家は親も同然で言うからな、富士重工本社までついて行ってやるよ。」


 西新宿の富士重工本社では、受付からOB親和会を担当する係へ紹介された。重蔵も、もちろんアキラも沙羅も初めてのハイテク大企業の社屋であり、落ち着けるはずもなかった。担当者が探したところでは、ジュリオ ジョーデイはエンジン納入据え付けのために来日し、宇都宮事業所へ来た記録があった。その後、本来の来日の目的である妻と娘を探すために、そのまま日本に住み着いたということだった。次の週の土曜日十一日、重蔵は沙羅やアキラとともに宇都宮事業所へ向かっていた。


 三人の乗った東北線は、日光線と宇都宮事業所を左手に見ながら川を渡り、宇都宮に着いた。富士重工の工場は、タクシーで数分の距離にあった。通されたのは、戦後建て直された社屋の一角の会議室であった。其処から見える空は、台風が近くにあることを示すような、どんよりしたものだった。総務課の課長から紹介されたのは、工場の入り口で迎えてくれた老守衛だった。眼光の鋭い守衛の目を三人の目が覗き込んでいた。

「先ほどは受付でご相談にのっていただき、ありがとうございました。この娘は、アメリカから来た父親を探しているのです。どうかご存知のことはなんでも構いません。教えてくれませんか。」

「うーん。名前はジョーデイさん?。一九五七年にジェットエンジンを外国から持って来て貰ったときに来ていた外国の方は、数人いたからなあ、会社に記録があるわけでもないんだよね。」

 沙羅はいたたまれずに質問を浴びせていた。

「あの、日本で人を探したいと言うことで来た人は、いませんでしたか」

「そうさなあ、日本にしばらくいた人たちはいたね。長期の休みをとったとか、観光したいとか言ってね。あんた達のいうように、昔の女を探しにに来た人も。でも、見つからなかったようだった。」

「それで、そのあとはどうなったのですか?」

「探す間は工場で仕事をしていたよ。それから日本に住み着いていた。陽気なんだけど、寂しそうな顔をしていたのを覚えている。一九五八年のはじめに初飛行した後だったからなあ。そのあと一人日本に残って、探している間に一年たったら病気になっちゃって、工場以外何処へも行けなかったね。」

 老いた守衛は、そのとき気の毒そうな表情を浮かべた。

「病気のため探すのを諦めたのかな、看病してくれた日本の娘さんと結婚したようだった。でも、他の社員に聞いたところでは、早くに亡くなったそうだよ。」

 飛行機メーカーとしての富士重工は、戦前から宇都宮にあった。戦後も初めてのジェット機が宇都宮で作られた。そのエンジンが間に合わず、急遽ブリストル社からエンジンを導入し、その際沙羅の父親も来日していたようだった。しかし、日本に住み着いた沙羅の父らしき人は、来日数年後に亡くなっていたとのことだった。


 帰りの駅で、沙羅は無言のままだった。重蔵もアキラも沙羅に話しかけることはしなかった。沙羅は自分たちを探しに来ていながら、異国の地で無念の死を迎えた父の寂しさを想って、涙を流した。そして、その淋しい父の人生に自分の孤独を重ねていた。沙羅は、帰りの車が駅へ向かわずに、上空の台風の雲に翻弄されて、ぐるぐる回って走るだけのように感じられた。まるで堂々巡りの沙羅の思考のように。宇都宮の駅についた頃、重蔵は沙羅の虚ろな表情を見て悪い予感をもった。それでも日光線で鹿沼市へ出かけて行った。以前からの約束通り、友人のいる鹿沼のカトリック教会で行われる翌日のミサに出席の予定があったからだった。残った二人を乗せた東北線の電車は、次第に強くなる風雨の中で上野へ戻って行った。


 台風の風雨は強くなっていた。ラジオは台風が東海地方へ近づいていることを告げていた。少しばかりの夕食を取って寝入った頃、沙羅の部屋のガラス戸を雨が強く打ち続けはじめた。突然、飛ばされた看板が沙羅の住むアパートの窓ガラスを両断するように割った。ガラス戸は壊れて外れ落ちて、沙羅の部屋は水浸しとなった。しかし、それでも、沙羅は濡れた自分と自分の部屋とを、なんとかしようとは思わなかった。それでも、沙羅の部屋のドアを叩く音とくぐもった声が聞こえて来た。隣に住む女のそれだった。

「大丈夫なの?」

 沙羅は答える気持ちさえ無くしていた。

「ねえ、大丈夫なの?。」

 しばらく問う声が続いた後、複数の人の足音が聞こえてきた。ガチャリとドアを開ける音とともに、隣人の女とアキラが部屋にはいってきた。それでも、沙羅は動こうとしなかった。

「大丈夫ですか?。」

 アキラの声にやっと身じろぎをした。ガラス戸が外れた窓からは、唸りとともに強い風雨が吹き込んでいた。沙羅はかぶっていたタオルがずぶ濡れの上、飛び込んだ看板やガラスが部屋じゅうに散乱していた。それでも、沙羅は声を出す気持ちも失っていた。

「あなた、大丈夫なの?。」

 隣の女は若い沙羅を心配して、ぐっしょり濡れた布団から沙羅を抱き起こしていた。アキラは、外れたガラス戸を嵌めようとしていた。

「大家さん、この子をどうする。」

「とりあえず、僕の家につれていきます。」

 アキラは沙羅を両腕で抱き上げた。沙羅が身を任せると、アキラは自分の家へと運んで行った。父親の死を受け入れられていない沙羅は、太い腕と筋肉質の上半身の中で、幼い時の父親が抱き上げているのではないかと錯覚していた。アキラは沙羅を風呂へと促し、自分は大工道具を抱えて再び沙羅の部屋へ修理に向かった。誰もいないアキラの家の中で、沸かしたばかりの湯船に浸かりながら沙羅は初めて声を出して泣いた。


 その深夜、アキラの部屋に寝かされた沙羅には、外の風雨が遠く聞こえていた。アキラは工場のベッドに寝入っているようで、家の中に人の気配はなかった。沙羅は不意に起き上がり、さまようようにアキラの寝ている工場へ歩いて行った。風雨の中、ミシリという音とともに沙羅の姿が闇に浮かんだ。アキラは亡霊のような沙羅の様に、息を呑んだ。

「沙羅先輩?。なにか困ったことでも?。」

「私を置いていかないで。ひとりにしないで。」

 沙羅は、父親にも見捨てられたように感じていた。そして、亡き父の姿を求めるように、闇に浮かんだアキラの寝所に近づいて行った。

「其処からこちらへ来てはいけないです。道を外れたことになります。」

「誰も私を振り向く人はいないわ。私を助けてくれる親はいない。親族もいない。わたしには生きる価値がないのよ。なぜガマンしなけりゃならないの?。もうたくさん。お父さんはいない、お母さんは死んだ。継父さんも死んだ。私はひとり。苦しいことばかり。私にはもう親戚も家族もいない。貴方しかいない。でも、貴方が欲しいと思っても、貴方は受け入れてくれない。それなら死んだほうがましよ・・・・。」

 そういって、沙羅はアキラの寝所に身を躍らせた。驚いたアキラは沙羅を受け止め喘ぎながら言った。

「そんなことを言わないで。俺にとって、先輩が大切な人てす。でも、今はいけない。デウス様の前に行ったあとでなければ。」

「どうして。」

「僕は知っています。自暴自棄になっても、先輩はデウス様に必ず拾い上げられることを。だから二人で祈りながら歩みましょう。」

「もうたくさんなの。」

 真っ暗な部屋で、稲光に涙がきらめいていた。沙羅はアキラにすがり付いた。アキラは沙羅を抱き寄せることも、手を回すことさえも避けた。彼はただ、沙羅の涙をキスで拭い去ろうとした。しばらくは、その慰めのみに努めて留めた。しかし、すがりついていた沙羅は、すっと背伸びをしてアキラの唇を捉え、アキラは拒むことができなかった。アキラは己を抑えられると思っていた。しかし、己も身体の反応も相手も留めることも出来ず、心も体も絡み合ってしまった二人は激情のまま営みまで落ちて行った。


 二人は、幾度となく終わった後も互いを感じ続けていた。沙羅は、不思議に心が安定したと感じられた。沙羅は奈落まで落ちていくことが自分にふさわしいと考えていた。せめてアキラ受けてくれたことで思いを遂げられたことが、沙羅にとって慰めであったかもしれなかった。しかし、アキラは熱情のままに走ったことにより、沙羅に対してまた天に対して申し訳ないと言う気持ちとなっていた。二人は裏腹な感情のまま、互いをかけがえのない者と意識していた。

 沙羅は訴えるかのように、アキラの頰と肩を撫でながら、静かに話し始めた。

「私の継父は、死ぬ時になっても言っていたのよ。『御心のままにこの身になりますように。』でも、苦しい時になんで、そんなことがいえるのかしら?。そのまま死んじゃったわ…。それが悲しすぎて。」

「御心のままになりますようにとは、お継父さんが?」

「そう、でも確かにそうね。いいところなしの私なんか、生まれてこなければよかったということが神様の御心なのよね。継父はいつの頃からか、私の味方をすることができなくなったみたいだった。今までずっと、親も継父も取られちゃうか、捨てられちゃうだけだったし、住むところもアキラ君や大家さんに迷惑かけちゃうだけだったし。だからこんなちっぽけで意味のない私なんて、御心のままにいなくなっちゃえばいいのよ。その方が楽になれるわ。」

 それほど深く悲しい悩みが彼女にはあった。アキラには、慰めも与えられない無力感があった。それでも、何か道はあるはずと思いたかった。


 次の日、ラジオは岐阜の水害を報じていた。アキラは沙羅がいないことに気づき、気が狂ったように辺りを探した。しかし、彼女の足取りは、ぷっつりと消えていた。失踪の日、鹿沼市から帰ってきた重蔵は旅行に行ったことを後悔した。アキラの思いはその後も募っていった。そのアキラは、加奈子やまなみに聞いて回ったが、誰も沙羅の行方を知る者はいなかった。そして、しばらく経ったのちに、アキラは加奈子や圭太たちに沙羅の失踪直前のことを相談していた。沙羅の言葉は救いを求めておらず、単なる諦めのように聞こえた。その言葉は、自己否定と深い絶望しか残っていないものだった。それは、支えてくれる者を見失った自棄的な孤独な絶望であった。

「・・・いいところなしの私なんか、生まれてこなければよかったということが御心なのよね。だからこんなちっぽけで意味のない私なんて、御心のままに、消えてしまえばいいのよ。・・・」

 集まった五人にとって、その言葉はあまりに重く、解決の糸口は見出し得なかった。その後、加奈子たちはついに沙羅との再会をすることなく卒業して行った。

 


 第六章 帰去来一


 人見街道沿いの野川公園は、はけの道の崖下に広がった谷間に広がっていた。沙羅は、その公園の遊歩道で車椅子を押しつつ、その老人に話しかけていた。

「今日は、晴れて気持ちが良いですね。」

「ああ。」

 沙羅が高校を辞めてから八年後、一九八四年の五月になっていた。


 八年前、高校時代にアキラと過ちを犯してその許を去った沙羅は、そのまま仕事を探してファストフード店で一夜を明かしている。しかし、家出の後に渋谷、新宿に出てはみたものの、その日もその次の日も、学歴のない沙羅にまともな就職口があるわけはなかった。母の形見の和服をさえ売り払い食費などに充てが、それも限りがあった。給仕として雇ってくれる店はなく、受け入れてくれるキャバレーさえもなかった。空腹を抱えて仕方なく歩いていると、スカウトしようとする男達が近寄って来ていた。それを振り切って逃げるのを助けてくれる男もいた。

 その男に食事を奢ってもらったのが、その後の生き方の始めとなった。その男は金を出して食事をさせてくれたが、見返りも求められた。そうして何人もの男に買われていき、何人もの男が沙羅の身体の上を通り過ぎていった。次の日も、次の日も、渋谷から新宿の辺りで、誰かに買われてどこかの部屋に紛れ込んでいた。未成年の沙羅にとって食べて生きる手段は、それしかなかった。男達は沙羅を助けようとしているわけではなく、沙羅の幼さと世間知らずをいいことに、混血の若い娘の血を求める吸血鬼のようなものだった。

 成長した沙羅は、やっとキャバレーに勤めることができ、またその勤め先を変えることを覚えた。キャバレーの面接を受けてやめては受けて、行き着いたところは、三鷹の赤線の名残のあった武蔵八丁だった。それは、新宿にいた頃に関わりを持った柳瀬権蔵から逃げるためだった。

 彼は、以前、沙羅が働いた新宿の店のオーナーであった。この頃一歳児を抱え、しかもさらに妊娠していた沙羅は、このオーナーに頼らざるを得ず、この男のもとに転がり込んだこともあった。しかし、辞めて権蔵の許を去って次々に勤め先を変えて行く沙羅を、権蔵は永福町のスナックまで追いかけて来ていた。

 その目をやっと逃れたこのとき、沙羅が働いていた小さなスナックは、三鷹の駅から北東へ三分ほどのところにあった。沙羅は混血の若い娘だったこともあって、店のママはよく沙羅を店に立たせていた。また、三鷹からほど近い新小金井の安アパートを紹介してくれた。それは、若い沙羅が、幼い子連れであった為だった。すでに六年経った今では、沙羅はそこで子供らを産み育てていた。

 また、スナックの常連だった武蔵境中央病院の大沢院長は、看護助手として雇ってくれていた。今では、糖尿病治療のために特別室に退いた大沢老人を世話する看護助手となっていた。勤務時間のほとんどを、近くの野川公園の中で車椅子を押しながら、時を過ごしていた。


「忍君と言ったな、息子さんは何歳になるのかね。」

 ちょっとした距離を歩いて来たのか、病院附属の保育園児たちも野川公園の広大な芝生の上ではしゃいでいるのが見えた。

「息子は七月でもうすぐ六歳になります。娘は、五月で四歳になりました。病院付属の保育園では、ほんと迷惑を掛けっぱなしで…」

「いいや、分解されたオモチャを見ると、丁寧に解体されていたね。あんたの息子さんは、利発で手先が器用だ。娘さんも、あんたに似て美人さんだよね。ほんと良い女になるよ。」

 そんな幼子を夜も預けてホステスとして働く日々も、沙羅は帰宅するたびに子供達の顔を見て疲れを癒していた。


 この日の午後の昼休み、公園の南に面した富士重工の工場から来たのか、何人かの作業服の男たちがバレーボールに勤しんでいた。ボールが、沙羅たちの方へ転がって来ていた。一人の坊主頭の若い男がボールを追ってきた。

「おーい、子供たちもいるから、そろそろ、やめようぜ。」

 遠くから声が掛かった。

「そうしよう!。」

 そう言いつつ、沙羅の顔をまぶしそうに見たその男は、そのまま動かなかった。沙羅は、怪訝そうに彼を見つめていた。沙羅の客の男なら、有り余る金を見せながら、好色な表情をあからさまに浮かべるのだか、この男はなけなしの勇気をかき集めたような表情を見せていた。

「相楽沙羅さん?。」

「えっ……。てめえ誰だよ?。」

 沙羅の口からは、いつも使っている荒っぽい言葉が出ていた。あのしつこい柳瀬権蔵の配下と考えたのだった。しかし、その男の馬鹿のつく正直な表情は、困惑そのものだった。そのようにしてアキラは狼狽し悲しい横顔をして立ち去りかけようとした。沙羅は、その見覚えのある生真面目な坊主頭の横顔で気づいた。

「あっ、ごめんなさい。アキラ君なの?。何故ここに?。」

 アキラは気づいてくれたか、と言う顔をして、沙羅の目を真っ直ぐに見た。

「失礼いたしました。沙羅先輩でありますか。」

 昔の馴染みのある生真面目な言い方だった。

「また、そんな言い方をしているの?。相変わらずなのね。」

 大沢老人は、興味深そうに二人のやり取りをみて、声をかけた。

「アキラさんといったかね。あんたは、随分と真面目な堅いひとだね。制服から見ると、富士重工の研究所のひとかな。」

 遠くから、事業所の仲間たちが声をかけて来た。

「班長さん、先にいくよ。」

「うん。先に始めていて下さい。」

 大沢老人は名刺を取り出し、アキラに後で病院に来るように話をした。アキラが大沢老人と沙羅とに渡した名刺には、研究開発本部駆動系技術開発部エンジン技術班長とあった。

 大沢老人はポツリといった。

「若いのには珍しく、糞真面目で融通が効かない様子だね。それにしてもあの若さで班長?。相当有能らしいな。」

 大沢老人は、一言だけ言って遠くをみていた。


 その日の夜、病院長室には沙羅とアキラだけの姿があった。沙羅は、ホステスとして店にでる姿でいた。さらは、その豊かな胸を大きく強調したドレスを、沙羅の心の武装であるかのように纏って立っていた。他方、アキラは相変わらずストイックに、沙羅の身体から目を上にそらしながら沙羅の目を見つづけると言う、難しい作業をしていた。そんなアキラを見た病院長は、沙羅に、三十分だけでも話をしてあげなさい、と言ってくれていた。最初に口を開いたのは、アキラだった。やっと探し当てたと言う思いが、顔からほとばしっていた。

「沙羅先輩はいつからここに?。」

「もう五年になるかしら。」

「五年ですか。」

「ごめんなさいね。今日はこれから夜の仕事もあるから、あまり時間がないの。」

「お仕事は何をしているんですか?」

「私は、ご覧の通り病院勤め、そしてホステスよ。流れ流れてここまで来たわ。生きる価値がないのにね。あれから、男達に買われ買われて、こんな女になっちゃった。なんとか生きているのが不思議なくらい。」

 アキラは、ケバケバしい化粧と胸を大きく開けた沙羅の服に、まだ戸惑っていた。また、冷たく自暴自棄に言い放つ沙羅の言葉に、深い悲しみと暮らしぶりを垣間見た。

「アキラ君は?。」

「豊田先端技術大学を卒業してから富士重工へ就職したんです。独り身なので、いまはこの通り東京事業所に来ています。」

「確か、お父さんが機械の技術専門家さんだったわね。蛙の子は蛙ね。」

「そうですね。」

「あっもうこんな時間だわ。この話はこれでおしまい。じゃあ、さよならね。」

「沙羅先輩。また明日来ます。もう、逃げないでください。」

「どうしてまた来るの?。会えたのは嬉しいけど…。私はもう汚い女よ。アキラ君が会ってはいけない女よ。」

 アキラは、真っ正面から沙羅を見つめた。沙羅を逃すまいという気迫を滲み出していた。戸惑いながら沙羅は渋々返事をした。

「わかったわよ。逃げないわよ。ここに、子供達を預けているし。」

「お子さんがいらっしゃるのですか?。」

 アキラは、明らかにショックを受けていた。

「そうよ。お昼に、野川公園にもいたのよ。」

 アキラは、八年という歳月を思った。それは、人を変化させ、人間関係にも新しい事象をもたらしていた。アキラは、心が混乱したまま、やっとこれだけ言えた。

「また、明日来ます。」

 沙羅は、子供達に会わせると約束した。


 研究室付属の整備工場では、アキラが中心となって開発して来た新しいエンジン系のアイデアが完成間近だった。

「班長、点火時期調整のシステムは、どうしますか?やはり、オクテンセレクターのマニュアル調整では整備の時間を浪費しますよ。即応性がないと思うのですが。」

「そうですね。でもそれ、明後日までに計画変更できますか?それから、オートチョークの最適化も試したほうが良いかもしれませんね。

 それと…申し訳ないのですが、野暮用があって今日の定時で帰り、明日は休みます。」

「へえ?。班長さん、珍しいですね。こんなに早くに上がるなんて。」

 このやり取りに気づいた年上年下の部下たちが、アキラの意図と関係なくアキラの周りに集まってきた。別の一人がこんな質問をしてきた。

「昨日の夜も早く上がっていましたよね。明日もお休みですか。公園であったあの女の人?」

 部下たちがニヤニヤしていた。「えっ?」

 アキラは一生懸命に誤魔化すように返事をしていたが、その試みは失敗していた。


 アキラは、真っ赤な顔をしたまま逃げるように事業所を後にした。昨日訪れた病院長室へと急ぐと、日の長くなった夕暮れらしく病院長室は朱色の光に満たされていた。

「こんばんは。」

 アキラの挨拶に、沙羅の娘と息子は、母親の陰に隠れて、容易には打ち解けなかった。

「この子は忍、この娘は百合というのよ。六歳と四歳になるわ。」

 この現実は、アキラの心の中に渦を巻き起こしていた。その様子を見ながら沙羅は言った。

「この子たちの父親は、わからないのよね。向島を離れてからすぐに、生きるためにいろんなお付き合いをしてきたから。」

 それを聞いたアキラは、その意味することが沙羅が今も他の男のものになっている、と理解して狼狽し、また、そんな彼女のきた道の厳しさを思い涙した。その姿を見つめながら、沙羅はしばらく黙っていた。そして、黙って忍と百合をアキラの前に立たせた。アキラは、沙羅に抱かれていた百合にはステンレスに金のメッキをして作った首飾りを渡し、忍の前にはしゃがんでレオーネのミニカーを差し出した。

「すげえ。」

 忍は、初めて声を出して反応した。目の色を変えて、ミニカーの車輪やドアを熱心に観ていた。

「この子、とても機械が好きなの。壊したり、組み立てたり。すこし器用だしね。多分、私の父に似たのね。」

 忍のミニカーの扱いに見とれていたアキラは、我に帰った。

「このお近くにお住まいなんですね。」

「そう。今は母子家庭よ。この子たちにはお父さんがいないの。そこで、お願いがあるの……。忍たちを家に連れて行って、私が帰るまで、特別に面倒を見てくれないかしら。」

 沙羅は、鍵と簡単な地図と住所を渡しながら頼んだ。

「いいですけど……。」


 アキラには戸惑いがあった。なんでこの僕に頼んだのか。沙羅の住まいに行くということは、忍たちの父親になってほしいということか?。それはいいとして、子供の面倒をうまく見ることができるのか。夕食はどうするのか。様々な考えを堂々巡りしながら、新小金井駅近くのアパートに、忍や百合とともにたどり着いた。忍はアキラの手を取ってどんどん階段を登っていった。アキラを引っ張っていく忍の手は小さく、片方の手にはレオーネのミニカーをしっかり握りしめていた。

 アパートの隣人らしい女がアキラを見て、三人に話しかけてきた。

「しのぶちゃん、新しいパパさん?」

「ウン。そうだぜ。すっげえひとだぜ。」

 アキラは、乱暴な言葉遣いの忍を見て、これから行く処がどんな住まいなのかを考えなから、会釈をしていた。沙羅たちの住むアパートの一室は、六畳とキッチンだけの狭いアパートだった。

「そうか、先ずは食事をさせて、風呂かな。」

 忍や百合を促して近くの銭湯へ出かけた。忍は、ミニカーを洗い場の中にまで持ち込んで、ご機嫌だった。そればかりでなく、風呂から出たあとも、脱衣所で夢中で質問をしてきた。

「おじちゃん、これはジェット噴射口だよな。」

「これは、排気管なんだ。車は、エンジンで車輪を回して走るんだよ。」

「へぇ。じゃあ、これは尾翼じゃねえの?。」

「尾翼なんて言葉、よく知っているねえ。でも、これは、車を地面に押し付ける力を得るための翼なんだよ。」

 忍は、ミニカーの底部、エンジンルームなどを指差して、アキラを質問責めにしていた。

 その後、定食屋で夕食を済ませ、帰り着いたアキラは忍たちを寝かしつけながら、残った家族の帰りを待っていた。しかし、沙羅は夜遅かった。

「おかえり。毎晩大変なんですね。」

「そうね。稼がないとやっていけないから。普段だと、今頃晩御飯なのよ。」

 沙羅は酒の匂いをプンプンさせていた。アキラは、自らの母子家庭の時を思い出していた。


 彼は葛飾区堀切の育ちだった。北向き地蔵の竹林の裏に、ひっそりと建てられたアパートの一室に母子で生活した日々は、苦しくも安心して過ごせた優しい記憶だった。向島に今の後見人の重蔵がいたこともあり、決して孤立してはいなかった。しかし、沙羅母子は、頼るものもおらず、なんとか生活しているのだった。


「アキラ君、今夜はここへ泊まって。」

「それはいけないことです。」

 此の期に及んでもアキラは唐変木であった、悲しいほどに。

「弱虫ね。」

「沙羅先輩には、他の男の人がいますよね。しかも、子供さんもいるし…。僕が手を出すわけには行きません。」

「母子家庭だと言ったじゃねえかよ。」

 思わず涙声の荒い口調が出た沙羅を、アキラは見つめた。アキラはこのまま可哀想な沙羅を抱きしめたいという衝動に駆られた。しかし、いま彼らが母子家庭であったとしても、大切な沙羅を汚したくなかった。しかし、沙羅にとってアキラは、昔と同じように唐変木にしか見えなかった。沙羅は、半分怒りながらアキラに覆いかぶさった。沙羅は、久しぶりにアキラの匂いを思い出していた。アキラは、沙羅以上に衝動に震えながらも、手を沙羅の痩せた肩に手を置いて必死で自分を留めていた。

「先輩、待ってください。今日は酔っているんですよ。でも、決して拒否するわけではないです。但し、物事には順番というものがあります。先ず、忍くんたちが僕を受け入れて、結婚してからのはずです。まず、休みを取っていますから、明日またここにきます。忍くんたちを一日貸してください。」

 そう言って、アキラは沙羅を振り切り、アパートの階段を下り、暗闇に消えていった。

「弱虫!唐変木!馬鹿野郎。」

 沙羅は毒づいていた。


 次の日の朝、アキラは忍を迎えにきていた。酔いから覚めていない沙羅は、ボサボサの頭を掻きながら、無言で忍たちを送り出していた。アキラは、沙羅の毎日の暮らしぶりがわかったような気がした。また、女一人で子供たちを育て上げる困難を想った。

「今日は病院を休んでいてください。連絡をしておきます。忍くんたちと三人で、多摩動物公園へ行ってきますから。」

 是政線北多磨駅から京王線武蔵野台駅への道は、のどかな畑地の道だった。アキラは小さな忍の手を引きながら、ミニカーをしっかり握りしめている忍の姿に、昔の自分を重ねていた。

「おじちゃん、あれなんだあ?」

 送電線や農作業車を次から次へと指さしながら、忍は質問をしていた。アキラには苦にならず、答えられないことは何一つなかったが、そのアキラは、自分も質問魔だったことを思い出し、さぞ周りは迷惑だっただろうなと振り返っていた。


 動物園は、平日であることもあって、余りこみあう様子はなかった。ライオンバスに乗り込んだ忍は、はしゃいで歓声を上げ続けていた。午後二時には二人はすっかり疲れ果て、百合は腕の中で、忍はアキラに負ぶわれていた。アキラは子供独特の甘い匂いを嗅ぎながら、沙羅への愛情をおもいだしていた。アパートへ帰り着くと、夜の六時になろうとしていた。沙羅は既に夜の職場へ出かける準備をはじめていた。目が覚めた忍は、二人が気まずい雰囲気であるのを見て取って、何かを考えているようだった。

「二人とも仲直りしろよな。昨日、おいらが寝ている時も取っ組み合いをしていたじゃねえの?。ママがおじちゃんの服を脱がして乗っかっていじめていたよね。『弱虫!唐変木!馬鹿野郎』って。」

 沙羅は、アキラを顔を見ながら昨夜のことを思い出し、慌てて顔を背けた。息子には沙羅が何をしているかを、まるで見抜かれているようだった。


 さて、アキラは沙羅を送り出し、銭湯と定食屋から戻った。アキラは疲れ切った忍や百合を寝かしつけ、そのままうとうとしていた。明日はミサだった。ふと、アキラは叔父の重蔵や沙羅とともに、ミサへ参列している夢をみていた。そこでは、告白とともに赦しの言葉を繰り返す声を聞いていた。そんな幻を見ながら、アキラは深い眠りに落ちていた。いつもより遅く、午前二時を回った頃だろうか、沙羅はタクシーで送られて帰っていた。酷い酩酊のまま、自室のドアを開けると、そこには幼い忍を寝かしつけて寝入っていたアキラの姿があった。沙羅は、暗い室内で服を脱ぎ捨て、敷かれていた寝具の上に身を横たえた。そこに、寝言のようなアキラの涙声が聞こえていた。

「あなたを贖う主は言われた、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと。私この私があなたの叛の罪を赦して、思い出さないことにした。それも私自身のために。あなたの叛の雲をあなたの罪の霧を、すべて吹き払った。私のところへ帰ってこい。」

 沙羅は、それがなにを意味するのかは、わからなかった。それでも、アキラが沙羅を失いたくないという気持ちが、痛いほど伝わっていた。


 

 第七章 帰去来二


 その後、府中カトリック教会で二人は堅信礼を受けて結婚した。そして、アキラはすっかり髪を伸ばし、混血らしくハンサムであることが忍や百合ら子供の目からもわかるほどだった。結婚して六年たった一九八九年二月、彼は、東京事業所の新型エンジン開発責任者となったこともあり、ハケの上に中古の一軒家を購入していた。東側の細い道は、是政線を見ながらハケの崖下へと降って行く一本道で、家の前を散歩する人々が行き交っていた。忍は十一歳となり、エレベーターに夢中な一風変わった男の子に育っていた。百合は九歳となったが、まだアキラから離れられないパパっ子の幼さを残していた。また、沙羅は夜の勤めを辞め、アキラの強い勧めもあって、昨年の春に東京女子大を卒業していた。

 しかし、そんな平和な日常を壊すものが現れていた。


「おう、沙羅。久しぶりだなぁ。こんな家に収まっているのか。いいご身分だな。」

 庭に洗濯済みの服を干していた沙羅は、目の前の中年男に凍りついていた。

「あんた。何しにきたのよ。」

「子供を抱えて逃げられると思ったか?。」

「あの子達は関係ないわ。」

「そうだろうな。前の男達の子らなんだろ。」

「あの人は、あの子達を受け入れてくれたわ。」

「へえ。受け入れるなんざ、いくらだってできるさ。まっ、今回は新しい男に子を押し付けて、また逃げ出すのかな。」

「権蔵。あんたなんかが来るところではないわ。」

「ほおっ?さんざ頼っておいて、そのお言葉かよ。つれないなぁ。」

 男は、塀を飛び越えて沙羅を捕まえて低い声で囁いていた。

「子供が見て恐怖で怯えているぜ。まあ、脅すなんて野暮はしねえよ。ただよ、俺はおめえと少しよりを戻したいだけさ。」

 権蔵が沙羅の手を引くと、沙羅はあまり抵抗せずについて行った。沙羅は自宅に戻れると思っていた。少なくとも戻る気でいた。しかし、やっと沙羅を捉まえた権蔵は、沙羅を戻す気はさらさらなかった。

 

 忍はアキラに急いで電話をかけ、泣きながら事態を報告していた。

「お父さん、ママが知らないおじさんに連れられていっちゃった。」

 百合の説明でも、沙羅が強制的に連れ去られていったことは明らかだった。


 はけの家から沙羅を連れ出した権蔵は、以前から沙羅を住まわせたことのある新宿御苑のマンションに、沙羅を連れて来ていた。

「さて、やっと着いたな。子供まで含めて養ってやっていたのに、何で逃げ出したのかを聞かせてくれ。そして、今の相手の男が誰なのか、もな。」

「あんた、私が何で百合を宿したのか、わかってなかったの?」

「男と女の関係があれば、子ができることもあるさ。」

「父親はあんたの店の客よ。誰が父親かわからないような子を産んで育てていたから、あんたを頼るしかなかったのよ。それがわからなかったの?」

「俺を愛してくれていたんじゃないのか?。」

「そうね。あんたは、優しかったし、頼り甲斐があったし。でも、あの時、何で私がこんな目にあっていたのかって考えたのよ。私の今の苦しみは、あんたの店の商売の仕方が招いたことじゃないかってね。それに、あの子たちの父親はあんたじゃないし。」

「そうか、それなら今はもう二人だけで暮らせるわけだ。」

「いやよ。家に帰して。」

「あの家の主人は誰んだ?」

「高校時代の恋人よ。年下の彼が私を大学卒業まで導いてくれたわ。」

「へぇ。お前と同じ程度の年齢にしては稼いでいるんだな。」

 しかし、権蔵は沙羅を返さなかった。


 十年前のあの日、権蔵と沙羅が出会ったのは、新宿のキャバレーの裏口だった。

「なによ。なんでこんなことをしなけりゃいけないの?。」

 この時の沙羅は、未だ二十代前半だったこともあって、店の客の間では、みゆきという名で一番の人気であった。店にとってはモテなさそうな三、四十の男たちがお得意様であった。店長が沙羅を店の裏に連れて行き、説得していた。

「みゆきちゃん、あんたよ、もう未成年じゃねえんだよ。また同伴してあげなよ。」

「あいつ、金がありゃ何でも可能だなんて言いやがって。それに、不細工のくせして、すぐにホテルに行かせやがって。」

「彼はさあ、金離れがいいし、大切な常連さんなんだよ。」

「もうやだよ。あんな肥満児。」

「みゆきちゃん、ワガママはこれくらいにしてくれるかな。」

 沙羅は、店をやめるかどうかの選択を迫られていた。そんな時に来たのが、オーナーの柳瀬権蔵だった。三十前後のマスターよりも、さらに二十年歳上のように見えた。

「マスター。こんな外で何の騒ぎだい?。」

「あっ、オーナー。みゆきちゃんがお客の同伴を嫌がっているんですよ。」

「みゆきちゃん、嫌がっていたら商売が成り立たないよ。まあ、みゆきちゃんはまだまだ先がある子だから、まずは予行演習が必要かな。マスター、今日は勘弁してあげてよ。俺の方で教育してみるから。」

 そう言って、権蔵は沙羅の手をとって歩き始めていた。沙羅にとって、オーナーはあまり馴染みのない男だったが、物腰の柔らかさと噛んで含めるような言葉は、昔亡くなった優しい継父を連想させた。そのためか、沙羅は権蔵の指示を素直に受け入れられていた。そして、しばらくすると、沙羅は権蔵の新宿御苑近くのマンションの一室に、一人息子の忍と転がり込んでいた。それはその頃、沙羅は妊娠しているなどに気づいたためだった。その後の沙羅の記憶は、権蔵が単にオーナーであったというより、それからしばらく彼が沙羅のパトロンだったことだった。その間、沙羅は権蔵のもとで忍と百合を育てていたのだった。


 さて、権蔵は店を売り払った金を資金に、遠く自らの出身地北海道の余市に沙羅を連れていってしまった。アキラは捜索願を出し、三鷹のスナックやその前に勤めていたという吉祥寺の店でも、また探偵事務所の調べでも、沙羅の消息はつかめなかった。やっと一年後に探偵事務所は新宿のキャバレーに辿り着いた。そこの新しいオーナーは、古くからいたマスターを紹介してくれた。

「沙羅?うーん、みゆきちゃんだったかな。前のオーナーと仲よかったからね。」

 まだ中年と呼ぶには少し早い年代のその男は、そう答えて、前のオーナーのことを教えてくれた。噂では、昔の女と北海道へ渡ったというところまでしか、わからなかった。

 


 第八章 帰去来三

 まだまた沙羅の消息はつかめなかった。そんなとき、アキラは、一九九三年の二月、宇都宮事業所へ配置換えを内示された。それは、バブル経済の崩壊の最中であり、業務最適化の一環でもあった。しかし、母親の帰りを待つ忍と百合が、はけの家を離れたくないことは、容易に想像できた。

「二人とも、ちょっと来てくれるかな?」

 庭と野川の谷を見下ろせるリビングで、アキラは忍たちに話をし始めた。

「僕の職場が宇都宮事業所に変わることになったんだ。」

 忍たちは顔を見合わせていた。そして、反抗期の忍がぶっきらぼうに口を開いた。

「じゃあ、母さんがここへ帰って来るのに、誰も待っていないんだ。へえ、それでいいの?。」

 百合はしばらく黙っていたが、やはり引っ越しには抵抗があるようだった。

「私も、移るのは嫌だけど。でも、お父さんといっしょに行かなければならないなら、お父さんについて行く。」

 忍が百合の方を見て、驚いた顔をした。百合は忍を見ながら続けた。

「だって、お母さんは帰ってこないじゃない?。もうこんなに時間が経つのに。私、お母さんがあのおじさんについて行く時、どこかへちょっと出かける感じで行っちゃったのを、見ていたの。無理矢理のようには思えなかった。それは、強制されていないのに永く帰ってこないということじゃない?」

 同じ現場にいたはずなのに、二人は見方が変化していた。忍とアキラは、百合の言葉に驚いていた。忍は反駁した。

「そんなふうには考えられないよ。お母さんは、連れ去られたんだ。」

 アキラは、二人にゆっくりと話し始めた。

「あなた達二人の間では、諍いを持って欲しくない。沙羅さんを、あなた達のお母さんを待っている心を失って欲しくない。ここを離れても、あなたたちの母さんは僕が探し続ける。今までも、これからもね。だから、この家は置いておく。貸すかもしれないけど……。だから、二人とも僕について来てくれないかな。」

 百合はこっくりと頷いた。それを見た忍は、仕方なさそうに一言返事をしていた。

「それだったら、まあいいかな。」

 アキラは二人の母親への想いを考えながら、自責の念に囚われていた。

「二人とももう知っていることだけど、僕は君達の本当の父親ではないから。だから、素直にいうことを聞いてもらえないことも、わかるんだ。」

 忍たちは、アキラの顔を覗き込んだ。

「また始まった。それは違うよ。やめなよ、そんな言い方。」

 二人は同時に叫んでいた。百合も反抗期の忍もアキラを責めてはいなかった。忍たちはアキラの不器用な生き方を分かっていた。


 ・・・数日前のこと、アキラは新型エンジンの最終仕上げのために、遅くまで勤務していた。中学のクラブ活動が終わった後の忍は、あまりの遅さにアキラの職場へ入り込んでいた。忍が陰からのぞいた光景は、責任者の厳しさのそれだった。

「班長、期限は明日だし、こんなのいくらやっても最適解は、解析写真から言ってもこの辺ですよ。」

「いや、三次元データより時間の遅れも考慮するともう少し良い値があるはずなんです。」

「もう時間切れです。」

「いや、もう少し付き合ってくれませんか?。金属酸化物昇華の影響を考慮して、リンバーンセンサをフィガロさんのに取り替えて、位置をここに少しかえてみたいんです。」

「そんな根幹的な変更を今頃やるんですか、もう無理!。」

 年長の部下たちは、帰ってしまった。しかし、アキラは一人残って二時間以上も、エンジンを抱えて作業を続けていた。忍は、一人でなかなか作業を終えないアキラからそっと離れ、一人帰っていった。彼の頭の中に残っていたのは、反対されても孤独になっても耐え続け、黙々と努力し続けるストイックな父の姿だった。


 三人の沙羅への想いはバラバラなまま、彼らは栃木の宇都宮市へ移っていった。忍と百合は、宇都宮市の中学校へ転入、入学していた。また、三人は工場近くの従業員家族寮に引っ越した。三人は、母親のいないことにも慣れっこになっており、健気に暮らし始めて三年が経った。

 


 第九章 帰去来四

 余市の秋の夜は寒い。一九九七年も、十月を待たずに紅葉が始まり、ニッカの工場もちらほらと赤や黄色の葉が増えていた。小樽から帰った沙羅は、その十月の街並みの帰路を急いでいた。余市の駅からその工場を左手に見ながら川沿いに、そして川べりを下ると、海に近いところに古い一軒家があった。既にシベリアからの風が軒下や屋根を震わせていた。小さめの窓の奥、権蔵が寝込んでいる万年床の横に、早々と出した石炭ストーブにかけたヤカンが、蒸気を出していた。一通りの家事を終え、沙羅が割烹着を外しながら権蔵の方へ歩いて来た。

「小樽の黒田先生から、ビルビリンの値が高い、おかしいって。お酒はやっぱりダメよ。」

「どうせ、もう終わりに近い年齢だぜ。酒ぐらいは好きにさせてくれ。」

「ふー。」

 沙羅はため息をついた。今も、権蔵からは離れるに離れられない状況のように感じられた。権蔵に連れ出された時には、ひょっとしたら頼れるのかなと思いついて来た。しかし、余市のこの家に来た途端、権蔵は肝硬変を発症し今では肝臓癌だった。それでも、権蔵は図々しかった。

「お前は、俺のもんだ。」

 権蔵は今でも言い聞かせるように、沙羅に言う。沙羅はそう言われて、最初はこわいこともあって、また、頼りがいがあるようにも感じられて、権蔵から離れることが出来なかった。

「山の畑に行ってくるわ。」

 野良着を着た沙羅は、歩いて一時間の山道を登って行った。彼女は昔を振り返りつつ思った。彼女にとって、権蔵から離れて一人になれるのはこの時だけだった。懐から取り出した巾着袋には、ただ一つ持ち出せた子供達の靴下が大切にたたまれていた。その時に沙羅の心に浮かぶのは、彼女が自分にふさわしい言葉と思った一つの言葉だった。

「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。……。」

 彼女は、この言葉を知ってから、自らを助けられる価値のないもの、だから救われずに滅ぶことが御心だと、強く思っていた。


 権蔵の休んでいた家に、男女二人が近づいていた。

「河原さん、この家ですね。表札を見て見ましょう。変わっていないから、まだここに住んでいると思います。」

 田中要子という女探偵から、河原と呼ばれたアキラは、スーツのままでここまで来ていた。

「男の方は柳瀬権蔵といって、六十二歳の独身の男です。もともと、このあたりの出身です。相楽沙羅さんのほうは、住民票を移しているわけではなく、また、あまり人と付き合わないようにして暮らしていますね。多分、二人はここまで逃げて来た、と言うところだと思います。つまり、向こうは余り会いたがらないかもしれません。」

 アキラはゆっくり頷いていた。女探偵は、声を落として合図をした。

「これから、声をかけて見ます……。」

 女探偵は、白い手袋のまま呼び鈴を押した。

「すみませーん。柳瀬さんはご在宅ですか?。」

 アキラが依頼していた探偵の田中要子は、家の周りを歩いてアキラのところに戻って来た。

「西側に面している居室に、男が寝ていますね。起きられないのかもしれません。でも、もう一人、女がいたはずでそれが沙羅さんだと思います。その人の帰りを待ちましょう。」

 野良着を着て着膨れした沙羅が、歩いて戻って来ていた。その方向へ女探偵が歩いて声をかけた。その時もアキラは深く帽子を被り、顔を見せなかった。

「こんにちは。この辺りは夕暮れも早いんですね。」

 話しかけられた沙羅は、ビクッと動き、驚いたように顔を上げた。その顔は、日焼けとシワを重ねたものだったが、アキラには直ぐに沙羅だとわかった。

「こんにちは。どちら様ですか。保健所の方ですか?それとも?。」

「私は、探偵事務所の田中要子と申します。相楽沙羅さんですね。」

「そうですけれど。」

 沙羅は、田中要子と名乗る女探偵の後ろに立つアキラを、目を細めて見ていた。アキラは帽子を取って頭を下げた。

「ご無沙汰しています。アキラです。」

 アキラであることは、その声で直ぐにわかった。

「沙羅先輩、やっと見つけたよ。」

 沙羅は、驚きと当惑で後ずさりしていた。アキラは逃げるかのような沙羅の態度に、駆け寄ろうとした心を抑えざるを得なかった。

「アキラくん、あなただったの……。ごめんなさい。黙っていて。でも、ここに居る、とは知らせられなかった。」

「えっ?。」

「あなたが私を連れ戻しに来るとは、思わなかったわ。それに、あの人を一人にするわけにはいかなかったの……。彼は、もう肝硬変を悪化させていて、歩くのもできなくなってしまったの。いずれは先が短いと思うけど、放って置けなかった。」

 沙羅は、失踪から今までのこと、失踪後の恐怖から権蔵への憐憫へと変わった想いを打ち明けた。沙羅は、亡父や早くに亡くした継父への面影を権蔵の中に探し続けたのかもしれなかった。

「でも、沙羅先輩が残した家族はどんな想いをしたか、分かりますか。私は、あなたを愛し続けてきました。あなたの過去も、聞き及んだあなたの今も、そして、何もかも無くしてしまったあなたの未来も、私には手に取るようだ。そう、あなたなら記憶があるはずです。あなたは母親を失い、優しかった継父をも失い、孤独だったはず。それを今、あなたの子供達は味わっている。でも、あなたが歩んでいる過去と今とを、彼らには味わわせたくない。僕のことはいいです。でも、忍君と百合さんは、母親を必要としています。」

「アキラくん、私には、戻る資格がないの。私は、自分の父親を求めてしまった。探してしまったから、亡き母親に呪われているのよ。だから、権蔵みたいな父親のなりそこないに引っ張られ、憐れみをかけることにさえなってしまったわ。彼を捨てられないの。」

「でも、そうなら、先輩は、家族を捨て去ってしまうの?。まるで先輩の母親が、先輩の父親を捨てたように。片親になってさまよう家族の苦しみを分からないはずは無いのに。」

「そうね。やっぱり、私は許されないわね。戻れば可哀想な彼を見捨てることになるし。既に家族は見捨てているわ。……。でも、どちらにしても、許されないわね。」

「もう一つ、それでも先輩は幸せなの?」

「いいえ……。私が倖せになることなんて考えたことはないわ。というよりは、私が幸せなのは許されてないの。だから、戻ってはいけないのよ。」

「まだ、わからないの?。今僕も分かったことだけど、戻したいのは僕自身だ。僕のことはいいと言ったけど、それは違うんだ。僕が戻したい、そうしたかった。先輩に罪があったとしても、僕が希望するから不問にしたい。つまり、デウス様が戻したい、不問にしたい、立ち帰らせたいと思っていることと同じだと思う。私も、デウス様もあなたを失いたくないから、許しつづけてきたし、これからも繰り返し許されるだろうことがわかる。」

「なぜ、そうなるの?。私はあなたもデウス様も裏切ったのよ。デウス様の名を呼ぶ権利もないわ。」

「それは、僕が先輩を妻として選んだから、そうしたいと思っているから。デウス様もあなたを選んだから、そう思っている。それしか答えがない。だから、必ずまた見いだされて許され続ける。僕も、デウス様も、同じ思いなんだよ。」

「アキラくん、あなたはそこまで……。私にはどうしたらいいか、わからないわ。」

「沙羅先輩、それなら全てを僕とデウス様に任せて。」


 アキラは、ふと聖書の一文を思い出した。

「淫行の女、ゴメルをめとり、淫行による子らを受け入れよ。」

 その御言葉をおぼえながら、アキラは沙羅と権蔵を引き取り、東京の武蔵境中央病院に権蔵を入院させた。その四ヶ月後、権蔵は息を引き取った。

 


 第十章 父の幻影一

 次の年の一九九八年春から、はけの家に戻った沙羅は、一日中全てを背負い込んだように無口だった。すこし痩せた横顔は、アキラの見覚えのあるそれであった。近くの農工大に合格した忍や立川高の百合は、二年前に宇都宮から帰って、はけの家に住んでいた。しかし、帰ってきた沙羅に、以前のように接することができなかった。それは、沙羅の中に母を見出すことができないためのように思えた。また、あれほどに待ちわびていた忍たちだったが、わだかまりを持ったままでは、余り沙羅に話しかけることができなかったのかもしれなかった。それほどまでに、母と子供達との間に深い谷が出来上がっていた。ただアキラだけは、会毎週末、栃木の宇都宮市から戻り、沙羅の隣に、また成人した子供達の側にいるようにしていた。

「もう春ね、桃が咲き始めているわ。」

「沙羅先輩、今日は、何を探しているの?」

「また、そんな呼び方をするの?。今日は、野川の向こうの木々の間に、珍しく、仲の良さそうな父娘親子がみえたわ。あの幼い娘さんは、お父さんに全てを委ねているのね。」

 アキラは、沙羅の心の空虚がわかったような気がした。彼女には、父親が必要だった。しかし、年下のアキラには愛する妻のことを憐れに思えても、父親を知らないアキラは妻の心理的な父親にはなれ得なかった。


 ある日、アキラは忍に呼び出された。その店は、吉祥寺駅から井の頭公園に向かう道の右手のショットバーだった。忍はアキラを店の外にあるテーブルへと誘った。


 忍は、母を理解できていなかった。百合もそうだった。

「お父さん。母さんは、あの時、やっぱり僕たちを捨てたんだね。」

「百合がそう思うのは、知っている。しかし、忍がそう思うのかね?。それとも、百合の考えを真似しているのかね?。」

 忍とアキラは、昔、百合の言った言葉を思い出していた。

「……だって、お母さんは帰ってこないじゃない?。もうこんなに時間が経つのに。私、お母さんがあのおじさんについて行く時、どこかへちょっと出かける感じで行っちゃったのを、見ていたの。無理矢理のようには思えなかった。それは、強制されていないのに永く帰ってこないということじゃない?……。」

「いや、沙羅さんは、連れ去られた時には戻って来るつもりだった。しかし、相手の男は、昔、君たちを育て始めた時に頼りになった人だった。しかも、彼は病気に苦しんでいた。そんな人を前にして、去ることができるだろうかね。沙羅さんはできなかったのだよ。」

 アキラは百合を見ながら、百合の言葉を待った。百合の表情は固かった。


「じゃあ、私たちは忘れられていたわけ?。」

「そうではないと思う。君達に、僕がいると思って、僕に任せたんだと思う。ただ、僕が継父に過ぎず、父にも母にもなれなかった。任せられたのに、君達に寂しい思いをさせ、母親の沙羅さんと君たちとを断絶させている。そんな僕が君達に、沙羅さんの孤独を理解してほしい、というのは、虫が良すぎるかもしれない。でも、それは私が悪いのであって、沙羅さんを責めることではないと思う。」

「でも、一番裏切られたのは、お父さんなのよ。それも私達を押し付けて。しかも、あの男まで引き取らせて。私たちは、あの男を、母さんを許せない。男が死んで、脱力しているなんて、ザマを見ろ、というところね。」

 春の風が、アキラの肩を叩いていた。アキラは、目を開いた。忍と百合の目がアキラの目と合ったとき、アキラの目は遠くをそして近くを、また二人を見ているのかわからなかった。

「たしかに、僕が一番裏切られたのだとは、思う。しかし、彼女を拒否できなかった。多分、彼女を許すことしか、僕にはできない。僕は、多分、彼女のために生きてきたんだもの。」

 春の風が、忍や百合の肩を叩くかのように、瞬間的に強く吹き付けた。忍や百合は、思わず顔をしかめた。その時、彼等は、血の繋がっていないアキラが、どんな女性を相手にせず、ほぼ独身のような生活をしつつ、忍や百合を育て上げてきたことを思い出した。それは、仕事に向かう時のアキラのストイックな姿勢と同じ根を持っていた。アキラはポツリと言った。

「でも、それが、君たちに寂しい思いをさせたんだね。でも、僕には、様々なものから遠ざかって生きることしか、わからなかった。愚か者だったんだ。やはり、考えが浅かったね。」

 忍たちは、恋愛を断ち、若い時を忍や百合のために捧げた継父に、これを言われると黙るしかなかった。ただ、忍は百合の気持ちも代弁しつつ、現実の状態を説明していた。

「母さんと呼びたいけど、今のままあの人と話をしたら、僕たちは必ず彼女を詰ってしまうと思う。口をきかない方が、多分争いにはならないなあ。しかし口をきかないことも、普通ではないよね。」

 その言葉が解決策を示唆していた。しかし、それは、沙羅の罪深さを表す結果ともいえ、これからもアキラが苦しみ続けることを示唆していた。結局、その年の初夏、沙羅はアキラとともに宇都宮へ移って行った。


 宇都宮の初夏は、東京の小金井ほどは暑くはない。宇都宮では、夕刻になると田水を渡って来た風と雷さまが、涼しさをよぶ。ただ、拡がった平野からそびえ立つ山々で発生するため、雷さまというほどの規模になるだけあって、その轟も南関東や北陸のそれとは比較にならないほど、北関東一帯に響き渡る巨大なものになる。アキラは決して帰宅が遅くはなかったが、雷雨の中を帰ると、沙羅は、以前台風で壊された向島のアパートで身動ぎできなかったように、今にも壊されそうな古い借家のなかで、震えて動けなくなっていた。そんな時、しばらくすると、そとから強い雨脚の音の中にも、はっきりとした声が聞こえて来た。

「沙羅さん、おーい沙羅さん!。」

 それはアキラの声だった。

「大丈夫、怖がらないで、僕は貴女をやっと取り戻したのだから。貴女の名を呼び続けていたでしょ、貴女は私のものだから。洪水の中でも貴女は流されないよ、僕が一緒にいるから。」

 帰宅したアキラは、いつも黙って沙羅を抱きしめ、沙羅は、懐かしいアキラの匂いに顔を埋め、全てを委ねるのが常だった。それは、まるで、今までの過ちを取り返すように。雷雨の度ごとに、沙羅はアキラとの台風の夜を思い出していた。アキラは、今までの空虚を埋めるかのように、沙羅はアキラに自らの残りの時を委ねるようにお互いを晒した。そして、沙羅の首に下げた古い小さな巾着袋が激しく揺れるほど、二人の営みは激しかった。


 夏の終わりに、沙羅は三番目の子を身ごもり、二人の愛の結晶が与えられた。その子は、沙羅にとって最愛のアキラの子となるはずであった。アキラは、沙羅とともにその子を喜んだ。

 


 第十一章 父の幻影二

 雑木林に囲まれた病棟からは、色づいたコナラやクヌギが外の視界を遮っていた。沙羅はその木々をぼんやり眺めていた。沙羅は、顔に表情を作ることに疲れ、失った子の顔、失ったアキラとの絆、そして、失った子を宿す能力、それらを思って女として生きる力さえ無くしたかのように感じていた。

 沙羅の流産は突然だった。南河内にある自治医大の高度医療センター中央クリニックの医者によれば、子宮の筋腫が大きく、流産はそれが原因だろうとの診断だった。沙羅は、もう子供が無理であることをなんとなく感じ取っていた。アキラは医者に食い下がるように説明を求めていた。しかし、それも無駄なあがきであることを、沙羅もアキラもわかっていた。病室に戻ったアキラは、もう自分の子を持てないことをなんとか理解していた。しかし、沙羅が気の抜けたような無表情しか見せないことに、戸惑っていた。沙羅のその無表情の奥に、あまりにも苦しみの数が増えていることがアキラには見えていた。特に、沙羅が古びた巾着袋を肌から離さずに着けていたのを見つけて、アキラは沙羅が耐えて来た時の一端をやっと理解できていた。古い巾着袋には、小さな子供用の靴下が二つ畳まれていた。男の子用と女の子用のそれらは、あまり使われていないのに古びたものだった。滲んだ文字で忍と百合と書かれていた。そして、その靴下を守るようにくるんだ白いサラシには、短いメッセージが書かれていた。


 この年の秋口に、沙羅は病を得た。生きるためだったとはいえ、長い間の無理が肝臓に来ていた。沙羅が自治医大に入院している時、アキラははけの家に帰って来た。アキラは、はけの家に沙羅を迎え入れることを提案してみた。やはり、彼らは反対だった。

「母さんについて僕たちが言えることは、お継父さんと僕たちを捨てていたことだね。」

 百合も同じようなことを言った。

「はたして、君たちを去っていたのだろうか。しかし、心の中で彼女が君たちをいつも心にかけていたことを表すものがある。」

 アキラは、古い巾着から畳まれていた子供用の靴下を取り出した。男の子用と女の子用のそれらは明らかに古びたものだった。

「これは、彼女が流産して入院した際に、僕が見つけたものなんだ。ずっと昔、君たちの洗濯物の一部だったと思う。これを彼女はずっと肌身離さず持ち続けていたんだ。」

 しかも、沙羅は急に連れ去られたために、沙羅にとって子供達の思い出の品は靴下だけだった。アキラは、古びた巾着袋、中のサラシ、サラシに包まれた靴下、靴下の滲んだ文字、忍と百合の名前、そしてサラシに念を込めたメッセージが書かれていた。

「主はこういわれる。泣き止むがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある。」

 アキラは子供たちに静かに語った。

「君たちの写真すら手元に持てずに拐われたんだよ。それでも君たちを忘れられなかった。」

 長い沈黙が三人を覆っていた。立ち上がったアキラにも、忍と百合の一筋の涙を見ることができた。

「僕は、宇都宮に戻るね。」


 そう言って、アキラははけの家を後にした。忍と百合は、沙羅の想いを理解したかどうかは、わからなかった。それでも、アキラは語りかけるしかなかった。しかし、忍と百合は、まだ身近な継父を捨てた母親を許すことができなかった。それでも、継父の提案である為か、沙羅に会おうという気持ちに傾いてもいた。乱れた心を整理するために、百合も忍も、かつて自分たちが履いていたであろう靴下を手に取って、ポツンと言った。

「こんなものを、ずっと持っていたんだね。」

「そうね。」

 忍と百合とは、しばらくそれぞれの幼い時の古びた靴下を見つめていた。


 木枯らしの吹き始めたクリスマスの日、忍と百合が沙羅を迎えにきていた。

「母さん。」

 忍たちの躊躇いがちに呼ぶ声は、彼等が前に進みつつある希望を載せていた。

 


 第十二章 父の幻影三

  その日、沙羅は旧知の院長の計らいで、ふたたび武蔵境中央病院に勤め始めた。他のごく普通の家庭のように、毎朝、夫のアキラにも、子供の忍にも百合にも弁当をもたせて送り出していた。その沙羅の顔は、幸せそのものだった。忍は、はけの家から大学の工業化学科の研究棟迄、自転車で十分ほどをかけて通っていた。それでも、忍の大学生活は実験と測定の忙しい毎日だった。また、大学受験の時を迎えた百合も、立川高へ通い続けていた。やがて、忍は化学会社に就職してはけの家を後にし、五年後には百合も大学を出て通信技術の会社に就職していた。みじかいような長いような家族の時間が刻まれたはけの家に、沙羅はふと幼い時の忍と百合の姿を思い出していた。彼等は巣立ち、気づけば手元に残ったのは沙羅と家族との手紙や数える程の家族写真だった。


 忍の手紙には、カリフォルニアの遺伝子操作技術のベンチャーに採用されたことが書かれていた。百合は人工知能の研究のために、兄の忍を追って行くことが書かれていた。アキラの叔父重蔵は、年長者ならではの祝福の言葉をアキラたちに伝える手紙を書いてよこしていた。


 沙羅は、それらを手に取りリビングの外に広がるはけの谷を見渡した。そして……。

 ソフアに休んだまま気を失った沙羅を見つけたのは、アキラだった。沙羅は失踪前の家族写真を抱えたまま、ソフアに倒れ込んでいた。そして、そのままアキラに抱かれたまま救急車で運ばれていった。個室に運ばれた沙羅は目を覚ましたが、医者によれば二本の食道静脈瘤と一本の胃静脈瘤の発見により肝硬変と診断され、さらに肝硬変は肝臓がんに悪化したものだった。動くことのできない沙羅の許に駆けつけたのは、忍と百合、そして、重蔵だった。また、高校時代の友人たちも駆けつけるとの連絡があった。アキラはひたすら看病し、さらに語り続けていた。

「元気になったら、子供たちの待つカリフォルニアへ行こう。君を励ましてくれた人々へ会いに行こう。」


 沙羅は、朦朧とした意識の中で、目の前に写真の父が来たと錯覚していた。それほどに、この頃のアキラは沙羅の父に似ていた。

「お父さん。やっと会えた……。生きていてくれたの?。連れていってくれるの?。お父さん、私待っていたのよ。会いに来てくれるのを。お父さん。」

 アキラは、沙羅が混乱して発した言葉に、沙羅の求めているものがはっきりわかった。アキラは沙羅の父親の役を演じきろうと考えた。

「ようやく会えてよかった。もう大丈夫、怖れるな、私はお前を取り戻したのだから。お前の名を忘れずに呼び続ける、お前は私のものだから。大河の中でもお前は押し流されない、私が一緒にいるから。」

 沙羅は、父親の温かい腕の中に帰ることができた。その腕は力強く、その指し示す方には確かな未来があった。そのように、最愛の沙羅を抱きしめたアキラは、沙羅に未来を語り続けていた。まるでそれが沙羅の余命を伸ばせるかのように。いつまでも……。


 沙羅の葬儀は、彼女の遺言により府中のカトリック教会で行われた。多磨霊園の河原家の墓では、フリオ ハルデイ、河原 志んの隣に沙羅 ジョーデイ相楽と刻まれた。墓銘碑には「私は彼等の名を決して命の書から消すことはない」と刻まれていた。

 


 第十三章 父の影四 


 沙羅が亡くなって七年が経っていた。アキラは宇都宮の富士重工に戻っていた。エンジンの振動解析と不穏振動退治の研究をしつつ独身寮と研究室とを往復する暮らしをしていた。宇都宮の独身寮に持ち込んだ沙羅の遺品を整理しながら、アキラは亡くなる前の直前の沙羅との会話を何度も思い起こしていた。ふと手に取った沙羅の古いアルバムには、子供達と沙羅との写真が納められていた。その中では、忍と百合がカリフォルニアへ旅立つ直前の家族写真が一番良く沙羅を写していた。さらわれた時には子供の靴下しか持っていなかった沙羅は、写真も無しに靴下に書かれた子供たちの名前をなぞりつつ夫や子供達を愛し続けていた。アキラは、彼女のそんな生き方の証を名前として刻みたかった。


 農協に頼んだことは、墓の裏に父母と沙羅の刻まれた名前の横にアルファベットを刻むことだった。そして、重蔵から転送されて来た業者からの案を見ると、アキラの父の名がJULIO JARDI と刻まれていた。業者の言うには、スペイン語ではこのように刻むということだった。そして、その隣に刻まれた沙羅のアルファベットを初めて見たアキラは、独り言のように呟いた。

「ふーん、パスポートをみると、英語でSARA JARDI-SAGARA と記載するんだな。ということは、沙羅のお父さんの名はジュリオジョーディだったし、英語で刻むとどうなるのかな……JULIO JARDI……。僕のおとうさんなのか⁉︎……。」

 長い沈黙の後に、アキラは息をのんでいた。すぐにアキラは、重蔵に電話をしていた。二人は、いままでの歳月を振り返り、しばらく互いに無言であった。


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