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フリー・ワンライ企画

螺旋

作者: 八束

 ただ、悲しいことがあっただけなんだ、と、母さんは母さんの過去について語ろうとするたびに、何かを言いかけては口をつぐみ。しまいにはそう締めくくって、心のうちをさらけ出すことを諦めるようなひとだった。

 母さんの横顔につねに苦悩と諦念がこびり付いていたのは、その裏に間断なき不幸が存在したからだ。ぼくが生まれるずっと前に、母さんは故郷でとても悲しい出来事を経験した。それは故郷を離れ、海を離れざるを得ないほどのことだった。新大陸のフレズノという地に辿り着くと、家族で果樹園を営んだ。そこでの生活は楽ではなかった。時としてひどい悪風に見舞われる土地であったから、作物はしばしばだめになり。農業が軌道に乗りかけても、今度は流行り病でたくさんの身内が死んだ。そこにはぼくの父さんも含まれていた。しまいには生まれたこのぼくが不具であったのだ。察するに、母さんの四十余年の苦労は測り知れない。

 ぼくは生まれながらに足腰が弱く、今に至るまで、誰かの助けなしに歩くこともできない。母さんがせっせと果樹の手入れをする横で、女のように刺繍をしたり、工芸品を手助けするのがぼくに与えられた仕事だった。さいわい、手先は器用だ。ぼくは庭先に厚いクッションを敷いた椅子を出してもらって、それに腰かけながら、日が暮れるまで毎日の作業を繰り返した。粗末な家に隣接した果樹園では、鬱蒼と茂る樹木の群れは果てなく続いてみえる。ときたまその梢や茂みのあいまからちらちらと覗く、母さんの日焼けした無骨な指や肩を眺めては、ぼくは溜息をつく。むねが潰れるような心地になるのだ。この先の、判然としない未来を思うと。

「ぼくはどうして生まれてきたのだろう」

 ぼくは母さんの不幸の断片としてしか、生まれてくることができなかったのだろうか? 木の蔓を編む手を止めては、ぼくはむねのうちで渾然と渦を巻く気持ちを持てあまし、果樹園を眺める。おおらかな陽の光を浴びて、それは真昼の海さながらにひかり輝いていた。

 一仕事を終えた母さんがこちらに向かって歩いてくるのが見える。母さんは日にけた、つばの広い帽子を外すと、それをぼくの頭の上に乗せてにこりと微笑んだ。皺の寄る目元をじいと凝視しながら、ぼくは呼びかける。

「ねえ、母さん」

 ぼくを産んで後悔していない? とは聞けなかった。そうすれば母さんの顔はあっというまに哀しげに歪むであろうことが、容易に想像できたからだ。

 だから代わりに、ぼくは問いかける。

「どうしてぼくの家には、柘榴の木がないの」

 ぼくの家の果樹園には、たくさんの木がある。りんご、あんず、くるみ……けれどもざくろはない。ぼくのおばあさんは、いつもそれが不満だった。ざくろはわたしたちにとってとても大切な木なのに、と。

 母さんはぼくの問いにさっと顔色を変えた。しみのある瞼を重たそうに伏せると、そうだねえ、と間延びした声だけが続く。なにか、考え込んでいるようだった。

「……柘榴の木は、かなしいことを思い出させるからね」



 大抵の場合において、母さんは働き者で、気丈なひとだ。けれどもぼくは、母さんの弱さとも言うべき秘密を知っている。夜、みんなが寝静まったあとに、母さんはこっそりと起き出す。そして部屋の隅に設けた聖像画イコンに向かって、毎晩祈るのだ。日々の老いが小さくさせてゆくその背を、ぼくは見つめつづけた。星のない夜も、月の光の届かない寄るも。窓際に灯した蝋燭が燃え尽き、黄色い皮膜を皿の上に広げるまで祈り続ける母さんのその背を。

 夜中にふと目を覚まして、祈る母さんを見付けるたびに、ぼくは胸のうちが掻きむしられる。熱病にのたうち回る虫が巣食う熾烈さでもって。

 夜のきんと冷えた静寂、あたりに立ち込める寝息、日々の労働がかもしだす饐えた臭い、砂ぼこりに薄汚れた窓、窓むこうに広がる果樹園のつくりだす濃やかな闇。そういったものの孕む恐ろしいなにかが、一堂に会して母さんのみじめな背に、そしてその周囲にいるぼくらにまで襲い掛かるように思えた。この心に波のように押し寄せる悲しみと孤独。

 それを感じるたびに、思うことがある。

 ぼくらの一族は、かつてノアが方舟とともに辿り着いたという、美しい山のふもとに住む民だった。けれども異教徒に迫害され、母さんとその家族は先祖代々の土地を離れることを余儀なくされた。ぼくは美しいかの山を見たことがない。このひどく乾燥した新大陸で生まれ育ったのだから。けれどもぼくはこの国の言葉を喋らない。ぼくらは行き場を無くした根無し草だ。日々の糧もままらない貧困のなかを生きるだけの。ぼくらに安寧はない。安寧なき日々をただ繰り返し、かすかな喜びを得たところで、不幸の大波はその喜びを奪い尽くす。ぼくらはそんなことの繰り返しを、いつまで続けていけばよいのだろう。

 きっと母さんは母さんの愛した国に帰らぬまま死ぬのだろう。ぼくもまた、不自由な身を引きずり生きていくしかないのだろう。

 母さんは祈る。ぼくは考える。ぼくらの行き先を。

 そんなある日、ぼくは夢を見た。いつものように真夜中に目を覚まし、祈る母さんの後姿をしばらく見つめ、ふたたび寝入ったときのことだった。

 気がつけば、ぼくは石づくりの教会堂のなかにいた。やにですっかり黒ずんだ蝋燭台の上でゆらゆらと揺れる火が、あたりをぼんやりと照らしていた。外では砂嵐でも起きているのか、ごうと渦を巻く砂と風の音が響いてくる。ぼくは砂地がむき出しになった床の上に座り込み、天井を見上げていた。

 ふと足音が聞こえて、顔だけを音の出所に向ける。暗がりに男の人がひとり、立っていた。黒衣をまとい、片手で大判の聖書を抱えている。かれは首を傾げるぼくの前までやってくると、にこりと笑い、懐から何かを取り出した。

 それは果実だった。

 それも、柘榴だった。

 手のひらのうえに落とされたそれを、何の迷いもなく、ぼくはかじっていた。かすかに苦く、次いで甘酸っぱい果汁が口のなかに染み出してくる。それはびっくりするくらいに美味しかった。男の人はそんなぼくの様子を黙って見つめていた。

 はたと我に返り、何かを問い質そうと口を開いたとき。男の人ごと、あたりの風景が吹き飛んだ。びっくりしたぼくの目に今度飛び込んできたのは、いつもと変わらない、家のなかの粗末な風景だった。汚れて半透明になった窓から、ぼんやりと東雲色の光がこぼれている。夜が白みはじめているのだ。

 寝台に横たわったまま、目にじんわりと滲みるような空をしばし見つめる。それからぼくは、手のなかにあるものに気が付いて――今度こそ仰天して、ぼくは大声で母さんを呼んでいた。隣で何事かと起き出した母さんの鼻先に、ぼくはそれを突きつける。母さんは目を丸くした。

 ぼくの歯型がきっちりとついた柘榴を受け取り、ぼくの夢の話を聞き、母さんはしばらく黙り込んだ。それはいつもの、過去を語ろうかと迷い、結局止めるときに見せる表情にも似ていた気がしたし、もっと別のものにも見えた。けれどもふいに果実の表面に指先を、頬を滑らせると瞼を閉じ、目元に皺を寄せ。

 そうしてほろりと一粒涙を流した。

「むかし、母さんの家の庭には、柘榴の木があって」

 母さんの手の中で、柘榴は宝石のように赤く光っていた。

「けれどもあの混乱のなかで焼けてしまった。赤々と燃えて、煙が天にまで届いていた。炎はおそろしかった。だから、あの赤はわたしにとって、失ったものを思い出させる色だった」

 色の薄いくちびるを動かしながら、母さんは大きく息を吸い込んだ。

「わたしの大切な柘榴の木」

 そして黒いまなこをさまよわせ、ぼくを見つめると、「でも、お前が夢のなかでもらったくらいなんだ。柘榴林をここでも作ろうか。柘榴に染み付いた記憶は、思えば、悪いものばかりでもなかった気がする」と言い、かすかに微笑んだ。

 この国はぼくらの国にはならないけれども。柘榴の林を、ここでも作ることはできる。母さんの笑みは、ぼくの心のやわらかい部分を包み込む。

 日常と不幸の連鎖という時の流れを、ぼくらは螺旋のように少しずつのぼり続ける。同じことを繰り返しているように見えても。辿り着く場所は分からず、その先に幸福があるとも限らない。けれども。

 手で柘榴の実をあたためる母さんに向かって、ぼくもつられるように微笑んだ。 

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