表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

BBQ返せよ! 赤点の夏、肉は遠い

作者: 春凪とおる
掲載日:2026/06/27

七月の終わり。

アスファルトは、窓の外で白く焼けていた。

オレは教室の机に突っ伏し、問題集をにらんでいた。


補習。

赤点。


夏休み開始早々、自由という文字が人生から消えた。

本当なら今ごろ、川辺にいるはずだった。


友だちとBBQ!


炭火。

川の音。

冷えたジュース。

焼きとうもろこし。


そして、肉。

肉だ。

朝から、グループチャットには写真が流れてくる。


《着いた》

《火起こし中》

《肉でかくね?》


でかい。

本当にでかい。


画面の中で、赤い肉が銀色のトレーに並んでいた。

厚い。


あれは厚い。

オレはスマホを伏せた。


見てはいけない。

見ると心が死ぬ。


「手ぇ止まってるぞ」


前の席に座った数学教師が、赤ペンを持ったまま言った。

補習の教室には、オレと先生しかいない。


蝉の声だけがやたら元気だった。


「やってます」

「スマホ見てただろ」


「肉です」

「数学を見ろ」


「肉が呼んでるんです」

「補習も呼んでる」


呼ぶな。

誰も呼んでない。


オレはプリントに目を落とした。

先生は最近、AIで補習プリントを作ることを覚えたらしい。


おかげで問題だけは無限に出てくる。

肉は有限なのに。


黒板には、三角関数のグラフが残っていた。


sin。

cos。

tan。

それからπ。


いつのまにか数学は、数字よりアルファベットと記号のほうが多くなっていた。

波みたいな線が、黒板の上でうねっている。


オレの夏も、だいたいそんな感じだった。

上がったと思ったら下がる。


しかも、周期的に絶望が来る。

問題には、三角関数の合成、と書いてあった。


合成か。

はぁ、こっちは肉とタレを合成したい。


「声に出てるぞ」

「思想です」

「計算しろ」


オレはシャーペンを握った。


紙の上のsinとcosが、まったく肉に見えなかった。

それが一番つらかった。


スマホが震えた。


見ない。

見ないぞ。


オレは見ない。

そう思っているのに、指が勝手に画面を起こした。


《焼けてきた》


網の上で肉が焼けていた。

脂が落ちて、火がぼっと上がっている。


タレが塗られて、表面が光っている。

たぶん、あれは今が一番うまい。


今だ!


今、食うべき肉だ。

なのにオレは、教室で三角関数と戦っている。


「ちぇ……塊肉、食いたかった」

「相当だな」


先生が笑った。


「相当です」

「じゃあ、その恨みを計算にぶつけろ」


「肉にぶつけたいです」

「肉はいない」


いない。

知ってる。


だからつらい。

オレはプリントを見た。


sin x と cos x を合成せよ。

知るか。

肉とタレを合成させろ!


解説は、やけに親切だった。

たぶんAIが作ったやつだ。


「まず、係数を確認しましょう」

確認したくない。


「次に、Rを求めましょう」

肉のRなら求めたい。


「角度をずらして表します」

ずらすな。


肉をオレの皿にずらせ。

そこまで考えて、少しだけ笑ってしまった。


先生が顔を上げる。


「どうした」

「いや、くだらないこと考えてました」


「くだらないこと考える元気があるなら、まだ大丈夫だ」

「大丈夫じゃないです。肉がない」

「そこはぶれないな」


ぶれない。

肉だけはぶれない。


窓の外を見た。


夏空の上を、一機の飛行機が横切っていた。

白い飛行機雲が、青の中にまっすぐ伸びていく。


「ああ……どっか行きてぇ」


昔は、飛行機を見るのが好きだった。

でかい鉄の塊が、ふっ、と地面を離れる瞬間が好きだった。


あんなものが空を飛ぶなら、大抵のことはいけるんじゃないかと思っていた。

いつから、そういうことを言わなくなったんだっけ。


スマホがまた震えた。


《肉、ラスト一枚》


殺意。

いや、夏。


オレはシャーペンを握り直した。

とりあえず、この一問だけやる。


肉はもうない。

でも、十二時まではまだある。


最悪だ。

最悪だけど、時間だけはある。


補習最終日。

答案用紙の上に、合格点が赤ペンで書かれていた。


ぎりぎり。

本当にギリ。


でも、赤点ではなかった。


「やればできるじゃないか」

先生が言った。


「肉を犠牲にしました」

「尊い犠牲だったな」


「一生忘れません」

「数学も忘れるな」


それは無理かもしれない。




翌日。

川辺には、ちゃんと炭の匂いがした。


網の上で肉が焼けていた。

脂が落ちて、火が上がる。


オレは紙皿を持って、肉を見つめた。


「お前、目が怖いぞ」

「これは供養だ」


「何の?」

「失われた夏の」


肉を食った。

うまかった。


めちゃくちゃうまかった。

一枚目で、少し泣きそうになった。


たぶん暑さのせいだ。

そういうことにしておく。


「補習、何やってたの」

「三角関数の合成」


「うわ」

「こっちは肉とタレを合成したかった」


友だちが笑った。

オレも笑った。


そのとき、頭の上を飛行機が通った。

音が少し遅れて落ちてくる。


友だちは一瞬だけ空を見て、すぐ肉に戻った。

オレは、少し長く見ていた。


青い空に、白い線が伸びていく。


どこかへ行く線。

どこかへ行ける線。


パイロットになりたいとか、そんな大きなことはまだ言えない。

でも、家に帰ったら少しだけ見てみようと思った。


飛行機のこと。

空港のこと。


あのでかいものが、どうして空に浮くのか。

ついでに数学も、ほんの少しだけ。


肉を焼く煙が、風に流れていく。

オレは最後の一枚の肉を取った。


「それ、オレの!」

「知らん。補習を越えた者の肉だ」


夏の空は高かった。

肉はうまかった。


飛行機雲は、まだ消えずに残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ