BBQ返せよ! 赤点の夏、肉は遠い
七月の終わり。
アスファルトは、窓の外で白く焼けていた。
オレは教室の机に突っ伏し、問題集をにらんでいた。
補習。
赤点。
夏休み開始早々、自由という文字が人生から消えた。
本当なら今ごろ、川辺にいるはずだった。
友だちとBBQ!
炭火。
川の音。
冷えたジュース。
焼きとうもろこし。
そして、肉。
肉だ。
朝から、グループチャットには写真が流れてくる。
《着いた》
《火起こし中》
《肉でかくね?》
でかい。
本当にでかい。
画面の中で、赤い肉が銀色のトレーに並んでいた。
厚い。
あれは厚い。
オレはスマホを伏せた。
見てはいけない。
見ると心が死ぬ。
「手ぇ止まってるぞ」
前の席に座った数学教師が、赤ペンを持ったまま言った。
補習の教室には、オレと先生しかいない。
蝉の声だけがやたら元気だった。
「やってます」
「スマホ見てただろ」
「肉です」
「数学を見ろ」
「肉が呼んでるんです」
「補習も呼んでる」
呼ぶな。
誰も呼んでない。
オレはプリントに目を落とした。
先生は最近、AIで補習プリントを作ることを覚えたらしい。
おかげで問題だけは無限に出てくる。
肉は有限なのに。
黒板には、三角関数のグラフが残っていた。
sin。
cos。
tan。
それからπ。
いつのまにか数学は、数字よりアルファベットと記号のほうが多くなっていた。
波みたいな線が、黒板の上でうねっている。
オレの夏も、だいたいそんな感じだった。
上がったと思ったら下がる。
しかも、周期的に絶望が来る。
問題には、三角関数の合成、と書いてあった。
合成か。
はぁ、こっちは肉とタレを合成したい。
「声に出てるぞ」
「思想です」
「計算しろ」
オレはシャーペンを握った。
紙の上のsinとcosが、まったく肉に見えなかった。
それが一番つらかった。
スマホが震えた。
見ない。
見ないぞ。
オレは見ない。
そう思っているのに、指が勝手に画面を起こした。
《焼けてきた》
網の上で肉が焼けていた。
脂が落ちて、火がぼっと上がっている。
タレが塗られて、表面が光っている。
たぶん、あれは今が一番うまい。
今だ!
今、食うべき肉だ。
なのにオレは、教室で三角関数と戦っている。
「ちぇ……塊肉、食いたかった」
「相当だな」
先生が笑った。
「相当です」
「じゃあ、その恨みを計算にぶつけろ」
「肉にぶつけたいです」
「肉はいない」
いない。
知ってる。
だからつらい。
オレはプリントを見た。
sin x と cos x を合成せよ。
知るか。
肉とタレを合成させろ!
解説は、やけに親切だった。
たぶんAIが作ったやつだ。
「まず、係数を確認しましょう」
確認したくない。
「次に、Rを求めましょう」
肉のRなら求めたい。
「角度をずらして表します」
ずらすな。
肉をオレの皿にずらせ。
そこまで考えて、少しだけ笑ってしまった。
先生が顔を上げる。
「どうした」
「いや、くだらないこと考えてました」
「くだらないこと考える元気があるなら、まだ大丈夫だ」
「大丈夫じゃないです。肉がない」
「そこはぶれないな」
ぶれない。
肉だけはぶれない。
窓の外を見た。
夏空の上を、一機の飛行機が横切っていた。
白い飛行機雲が、青の中にまっすぐ伸びていく。
「ああ……どっか行きてぇ」
昔は、飛行機を見るのが好きだった。
でかい鉄の塊が、ふっ、と地面を離れる瞬間が好きだった。
あんなものが空を飛ぶなら、大抵のことはいけるんじゃないかと思っていた。
いつから、そういうことを言わなくなったんだっけ。
スマホがまた震えた。
《肉、ラスト一枚》
殺意。
いや、夏。
オレはシャーペンを握り直した。
とりあえず、この一問だけやる。
肉はもうない。
でも、十二時まではまだある。
最悪だ。
最悪だけど、時間だけはある。
補習最終日。
答案用紙の上に、合格点が赤ペンで書かれていた。
ぎりぎり。
本当にギリ。
でも、赤点ではなかった。
「やればできるじゃないか」
先生が言った。
「肉を犠牲にしました」
「尊い犠牲だったな」
「一生忘れません」
「数学も忘れるな」
それは無理かもしれない。
翌日。
川辺には、ちゃんと炭の匂いがした。
網の上で肉が焼けていた。
脂が落ちて、火が上がる。
オレは紙皿を持って、肉を見つめた。
「お前、目が怖いぞ」
「これは供養だ」
「何の?」
「失われた夏の」
肉を食った。
うまかった。
めちゃくちゃうまかった。
一枚目で、少し泣きそうになった。
たぶん暑さのせいだ。
そういうことにしておく。
「補習、何やってたの」
「三角関数の合成」
「うわ」
「こっちは肉とタレを合成したかった」
友だちが笑った。
オレも笑った。
そのとき、頭の上を飛行機が通った。
音が少し遅れて落ちてくる。
友だちは一瞬だけ空を見て、すぐ肉に戻った。
オレは、少し長く見ていた。
青い空に、白い線が伸びていく。
どこかへ行く線。
どこかへ行ける線。
パイロットになりたいとか、そんな大きなことはまだ言えない。
でも、家に帰ったら少しだけ見てみようと思った。
飛行機のこと。
空港のこと。
あのでかいものが、どうして空に浮くのか。
ついでに数学も、ほんの少しだけ。
肉を焼く煙が、風に流れていく。
オレは最後の一枚の肉を取った。
「それ、オレの!」
「知らん。補習を越えた者の肉だ」
夏の空は高かった。
肉はうまかった。
飛行機雲は、まだ消えずに残っていた。




