ついでの、ついでの、ついでの、ついでの、ついでに、
時刻は朝九時五十分。大幅な遅刻をした俺、浅田裕貴は港坂高校二年三組の教室のドアの前に立っている。今朝の起床時間は八時半。両親は既に出勤した後だった。起こされた記憶はあるが二度寝をした記憶もある。諦めて用意された朝食をゆっくり取って、ゆっくり支度を整えて家を出た。そして今、ゆっくりと教室のドアを開けた俺を待っていたのはみんなのハッとした顔だった。
「浅田かよ」
みんながため息とともに俺から顔を背ける。
「なんだよ」
そう言いながら俺はみんなの反応が気になった。俺ではない特定の誰かが入って来たと思ったのではないだろうか?
このクラスで何かが起きている。俺は自分の席に向かいながら探る。教室は荒れていない。みんなの顔に傷はない。喧嘩の類ではなさそうだ。では二時間目の数学担当であり、このクラスの担任、そして生徒指導部長でもある強面で有名な剣持先生は何をしている?俺は教卓に目を向ける。しかし剣持先生はいなかった。
「先生遅れてるの?」
俺は机の右側のフックに鞄を掛けながら右隣の席の原田に聞く。
みんながピクリと動く。
「実は先生、怒って出て行っちゃったんだよ」
原田が気まずそうに言う。
「みいちゃんという謎の言葉を残して……」
前の席の井田が意味ありげに振り向く。
「俺は奥さんの名前だと思うね」
「私は浮気相手の名前だと思う」
「娘の名前かもしれないだろ……」
みんなが口々に言う。
剣持先生は何らかの理由で怒り、結果としてみいちゃんという言葉を残し出て行った。そしてクラスのみんなは訳もわからず誰が謝りに行くか話し合っていたが決まらず、行き詰まっていたところに俺が来たというのが現状だった。
「へえ、大変だね」
俺は席に着く。
「なあ、お前、遅刻したことを先生に謝らないといけないよな?」
原田が良いことを思い付いた、というような顔をした。
「……まあな」
俺は嫌な予感がした。
「「じゃあ、ついでに」」
原田の案に乗ってしまうのが楽に決まっている。みんなもう考えたくなかったのだ。
「それって有りか?」
ついでに謝られて先生も納得いくだろうか?
「「有り有り」」
みんなが俺の肩を掴みぐいぐいと押す。
一対二十九だ。俺に勝ち目は無かった。
教室から追い出された俺は仕方がない、と諦めて廊下を歩き始めた。俺はこれから職員室へ行き、遅刻したことを謝って、それから先生を怒らせたことを謝って……いや、先生を怒らせたことを先に謝ってから遅刻したことを謝るべきか、それとも同時に謝るべきか。大体先生が怒ってしまった理由もわからないというのに、どうやって謝れというのか。「怒らせてすみません」という子供じみた謝罪は火に油を注ぐようなものだろう。悶々としながら階段を下りる。するとリンリンと鈴の音が聞こえ俺は立ち止まった。赤い首輪を付けた黒い仔猫が俺の前を横切る。
「えっ?」
学校に飼い猫がいる。近くの家から脱走して来たのだろうか?小学生の頃、校庭で野良猫を見たことはあるけれど首輪の付いた飼い猫が校内にいるのは見たことがない。この仔猫が校外へ出たらどうなるだろう?学校の周りは車通りが多い。もしかしたら轢かれてしまうかもしれない。ここまで轢かれずに来られたのは奇跡みたいなものだ。そんなことが頭を過ぎった。捕まえて職員室に届けよう。謝罪のついでだ。マイクロチップが子猫の体内に入っていれば飼い主の情報がわかるはずだ。
俺は仔猫に駆け寄る。しかし、仔猫は俺に気付いて驚いて逃げてしまった。怖がらせたい訳じゃない、助けたいのに。俺は諦めず仔猫を追った。けれどなかなか捕まらない。仔猫ってこんなにすばしっこいのか。段々と仔猫は楽しんでいるんじゃないかとさえ思えた。追い掛け、追い掛け、物理室、生物室、地学室を越えやっとの思いで仔猫を捕まえたのはその先にある化学室の前だった。化学室の中は何やらざわざわしている。後ろのドアの小さな窓から覗くと友達が何人か見えた。二年四組の連中だ。前のドアがガラッと開き咄嗟にブレザーの内側に仔猫を隠した。俺は化学担当の白石先生と目が合った。
「ん? お前何してるんだ?」
白石先生は怪訝そうに俺を見る。
「あ、職員室へ行く途中なんです」
ここが職員室への通り道ではないことは明白だが俺は嘘は言っていない。
「そうか。じゃ、ついでに中島を保健室まで連れて行ってやってくれ。ちょっと火傷したみたいでな」
保健室は職員室の隣にある。だからついで、というわけだ。白石先生が自分の背後にいる中島の背中を押して俺の前へ出す。
俺は偶然にも三組の保健委員だったが、白石先生は知らないないだろう。そんなことよりも白石先生の何事も気にしない性格に感謝した。
「わかりました」
これ以上聞かれずに済んだのだ。俺は甘んじてついでを受け止めることにした。
俺はちらりと化学室の中を見る。ガスバーナーとチャッカマン、白金線などが各班の机の上にある。昨日、うちのクラスでも行った炎色反応の実験をしているのだろう。
中島と共に廊下を歩く。中島とは去年同じクラスだったがほとんど話したことがなかった。それにしても火傷をしているはずなのに中島はどこも痛そうにしていない。一体どこを火傷したのだろうか?
「大丈夫か?」
多分、大丈夫だろうと予測出来た上で俺は聞いた。こう言えば火傷痕を見せてくれるだろうと思ったからだ。
「ああ、全然大丈夫」
中島はそっけない。火傷痕を見せる気配はなかった。
俺は小さく何度か頷いてまあ、そういうこともあるかとそれ以上聞くのを止めた。
「良いもの見せてあげるよ」
話すことも無いし、中島に仔猫を見せてやろうと俺はブレザーの中に手を入れた。
「えっ?」
中島は立ち止まる。
「なんだよ」
どうしたのかと俺も立ち止まり中島を見る。その顔は険しく、視線はブレザーの中に入れられた俺の手に向けられていた。これは何かヤバイものだと思われていると感じた俺はそうではないと証明しようと慌ててそれを外へ出した。
「ヤメッ!」
中島は両手で自分の頭を守る。
「ニャー」
俺の両手に包まれてちょこんと座った仔猫が鳴く。
「えっ……」
中島は俺の手の中を見たがまだ頭を守ったままだった。
「めっちゃ良いものじゃん……」
気の抜けた声で中島が言う。
「そうだよ。なんだと思ったの?」
俺の心臓はバクバクしている。瞬時にあれこれ考え、行動に移さねばならなかったからだ。中島は一体何を考えたのだろうか?最初は違法薬物に間違われたと感じたが頭を守るあたり、そうではない気がした。
「ナイフかと」
中島はゆっくりと頭から手を下ろし、そのまま心臓を押さえた。俺と同じく心臓がバクバクしているようだ。
「だとしたら逃げたほうが良いぞ」
俺は中島の危機管理能力が心配になった。ナイフを向けられて頭を守るなんて悪手だ。あちこち刺されて終わりじゃないか。
「だな。なんだってこんなことしちまったんだ」
中島が両手で顔を隠す。耳が赤くなっていくのがわかった。
「そ、そういうこともあるよ」
俺は咄嗟に中島をフォローした。ナイフを出しそうな奴と思われたのかと気にはなったが心の中にしまっておくことにした。
俺はそっと中島の顔の側まで仔猫の座る手を近付けた。ふわふわの毛が触れたのか中島は顔を上げる。
「かわいい……なんだか余計に」
中島が仔猫の頭を撫でる。チリンと鈴が鳴った。
中島がこんな奴だったなんて俺は知らなかった。この数分は去年一年間よりも濃いものだった。
ここまで来て仔猫を隠す必要があるのかわからなかったが保健室の前に着くと俺はまた仔猫をブレザーの中に入れた。
「失礼します」
俺は善良な生徒です、という表情を作って保健室のドアを開けた。
「あら? クラスの違う二人がどうしたの?」
ソファーで新聞を読んでいた保健の新井先生が俺達を見て不思議そうに言った。
「職員室に行くついでに中島を保健室に連れて行くよう頼まれまして」
俺は自分で言っていてどうやったらクラスの違う奴が頼まれるんだよ、と心の中で自分に突っ込んでしまった。
「うーん、ま、そういうことにしておきましょ」
新井先生は納得していないが受け入れることにしたようだった。
「あ、中島火傷してるんで見てやって下さい」
俺は話を逸らす為、中島を生贄に差し出した。
「どれどれ」
新井先生はソファーに座ったままちらりと中島を見る。中島は全く痛がっていない。どちらを優先すべきか考えた結果、新井先生は再び新聞に視線を落とした。気になっているところを読み切ってしまいたいのだろう。
一つ、ついでが終わった。俺は職員室へ向かおうと先生達に背を向けた。
「ひろくん」
か細い声が俺の耳に入る。
幽霊でもいるのかと保健室を見回す。保健室前方に三台並んだベッドがある。一番手前のベッドだけカーテンが引かれている。そのカーテンを誰かが寝ながら掴んでこちらを見ていた。
「かなくん」
俺はか細い声の主の元へ向かう。そういえば俺をひろくんと呼ぶのはこいつしかいない。一年一組、須藤要。小学校から一緒で家も近所同士の幼馴染だ。
「どうした?」
俺はベッドの脇から声を掛ける。
「熱出ちゃってさ」
かなくんの目はとろんとしている。明らかに具合が悪そうだ。
何をすればかなくんを元気付けてあげられるだろうか?俺には案が一つしかなかった。
「良いもの見せてあげるよ」
ブレザーの中に手を入れて俺ははたと手を止める。出来はしないけれど言葉を引っ込めたかった。さっきと同じことが起こってしまうかもしれないじゃないか。俺は動転しながらも「仔猫だよ、仔猫」と小声で付け足した。
「じゃじゃーん」
俺は囁やき、仔猫を外へ出す。
かなくんは何も言わず仔猫をじっと見つめ、撫でた。それから何故か仔猫を俺のブレザーの中へ戻した。そしてふらふらと立ち上がって保健室の窓側後方にある新井先生の机の前で立ち止まった。シャーペンとノートを手に取ると何やら描き始める。ゾーッゾーッという何をしているのかわからない恐ろしい音が聞こえる。絵の上手い人の手元から聞こえるであろうあのシャッシャッという音からは程遠かった。
「ああ、仔猫ね」
四つ足の生き物が横向きで描かれている絵を見て俺は答える。それはかなくんが先程仔猫を見たという事実があるから推察出来ることだった。そしてもう一つ、推察出来たことがある。仔猫は俺の手の中でちょこんと座っていたがその様を描くのが難しく横向きにしたのだろうということだ。それはかなくんを昔から知らなければわからないことだった。
「おかしな絵を描いてる……熱せん妄かも」
何をしているのかとやって来た新井先生はかなくんの絵を見て青ざめる。
新井先生はかなくんが熱のせいでこんな絵を描くのだと思っている。それに突然絵を描くのも変だと思っているだろう。けれどかなくんは小さい頃から絶望的に絵が下手なのに、絵を描くのが好きなのだ。
「浅田くん、職員室に行くんでしょう? 担任の先生は授業中だろうから教頭先生に須藤くんを早退させるってついでに伝えて来て。私は中島くんの手当てもしなきゃだし」
新井先生は早口で俺に指示を出した。そしてかなくんをベッドに寝かせ、中島の手当ての為に治療セットを運んだりと忙しなく動き始めた。さっきまでとは別人のようだった。
「わかりました」
俺にはまたついでが出来てしまった。何個目のついでかわからない。なんだかもう当たり前のことになっている。
保健室を出ようと歩きながら中島の治療をそっと横目で見る。何やら右手の人差し指で右手の親指を隠そうとしている。けれど新井先生に掴まれて親指の腹が露わになると中島が見せてくれなかった火傷痕がそこにあった。小さな水ぶくれ。それから親指の短い爪が見えた。まむし指というやつだ。中島はそれを知られたくなかったのかもしれない。あの時見ていたら俺は何かを言っただろう。そして何を言っても後悔しただろう。しつこく火傷痕を見せろと言わなくて良かった。中島を傷付けずに済んだのだから。俺はそそくさと保健室を出た。
仔猫がゴロゴロと喉を鳴らしている。それを感じながら廊下を歩く。
「失礼します」
俺は職員室のドアを開けおずおずと中へ入り、首を伸ばして教頭先生を探す。しかし探さなくともピカピカと輝く頭はすぐに見つかった。窓際で日差しを浴びてコーヒーを飲んでいたからだ。目指す先に宝物があれば良いのにと思いながら俺はピカピカへ向かう。
「一年一組の須藤、発熱で早退するみたいです。保健室にいます」
新井先生に頼まれたことを俺はちゃんと伝えた。
けれど教頭先生は疑いの眼差しを俺に向ける。学年の違うお前がなんで言いに来るんだ、と言いたいのだ。
「あっ、俺は火傷した中島をついでに保健室に送って、保健室の新井先生が忙しいのでついでに須藤のことを頼まれました」
ついでが多いせいで文章がおかしい。わかってはいるが本当についでが多いのだから仕方がなかった。
「ふうん、そう」
教頭先生はそれだけ言うと席から立ち上がり職員室を出て行く。俺が本当のことを言っているのか保健室へ確かめに行ったのかもしれない。まあ仕方ないな、と俺は自分でも納得した。
「はあ」
俺は小さくため息をつき、振り返る。
どうして人間は見られている、と感じることが出来るのだろうか?俺は今、それを感じている。右斜め前方から突き刺すような視線有り。その視線を辿るとそこには剣持先生がいた。
「ああ、そうだ」
俺は剣持先生に駆け寄る。
「先生、迷い猫がいました」
今度は間違えないように俺はちゃんと良いものとは仔猫であるということを告げてブレザーの内側に手を入れた。
「謝りに来たんじゃないのか!」
剣持先生は腕を組み眉間に皺を寄せる。
「あ、そうでした」
俺はすっかり忘れていた。遅刻したことと怒らせたことをどちらから先に謝るか、はたまた同時に謝るかなどと考えていたはずなのに。でもきっと剣持先生も俺が遅刻したことを忘れている。剣持先生を怒らせたことだけに怒っている。
仔猫を出すべきか出さざるべきか奇妙な静寂の中、俺の手をすり抜けブレザーの内側から仔猫が顔を出す。
「え? みいちゃん?」
剣持先生の目がまん丸く変わる。その目は仔猫しか見えていない。
「知り合いですか?」
仔猫と知り合いか尋ねるのは違う気がしたが俺にはそうするしか術がなかった。
「うちの猫だ」
剣持先生は俺から仔猫を取り上げ、大事そうにみいちゃんを抱えた。
「鞄に入っちゃったとか聞きますよね」
旅行に連れて行けとキャリーケースに入る猫、学校に連れて行けとランドセルに入る猫、などが俺の頭に浮かんだ。
「そう、だな」
剣持先生はぎこちなく短く答えた。
剣持先生がズボンのポケットからスマホを取り出し誰かに掛ける。
「みいちゃんが俺の鞄に入ってしまったらしく連れて来てしまった。迎えに来てくれ」
相手は恐らく奥さんだ。剣持先生の口ぶりは強気だ。家でも学校と同じなのか、それとも生徒の前だからそうしているだけで家では別人なのか、どちらだろうか。仔猫をみいちゃんと呼んでいるあたり、俺は後者に傾いている。
「うちの奥さんがみいちゃんを迎えに来てくれるから、それまでみいちゃんは俺の車にいてもらう。みいちゃんには我慢してもらわないとな」
剣持先生は何度もみいちゃんと言う。家では絶対にデレデレしている。絶対にだ。
「あっ……」
俺は不意に思い出した。剣持先生はみいちゃんという謎の言葉を残して教室を出て行ったのだ。
「どうしてうちのクラスでみいちゃんのことを話したんですか?」
強面の剣持先生が教室でみいちゃんの話をするとは俺には思えなかった。
「……号令の為に日直って言おうとして間違ってみいちゃんって言っちゃったんだよ」
剣持先生はカアッと顔を赤くする。中島のように可愛げはない。赤鬼のようだ。
「ああ、日直をみいちゃんって……」
頭が追い付かない。どうしてもその姿が想像出来ない。恐らくは小学生が先生を間違えてお母さん、と呼んでしまった時のような場面だろう。でもどうして怒ったのだろうか?
「俺は生徒指導部長だぞ。怒るしかないだろう!」
困惑する俺に剣持先生は言い放つ。剣持先生が怒ったのは自分の威厳を守る為だったのだ。
「はあ、そうですか」
怒られる理由もなくクラスのみんなは怒られたのだ。俺には信じられなかった。呆れた、と言っても良いだろう。
キーンコーンカーンコ―ン。ニ時間目終了のチャイムが鳴る。
「これで手打ちにしよう」
先生がドサッと俺の腕にプリントの束を乗せた。今日の授業で使うはずだったものだろう。
「宿題にする。昨日やったところの応用問題だから出来るはずだ」
剣持先生はフンッと鼻を鳴らす。
俺は返事はしなかった。手打ちとは和解を意味するからだ。
「おい、みいちゃんのことは誰にも言うなよ」
職員室から出て行く俺の背中に剣持先生は釘を刺した。
考えることは沢山あるはずなのに俺は何も考えられないまま教室へ向かった。
いつの間にか俺は二年三組の教室のドアの前に立っていた。俺の頭には今からやるべきことがはっきりと一つだけ浮かんだ。
何事もなかったかのように俺は教室のドアを開ける。
「何があったんだよ」
「どうしたんだ」
みんなは二時間目が終わってようやく戻って来た俺の周りに集まる。
「みんな、次の授業は体育だろ? グラウンドに行くついでにみいちゃんを見に行かないか?」
これが俺に出来るささやかな抵抗だ。




