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第十八話  公開模擬戦と三度の約束


夜が明けた。


体が重い。昨日倒れた分の疲労だろうか。筋肉痛みたいな鈍い痛みが、じわじわと全身に残っている。

――右腕。もう熱はない。いつもの自分の右腕であるはずなのに、奥底に火種だけが残っているような気がしてしまう。握りしめると、骨の内側がほんの少しだけ疼いた。指先の感覚が、いつもより少しだけ遠い。遅れて、脈が返ってくる気がした。


窓の外は明るい。穏やかな朝だ。今までと変わらない景色のはずなのに、どこか少しだけ遠い。


(三回……か)


昨日の夜、エヴリンと交わした約束が頭の中で反芻する。

一日に三度まで。それ以上は俺の体が――。


その先を想像してしまうと、腹の底が冷えた。


(……俺はちゃんと人……なんだよな)


部屋を出ると、共同寮の食堂はいつにも増して騒がしかった。

パンの香り、食器の音、笑い声。反響する音の中に、昨日の俺が話題として混ざっているんじゃないかと思ってしまって、つい隠れるように背中を丸めてしまう。


「蓮」


呼ばれて振り向く。ノアがいた。いつも通りの落ち着いた顔。だが寝不足なのだろう、瞳の奥に眠れていない影がある。


「……体調はもういいのか」


「絶好調……までは言えないけど、昨日よりは」


自分でも感じるほど、やけに乾いた声だった。


ノアは短く頷き、言葉を探すように目線を外した。


「とりあえず、席に着こう。皆に話がある」


促されて席に着く。班のみんなが揃っていた。

誰も追及してこない。聞きたいことがないわけじゃないのに、ここにいるだけで「大丈夫」にしてくれている。その優しさが、妙に痛い。


クララが、何も言わずに俺の皿のそばへパンを一つ置いた。

テオが冗談を言いかけた口を、途中で噤んだのがわかった。気づかないふりをするのが、逆にありがたい。


ノアが立ち、一度俺たちを見回す。


「今日、朝一で集まりがあると連絡があった。場所は実技棟だ。全班に通達があるらしい」


「何の〜?」


テオがいつもの調子で聞き返す。声は明るい。でも、少し薄い。


「わからない。恐らくは今度の公開模擬戦についてだとは思うが……」


「模擬戦か〜」


「もう……そんな季節……」


皆が思い思いの感想を呟いている。


(魔術は三回まで)


昨日の約束が、また頭の中で鳴る。こんな状態の俺が、果たしてみんなの役に立てるのだろうか。

思わず右腕に視線が落ちかける。


――そのときだった。


ぞわり、と背中が粟立った。

視線。誰かに見られている気がする。昨日の俺を面白がるような視線じゃない。もっと冷たい、測るような――。


っ……


思わず後ろを振り返ってしまった。


しかし、そこには誰もいなかった。人がいた気配すら、もう残っていない。

それでも、足元の影だけが一瞬、ほんのわずかにずれたように感じた。


(……気のせい、か?)


「どうした」


カイルが不自然な俺を見て声をかけてきた。


「いや、誰かから見られている気がして」


「気のせいでしょ〜」


「昨日の今日ですから、疲れているのでは」


「うん……多分」


きっと気のせいだ。そう決めて、これ以上気にしないようにした。

そうでもしないと、平気な顔でいられない。


「では行くか」


ノアの声を合図に、俺たちは実技棟に向かった。


歩きながらも、さっきの視線が頭の片隅に引っかかったままだ。

振り払おうとするたび、右腕の奥の火種が静かに返事をしてくるみたいだった。


「蓮くん。少し、いいですか」


「……ああ」


向かう途中。エヴリンは皆の少し後ろを歩く俺に合わせて、隣に来た。

皆には聞こえないように、小声で伝えてくる。


「昨夜の約束ですが――“私だけの口約束”では意味がありません」


「……ということは」


「ええ。学園に伝えます。一日に三度まで。――“決まり”にします」


「でも、そんなことしたら目立つんじゃ……」


目立ってはいけない。昨夜の“例外は狙われる”という言葉が、遅れて胸の奥を刺してくる。


エヴリンは、わかっているという顔で頷いた。


「倒れた事実は、もう“記録”として残ります。隠しても消えません」

「だから、一時的です。体調が治るまでとして伝えます。――それなら、あなたを縛る理由になる」


“記録”。

その言葉が、妙に現実味を帯びて聞こえた。


「……わかった」


「これはあなたを守るための約束です。守っていただけますか?」


言い方は優しいのに、刃物の温度がある。


「うん。約束するよ」


エヴリンは少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


そのまま実技棟へ向かう。

明るい朝のはずなのに、なぜか影だけが濃くなっていくような気がしてしまう。


実技棟の前に着くと、すでに多くの人がいた。

朝の光の中、制服が入り混じり、ざわざわとした声が跳ねている。


「全班、整列」


ガイウス先生の声が、広い空間を一撃で静めた。

さっきまでのざわめきが嘘みたいに引く。靴底が床を擦る音だけが残った。


ガイウス先生の横に、学園長が現れる。

それだけで、周囲がさらに静かになる。


「今年も、公開模擬戦の季節が近づいてきた」


淡々とした声。

学園長はそのまま手元の紙に視線を落とした。


白い紙。その端に、赤い封蝋の跡が残っている。

封蝋の赤が、朝の光の中で妙に刺さって見えた。


(……これ、ただの行事じゃない)


そう思ってしまう。

前に立つノアの視線も一度だけ、同じ場所に落ちていた。

その指が、ほんの一瞬だけ止まった。気づかないふりをするみたいに、すぐ前を向く。


「対戦カードを告げる」


班の名前が並んでいく。呼ばれるたびにざわめきが小さく起きて、すぐに消える。

毎年の決まりなんだろう。たぶん。


「最後に――王子レオンハルト班。対するは、ノア班」


一瞬、時間が止まったみたいだった。

その名を聞いた瞬間、右腕の奥が小さく脈を打った気がした。


次の瞬間、ざわっと声が広がる。

驚き。興奮。羨望。恐れ。いろんな感情が混ざって、実技棟の空気が揺れる。


「え、マジで?」


テオが思わず声を漏らし、すぐに口を塞いだ。

クララは制服の裾を握っている。カイルが目を細めた。

エヴリンは何も言わない。ただ指先が小さく握られるのが見えた。


ノアは表情を崩さない。

けれど、その拳が一瞬だけ強く握られた。喜びじゃない。覚悟を締め直すみたいな握り方だった。


「では、今呼ばれた班長は残れ」


ガイウス先生の言葉が落ちる。


ノアだけが残され、俺たちは一度外へ出された。

自然と壁際に寄る。広い実技棟の中で、そこだけが小さな島みたいに切り取られてしまう。


「まさか王子班が相手なんてね〜」


テオが言う。明るさを装っているけど、笑い方が薄い。


「やっぱり、すごい相手なのか?」


俺が聞くと、カイルが先に答えた。腕を組み、少しだけ目を細める。


「……隙がない」


「隙がない?」


「付け入る隙がない。班として、崩れない」


淡々とした声なのに、妙に重い。


クララが小さく頷いた。


「去年、見学したの。……公開模擬戦。すごかった」


「どんな?」


「一瞬で終わってた。相手の班長が指示を出そうとした瞬間に、もう“終わってた”」


背中が冷える。

終わってた――それは、こちらが動く前に動けなくなる、という意味だ。


「攻撃で押したんじゃないの。立ち位置と間合いで……相手が“選べること”を減らしていった」


「しかも雑じゃないんだよね。綺麗に終わらせるっていうか」


テオが言って、笑う。笑おうとしている、の方が正しい。


「……怖いよね」


クララの声が小さくなる。


怖い。

でも、悪意の怖さじゃない。正しさの形をした怖さだ。


俺は右腕を見ないように指を握り込んだ。

熱はない。なのに火種が、じっとそこにいる気がしてしまう。


そのとき、扉が開いた。


ノアが戻ってくる。

顔色は変わらない。


「健闘を祈る、だと」


それは励ましのはずなのに、胸の奥が冷えた。

祈られる側になった気がした。


ノアは続ける。


「公開模擬戦は“班”の試合だ。登録班員は全員出場。欠員が出るなら、班として棄権扱いになるらしい」


「ってことは……」


「――蓮。お前も参加する」



ノアの言葉が落ちたあと、誰もすぐには何も言わなかった。

王子班。公開模擬戦。班全員出場。

そのどれもが、昨日までの俺には少し遠い話だったはずなのに、もう逃げ場のない現実として目の前にある。


俺は右手を握りしめる。熱はない。爪も出ない。

それでも、奥底の火種だけは静かに残っていた。


(三回……)


たった三回。

けれど、その三回で終わらせるしかない。


そう腹の底で言い聞かせた瞬間、右腕の奥が小さく脈を打った。

まるで、その覚悟に返事をするみたいに。


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