第十七話 竜禍と握り返した手
──冷たい。
目を開けた瞬間、まずそう感じた。
白い天井。薄いカーテン。消毒と薬草の匂い。息が、やっと肺の奥まで落ちていく。
(……保健室だ)
遅れて、右腕の熱が戻ってくる。
じくじく、と。皮膚の下で小さな火が息をしているみたいに。
「起きた?」
柔らかい声。セシリア先生がベッド脇に腰を下ろしていた。
笑っているのに、目はまっすぐ俺を見ている。
「……すみません」
喉が乾いて声がかすれる。
先生は「うんうん」と適当に頷いて、俺の額に手を当てた。
「外傷なし。熱も落ち着いてる。魔力の乱れと、過労ね。……倒れる子、たまにいるのよ」
その言い方は、ひどく“普通”だった。
胸の奥が、少しだけほどける。
(……よかった。大事じゃないのか)
……と思ったところで。
先生の手が、右腕に移った。
指先が皮膚の上をすべる。脈を取るみたいに軽く押して、少しだけ止まる。
「……なるほどね」
それだけ。なのに、心臓が一段沈む。
言われなかった分だけ、余計に怖い。
「今日は授業に戻らなくていい。休めば大丈夫」
先生がそう言って立ち上がる。
その動きに合わせて、カーテンの向こうの気配がざわ、と揺れた。
「星宮!」
ノアの声。すぐ近くにいたらしい。
カーテンが少しだけ開いて、班のみんなの顔が覗く。
ノア、テオ、クララ、カイル。
全員、俺が目を開けたのを見た瞬間に、一度だけ息を吐いた。
「……ごめん」
「謝るな。無事ならそれでいい」
ノアの言葉は短い。けれど、握った拳がほどけない。
「俺が
怒っているというより――“もう一度こうなるのが怖い”という顔だった。
「ほんと心臓止まるかと思った〜」
テオは笑う。けど、笑い切れていない。
クララは両手を胸の前で組んだまま、言葉が出ないでいる。
「……先生」
カイルが一度だけ、セシリア先生を見る。探るような目だった。
「大丈夫よ。今日は休ませる。あとは私が見る」
セシリア先生は笑って、そこで一度みんなの視線を“外”へ押し戻した。
「ほら。授業に戻りなさい。ここで固まらないの」
渋々、みんなが頷く。
ノアが最後に俺へ目だけで“後で話す”と言い、テオは「寝とけよ」と軽く手を振った。
みんなが出ていく流れの中で、ノアだけが立ち止まる。
「……俺が、止めるべきだった」
「しっかり見ておけば、こんなことには……」
言葉が途切れる。
責めているのは俺じゃなくて、自分だとわかってしまって、胸が痛んだ。
みんなが出ていった直後。
「……蓮くん」
エヴリンが入ってきた。
息は乱れていないのに、いつもより歩幅が小さい。焦りを隠している歩き方だった。
「無事でしたか?」
「うん……大丈夫」
「よかった」
たったそれだけの言葉が、妙に重い。
エヴリンはベッドのそばまで来てから、セシリア先生へ視線を送った。
「先生。……少しだけ、彼とお話しても?」
セシリア先生は、俺の右腕へ一瞬だけ目を落とす。
ほんの一瞬。――それで、十分だった。
「いいわ。ただし“今は”休ませるのが優先。言葉で追い込まないこと」
責めるでもなく、守るための口調だった。
「……はい」
エヴリンが静かに頷く。
「じゃ、私は薬を取りに行ってくる。戻ってくるまでに、落ち着かせといてね」
軽い調子で言って、セシリア先生はカーテンの外へ出た。
足音が遠ざかる。
残ったのは、俺とエヴリン。
空気の温度が、少し下がった気がした。
「無茶をしないで」
エヴリンが言った。
叱るみたいで、頼むみたいで――その両方だった。
「……魔力の乱れだけで、あんな風になるのか?」
答えが欲しかった。
右腕の熱。この熱がある限り、俺は“知らないまま”ではいられない。
エヴリンは、すぐには答えなかった。
目を伏せる。言葉を選んでいるというより、刃物を扱う前みたいに呼吸を整えている。
「あなたの右腕の不調は……ただの“慣れない魔術”だけが原因ではありません」
胸の奥が冷える。
「……竜禍、という言葉を覚えていますか」
神話の黒龍。
街角の警備隊ポスター。
遠い昔の話のはずの単語が、今、俺のすぐ目の前に落ちてきた。
「……うん」
「ここでは話せません。先生も、誰も悪くないのに巻き込むことになる」
言い方だけで、彼女が背負っているものが伝わってくる。
「今夜。寮で。二人きりで話しましょう」
俺は右腕を握りしめた。
爪は出ていない。でも、熱は確かに“そこにいる”。
「……わかった」
エヴリンは一度だけ目を細めた。
安心じゃない。覚悟を確かめる目だった。
* * *
夜になった。場所は共同寮の中庭――テラス席のように、空がよく見える場所だ。
エヴリンに指定された待ち合わせ場所。周囲に人影はない。風が木の葉を鳴らし、遠くの寮の窓明かりだけが点々と揺れている。
(ここなら、二人きりだ)
そう思ったところで、足音が近づいた。
「お待たせしました」
振り向くと、エヴリンが立っていた。
いつも通り背筋は伸びている。けれど、目だけがどこか硬い。迷いを削ぎ落とした顔――そういう種類の硬さだ。
「……本当に来てくれたのですね」
「ああ。大切な話だと思ったから」
「ありがとうございます。ええ……大切なお話です」
彼女は微笑まない。瞳が研がれている。
俺の右腕を見ないようにして――それでも、視線は一度だけそこに落ちた。
「とりあえず、座りましょう」
ベンチに腰を下ろす。
隣に座ったエヴリンから、ふわりと甘い匂いがした。だが、その下には微かに――鉄錆のような、匂いが混じっている気がした。
沈黙が落ちる。長い。やけに長い。
先に口を開いたのは、エヴリンだった。
「あなたの右腕についてですが……」
言いかけて、止まる。
言葉を探しているというより、口にすれば戻れない線を踏む前の顔だ。
「私は――あれが、竜禍によるものだと考えています」
胸の奥が、すっと冷えた。
「……竜禍」
この世界に来てから、何度も見た言葉。
神話の黒龍。街角の警備隊ポスター。けれど、どれも“遠い話”のはずだった。
「結局、竜禍ってのは何なんだ。俺の腕と、どう関係するんだ」
問いかける声が、思ったより熱くなっていた。
「落ち着いてください。順に話します」
エヴリンはそう言って、指先をきゅっと握りしめた。
それから、俺を見て言う。
「竜禍は……誰にでも起こり得ます。魔力を使う者なら、条件次第で。無茶な魔力行使。連続した魔術の使用。――“戻す”前に積み上げると、身体が壊れ始めます」
思い出す。今日の訓練場。息が戻らなかった感覚。
右腕に引っ張られた感覚。
「……じゃあ、みんなにもそのリスクは?」
「ええ。だから学園は、最初から安全なラインを決めて教えています。あなたが倒れたのは……そのラインを越えたからです」
「……俺が、無茶をしたから」
「はい。体がまだ適応していないのに、焦って踏み込んだ」
淡々と言われるほど、逃げ道がなくなる。
エヴリンはそこで一拍置き、言葉を選ぶように続けた。
「そして竜禍には、段階があります」
俺は息を飲む。
彼女は指を一本立てる。
「一段階目。熱と倦怠感。症状は風邪に似ています。この段階なら休養と治療で戻すことが可能です」
二本目。
「二段階目。魔術使用時に、身体の一部に“竜に似た変化”が出ます」
喉の奥が乾く。俺は右腕に視線を落としかけて、やめた。
今は、そいつを視界に入れたくなかった。
三本目。
「三段階目。変化が“常態化”します。魔術を使っていない時にも、戻ることはありません」
言い切ったあと、エヴリンは俺を見た。
逃げ道がない視線だった。
「……蓮くん。あなたの症状は、二段階目に該当します」
言われた瞬間、背中に汗がにじんだ。
言葉が、胸に落ちる。重い。
頭では否定したいのに、身体が先に肯定してしまう。
「でも……おかしくないか?」
俺は、必死で言葉をつなぐ。
「魔術をちゃんと使えたのは最近だ。なのに右腕は、それより前に――森で、もう……」
「おっしゃる通りです」
エヴリンは即答した。その即答が、逆に怖い。
「辻褄が合いません。だから……この話は、広まってはいけない」
「……どういうことだ」
「あなたは“例外"かもしれません。"例外"は狙われます」
その言い方に、背筋がぞくりとした。
「狙われる?」
「……記録に残れば、手が伸びます。実験対象になる可能性があるということです」
彼女の言葉は冷たかった。嘘みたいに冷たいのに、おそらく本当なのだろう。
「……ここからが、私の提案です」
彼女は息を吸い、吐いて言った。
「あなたは今後、魔術の使用を控えてください。少なくとも――“むやみに”使わないようにしてください」
「……嫌だ」
声が出た。自分でも驚くほど早い。
「ようやく掴みかけたんだ。ここで手放したら……俺、何のためにここにいるのかわからなくなる」
エヴリンのまつげがわずかに揺れる。
責める顔ではなかった。あれは、痛みに耐えている顔だ。
「蓮くん、あなたを守りたいんです」
「俺だけ、守られて、置いていかれるのは嫌だ。俺だってこの世界で生きるって決めたんだ」
言い終えたあと、胸が痛い。
元の世界に帰りたい。その前に俺はここで、生き延びなきゃいけない。
エヴリンは目を閉じて、短く息を吐いた。諦めたんじゃない。腹を括った顔だった。
「……わかりました」
彼女はゆっくりと目を開け、言う。
「ですが、全て譲るわけにはいきません。条件をつけます。―― 一日に三回まで」
「三回!?」
反射で声が出る。少なすぎる。それでは――
胃の底がひやりとした。
俺の中の"もっと"が、歯ぎしりみたいに抵抗する。けれど、今日倒れたのは俺だ。
「三回が、今のあなたの体が耐えられる魔力負荷の限度です。その三回に、全力を込めてください」
エヴリンは、揺らがない声で言った。
「あなたならできます。焦って壊れるより、積み上げた方が速いはずです」
言い返したいのに、言葉が出ない。
悔しさと、怖さと、少しの安心が混ざって、喉に詰まる。
「……約束していただけますか?」
「……わかった。約束する」
エヴリンは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
それから、わざと軽くするように言う。
「いざとなったら、私が止めます。あなたが“向こう側”に行きそうなら、引き戻す」
――軽い言い方なのに、刃物の温度がある。
俺は、右腕を握りしめた。
爪は出ていない。それでも、熱は確かに“そこにいる”。
「……頼む」
俺がそう言うと、エヴリンは小さく頷いた。
「ええ」
星の下、彼女が先に手を差し出す。指先が触れ、確かめ合うように握り合う。
その瞬間。
右腕の奥の火種が――小さく、返事をするみたいに脈打った。
俺はその鼓動を、握った手の温度で誤魔化すように握り返した。
前に進むための誓いが、同時に“怖さ”の形をも帯びたまま、夜の空気に沈んでいった。




