第十六話 導流環と火種
あれから、導流環に火種が灯る回数は、少しずつ増えてきた。
淡い光。発動する魔術だって、ほんの一瞬。まだ「できた」と胸を張れるほどのものじゃない。
それでも。
この小さな変化が、たまらなく嬉しかった。
――俺はちゃんと前に進めている。そう思えるだけで、この世界に少し馴染めた気がする。
ただ、同時に。
時々、右腕の奥に火種みたいな熱が残る。
普段は眠っているのに、ふっと目を覚まして、俺の中で何かが脈打つ。
嫌な予感がないと言えば――嘘だった。
* * *
「今日は、前より一歩進んで。“流れを自覚したまま”維持してもらいます」
ベアトリス先生が魔術板に短い術式を書き、教室を見渡した。
「魔術のイメージを保ち続けること。それが今日の目標です」
先生の合図とともに、教室の空気が変わる。
詠唱の声が重なり、風の擦れる音、水がはじける音、火がはぜる音――小さな魔術の気配が、あちこちで生まれていく。
「大きな魔術である必要はありません。小さくていい。整えること。崩さないこと。――それを目標にしなさい」
(維持できれば、“できる側”に一歩近づける)
俺は頷き、右手首の導流環に目を落とした。
冷たい金属の感触が、今は妙に心強い。
(いける。……いけるはずだ)
息を吸って、吐く。
体の内側に意識を沈める。一本の芯を通すみたいに――。
導流環が、ふっと淡く光った。
けれど、その光は一瞬で鈍い色に戻ってしまう。
「……やっぱり続かないな」
小さく漏らした俺に、隣の席から声がかかった。
アイリスだ。手のひらに小さな火を灯しながら、こちらを見ている。
「でも、以前より発動する回数は増えています。ちゃんと成長できていますよ」
「隣で余裕な姿を見せられても……。……けど、ありがとう」
そう返しながら、俺は導流環にもう一度視線を落とす。
「みんなが買ってくれたこれのおかげかな。……守られてる感じがして、心強いよ」
「姉さんに感謝してください」
すぐに返ってくるその言い方に、思わず苦笑する。
「いやいや、みんなに感謝してるって。……もちろんエヴリンにも」
そう言って、俺は導流環の重みを確かめるように手首を握った。
――もう一度。今度は少しでも長く、保てるように。
詠唱に入る。
導流環の灯りが伸びかけた。
(よし……このまま、この状態を維持――)
意識を細く、深く絞り込んだ、その瞬間。
「……っ」
右腕の奥を、熱が走る。血管の中を“熱い糸”が走る感じ。
鋭い痛みを引き連れて――灼けるような“熱”。
(また、かよ……)
森の記憶が、一瞬だけ視界の裏に差し込む。
黒い爪が生えたあのとき。どうしようもなく熱かったあの感覚。
意識が、腕へ、腕へと引っ張られかける。
身体の芯が、ふっと抜けた。
視界の端が“暗く縁取られる。
倒れかけたところで――
「蓮さん!」
アイリスの声が聞こえた気がした。けれど、音が少し遠い。
空気が歪むみたいに、視界が揺れる。
「星宮くん」
次の声は、はっきりしていた。
ベアトリス先生の声。冷水みたいに、頭に落ちてくる。
「止めなさい。息を止めないで。戻して」
俺は慌てて息を吐いた。
右腕から、体幹へ。肩から、背中へ。足元へ――意識を押し戻す。
導流環の光が、ゆっくり消えていく。
代わりに、熱も引いていく。……引いていく、はずだった。
「今、無理をしていたでしょう」
ベアトリス先生が目を細める。
ベアトリス先生の視線が、導流環ではなく――その奥の“右腕”を測るみたいに一瞬止まった。
その目は、俺の内側まで見透かすみたいだった。
「いいですか。魔術を使う上で、一番大切なことは“無理をしない”ことです。無茶な魔術行使は、必ず使用者に良からぬことをもたらすものよ」
言葉は優しい。けれど、芯がある。
それでも俺は、口を開いてしまった。
「……でも、俺はみんなに追いつかないといけないんです」
無茶だって、わかってる。
でも、そうしないと俺は――あの背中に届かない。
先生は一拍置いて、少しだけ表情を柔らかくした。
「気持ちはわかるわ。けれど、あなたは“ちゃんと前に進めている”。今は、その一歩を大切にしてあげて」
「……わかりました」
そう言われると、頷くしかなかった。
頷いたはずなのに。
(午後の実技には間に合う。大丈夫だ)
そんな言い訳が、頭の端で息をしていた。
「……大丈夫ですか?」
隣のアイリスが、心配そうに覗き込む。
「うん。もう大丈夫」
右腕が、まだじくじくと熱い。
俺は笑ってみせた。
――平気なふりをした。してしまった。
午前の授業が終わり、食堂へ向かう途中も、俺の右腕はまだ熱を帯びていた。
軽く揉んでみても、変化はない。火種みたいな熱が、皮膚の内側に居座ったまま離れない。
(無理をするな……か)
わかっている。ここは無理をする場面じゃない。
──でも、午後は実技だ。座学みたいに“魔力を流す”必要はない。剣と足だけなら、きっと大丈夫だ。
そう言い聞かせて、俺は班のみんなの元へ向かった。
* * *
午後の訓練場。
ガイウス先生の号令が響くと、土の人形──訓練用のゴーレムが、ぎしりと動き出した。
「星宮。お前は基礎だ」
その言葉も、もう何度目だろう。
相変わらず俺だけが、基礎の反復メニューを渡される。
剣を握り、素振り。
踏み込み、回避のステップ。
方向転換、間合いの出入り。
汗が額を伝い、呼吸が乱れ、足がじわじわ重くなる。
──変わらない日常。
いや、昨日までよりは動けている。それは確かだ。体も、少しずつ“覚えて”きている。
でも。
この一歩じゃ遠すぎる。
みんなは遥か先にいる。俺が一段上がったところで、距離が縮まった気がしない。
(……もっと大きな一歩が必要だ)
そう思ったとき、脳裏に浮かんだのは、訓練場の端で見たカイルの動きだった。
(確か、風で……)
風魔術での加速。
それができれば、俺の“基礎”は基礎のままでも、意味が変わる。足が速くなれば、回避も踏み込みも、全部が繋がる。
ふと、右手首の導流環が視界に入った。
ひんやりとした金属が、まるで「やれるだろ」と言っているみたいに、そこにある。
午前は、止められた。戻せた。
なら――“少しだけ”なら、平気だ。そう思ってしまった。
イメージはできていた。
詠唱。呼吸。芯を通す──。
(少しだけだ。ほんの一瞬、足が軽くなるだけでいい)
俺は、誰にも気づかれないように、息を整えて詠唱に入った。
導流環が、淡く光った。
同時に、足元の空気がふっと軽くなる。
(出た)
確かに、出た。
ほとんど気のせいみたいな変化。だけど、足が一瞬、地面から離れるみたいに軽くなった。
たった一歩。けれど、世界が“追いつける速度”に見えた。
──その瞬間だった。
「――っ!」
右腕の奥を、熱が叩いた。
内側から掴まれたみたいに“引いた”。
痛みじゃない。
灼けるような、怒りみたいな熱。
血管の中に熱い針金を通されたみたいに、腕の芯が一気に熱くなる。
耳の奥で、細い金属音みたいな高い音が鳴り始めた。
視界が白く揺れ、音が遠のく。
導流環の光が、さっきより強く──乱暴に、明滅した。
(やば……)
息を戻そうとするのに、戻らない。
肩が上がり、喉が固まり、肺が浅くなる。
意識が、腕へ、腕へと引っ張られる。
風が、ばさりと舞った。
魔術の“風”じゃない。
俺の体が崩れたせいで、周りの空気が巻き上がっただけだ。
膝が抜ける。
浮いたわけじゃない。ただ、支えが消えた。
地面は近いのに、ぶつかるまでがやけに長い。
時間だけが、薄く引き伸ばされる。
ばさり。
俺の体は、床に投げ出された。
「蓮!」
遠くで、ノアの低い声が響く。
「止めろ! 全員、距離を取れ!」
ガイウス先生の号令が重なった。
俺は倒れたというより、床に吸い込まれるみたいに崩れ落ちた。
右腕だけが熱い。
指先だけが、やけに冷たい。
右腕だけが熱い。
指先だけが、やけに冷たい。
「蓮、聞こえるか!」
ノアの声が近づいた。肩を掴まれる感触があるのに、うまく焦点が合わない。
目を開けようとしても、瞼が鉛みたいに重かった。
(……息、吸わないと)
吸っているはずなのに、胸まで入ってこない。喉の奥が熱く、空気が薄い。
導流環が、最後に一度だけ──ひく、と痙攣するみたいに光って、ぷつんと消えた。
「熱が……右腕だけ異常に――」
誰かが言った。クララの声だった気がする。
「全員下がれ! 訓練中止! 星宮は保健室へ運べ!」
ガイウス先生の声が、遠くで鳴った。
土の人形が止まる音。ざわめき。足音が散る。
「蓮くん、こっちです。……大丈夫、呼吸を。今は“戻す”だけ」
エヴリンの声が落ちてくる。落ち着いているのに、どこか硬い。
右腕に誰かの指が触れた瞬間、火種がふっと息を吹き返した気がして、思わず身が竦んだ。
背中と膝裏に腕が差し込まれて、体が持ち上がった。
ふわり、と浮く。
いや、浮いたんじゃない。運ばれている。
視界の端で天井が流れた。訓練場の空が遠ざかっていく。
誰かが俺の右手首を掴んで、導流環が外れないよう押さえていた。
(……迷惑、かけてる)
そう思ったところで、思考が途切れる。
音が、遠のいた。
光が、細くなった。
そして──暗くなった。




