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第十三話 届かない魔術、すれ違う思い

 エドガー先生の魔術板の文字が消されていくのを横目に見ながら、

 俺は魔術基礎の教室へと向かった。さっきまで聞いていた黒龍の話が、まだ頭のどこかでこだましている。


* * *


「今日は昨日より一歩進んで、“魔力の流れを自覚しながら”初歩魔術を発動してもらいます」


 教壇の前に立ったベアトリス先生は、そう言いながら魔術板にさらさらと術式を書きつけていく。


「ここに描いたのは、各属性の初歩魔術の術式よ。これを参考にして、自分の魔力を通してみて」


 先生がパン、と手を叩いたのを合図に、教室のあちこちから詠唱の声が上がり始めた。


 間もなく、風が空気を切る音、水の滴る音、火がぱち、と弾ける音――いろんな気配が一斉に教室の中で立ち上がる。


 隣のアイリスも、当然のように術式を組み、掌に小さな風の渦を生み出していた。

 見回した感じ、他の生徒もだいたい八割方は何かしら形にできている。


(負けてはいられない)


(詠唱も覚えてる。手順だって頭ではわかってる)


 そう自分に言い聞かせながら、俺も掌に意識を集中させる。


 ……が、俺の手からは、何も出なかった。


 何度やっても、変わらない。

 魔力が流れてくる感覚すら掴めず、完全にお手上げ状態だった。


(……ダメだ)


 頭の中では、ちゃんとできている“つもり”なのに。

 現実の俺の手には、何の反応も返ってこない。


「はぁ……」


 思わず、大きなため息が漏れた。


 魔術の感覚が流れてくるより先に、頭の中に流れ込んでくるのは――さっきの、アイリスの言葉だ。


『龍なら、存在していますよ。……形を変えて、ですけど』


 龍が“形を変えている”って、どういう意味なんだ。

 あの黒い爪と、何か関係があるのか。


 疑問はぐるぐると回り続けるのに、どこにも出口が見えない。


(俺ひとりで考えてても、答えなんて出るわけないよな……)


 そうわかっていても、考えるのをやめられない。


(でも……アイリスは、たぶんもう教えてくれないしな)


 当のアイリスはというと、涼しい顔のまま、属性を変えながら次々と魔術を発動させていた。


(……優等生って感じだよな、やっぱ)


 そんなことを一瞬だけ思いながらも、疑問を解決する方法は結局ひとつしかないと悟る。


 ――聞くしか、ない。


「なぁ、アイリス」


 意を決して声をかけると、アイリスは詠唱を止め、こちらへ視線を向けた。


「なんですか?」


 澄んだ瞳でまっすぐ見られると、喉まで出かかっていた言葉が、するりと奥へ引っ込んでしまう。


「あー……その、何か“魔術をうまく使うコツ”とか、あったりするのかなって。

 なかなか上手くいかないからさ」


 咄嗟に質問をすり替えてしまった。

 ……まあ、コツも本当に知りたいことではあるし、嘘ではない。


「コツ、ですか?」


 アイリスは小さく呟いてから、視線を落としてしばらく考え込む。


「うーん……そうですね。自分の中に一本、“魔術の線”を通す……とか、でしょうか」


 少し考えあぐねたあとで、そんなふうに口を開いた。


「……魔術の線?」


「はい。うまく言えませんけれど。身体の真ん中に一本、芯を通すような感覚で……。

足先から頭のてっぺんまで、一本の管になっているみたいに意識して、その中を魔力が流れていく、というか……」


「なんか、思ってたのとだいぶ違う説明きたな」


 もっとこう、「ここに力を集めて」とか、わかりやすい方向を想像していたのだが、だいぶふわっとした答えが返ってきた。


「感覚の話になってしまうので、口で伝えるのが難しいんですよね」


 アイリスは少し困ったように眉を寄せる。


「その“感覚”が、何ひとつ掴めてないんだよな、俺は」


 思わず本音が漏れた。


「姉さんなら……もう少し上手く説明できるかもしれませんが」


 そこまで言ったところで、アイリスはハッとしたように表情を固くし、視線をそらしてしまう。


「ど、どうしたんだ?」


 さっきまで普通に話していたのに、急に空気が変わった気がして、思わず聞き返す。


「どうせ私は、姉さんにはかないませんから」


 膝の上で組んだ指先が、きゅっとわずかに力む。


 こちらを見ないまま、ぽつりと落とされた一言。


(……今の、なんか自分に言い聞かせてる感じだったよな)


 胸の奥に小さな違和感が残る。

 けれど、それ以上踏み込むのはやめておいた。


 そのあとは、俺とアイリスの間に静かな時間だけが流れ、

 教室には、ほかの生徒たちの詠唱と魔術の気配だけが響き続ける。


 結局、その一時間のあいだ、

 俺の手のひらは最後まで、ただの“普通の手”のままだった。


 午前の授業がすべて終わり、お昼の時間になると、


「では、わたしはこれで」


 短くそう言って、アイリスは頭を軽く下げると、そのまま人混みの中へ紛れ込むように歩き去ってしまった。


「あっ」


 呼び止める間もなく、白い髪の後ろ姿は、あっという間に人の波に飲み込まれて見えなくなる。


 アイリスに聞きたいことは、まだ山ほどあった。けれど、これ以上は追いかけようがない。


 仕方なく、俺は視線を巡らせて班のみんなの姿を探した。


 ノア班と合流すると、昼食は昨日とほとんど同じように過ぎていった。テオのどうでもいい与太話に相槌を打ちながら、パンをかじり、シチューをすくう。


 途中で、ノアが先生に呼ばれて席を立ち、カイルも何か用事があるらしく、それに続いて一足先に食堂を出ていった。


 ランチタイムも終わりに近づいたころ、エヴリンがふいに、俺だけを狙うように小声で呼びかけてきた。


「蓮くん。少し、お時間よろしいですか? 確認したいことがあります」


 椅子から立ち上がりながら、そっと目だけで出口の方を示す。


 俺も立ち上がろうとしたところで、テオがニヤニヤした顔で口を挟んできた。


「おやおや〜? 二人っきりで内緒のお話〜? 青春してるねぇ」


「もう。そういうのではありませんよ」


 エヴリンが、わずかに頬を赤くしながらぴしゃりと否定する。


「ちぇっ。残念だな〜」


 まだにやついているテオの視線を背中に受けながら、俺とエヴリンは食堂を出て、中庭へ向かった。


 * * *


 中庭の片隅、人目の少ない石壁の陰まで来たものの、しばらくの間、俺たちの間に言葉は落ちてこなかった。


 風が、植え込みの葉をざわりと揺らす。


「えっと……話っていうのは」


 沈黙に耐えきれず、俺から切り出す。


「あっ、そうでしたね……」


 エヴリンは小さく咳払いしてから、少し視線を落とした。


「えっと……アイリスのことについて、相談したいことがありまして」


 どこか煮え切らない調子だった。普段のエヴリンらしくない。けれど、「アイリス」という単語が出た以上、聞き逃すわけにはいかない。


「俺も、アイリスについて相談したいことがあるんだ」


「蓮くんも、ですか?」


 エヴリンが少し驚いたように目を見開く。


「なんかさ、アイリスがずっとよそよそしいというか……。俺、嫌われてるのかなって」


 今朝から感じていた違和感を、そのまま言葉にして打ち明けた。


 エヴリンは少しだけ黙り込んでから、慎重に言葉を選ぶように口を開く。


「アイリスは、あなたのことを嫌っているわけではないと思います」


 淡い金色の瞳が、まっすぐこちらを見た。


「ただ……アイリスにとって“とても大切なもの”を守るために、かえって遠ざけてしまっているだけ、だと思います」


(大切な、もの……?)


 喉まで出かかった問いを、慌てて飲み込む。

 それ以上踏み込んではいけない気がした。


「あとさ。神話の授業のときにアイリスが言ってた、『龍がまだこの国にいる』って話」


 自分でも声が少しだけ低くなったのがわかる。


「あれがずっと引っかかってて……。その、“形を変えた龍”ってやつと、俺の右手のこの爪……何か関係があるんじゃないかって━━」


 そこまで言ったところで、エヴリンの表情がぴくりと揺れた。

 次の瞬間、俺の言葉を遮るように、静かな声が落ちてくる。


「……この国で、“龍”の名が出るとき」


 エヴリンのまつ毛が、すっと伏せられる。


「それは、たいてい恐怖の対象として、です」


 ゆっくりと顔を上げた彼女の瞳には、さっきよりも硬い色が宿っていた。


「今は、それだけを理解していてくだされば結構です」


 それ以上は踏み込むな、とやんわりそれでいてはっきりと告げられているように感じた。


 エヴリンはそこで一度だけ息を整えると、くるりと背を向ける。


「アイリスには、私からも少し話しておきます」


 ローブの裾が、さらりと揺れた。


「それでも、今日と変わらなかったときには……そのときは、蓮くんのほうから、もう一歩だけ踏み込んであげてください」


 振り返らずにそう言うと、


「午後の授業が始まってしまいます。急ぎましょう」


 とだけ告げ、俺を待つことなく歩き出した。


「あ、ちょっと……」


 思わず呼びかけるが、エヴリンの背中はどんどん小さくなっていく。

 置いていかれないよう、慌ててその後を追いながら、ふと気づく。


(……そういえば、エヴリンが最初に“確認したいこと”って、結局なんだったんだ?)


 気づけば、俺の話ばかりしてしまっていた。

 けれど今は、それを問いただす余裕も時間もなかった。


 * * *


 午後の実技は、昨日と同じくガイウス先生の荒っぽい号令で始まった。


「よし、今日も叩き込むぞ!」


 全員がグラウンドに整列すると、俺の前にどっしりとした体格の影が立つ。


「星宮。お前は今日も、基礎だ」


 ガイウス先生は腕を組んで、短く言い放った。


「剣の素振り、回避のステップ、移動人形相手の回避。まずはそれを身体に叩き込め。実戦は、それからだ」


 有無を言わせぬ口調だった。


(……まだ、実戦は早いか)


 少しだけ胸の奥がちくりとする。

 けれど、それが現実だということも、頭では理解していた。


 他のメンバーが昨日と同じくゴーレムを相手に実戦訓練を始めるのを横目に見ながら、俺は言われたとおり、ひたすら基礎メニューをこなしていった。


  剣の素振り。決められた角度で振り下ろし、肩と腰の回転を意識して戻す。

 回避のステップ。砂を踏む音をできるだけ小さくしながら、前後左右にリズムよく跳ぶ。

 訓練用の木人形がぎこちなく迫ってくるのを、ギリギリの距離で身をひねって避ける。


 俺でもこなせる“基礎”ばかりを、ただひたすら繰り返した。


 地味で、派手さはまるでない。

 だけど、やるしかない。


(やっぱり、まだまだって感じだな、俺)


 グラウンドの向こうでは、ノアたちの見事な連携で、土のゴーレムが次々と崩れていく。


 それに比べて自分は、ただ黙々と同じ動きを繰り返すだけ。

 悔しさと情けなさが、汗と一緒に滲んできた。


 ……それでも、追いつくしかない。


 その一心で、俺はとにかく身体を動かし続けた。

 何も考えずに済むくらい、全身が自然に動くまで。


(……あれ?)


 気づいたときには、剣を振る腕が、昨日より少しだけ軽く感じられた。

 足を踏み出したときの反応も、わずかに速くなっている気がする。


(気のせい……じゃないよな、多分)


 わずかな手応えを胸の奥で噛みしめながら、俺は黙々と剣を振り続けた。


 * * *


 夜。夕食を終え、自分の部屋へ戻るために階段を上っていたときだった。


 廊下の角を曲がったところで、ちょうど向こう側からやって来たアイリスと鉢合わせた。


 両腕には、分厚い本が数冊。魔術書だろうか、革張りの表紙が薄い灯りの下で鈍く光っている。


 お互い、同じタイミングで立ち止まった。けれど、しばし言葉は出てこない。


 重たい沈黙に耐えきれず、先に口を開いたのは俺の方だった。


「あ、アイリス。今日は……その、授業とか、いろいろありがとな」


 たどたどしくなった自覚はある。けれど、それでもちゃんと礼だけは言いたかった。


「……別に。私は、やるべきことをしただけです」


 そっけない言い方だったが、その声には棘はなかった。


 一拍置いてから、アイリスがふいに続ける。


「……魔術、焦らなくていいですから」


「え?」


 思わず聞き返してしまう。


「この世界の人間でも、何年もかけて身につけるものです」


 アイリスは、抱えた本をぎゅっと抱き直した。


「私たちは、小さい頃から魔術に親しんでいるだけ。二日や三日でできなくても、普通です」


 不意打ちのような優しさに、胸の奥がふっと温かくなる。


「……アイリス?」


「あなたが勝手に落ち込んで、勝手に諦めたら……姉さんが困りますから」


 それだけ言うと、ぷいっと視線を逸らし、つかつかと歩き去っていった。


 残された廊下に、彼女の足音だけが小さく響く。


(姉さんが、困る……か)


 今日だけで、アイリスの口から「姉さん」という単語を何度聞いただろう。

 けれど、さっきの言葉の中にはそれだけじゃない、もうひとつ別の色――心配に近い何かが混じっていた気がする。


 ふと、昼のエヴリンの言葉がよみがえる。


『アイリスは、あなたのことを嫌っているわけではないと思います』


「……本当に、“嫌われてる”わけじゃない、のか?」


 自分の口から漏れた小さな独り言が、廊下の静けさに吸い込まれていった。


 窓の外には、夜空に星が瞬いている。

 その輝きは、地球で見ていた星空とほとんど変わらなかった。


「竜滅の七星……か」


 今日の神話の授業を思い出す。

 この空のずっと向こうには、まだ俺の知らない“神話の続き”が隠れているような気がして、無意識に右手を握りしめていた。


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