第十二話 竜滅の七星と、災厄の黒龍
窓の外から、朝の光がまぶしく差し込んでいた。
「……まぶしい」
視界に入ってくるのは、まだ見慣れない天井。ぼんやりした頭を無理やり回して、今の状況をひとつずつ確認する。
ここは異世界。昨日は入浴を終えたあと布団に潜り込んで、そのまま泥みたいに眠ったんだった。そして今日は――。
初めての魔術の授業。初めての実戦訓練。風呂場での反省会。そして――。
「……遅刻だっ!?」
窓から差す光の角度が、どう見ても「朝イチ」じゃない。心臓がどくん、と跳ねた気がした。
ほとんど反射でベッドから飛び起きる。まだ異世界に来て二日目だ。寮長にも釘を刺されたばかりなのに、いきなり遅刻はシャレにならない。
急いで制服に袖を通し、ローブを羽織る。その勢いのまま扉を開け、昨日も通った共同寮の食堂へ向かって、全力で廊下を駆け抜けた。
食堂まで一直線に走る。大きな扉を勢いよく押し開けると、すでに多くの生徒たちで席は埋まっていた。
――ただし、一つの席を除いて。
ノア班のテーブルにぽっかりと空いたその場所へ、俺はそのまま突っ込むように走っていった。
みんなの姿が見える。全員、特に何事もなかったかのように、日常の一部として朝食を取っていた。……ただ一人、テオを除いて。
「セ……セーフ?」
恐る恐るそう聞くと、笑っていたテオが、笑顔のまま指をひらひらさせて答えた。
「いや、余裕でアウト」
「ですよね」
当然の答えに、思わず肩が落ちる。
「すみません」
まずは頭を下げた。
「まだ講義には間に合う。急いで朝食を取ってこい。空腹のまま座学を受けても、頭に入らないからな」
ノアがそう言って、顎で配膳台のほうを示す。
「そうですね。一度の遅刻で、すべてが駄目になるわけではありません。……今日のところは、慣れない環境ということで」
エヴリンが淡々と同意を添える。
クララとカイルも、小さく頷いていた。
「あ、ありがとう」
情けなさと同時に、少しだけ胸が温かくなる。
急いで朝食のトレイを受け取り、席へ戻ると、テオがすかさず身を乗り出してきた。
「いやー、でも嬉しいなぁ」
「嬉しい? なんで?」
「俺も昔、遅刻したことあるからさ。遅刻仲間ができて嬉しいよ」
それでか。さっきから一人だけ笑顔が妙にキレッキレだった理由は。
「あまり……よくない“仲間”かと……」
クララが小さく呟くと、
「問題児が二人に増えたな」
カイルがぼそっと追い打ちをかける。
静かな二人のツッコミが、ぴしりとテオに刺さった。
「お、おれはノアさんに言われてから、もう遅刻してねーからな!? 反省はしてるからな!?」
慌てて弁明するテオに、ノアが溜め息まじりに言う。
「何度注意したかは、もう覚えていないがな」
その一言をきっかけに、テーブルの周りに笑いが広がる。そんな雰囲気のまま、俺の二日目の朝食はあっという間に過ぎていった。
* * *
食堂を出て学園へ向かう途中で、ノア班のみんなとはそれぞれの教室の階段で別れた。俺は一年生用の教室棟へ歩いていく。
廊下の先、教室の前には、見慣れた雪みたいに白い髪の後ろ姿があった。
「おはよう。アイリス」
「……おはようございます」
こちらを見たのは一瞬だけで、すぐに視線が前へ戻る。アイリスは少しよそよそしい声で挨拶を返した。わざと避けられているわけではない。けれど、昨日を思い出すと、その温度差がやけに気になる。
(まだ、信用されてないってことか……)
アイリスの隣まで歩み寄ると、彼女は手にしていた一冊の本を、当たり前のようにこちらへ差し出してきた。
「今日の一限は、エドガー先生の歴史の授業です」
手渡された本の表紙には、『歴史・神話』の文字が刻まれている。どうやら、これもこっちの世界の教科書らしい。
「では、行きましょう」
アイリスが小さく扉の方へ顎をしゃくる。
俺たちは一緒に教室の扉を開け、空いている席へと向かっていった。
これから始まる、「この世界の過去」の授業が、どれくらい俺の知らないことだらけなのか――少しだけ胸がざわついた。
席について前を見ると、すでに一人の男が教壇脇の椅子に腰掛けていた。
年齢よりいくぶん若く見える、穏やかな顔立ち。
灰色が混じりはじめた淡いブロンドの髪を後ろでひとつに束ね、流した前髪が金縁の丸眼鏡の上からさらりとかかっている。口元には薄く無精ひげが残っているが、不精というよりは、研究に没頭して剃り忘れた学者のそれだ。
白いシャツに紺のネクタイ、その上から深い紅のベストをきちんと着込み、さらに紺のローブを羽織っている。ローブの裾や袖には金の文様が細かく刺繍され、身分と専門の確かさを物語っていた。
(あれが、エドガー先生か)
教室のあちこちから、小さなざわめきが上がっては消える。
「今日、神話の回だろ?」「また黒龍の話かぁ」「テスト出るから寝ないようにしないと……」
そんな声が、半分は期待、半分は「聞き飽きた」という空気で混じり合っていた。
この世界で生まれ育った人間にとっては、何度も聞かされてきた“お決まりの話”なのかもしれない。
授業開始を告げる鐘が鳴ると、男は静かに立ち上がった。
ざわめきが、ふっと引いていく。
「では、授業を始めます」
見た目どおりの、落ち着いた声だった。よく通るが、怒鳴るでもなく、耳に馴染む声。
「今日はこの国の始まりの神話についてです――私としては一年のうち三回くらいやりたいくらい大事な話ですが、カリキュラムの都合で今日一度きりです。ですから、しっかりと聞くようにしてください」
この国の神話について、か。
異世界の神話には、俺の予想もしないことがどれだけ詰まっているのか。そう考えると、少しだけ胸が高鳴る。
「まずは、竜滅の七星と災厄の黒龍についてです。教科書を開いてください」
エドガー先生は手元の出席簿を軽く閉じ、チョークを取り上げた。
カツ、カツ、と黒板に白い線が走る音が教室に響く。
「よく知っている方もいると思いますが、“神話”は単に昔話ではないのです。我々が今どこに立っているのかを示す“土台”でもあるんですよ……いいですね?」
ちらりと教室を一周する視線。数人の生徒が慌てて背筋を伸ばした。
「では、始めましょう」
先生は黒板に、大きく一つの単語を書きつける。
――【黒龍】。
それから、静かに語り始めた。
──レグナリア王国が、まだ名もなき土地であった頃。
村々は散り、人々はただ、小さな焔を抱いて暮らしていた。
その空を、ある日、黒き影が覆った。
災厄の黒龍である。
もしそれがただの魔物であったならば、まだ良かっただろう。
村人たちが力を合わせれば、どうにか退けられたに違いない。
だが、黒龍は違った。
ひとつの村は、一夜にして呑み込まれた。
わずかな生き残りだけを残し、家も畑も祈りの場さえも、跡形もなく焼き払われたという。
「黒龍は、単に“強い魔物”ではありませんでした。土地そのものを汚染し、生き物の全てを食い尽くす存在だったと伝えられています」
その力は、人の知るいかなる魔物とも異なっていた。
大きさも、禍々しさも、ただそこに在るという事実すら、
「これまでの何か」とは隔てられた異形そのものであった。
黒龍による災いは、雪崩のごとく広がった。
今日ひとつの村が消え、明日ふたつの村が沈む。
このままでは、人は地上から滅び去る──
誰もがそう悟りかけた、その時である。
各地の村より、七人のつわものが立ち上がった。
大盾を掲げし者。裂ける槍を振るう者。
森を従える者。星を読み解く者。
金糸を操る者。祈りを捧げる者。潮路を開く者。
「大盾のアルディス。裂槍のローラン。深き森のセリオン。
星読のリシア。金糸のエドワルド。祈りのミリア。潮路のマリウス」
黒板に並ぶ七つの名前。その下に、ゆっくりと一行が書き足される。
――竜滅の七星。
(完全にゲームの登場人物って感じだよな……でも、この世界じゃ“本物”なんだ)
先生は一人一人の名を黒板に書き連ね、その横に簡単なアイコンのような印を描き足していく。盾、槍、木、星、糸、祈りの手、波。
「名と二つ名ぐらいは覚えておいてください。……後々、歴史を学ぶときに、何度も出てきますから」
そんな説明が、黒板の板書を交えながら淡々と続いていく。
竜滅の七星。図書館で見た名前だ。国を救った英雄たちのことだったのか。
そう思いながら、ふと隣のアイリスへ視線をやる。
昨日は真面目にノートを取っていたはずなのに、今日はどこか上の空だ。
手元のノートには、ただの落書きが増えていくばかり。黒龍のシルエットらしき絵と、その横にちょこんと小さな人影――よく見ると、七人分描かれている。
(え、絵心あるな……って、そうじゃない)
「そこ、ちゃんと聞いていますか?」
エドガー先生が眼鏡の奥からこちらを見ていた。
チョークを持った手が、ぴたりと止まっている。
(やべっ──!?)
少しアイリスの方に意識を割きすぎていたらしい。
慌てて前を向き、背筋を伸ばす。
「……はい、失礼しました」
軽く咳払いをしてから、先生は再び話を続けた。
竜滅の七星と災厄の黒龍との戦いは、三日三晩続いたという。
……あるいは、日数などとうに意味を失っていたのかもしれない。
ただ、力の尽きるその瞬間まで、人と龍は相対し続けた。
「ここが“神話らしい誇張”かどうかは諸説ありますが……少なくとも、短く終わった戦いではなかったと考えられています」
エドガー先生はそう前置きしてから、黒板に「三日三晩(伝承)」と小さく添え書きした。
そして、ついに時は満ちる。
黒龍の首は討たれ、その巨きなる頭は、人の手によって高々と掲げられた。
それは、滅びかけた人の世が、なお生き延びたしるしであった。
勝利の報せは、風よりも早く村々へと駆け抜けた。
人は、その日、学んだのである。
ひとりでは届かぬ力も、集えば龍さえ討ち倒せることを。
孤なる焔が、寄り添えば星々となることを。
「ここも重要です。レグナリアにおける“団結”の理想像が、彼ら竜滅の七星なのです」
黒龍討伐ののち、散っていた村々はひとつに集い、
やがて一つの国がかたちづくられた。
それこそが、我らが国──レグナリアである、と伝えられている。
「竜滅の七星は、やがてそれぞれ土地を治め、国の要となる一族となりました。現在の“星環の七家”へと、名と役割が受け継がれていったわけです」
(なるほど……黒龍の存在と、それを討伐した七人が、この国の“建国神話”ってわけか)
ここは、龍を討伐することで生まれた国。
思い出すのは、この世界に来てから何度か耳にした言葉――竜禍だ。
(この国にとって、「龍」ってやっぱり“災厄”なんだろうな……)
おそらくこの国で、もっとも恐れられているもの。
この国にとって「龍」とは一体なんなのか。この俺の右手の“あれ”と、どこか繋がりがあるのだろうか。
疑問は、次々と増えていく。
そもそも、この神話そのものにも引っかかる。
気づけば、もう“村”とか“人間”とか、当たり前のように存在しているじゃないか。誰が世界を作ったのか、最初の人間はどこから来たのか――そこには一切触れられないまま、話が始まっている。
(もっと「神が人を創造した」とか、地球の神話って、もっと最初から盛ってくるイメージなんだけどな……)
建国神話、という意味ではこれで正しいんだろうけど──。
どうにも、これより前に“もう一段階古い神話”が眠っているような気がしてならない。
「黒龍が討たれたとき、最後に残した呪いが――」
エドガー先生がそこまで言いかけたところで、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
カン、カン、と澄んだ音が教室の空気を切り替える。
「……少々、長く喋りすぎましたね」
先生は苦笑いしながらチョークを置いた。
「続きはまた次回ということで。みなさん、今日の内容はしっかり覚えておくように」
そう締めくくると、ローブの裾をさばき、足早に教室を後にした。
その背中は、名残惜しそうというより、「時間は守るべきだ」というきっちりした性格を感じさせるものだった。
俺が教科書を閉じると、隣のアイリスも、やっと退屈な時間が終わったと言わんばかりの動きで本を閉じた。ノートを覗き込むと、やはり落書きばかりで板書は一行もない。
「昨日は真面目にノート取ってたのに。今日はどうしたんだ?」
そう尋ねると、アイリスは一瞬だけこちらを見て、すぐ前を向いたまま答えた。
「何度も聞かされた話ですから。全部、覚えているだけです」
その言い方は、自慢でも反抗でもなく、「事実を述べただけ」といった調子だった。
それだけ言うと立ち上がる。
「次の教室に向かいますよ。次はベアトリス先生の授業です」
そう言って、そそくさと歩き出す。
机の間を抜けていく細い背中を見失わないよう、慌ててその後を追いかけた。
「この世界に、もう龍はいないのか? それに、最後に先生が言おうとしてた“呪い”ってのは──」
俺がそこまで口にしたところで、アイリスがぴたりと足を止める。
廊下の窓から差し込む光が、彼女の横顔を斜めに照らした。
くるりと振り返ったアイリスの瞳が、まっすぐ俺を射抜く。
ほんの一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから顔を上げた。
「龍なら、存在していますよ。……形を変えて、ですけど」
真剣で、どこか冷たさを帯びた表情だった。
喉の奥で唾を飲み込む。少なくとも冗談ではない、とその瞳が物語っていた。
その奥に、ほんの少しだけ“諦め”のような影が差しているように見えた。
「これ以上のことを知りたかったら、姉さんに聞いてください」
アイリスは静かに続ける。
「━━姉さんは、あなたになら優しく教えてくれますから」
声色は丁寧なのに、体温の低い言葉だった。
(……やっぱり、俺、嫌われてるのかな)
胸のあたりに、じん、と小さな棘が刺さる感覚を覚える。
黒龍の“呪い”だの、形を変えた“龍”だの。
さっきまで神話の中だけの話だったはずの言葉が、妙に現実味を帯びて胸の奥に残ったまま、俺は次の教室へ向かった。




