深忌逸転
引っ越してから、もう三か月になる。
この街は静かで、人の顔を覚えなくても生きていける。誰も俺を知らない。
誰も、あのニュースのことを口にしない。
ほんの少しの時間ニュース番組で流れただけ、新聞の小さな記事に載っただけでも、それが自分の街で起きたこととなれば話は別だ。
知り合いの同僚の兄弟のような、全くの他人ですらも話題の事件の当事者になろうと、話を掘り返してくる。
好奇心や憶測だけで勝手なことを言われるのは、もううんざりだった。
この街に来てから始めた倉庫の仕事は単調だ。
朝はトラックの音で始まり、夜は蛍光灯の下で終わる。
荷を運び、伝票に印をつける。汗と埃の匂い。手のひらの傷は、もう随分と薄くなった。
けれど、時々――傷が疼く。
あの痛みが、あの記憶が、まるで脈を打つように蘇る。
同僚の一人が、俺の手の跡を見て「前の仕事で怪我でもしたのか」と聞いた。
俺は笑って、「ちょっとした事故で」とだけ答えた。
それ以上、誰も何も聞かない。
みんな他人に興味がない。それがありがたかった。
昼休み、スマホを見ていると、検索履歴の下に“あなたにおすすめの記事”とあった。
――『正当防衛、無罪判決』。
見出しを読んだだけで胸がざらついた。
違う事件だった。
けれど、あの文字列だけで指先が震えた。無遠慮に心を抉る刃先が、どこに潜んでいるのか、誰にもわからない。
夜、部屋に戻る。
安アパートの二階。
向かいには街灯が一つだけ。風が吹くと、光が揺れて影が伸びる。
カーテンを閉めようとして、ふと、ガラス越しに通りを見下ろした。
誰もいない。
それでも、背中にチリチリとしたなにかを感じた。
視線。
そう呼ぶしかない何かが、確かにそこにあった。
心臓が一拍遅れて鳴る。
カーテンを閉め、照明を落とす。
暗闇の中、呼吸の音だけが大きくなる。
……気のせいだ。
そう言い聞かせても、手のひらの傷がうずいていた。
そうして、また思い出す。
あの夜を。
泣いていた。
あのときの彼女は、確かに泣いていた。
濡れた瞳で何かを叫んで、けれど声はもう思い出せない。
覚えているのは、最後の表情だけ。
驚きと、怒りと、そして――哀しみ。
手のひらに残った痛みは、彼女が生きていた証のようだった。
朝の倉庫は、薄い金属の匂いがする。
それがまるで血の匂いのように感じて、俺は頭を軽く振った。
トラックが何度もバックしては荷を下ろし、フォークリフトの警告音が耳の奥に残る。
けれど、音はすぐに遠のいていった。
俺の意識は、どこか別の場所に置き去りにされたままだった。
昨日の夜、窓の外に感じた“視線”が、まだ頭の隅に残っている。
忘れようとすればするほど、あのときの空気の冷たさが首筋にまとわりついてくる。
昼休み、喫煙所の外壁に貼られたステンレス板に自分の顔が映った。
その背後に、もうひとつの影が見えた気がした。
振り返る。
誰もいない。
ただ倉庫の入り口に吊るされたビニールの幕が、風でゆらゆらと揺れているだけだった。
その揺れが、まるで手招きのように見えて、無意識に一歩だけ下がった。
気のせいだ。
そう思おうとする。
けれど、その“気のせい”が、あまりにも何度も起きる。
通勤の途中。
バス停のミラー。
コンビニの防犯カメラ。
自販機のガラス面。
どれを覗いても、いつも“誰か”が映っている気がする。
曇った反射の向こうで、形にならない“何か”がこちらを見ている。
いつも同じ距離を保ち、俺の背中を見ている。
……誰かではない。
本当は、分かっていた。
いや、願っていたのかもしれない。
それが“彼女”であってほしいと。
視界の端に流れるのは、長い髪。白い肌。
風に揺れる袖の隙間から、滲むような赤。
あの日、彼女が着ていた白いブラウス。
そこに広がった血の色は、俺の手のひらから流れたものだった。
けれど、あのとき確かに――
彼女の唇が、何かを言おうとしていた。
声はもう思い出せない。
ただ、その口の形だけが、ガラス越しの自分の影に重なって見えた。
そんなことが繰り返されるせいか、俺はいつもどこか上の空だった。
鉄と埃が混ざったような、乾いた空気。
トラックが何度もバックしては荷を下ろし、フォークリフトの警告音が途切れなく響く。
何も変わらないはずなのに、時間の流れがどこかで少しだけずれているように感じた。
そのわずかな隙間から、彼女がじっと俺を見つめているような気がした。
荷を運ぶたび、手のひらの古傷が疼く。
治ったはずの場所が、まるでまだ血が滲んでいるかのように熱を持つ。
手袋をしていても、その感触は消えない。
脳裏に浮かぶのは、艶めかしいほどに鮮やかな光景だった。
あの夜の光の反射、血の匂い。
彼女の泣き声、そして鈍い衝突音。
「おい、大丈夫か?」
声をかけられて我に返った。
気づけば、作業所内の小さな段差で躓き、尻もちをついていた。
同僚の声が耳に届くと同時に、痛みがゆっくりと追いついてくる。
その瞬間、耳の奥で誰かの声がした。
「私は……もっと痛かった。」
反射的に振り返ったが、誰もいない。
同僚が不思議そうにこちらを見ていた。
俺は「少しよそ見をしてた。気をつけるよ」と笑った。
だけど、うまく笑えなかった。
昼休み、洗面台の鏡で顔を洗う。
冷たい水が肌を打つ感触が妙に遠く感じられる。
夜、部屋に戻ってシャワーを浴びた。
湯気の中で手のひらを見下ろす。
傷の部分が、うっすらと赤く光って見えた。
水に濡れているだけだと思ったが、指で触れるとぬるりとした感触があった。
慌ててタオルで拭うと、血の跡はどこにもなかった。
「なんで」
水音と重なって、最初は気づかなかった。
けれど確かに聞こえた。
低く、近くで。
彼女の声だった。
彼女が何を聞きたいのかを考えて、なかなか眠れなかった。
ベッドに横になっても、まぶたの裏に階段が浮かぶ。
夢の中で、俺と彼女がそこにいた。
彼女は包丁を握って、何かを叫んでいる。
俺はその刃先を掴んで――
次の瞬間、彼女の身体が落ちていく。
手のひらに走る鋭い痛み。
驚いたような彼女の顔。
鈍い音。
赤い色。
そして、静けさ。
目を覚ます。
息が乱れている。
心臓の音が耳の奥で鳴り響いていた。
ベッドの端に座ったまま、手のひらを見る。
傷がじくじくと痛む。
夢の中で掴んだ包丁の感触が、まだ指先に残っている気がした。
日常は、形だけなら何も変わらなかった。
朝になれば倉庫へ行き、荷を運び、夜になれば部屋へ帰る。
けれど、ある日ふと――何か根本的な部分がずれていることに気づいた。
変わらない日常。
生きづらい環境から逃げるように引っ越してきたこの街。
それでも最近は、手のひらが疼くたびに、あの夜の映像が勝手に浮かんでくる。
彼女が泣いていた。
俺たちは言葉をぶつけ合いながらも、どこかで「また仲直りできる」と思っていた。
けれど――違う、と声がした。
耳の奥で、彼女の声が。
違う、そうじゃない、と。
あの夜の記憶を、俺は何度も語り直してきた。
彼女が包丁を持ち出し、俺はそれを止めようとした。
揉み合いの末に、彼女は階段から落ちた。
後頭部を打って、動かなくなった。
それだけのはずだ。
正当防衛。
誰もがそう言った。
同じアパートの住民も、監視カメラの映像も。
俺は無罪だ。
けれど、重要なのはそこではない。
どうして彼女の顔は、あんなにも泣いていたのか。
なぜ包丁を、俺に向けていたのか。
別れ話のこじれ、些細な口喧嘩。
そう思っていた。そう思おうとしていた。
だが思い出そうとするたびに、声が遮る。
――違う。
その言葉が、記憶の底からズルリとあの夜を引きずり出した。
俺は彼女を愛していた。
とても。
それなのに彼女は言った。
「もう終わりにしたい」と。
「怖い」と。
「これ以上、あなたといられない」と。
俺は怒っていた。
裏切られたと思った。
彼女が他の男と話すたびに胸が焼けた。
携帯を見た。連絡を責めた。
誰とどこにいたのか、問い詰めた。
俺はただ、確かめたかっただけだ。
彼女が俺だけを見てくれているかどうか。
――それが、愛だと思っていた。
でも、本当はただ怖かったのだ。
彼女が自分から離れていくことが。
あの夜、彼女は酷く怯えていた。
怯えさせていたのは、俺だった。
愛を語れば語るほど、彼女の表情は歪み、
俺から離れようと後ずさった。
そして彼女は包丁を手に取って俺に向けた。
「さようなら」と言って、部屋を出ていこうとした。
俺が手を伸ばせば、大声で抵抗した。
彼女が離れていくのが怖かった。
耐えられなかった。
俺に向けられた包丁を取り上げようとして、
掴んで――
階段の縁で体勢を崩した。
彼女が落ちた瞬間、俺は手を伸ばした。
けれど、彼女はその手すらも拒んだ。
鈍い音。
赤い血。
俺は法的には無罪となり、許された。
だが――赦されるはずがない。
本当に正当防衛だったのは、
彼女の方だったのではないか。
俺から逃げるための正当防衛。
窓の外に、また影が立っていた。
街灯の下、顔は見えない。
けれど俺は、ようやく理解した。
あの視線は、偽りの記憶とともに、俺が呼び寄せたものだ。
罰を求める心が、形になったのだ。
もう逃げられない。
彼女が落ちたあの夜から、ずっと。
彼女と離れることを、一番恐れていたのは俺だった。
そのくせ、俺のせいで彼女を失ってしまった。
それを認めたくなくて、記憶に蓋をして、忘れようとしていた。
だけど――もう思い出してしまった。
彼女は、俺を恨んでいてくれるのだろうか。
彼女は、せめて最後の瞬間に俺のことを考えてくれていたのだろうか。
階段から落ちていく彼女に、振り払われた手の感触。
生ぬるい血の感触。
救急車が来るまで、何度も彼女の名前を叫んだ。
あの声は、彼女に届いていたのだろうか。
俺は、俺が愛していたように、彼女に愛されたかった。
その気持ちが創り出した幻想が、今も目の前にいる。
アパートの前の階段。
彼女が俺を見ている。
見てくれている。
それだけで、俺は理解した。
俺の愛は届いていたのだ、と。
浮遊感。
傾く視界。
それでも、彼女から目を離せない。
鈍い音が響く中、俺は最期まで彼女を




