表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

短編・中編ホラー

深忌逸転

作者: 源泉
掲載日:2025/10/18

引っ越してから、もう三か月になる。

この街は静かで、人の顔を覚えなくても生きていける。誰も俺を知らない。

誰も、あのニュースのことを口にしない。


ほんの少しの時間ニュース番組で流れただけ、新聞の小さな記事に載っただけでも、それが自分の街で起きたこととなれば話は別だ。


知り合いの同僚の兄弟のような、全くの他人ですらも話題の事件の当事者になろうと、話を掘り返してくる。

好奇心や憶測だけで勝手なことを言われるのは、もううんざりだった。


この街に来てから始めた倉庫の仕事は単調だ。

朝はトラックの音で始まり、夜は蛍光灯の下で終わる。

荷を運び、伝票に印をつける。汗と埃の匂い。手のひらの傷は、もう随分と薄くなった。


けれど、時々――傷が疼く。

あの痛みが、あの記憶が、まるで脈を打つように蘇る。


同僚の一人が、俺の手の跡を見て「前の仕事で怪我でもしたのか」と聞いた。

俺は笑って、「ちょっとした事故で」とだけ答えた。

それ以上、誰も何も聞かない。

みんな他人に興味がない。それがありがたかった。


昼休み、スマホを見ていると、検索履歴の下に“あなたにおすすめの記事”とあった。



――『正当防衛、無罪判決』。



見出しを読んだだけで胸がざらついた。

違う事件だった。

けれど、あの文字列だけで指先が震えた。無遠慮に心を抉る刃先が、どこに潜んでいるのか、誰にもわからない。



夜、部屋に戻る。

安アパートの二階。

向かいには街灯が一つだけ。風が吹くと、光が揺れて影が伸びる。

カーテンを閉めようとして、ふと、ガラス越しに通りを見下ろした。



誰もいない。



それでも、背中にチリチリとしたなにかを感じた。

視線。

そう呼ぶしかない何かが、確かにそこにあった。


心臓が一拍遅れて鳴る。

カーテンを閉め、照明を落とす。

暗闇の中、呼吸の音だけが大きくなる。



……気のせいだ。



そう言い聞かせても、手のひらの傷がうずいていた。

そうして、また思い出す。

あの夜を。



泣いていた。

あのときの彼女は、確かに泣いていた。

濡れた瞳で何かを叫んで、けれど声はもう思い出せない。


覚えているのは、最後の表情だけ。

驚きと、怒りと、そして――哀しみ。

手のひらに残った痛みは、彼女が生きていた証のようだった。



朝の倉庫は、薄い金属の匂いがする。

それがまるで血の匂いのように感じて、俺は頭を軽く振った。


トラックが何度もバックしては荷を下ろし、フォークリフトの警告音が耳の奥に残る。

けれど、音はすぐに遠のいていった。


俺の意識は、どこか別の場所に置き去りにされたままだった。

昨日の夜、窓の外に感じた“視線”が、まだ頭の隅に残っている。



忘れようとすればするほど、あのときの空気の冷たさが首筋にまとわりついてくる。



昼休み、喫煙所の外壁に貼られたステンレス板に自分の顔が映った。

その背後に、もうひとつの影が見えた気がした。


振り返る。


誰もいない。



ただ倉庫の入り口に吊るされたビニールの幕が、風でゆらゆらと揺れているだけだった。


その揺れが、まるで手招きのように見えて、無意識に一歩だけ下がった。



気のせいだ。

そう思おうとする。



けれど、その“気のせい”が、あまりにも何度も起きる。


通勤の途中。


バス停のミラー。


コンビニの防犯カメラ。


自販機のガラス面。



どれを覗いても、いつも“誰か”が映っている気がする。

曇った反射の向こうで、形にならない“何か”がこちらを見ている。

いつも同じ距離を保ち、俺の背中を見ている。



……誰かではない。



本当は、分かっていた。

いや、願っていたのかもしれない。


それが“彼女”であってほしいと。

視界の端に流れるのは、長い髪。白い肌。


風に揺れる袖の隙間から、滲むような赤。

あの日、彼女が着ていた白いブラウス。

そこに広がった血の色は、俺の手のひらから流れたものだった。



けれど、あのとき確かに――

彼女の唇が、何かを言おうとしていた。

声はもう思い出せない。


ただ、その口の形だけが、ガラス越しの自分の影に重なって見えた。



そんなことが繰り返されるせいか、俺はいつもどこか上の空だった。


鉄と埃が混ざったような、乾いた空気。

トラックが何度もバックしては荷を下ろし、フォークリフトの警告音が途切れなく響く。


何も変わらないはずなのに、時間の流れがどこかで少しだけずれているように感じた。

そのわずかな隙間から、彼女がじっと俺を見つめているような気がした。


荷を運ぶたび、手のひらの古傷が疼く。

治ったはずの場所が、まるでまだ血が滲んでいるかのように熱を持つ。


手袋をしていても、その感触は消えない。

脳裏に浮かぶのは、艶めかしいほどに鮮やかな光景だった。



あの夜の光の反射、血の匂い。

彼女の泣き声、そして鈍い衝突音。



「おい、大丈夫か?」



声をかけられて我に返った。

気づけば、作業所内の小さな段差で躓き、尻もちをついていた。


同僚の声が耳に届くと同時に、痛みがゆっくりと追いついてくる。


その瞬間、耳の奥で誰かの声がした。



「私は……もっと痛かった。」



反射的に振り返ったが、誰もいない。

同僚が不思議そうにこちらを見ていた。


俺は「少しよそ見をしてた。気をつけるよ」と笑った。


だけど、うまく笑えなかった。



昼休み、洗面台の鏡で顔を洗う。

冷たい水が肌を打つ感触が妙に遠く感じられる。



夜、部屋に戻ってシャワーを浴びた。

湯気の中で手のひらを見下ろす。

傷の部分が、うっすらと赤く光って見えた。


水に濡れているだけだと思ったが、指で触れるとぬるりとした感触があった。

慌ててタオルで拭うと、血の跡はどこにもなかった。



「なんで」



水音と重なって、最初は気づかなかった。

けれど確かに聞こえた。


低く、近くで。

彼女の声だった。

彼女が何を聞きたいのかを考えて、なかなか眠れなかった。


ベッドに横になっても、まぶたの裏に階段が浮かぶ。

夢の中で、俺と彼女がそこにいた。


彼女は包丁を握って、何かを叫んでいる。

俺はその刃先を掴んで――


次の瞬間、彼女の身体が落ちていく。

手のひらに走る鋭い痛み。

驚いたような彼女の顔。


鈍い音。

赤い色。

そして、静けさ。



目を覚ます。

息が乱れている。

心臓の音が耳の奥で鳴り響いていた。

ベッドの端に座ったまま、手のひらを見る。

傷がじくじくと痛む。


夢の中で掴んだ包丁の感触が、まだ指先に残っている気がした。



日常は、形だけなら何も変わらなかった。

朝になれば倉庫へ行き、荷を運び、夜になれば部屋へ帰る。


けれど、ある日ふと――何か根本的な部分がずれていることに気づいた。

変わらない日常。


生きづらい環境から逃げるように引っ越してきたこの街。

それでも最近は、手のひらが疼くたびに、あの夜の映像が勝手に浮かんでくる。


彼女が泣いていた。


俺たちは言葉をぶつけ合いながらも、どこかで「また仲直りできる」と思っていた。


けれど――違う、と声がした。

耳の奥で、彼女の声が。

違う、そうじゃない、と。



あの夜の記憶を、俺は何度も語り直してきた。

彼女が包丁を持ち出し、俺はそれを止めようとした。


揉み合いの末に、彼女は階段から落ちた。

後頭部を打って、動かなくなった。

それだけのはずだ。


正当防衛。

誰もがそう言った。

同じアパートの住民も、監視カメラの映像も。


俺は無罪だ。

けれど、重要なのはそこではない。

どうして彼女の顔は、あんなにも泣いていたのか。


なぜ包丁を、俺に向けていたのか。

別れ話のこじれ、些細な口喧嘩。

そう思っていた。そう思おうとしていた。



だが思い出そうとするたびに、声が遮る。



――違う。



その言葉が、記憶の底からズルリとあの夜を引きずり出した。



俺は彼女を愛していた。

とても。

それなのに彼女は言った。



「もう終わりにしたい」と。

「怖い」と。

「これ以上、あなたといられない」と。



俺は怒っていた。

裏切られたと思った。

彼女が他の男と話すたびに胸が焼けた。

携帯を見た。連絡を責めた。

誰とどこにいたのか、問い詰めた。


俺はただ、確かめたかっただけだ。

彼女が俺だけを見てくれているかどうか。



――それが、愛だと思っていた。



でも、本当はただ怖かったのだ。

彼女が自分から離れていくことが。


あの夜、彼女は酷く怯えていた。

怯えさせていたのは、俺だった。

愛を語れば語るほど、彼女の表情は歪み、

俺から離れようと後ずさった。


そして彼女は包丁を手に取って俺に向けた。

「さようなら」と言って、部屋を出ていこうとした。


俺が手を伸ばせば、大声で抵抗した。


彼女が離れていくのが怖かった。

耐えられなかった。


俺に向けられた包丁を取り上げようとして、


掴んで――


階段の縁で体勢を崩した。



彼女が落ちた瞬間、俺は手を伸ばした。

けれど、彼女はその手すらも拒んだ。


鈍い音。


赤い血。



俺は法的には無罪となり、許された。

だが――赦されるはずがない。


本当に正当防衛だったのは、

彼女の方だったのではないか。

俺から逃げるための正当防衛。



窓の外に、また影が立っていた。

街灯の下、顔は見えない。


けれど俺は、ようやく理解した。

あの視線は、偽りの記憶とともに、俺が呼び寄せたものだ。


罰を求める心が、形になったのだ。

もう逃げられない。

彼女が落ちたあの夜から、ずっと。


彼女と離れることを、一番恐れていたのは俺だった。

そのくせ、俺のせいで彼女を失ってしまった。


それを認めたくなくて、記憶に蓋をして、忘れようとしていた。



だけど――もう思い出してしまった。

彼女は、俺を恨んでいてくれるのだろうか。

彼女は、せめて最後の瞬間に俺のことを考えてくれていたのだろうか。

階段から落ちていく彼女に、振り払われた手の感触。

生ぬるい血の感触。

救急車が来るまで、何度も彼女の名前を叫んだ。

あの声は、彼女に届いていたのだろうか。


俺は、俺が愛していたように、彼女に愛されたかった。

その気持ちが創り出した幻想が、今も目の前にいる。



アパートの前の階段。

彼女が俺を見ている。

見てくれている。


それだけで、俺は理解した。

俺の愛は届いていたのだ、と。


浮遊感。


傾く視界。



それでも、彼女から目を離せない。

鈍い音が響く中、俺は最期まで彼女を

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ