第42話「盤上のオープニング」
夜明けの光が、地平線の彼方を白く染め上げ始めた。
決戦の朝。僕たちの陣取る丘の上には、張り詰めた、しかし奇妙なほど静かな闘気が満ちていた。眼下に広がる平原では、鋼の森――辺境伯の騎士団が、巨大な一つの生命体のように、ゆっくりと動き始めている。
やがて、敵陣から一本の角笛が、天を衝くように高々と鳴り響いた。
開戦の合図だ。
「――来たか」
衛兵団のリーダーが、ごくりと唾を飲む。
辺境伯軍の最前線にいた重装騎兵部隊が、一糸乱れぬ隊列を組んだまま、ゆっくりとこちらへ向かって歩を進め始めた。その歩みは、大地を揺るがし、僕たちの足元にまで重い振動を伝えてくる。歩みは、やがて駆け足となり、そして、世界そのものを飲み込まんとする、恐るべき突撃へと変わった。
「……これが、大陸最強と謳われる騎士団の突撃……」
僕の隣で、騎士の隊長が畏怖の念を込めて呟く。
それは、もはや軍隊ではなかった。鋼と馬と、そして殺意でできた、巨大な津波だ。あの突撃の前に立てば、僕たちが築き上げた竜鱗の城壁ですら、木の葉のように砕け散るだろう。
僕たちの部隊は、数で言えば、あの津波の前の、ほんの一掬いの砂に過ぎない。
『……ユウマよ。どうする? あれに正面からぶつかれば、一瞬で塵も残らんぞ』
(ええ、もちろん。だからこそ――)
僕は、津波が僕たちの陣地の目前まで迫った、その瞬間を待って、静かに、しかし戦場全体に響き渡るように、号令をかけた。
「――“盤上”を、反転させる!」
◇
「――全隊、強化煙幕、投擲開始!」
僕の命令は、通信魔道具を通じて、平原の各所に潜んでいた伏兵たちへと瞬時に届いた。
次の瞬間、突撃してくる騎士団の目の前で、何十もの煙幕が一斉に炸裂した。僕が創り出した強化煙幕は、ただの煙ではない。視界を遮るだけでなく、馬が嫌う特殊な匂いと、方向感覚をわずかに狂わせる魔力を帯びている。
あっという間に、僕たちと騎士団の間には、視界数メートルもない、濃密な白い霧の海が生まれた。
「なっ……なんだ、この霧は!?」
「止まるな! このまま突き抜けろ!」
騎士団の指揮官が叫ぶが、その声は霧の中で虚しく響くだけだった。
自慢の突進力を殺すまいと、彼らは速度を緩めずに霧の中へと突っ込んでくる。
――僕が仕掛けた、巨大な罠の中へと。
「ギャアアアッ!」
「馬が! 足をやられた!」
霧の中から、騎士たちの悲鳴と、馬のいななきが聞こえ始めた。
彼らが突っ込んだ先には、僕が三日三晩かけて斥候に設置させた、“撒菱”と“ぬかるみ”のトラップゾーンが広がっていたのだ。
大陸最強の重装騎兵部隊は、その力を発揮する前に、たった数分で、その自慢の牙をへし折られてしまった。
◇
「――フェーズ2、 “狩り”を開始します」
敵の先鋒が混乱に陥ったのを確認すると、僕は次の指示を出す。
「各班、予定通りに動け。敵は目と足を失った獣と同じだ。決して深追いはせず、一撃離脱を徹底してください。獲物は、いくらでもいますから」
『了解!』
通信魔道具から返ってくるのは、もはや恐怖ではなく、獲物を前にした狩人のような、獰猛な声だった。
霧の中から、そして森の茂みから、僕の衛兵団が、まるで幻影のように姿を現し、混乱する騎士たちに襲いかかる。
彼らの狙いは、馬を失い、孤立した騎士だけだ。
数人がかりで一人の騎士を取り囲み、鎧の隙間を狙って的確に攻撃を加え、戦闘不能にする。そして、敵の援軍が来る前に、再び霧の中へと姿を消していく。
それは、もはや戦争ではなかった。完璧な情報網と、地の利を活かした、一方的なゲリラ戦だった。
敵の本陣では、騎士団長ゲオルグが、怒号を上げていた。
「立て直せ! 陣形を再編しろ! 敵はどこだ!」
だが、その命令は、霧に阻まれ、そして僕たちの通信速度の前では、あまりにも遅すぎた。
◇
『……見事なものだな。最強の軍隊が、まるで子供のように手玉に取られている。お前は、戦場の“ルール”そのものを、自分の有利なように書き換えてしまった』
(ええ。最高のゲームは、まずステージ選択から、ですからね)
僕は、脳内に広がる戦場の立体地図を冷静に見つめていた。
敵の先鋒と中衛は、僕たちのゲリラ戦術によって、完全に平原に釘付けにされている。
そして、辺境伯が陣取る本陣は、今、がら空きだ。
(オープニングは、これくらいで十分でしょう)
僕は、通信魔道具のチャンネルを、今まで沈黙を守っていた、特別な部隊へと切り替えた。
「――こちら司令部。衛兵団リーダー、騎士の隊長、聞こえますか?」
『ああ、聞こえてるぜ。もう待ちくたびれた』
『いつでも行ける』
彼らが率いるのは、この日のために編成された、最強の精鋭部隊。
「これより、最終フェーズに移行します。あなたたちの任務は、ただ一つ」
僕は、敵本陣の中心、辺境伯の旗がはためく一点を、強く見据えながら言った。
「――敵の“王”の首を、取りに行ってください」




