第23話「瘴気の魔獣」
嘆きの谷に足を踏み入れてから、半日が過ぎた。
僕たちの周囲には、ただ不気味な静寂と、どこまでも続く灰色の荒野が広がっているだけだった。空は紫色の瘴気に覆われ、太陽の光は届かない。時折、風が岩を削る音が、まるで死者の呻き声のように聞こえた。
「……気味が悪いな。これだけ歩いているのに、景色が全く変わらねえ」
衛兵団のリーダーが、マスク越しにくぐもった声で呟いた。
彼の言う通りだった。僕たちは確実に谷の奥へと進んでいるはずなのに、まるで同じ場所をぐるぐると回っているかのような、奇妙な感覚に襲われる。
『気をつけろよ、ユウマ。この谷の瘴気は、ただの毒じゃない。人の精神を蝕み、幻覚を見せる』
(ええ、分かっています。一種のデバフフィールドですね。そろそろ、誰かに出てきてもおかしくない頃合いだ)
僕がそう思った、まさにその時だった。
隊列の後方を歩いていた若い衛兵の一人が、突然、悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
「うわあああっ!」
「どうした、気をしっかり持て!」
近くにいたベテラン兵が駆け寄るが、若い衛兵は虚空を指さし、ガタガタと震えている。
「あ……あそこに……! 死んだはずの、兄貴が……俺を呼んでるんだ……!」
その言葉に、部隊全体に緊張が走る。
だが、僕たちには何も見えない。ただ、紫色の瘴気が揺らめいているだけだ。
「馬鹿者! 瘴気に当てられたか! あれは幻だ!」
騎士の隊長が厳しい声で叱咤するが、若い衛兵はパニックに陥り、まともに呼吸もできていない。
(……始まったか。精神攻撃系のギミックは、どんなゲームでも厄介だ)
僕は冷静に状況を分析すると、懐から小さな香炉を取り出した。
「――創造! 『精神安定のお香』!」
僕が香炉に火を灯すと、白檀にも似た、心を落ち着かせる清らかな香りがふわりと広がった。その香りを吸い込むと、僕自身の張り詰めていた意識が、少しだけ和らぐのが分かった。
「この香りは、瘴気が見せる幻を打ち消す効果があります。皆さん、深く吸い込んでください」
僕の指示で、隊員たちが次々と香りを吸い込む。パニックに陥っていた若い衛兵も、次第に落ち着きを取り戻していった。
◇
だが、本当の脅威は、僕たちの内側からではなく、外側からやってきた。
僕たちが精神を立て直した、その瞬間。
今まで静まり返っていた大地が、突如として揺れ動いた。
「――な、なんだ!?」
地面のいたるところから、紫色の瘴気が間欠泉のように噴き出し、それらが一つの場所へと集まっていく。
瘴気は、まるで意志を持っているかのように渦を巻き、やがて、禍々しい獣の形を成していった。
それは、狼のようでもあり、熊のようでもある、実体のない影の魔獣。その体からは常に瘴気が立ち上り、爛々と輝く二つの赤い瞳だけが、僕たちを憎悪に満ちた目で見つめていた。
『ほう、瘴気の凝縮体か。物理攻撃は効かんぞ、あれは』
「瘴気の魔獣……“ミアズマ・ビースト”とでも名付けましょうか」
僕の呟きと同時に、瘴気の魔獣が、その場にいた衛兵の一人へと襲いかかった。
衛兵は咄嗟に剣で応戦するが、その刃は魔獣の体を、まるで霧を斬るかのように、手応えなく通り抜けてしまう。
「なっ……効かない!?」
動揺した衛兵の肩に、魔獣の爪が深々と突き刺さる。
「ぐあああっ!」
それは物理的な傷ではなかった。爪が触れた部分から、衛兵の生命力がごっそりと吸い取られていくのが、僕には分かった。
◇
「全員、距離を取れ! 物理攻撃は無意味だ!」
僕の号令で、部隊は素早く後退し、魔獣を包囲する陣形を取った。
瘴気の魔獣は、一体だけではなかった。次々と地面から生まれ、その数は瞬く間に十体を超えていた。
(なるほど。対物理攻撃無効、接触時に生命力吸収効果あり、か。厄介なエネミーだ)
だが、どんな敵にも必ず弱点はある。
僕は背中のリュックから、水で満たされた革袋をいくつか取り出した。
「――創造! 『聖別の祝福』!」
僕が革袋に手をかざすと、中のただの水が、まばゆい光を放ち始めた。
「皆さん、これを! 武器に振りかけてください! それと、残りは投げつけて!」
僕は、即席の“聖水”が入った革袋を、隊員たちへと投げ渡した。
衛兵団のリーダーは、僕の意図を即座に理解した。
「野郎ども、聞いたな! ユウマの奇跡の水を、あの化け物どもにぶっかけてやれ!」
聖水を浴びせられた魔獣は、まるで熱湯をかけられたかのように、ジュウウウッと音を立ててその体を蒸発させ、苦しみの声を上げた。
さらに、聖水で清められた剣や矢は、今まで効かなかった魔獣の体に、確かな手応えを持って突き刺さる。
「効くぞ!」
「いける! こいつら、聖なる力には弱いんだ!」
形勢は一気に逆転した。
僕の創造した聖水と、鍛え上げられた討伐隊の連携の前に、瘴気の魔獣たちはなすすべもなく浄化されていく。
最後の魔獣が光の粒子となって消滅した時、谷には再び、不気味な静寂が戻っていた。
「……やった、のか?」
誰かが安堵の声を漏らす。だが、僕の表情は晴れなかった。
(いや、違うな。今のはただのチュートリアルだ)
僕はゲーマーとしての経験から、この戦闘の意味を正確に理解していた。
数が多く、個々の攻撃は単調。そして、特殊なギミック(物理攻撃無効)とその攻略法(聖水)をプレイヤーに教えるための戦闘。これは、どんなゲームでもボス部屋の前に必ず用意されている、お約束の展開だ。
『どうした、ユウマ。浮かない顔だな』
(当たり前ですよ。このクエストのクリア条件は、谷の浄化だ。こいつらは、谷に満ちる瘴気から生まれただけの、いわば“症状”にすぎない。病気を治すには、大元の“病原菌”を叩かないと意味がないでしょう?)
僕には、創造魔法の担い手として、この谷の魔力の流れが手に取るように分かっていた。
瘴気の流れは、この谷のさらに奥深く、一点から噴き出している。今戦った魔獣たちの瘴気とは比べ物にならない、巨大で、邪悪な気配の源泉が。
僕は、谷の奥深く、瘴気がひときわ濃くなっている場所を指さした。
「皆さん、気を抜かないでください。今のは、ただの前座です」
僕の確信に満ちた声に、隊員たちがゴクリと息を呑む。
「このクエストの本当のボスは、まだ僕たちの前に姿を現していませんから」




