1-7 終わった......。
最初に我に返ったのは、ハロルドだった。手からずり落ちたティーポットを素早く拾い上げ、布で拭いながら静かに言う。
「……とにかく。お茶をお淹れいたしますので、一度、お掛けになってはいかがでしょう」
その落ち着いた声音が、まるで呪縛を解く合図だったかのように、場の空気がふっと緩んだ。
次に動いたのはマチルダだった。ぽかんと口を開けたまま硬直していたが、我に返るなりピッと背筋を伸ばし、彼女に向かって深々と頭を下げる。
「し、失礼いたしました! どうぞ、お掛けくださいませっ」
ルーディはというと、扉の向こうで「ぐえっ」と情けない声を上げ、遠慮がちに応接室へ入ってくると、壁際にぴたりと張りついた。
「こ、こんにちは……お、お嬢様、すごいお綺麗で……いや、あの、その……」
意味不明なことをぼそぼそ言っていたが、マチルダの鋭い視線を受けて、すぐに口をつぐむ。
そんな中、テレーゼ嬢だけは、まったく動じる様子もなく、終始にこにこと上品に微笑んでいる。俺は呆然としながらも、ハロルドに促されるように、彼女の向かいに腰を下ろした。
改めて向き合ってみると、彼女の所作は、ひとつひとつがきちんとしている。紅茶を口に運ぶ姿も、笑みを浮かべるタイミングも、まるで手本のようだった。
貴族の娘ってのは、だいたいこういうものなのか?それとも彼女が特別なのか。
ぼんやりそんなことを考えていたら──
「……ゴホン」
マチルダの咳払いでハッと我に返り、慌てて背筋を伸ばす。
「……先程、たしか『嫁ぎにきた』と仰いましたが、それは何かの間違いでは?」
俺はできる限り丁寧に、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「俺がユリウス殿下にお願いしたのは、メイドを一人紹介してほしいということでして」
「まあ!」
テレーゼ嬢はきょとんと目を丸くし、小首をかしげた。
「でもユリウス様、『ヴォルフが嫁を探している』とおっしゃって……それで、私に声をかけてきたんですのよ?」
「……は?」
頭が真っ白になった。
だがすぐに、あの時の自分の発言を思い出す。
(たしか俺は……)
「若い女性を一人、紹介してほしいと……」
口にした瞬間、全身が凍りついた。
「ちょっと坊ちゃま」
隣から、マチルダの冷えた声。
「……メイドって、ちゃんと言いました?」
「……言ってないっ!!」
心の底からの叫びだった。
頭を抱える俺を見て、マチルダが目を見開いてさらに畳みかける。
「『若い女性を紹介して』って、坊ちゃま、そんなの誤解するに決まってるでしょうが!」
「くっ……違うんだ! 違う……俺は……メイドが……」
「だからそれを! ちゃんと言わなきゃ!!」
肩をガンガン叩かれて、背筋がぐらぐらする。全身から力が抜けて、俺はソファに沈み込んだ。
「……ハロルド」
「はい」
「俺の執務室の机……引き出しの一番奥に、殿下からもらった書類の控えがある。ちょっと、持ってきてくれ……」
俺の顔を見て何か察したのか、ハロルドは無言で一礼し、すぐに部屋を出ていった。
あの日、ユリウス殿下がサラサラと書いて、俺が読みもせずサインした書類。数日後に「控えだ」と渡されたから、てっきりメイドの契約書だと思っていたが……。
数分後。戻ってきたハロルドの手には、一枚の紙が握られていた。
「こちらで、ございます」
ハロルドから紙を受け取り、ソファの上で広げる。そして、目に飛び込んできた冒頭の一文に、思わず頭を抱えた。
『結 婚 誓 約 書』
「……ちょっと待て、これは……!」
俺は顔を真っ赤にして、書類をめくる。そこには、堂々とした筆跡で記されていた。
──ヴォルフ・グランツ
──テレーゼ・レヴェラン
……両名の合意に基づき、今後、婚姻の意志を以て同居を開始する……
「いやいやいやいや!! 待て! なんだこれ!? 俺は、てっきりメイドの契約書だと……っ!!」
「坊ちゃま……」
マチルダがそっと覗き込み、眉間にしわを寄せた。
「ご自身のサインが、ばっちりございますわよ?」
「……っ!!?」
しかもその下には、見覚えのあるユリウス殿下のサインも、アルベルトのサインも、揃って並んでいた。
「……俺は何をやってるんだ!!」
頭を抱えたまま絶叫し、息を荒くしていたその時。ふと、あることに気づいた。
(待て……今、書類にあった名前……レヴェラン?)
顔を上げて、目の前の令嬢をまじまじと見つめる。
「……ってことは……まさか……アルベルトの……?」
「ええ、妹ですわ」
「こ、侯爵令嬢っ?」
ソファに崩れ落ちそうになるのを、なんとかこらえる。頭を抱えてぐらぐら揺れていると、目の前のテレーゼ嬢が、首をかしげてこちらを覗き込んできた。
「つまり……ヴォルフ様は、嫁を望んでいたわけではなかった、と?」
「そ、そうだっ!!」
俺は思わず声を張り上げる。
「君も、殿下に無理に頼まれて、断れなかっただけなんだろ? なら、この話はなかったことに……頼む、そうしよう!」
ぐっと身を乗り出して懇願すると、彼女の視線が、わずかに俺の腕、そして鎖骨のあたりへと滑った気がした。そして次の瞬間、テレーゼ嬢がこくりと喉を鳴らし、なぜかうっとりしたように微笑んだ。
「あら、わたくしは、このままで構いませんわ」
「……え?」
「だってもう、結婚してしまいましたもの。ふふっ。ぜひ、よろしくお願いしますわ」
「……は?」
俺の脳が処理を完全に放棄した。
「ちょ、ちょっと待て。いや、待ってくれ。俺は……その、見ての通り伯爵家の次男で、跡取りでもないし、君のご両親だってこんな結婚、許すわけ……」
「泣いて喜んでおりましたわ」
「………………はあ!?」
俺の声が裏返る。
「い、いや、でもっ……見た目だって、こんなゴツい筋肉男と……侯爵令嬢の君が結婚なんて、普通はありえないだろ!? 今どきの流行とは真逆だし……嫌だろ!?」
そう詰め寄ると、彼女は一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。
そして──
「むしろ……大好物ですわっ!!」
パァァッと頬を染め、キラキラした瞳で身を乗り出してきた。
「きゃっ……っ、申し訳ありませんっ。あまりに素敵すぎて、つい……っ!」
目の前で恥ずかしそうに頬を染める彼女を見て、ようやく理解した。俺の筋肉を、ユリウス殿下があの時なぜあんなに入念にチェックしていたのか──その理由を。
そこへ、マチルダが遠慮がちに口を挟んできた。
「あの……テレーゼ様は、もしかして……筋肉質な男性がお好きなのですか?」
マチルダが恐る恐る問いかけると、テレーゼ嬢は即座に、胸を張って答えた。
「ええ! 筋肉、大好きなんですの! 特に腕と背中が……っ♡」
「…………っっっっ!!!!」
それを聞いたとたん、マチルダの顔が、ぱぁぁっと明るくなる。
「坊ちゃま……! つ、ついに……! 筋肉を……! 筋肉を『素敵』と言ってくださるお嬢様が……!」
ぐっと胸を押さえ、感極まった様子で頷く。
「ずっと心配だったんですよ……この時代にこんなに立派な筋肉をつけた男なんて流行らないって、皆が言うから……っ。私、ずっと不安で……!」
マチルダが目を潤ませながらテレーゼ嬢に駆け寄り、両手をがしっと握る。その横で、テレーゼ嬢は頬を紅潮させながら、ぶんぶんと力強くうなずいていた。
(……まずい。マチルダが……あっち側についた)
ちらりと横目でルーディを見ると、やつは両手を握りしめ、目を輝かせていた。
(おい、まさか……)
案の定、ルーディは小声で「……筋肉は、人を繋ぐ……っ!」などと意味不明なことを呟いて、パァァァァッと顔を輝かせていた。
(こいつもか……!)
もはや最後の砦。望みをかけて、ハロルドを振り返る。すると彼は静かに紅茶を注ぎながら、呟いた。
「……侯爵家と繋がりができるのは、長い目で見れば良い話かと」
「……っ!?」
(……嘘だろ)
四方を埋め尽くされた。もはやマチルダも、ルーディも、そしてまさかのハロルドまでもが──俺とテレーゼ嬢との結婚を喜んでいるだと!?
(……くそっ、ならば最後の切り札だ)
「……その、俺は伯爵家の次男で、家を継げる立場じゃないし……侯爵令嬢の君を満足に暮らせるようにできるかも、正直わからない」
言いながら、自分でも思った。これで駄目なら、本当にもう後がない。しかし常識的な令嬢なら、ここで立ち止まるはずだ。
「まあ、大丈夫ですわ!」
即答だった。爽やかにもほどがある笑顔で、彼女は言い切った。
「わたくし、絵が得意ですの。筋肉を題材にした画集を作っておりまして、それなりに収入がございますのよ」
「……………………は?」
「おかげさまで、少数派ながら熱心なファンもついてくださっていて。だから、お小遣いくらいは自分で稼げますわ♡」
何を言っているのかわからない。
絵? 筋肉? 収入? ファン? 現実の言語とは思えない単語が並びすぎて、脳が処理を拒否した。
俺は静かに、ソファの背にもたれかかる。
(……終わった)