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勘違いで嫁ぎましたが、相手が理想の筋肉でした!  作者: エス
第1章 理想の筋肉、現る
8/38

1-7 終わった......。

 最初に我に返ったのは、ハロルドだった。手からずり落ちたティーポットを素早く拾い上げ、布で拭いながら静かに言う。


「……とにかく。お茶をお淹れいたしますので、一度、お掛けになってはいかがでしょう」


 その落ち着いた声音が、まるで呪縛を解く合図だったかのように、場の空気がふっと緩んだ。


 次に動いたのはマチルダだった。ぽかんと口を開けたまま硬直していたが、我に返るなりピッと背筋を伸ばし、彼女に向かって深々と頭を下げる。


「し、失礼いたしました! どうぞ、お掛けくださいませっ」


 ルーディはというと、扉の向こうで「ぐえっ」と情けない声を上げ、遠慮がちに応接室へ入ってくると、壁際にぴたりと張りついた。


「こ、こんにちは……お、お嬢様、すごいお綺麗で……いや、あの、その……」


 意味不明なことをぼそぼそ言っていたが、マチルダの鋭い視線を受けて、すぐに口をつぐむ。


 そんな中、テレーゼ嬢だけは、まったく動じる様子もなく、終始にこにこと上品に微笑んでいる。俺は呆然としながらも、ハロルドに促されるように、彼女の向かいに腰を下ろした。


 改めて向き合ってみると、彼女の所作は、ひとつひとつがきちんとしている。紅茶を口に運ぶ姿も、笑みを浮かべるタイミングも、まるで手本のようだった。

 貴族の娘ってのは、だいたいこういうものなのか?それとも彼女が特別なのか。

 ぼんやりそんなことを考えていたら──


「……ゴホン」


 マチルダの咳払いでハッと我に返り、慌てて背筋を伸ばす。


「……先程、たしか『嫁ぎにきた』と仰いましたが、それは何かの間違いでは?」


 俺はできる限り丁寧に、慎重に言葉を選びながら口を開く。


「俺がユリウス殿下にお願いしたのは、メイドを一人紹介してほしいということでして」


「まあ!」


 テレーゼ嬢はきょとんと目を丸くし、小首をかしげた。


「でもユリウス様、『ヴォルフが嫁を探している』とおっしゃって……それで、私に声をかけてきたんですのよ?」


「……は?」


 頭が真っ白になった。

 だがすぐに、あの時の自分の発言を思い出す。 


(たしか俺は……)


「若い女性を一人、紹介してほしいと……」


 口にした瞬間、全身が凍りついた。


「ちょっと坊ちゃま」


 隣から、マチルダの冷えた声。


「……メイドって、ちゃんと言いました?」


「……言ってないっ!!」


 心の底からの叫びだった。

 頭を抱える俺を見て、マチルダが目を見開いてさらに畳みかける。


「『若い女性を紹介して』って、坊ちゃま、そんなの誤解するに決まってるでしょうが!」


「くっ……違うんだ! 違う……俺は……メイドが……」


「だからそれを! ちゃんと言わなきゃ!!」


 肩をガンガン叩かれて、背筋がぐらぐらする。全身から力が抜けて、俺はソファに沈み込んだ。


「……ハロルド」


「はい」


「俺の執務室の机……引き出しの一番奥に、殿下からもらった書類の控えがある。ちょっと、持ってきてくれ……」


 俺の顔を見て何か察したのか、ハロルドは無言で一礼し、すぐに部屋を出ていった。


 あの日、ユリウス殿下がサラサラと書いて、俺が読みもせずサインした書類。数日後に「控えだ」と渡されたから、てっきりメイドの契約書だと思っていたが……。


 数分後。戻ってきたハロルドの手には、一枚の紙が握られていた。


「こちらで、ございます」


 ハロルドから紙を受け取り、ソファの上で広げる。そして、目に飛び込んできた冒頭の一文に、思わず頭を抱えた。


『結 婚 誓 約 書』  


「……ちょっと待て、これは……!」


 俺は顔を真っ赤にして、書類をめくる。そこには、堂々とした筆跡で記されていた。

 

 ──ヴォルフ・グランツ

 ──テレーゼ・レヴェラン

 ……両名の合意に基づき、今後、婚姻の意志を以て同居を開始する……

 

「いやいやいやいや!! 待て! なんだこれ!? 俺は、てっきりメイドの契約書だと……っ!!」


「坊ちゃま……」


 マチルダがそっと覗き込み、眉間にしわを寄せた。


「ご自身のサインが、ばっちりございますわよ?」


「……っ!!?」


 しかもその下には、見覚えのあるユリウス殿下のサインも、アルベルトのサインも、揃って並んでいた。


「……俺は何をやってるんだ!!」


 頭を抱えたまま絶叫し、息を荒くしていたその時。ふと、あることに気づいた。


(待て……今、書類にあった名前……レヴェラン?)


 顔を上げて、目の前の令嬢をまじまじと見つめる。


「……ってことは……まさか……アルベルトの……?」


「ええ、妹ですわ」


「こ、侯爵令嬢っ?」


 ソファに崩れ落ちそうになるのを、なんとかこらえる。頭を抱えてぐらぐら揺れていると、目の前のテレーゼ嬢が、首をかしげてこちらを覗き込んできた。


「つまり……ヴォルフ様は、嫁を望んでいたわけではなかった、と?」


「そ、そうだっ!!」


 俺は思わず声を張り上げる。


「君も、殿下に無理に頼まれて、断れなかっただけなんだろ? なら、この話はなかったことに……頼む、そうしよう!」


 ぐっと身を乗り出して懇願すると、彼女の視線が、わずかに俺の腕、そして鎖骨のあたりへと滑った気がした。そして次の瞬間、テレーゼ嬢がこくりと喉を鳴らし、なぜかうっとりしたように微笑んだ。


「あら、わたくしは、このままで構いませんわ」


「……え?」


「だってもう、結婚してしまいましたもの。ふふっ。ぜひ、よろしくお願いしますわ」


「……は?」


 俺の脳が処理を完全に放棄した。


「ちょ、ちょっと待て。いや、待ってくれ。俺は……その、見ての通り伯爵家の次男で、跡取りでもないし、君のご両親だってこんな結婚、許すわけ……」


「泣いて喜んでおりましたわ」


「………………はあ!?」


 俺の声が裏返る。


「い、いや、でもっ……見た目だって、こんなゴツい筋肉男と……侯爵令嬢の君が結婚なんて、普通はありえないだろ!? 今どきの流行とは真逆だし……嫌だろ!?」 


 そう詰め寄ると、彼女は一瞬、言葉を失ったように目を瞬かせた。

 そして──


「むしろ……大好物ですわっ!!」


 パァァッと頬を染め、キラキラした瞳で身を乗り出してきた。


「きゃっ……っ、申し訳ありませんっ。あまりに素敵すぎて、つい……っ!」 


 目の前で恥ずかしそうに頬を染める彼女を見て、ようやく理解した。俺の筋肉を、ユリウス殿下があの時なぜあんなに入念にチェックしていたのか──その理由を。


 そこへ、マチルダが遠慮がちに口を挟んできた。


「あの……テレーゼ様は、もしかして……筋肉質な男性がお好きなのですか?」


 マチルダが恐る恐る問いかけると、テレーゼ嬢は即座に、胸を張って答えた。


「ええ! 筋肉、大好きなんですの! 特に腕と背中が……っ♡」


「…………っっっっ!!!!」


 それを聞いたとたん、マチルダの顔が、ぱぁぁっと明るくなる。


「坊ちゃま……! つ、ついに……! 筋肉を……! 筋肉を『素敵』と言ってくださるお嬢様が……!」


 ぐっと胸を押さえ、感極まった様子で頷く。


「ずっと心配だったんですよ……この時代にこんなに立派な筋肉をつけた男なんて流行らないって、皆が言うから……っ。私、ずっと不安で……!」


 マチルダが目を潤ませながらテレーゼ嬢に駆け寄り、両手をがしっと握る。その横で、テレーゼ嬢は頬を紅潮させながら、ぶんぶんと力強くうなずいていた。


(……まずい。マチルダが……あっち側についた)


 ちらりと横目でルーディを見ると、やつは両手を握りしめ、目を輝かせていた。


(おい、まさか……)


 案の定、ルーディは小声で「……筋肉は、人を繋ぐ……っ!」などと意味不明なことを呟いて、パァァァァッと顔を輝かせていた。


(こいつもか……!) 


 もはや最後の砦。望みをかけて、ハロルドを振り返る。すると彼は静かに紅茶を注ぎながら、呟いた。


「……侯爵家と繋がりができるのは、長い目で見れば良い話かと」


「……っ!?」 


(……嘘だろ)


 四方を埋め尽くされた。もはやマチルダも、ルーディも、そしてまさかのハロルドまでもが──俺とテレーゼ嬢との結婚を喜んでいるだと!?


(……くそっ、ならば最後の切り札だ)


「……その、俺は伯爵家の次男で、家を継げる立場じゃないし……侯爵令嬢の君を満足に暮らせるようにできるかも、正直わからない」


 言いながら、自分でも思った。これで駄目なら、本当にもう後がない。しかし常識的な令嬢なら、ここで立ち止まるはずだ。


「まあ、大丈夫ですわ!」


 即答だった。爽やかにもほどがある笑顔で、彼女は言い切った。


「わたくし、絵が得意ですの。筋肉を題材にした画集を作っておりまして、それなりに収入がございますのよ」


「……………………は?」


「おかげさまで、少数派ながら熱心なファンもついてくださっていて。だから、お小遣いくらいは自分で稼げますわ♡」


 何を言っているのかわからない。

 絵? 筋肉? 収入? ファン? 現実の言語とは思えない単語が並びすぎて、脳が処理を拒否した。


 俺は静かに、ソファの背にもたれかかる。


(……終わった) 

    

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