1-6 嫁いでまいりました
マチルダに腕を引っ張られながら、俺は応接室の前まで連れてこられた。
その前には、扉の隙間に片目を当て、まるで怪談話に出てくる覗き見野郎のような格好で、室内をこっそり覗いている男がひとり。
「……おい、何してるんだ」
俺がその覗き見男──ルーディに声を掛けると、ルーディは「声を出すな」と言わんばかりに、あたふたと口の前に指を立てた。
「しーっ……! ヴォルフ様っ! 中、すごいです! まじで、すごいですから……!」
興奮した小声でそう囁きながら、目をきらきらさせて身をすくめる。何が「すごい」のか聞こうとした矢先、マチルダがぐいと俺の肩を押した。
「坊ちゃま、お入りくださいませ」
半ば強引にドアノブを握らされ、俺はわけもわからぬまま扉を開けた。
その瞬間、今度は視覚情報の処理が追いつかなくなった。
俺は「シンプル」だと言い張っているが、マチルダからは「地味の極み」と酷評されるこの応接室。その古びたソファに、明らかにそこにいてはいけないような人物が、優雅に腰かけていたのだ。
光をまとうようなプラチナブロンドの髪。繊細な刺繍をあしらったドレス。品のある所作に、頬にはほんのりと紅。まるで肖像画から抜け出してきたような、完璧すぎる美しさ。
くすんだ壁紙も、年季の入ったソファも、逆にその存在を引き立ててしまっている。
浮いているとか、場違いだとか、そういう次元じゃない。現実味がなさすぎて、夢でも見ているのかと思った。
(……は? 誰だ……? 妖精?)
だが、その令嬢は、入ってきた俺を一目見るなり、ふわっと大きな目を見開いた。口元に手を当て、わずかに肩を震わせている。
その瞳には、驚きとも、感激ともつかない、きらきらとした光が宿っていた。
(……俺の体に驚いたのか?)
妙にじっと見られている気がして、無意識に姿勢を正す。俺の体格は、普通の貴族令嬢から見れば、さぞ威圧的に映るだろう。ましてや、線の細い男が持て囃されるこの国ではなおさらだ。
そう思った瞬間、なんとなく冷静になれた。怯えさせるつもりはない。むしろ、慎重に対応しなければ。
「あー……失礼ですが、もしかして……新しく来る予定の、メイドの方ですか……?」
俺が口を開いた瞬間、ドンッと横腹に痛みが走った。
「いっ……」
見ると、マチルダが信じられないものを見るような顔で、肘をこれでもかと俺にめり込ませていた。
「坊ちゃまっ……! そのお姿をご覧になって、まだそんなことが言えますの!?」
小声のつもりなのかもしれないが、しっかり通る声だった。
だが、俺の目の前の令嬢は、そんなやり取りに気を悪くした様子もなく、
「メイド……?」
にこりと優雅に微笑み、首をかしげる。
「すみません、それはよくわかりませんが……」
柔らかな笑顔を浮かべながら、すっと音もなく立ち上がると、優雅に一礼した。
「初めまして。テレーゼ・レヴェランと申します」
「……はぁ」
思わず間の抜けた声が漏れる。名乗られても、どう返すべきか、まるでわからなかった。
「で、テレーゼ嬢が……なぜうちに?」
自分でも失礼な物言いだと思ったが、どう言い直せばいいのかもわからず、そのまま口をついて出た。
だが、彼女は怒るどころかパチリと瞬きをすると、ふわりと微笑んだ。
「え? まあ、ユリウス様ったら……私の名前を伝えてらっしゃらなかったのかしら? 相変わらず抜けてるんだから」
彼女の口から、知っている名前が出てきて、少しだけ安心する。
「……ユリウス殿下のご紹介で?」
思わず問い返すと、彼女はにっこりと頷いた。
「ええ、わたくし、本日よりこちらに嫁いでまいりました」
一瞬、なにかとんでもない単語が耳に届いた気がしたが……いや、聞き間違いだろう。たぶん。
(今日の俺、いよいよ耳の調子までおかしくなったか?)
「……すみません、今の、ちょっと聞き取れなかったので。もう一度、お願いできますか」
俺が申し訳なさそうにそう尋ねると、彼女は何でもないことのように、さらっと答えた。
「ええ。嫁いできた、と申しましたわ」
「──はっ!?」
俺の間抜けな声を皮切りに、
カシャン、と音を立てて、ハロルドの手からティーポットが滑り落ち、
ガタン、と扉の外でルーディが豪快に何かにぶつかる音が響く。
そして、
「とっとっ……嫁いできたーーーー!?!?!?」
マチルダの悲鳴にも似た叫び声が、応接室に木霊した。
(いや、ほんとそれだよな)
俺も、マチルダも、ハロルドも、扉の向こうのルーディですら、誰一人として言葉を発せないまま凍りつく。
その静寂の中──
「きゃっ、そんなに驚かれると……ちょっと照れますわ」
嬉しそうに、にっこりと微笑む彼女だけが、俺たちとまるで別世界にいた。