1-4 レゼ、筋肉に陥落する
レヴェラン侯爵家の応接間は、かつて「王都のファッションリーダー」の異名を取った侯爵夫人、つまり俺とレゼの母によって、丁寧に設えられた空間だ。家具はすべて一流の職人による特注品で、中でも特筆すべきは金銀の糸が織り込まれたワイン色のソファ。母の自慢の品であり、レゼも「座るだけでお姫様気分ですわ」などと言って、ことのほか気に入っていた。
だが、今、そのソファにふんぞり返るレゼの表情は、まったく姫らしくない。腕を組み、ぷくっと膨れた頬で、俺とユリウスを交互に睨んでくる。
まあ、当然か。いきなり、本人の了承もなく「嫁ぎ先が決まったぞ」などと宣告されたのだから。
「レゼ? そんな怖い顔すんなって! まじでいい話なんだって!」
能天気な笑顔でフォローになっていない言葉を放つユリウス。さすがは火に油を注ぐ天才だ。
「……いい話、ですって?」
レゼがぞっとするほど穏やかな笑顔を作った。が、目は据わっている。笑顔の皮をかぶった怒りの権化。あの可憐な妹が、こうなると本当に手に負えない。
(……これはしばらく不機嫌コースだな)
俺が内心でため息をついたちょうどその時、ユリウスが無邪気に爆弾を投げ込んだ。
「いやー、あいつがまさか嫁を探してるなんて思ってなかったからさ。まさに灯台下暗しってやつ? 俺、びっくりしちゃって!」
ユリウスはソファから身を乗り出し、まるで宝物でも見つけたかのように語る。
「……『あいつ』とは?」
レゼの眉がぴくりと跳ねる。
「伯爵家の次男で、家柄は問題なし。本人は当主にはなれないけど、辺境で武功を上げて称号ももらってるし。真面目で、信頼も厚くて……」
「伯爵家の方、ですのね?」
レゼがふいっと視線をそらす。唇を尖らせ、頬を膨らませたまま、やや棘のある声音で呟いた。
「……どうせまた、細くて華奢で、頼りないお体をなさっているんでしょう? はあ……全然ダメですわ」
レゼはため息とともに肩を落とし、ソファに沈み込む。その姿に、俺はちらりとユリウスを見やった。
(……どうする? ここで黙ってたら、話が流れるぞ。いけ、王子!)
俺の念が通じたのか、ユリウスが勢いよく立ち上がった。
「いやいやいやいや! 違う違う違う!!」
手をぶんぶん振りながら、全力で否定するその姿は、もはや必死の形相だ。
「ヴォルフはすごいからな!? 見た目こそちょっと無愛想だけど、筋肉が! 筋肉が! もはや芸術!!」
レゼは上品な微笑みを浮かべながら、首をかしげる。
「ヴォルフ様とおっしゃるんですね? おかしいですわね。それほど素晴らしい筋肉の持ち主でしたら、王都筋肉番付の上位に入っていてもおかしくないはずですのに。これまで存じ上げませんでしたわよ」
(き、筋肉番付……? そんなランキングあるのかよ……)
俺が心の中でツッコミを入れているあいだにも、ユリウスは食い気味に前のめりになる。
「それはな! あいつ最近まで辺境にいたんだよ! こっちに戻ってきたの、ごく最近! だからまだ番付に載ってないだけでさ!」
(いや、だからその、番付って何なんだよ)
「でもな、レゼ。ほんとにすごいんだって! 俺、この間じかにあいつの筋肉チェックしたからな!」
ユリウスが勢いよく立ち上がり、熱く語り出す。
「まず、胸筋がすごい! 鎧の上からでもわかる、堂々たる盛り上がり!」
レゼの長いまつげが、わずかに揺れた。
「そして二の腕! 力こぶの隆起はまるで、神々の住まう山脈!!」
うっすら紅茶を口に運びかけていた手が、空中で止まる。
「さらに、あの太もも! 馬よりすごいぞ! 迫力が違う!」
ごくり。小さな喉仏が、ひとつ動いた。
「極めつけは、背中だ! もう鉄壁通り越して、あれは城塞。人型の要塞だな!」
その瞬間、レゼの目がわずかに潤みを帯びたように見えたのは、気のせいだろうか。
(……おいおい。なんだこの急激な揺れ動き。さっきまで氷点下のジト目だったろ)
語り尽くしたユリウスは、なぜか胸を張って満足げだ。なぜ得意げなのかは謎だが、とにかく本人はやり切った顔をしている。
そして——
「……ま、まあ、そこまでおっしゃるなら?」
レゼが視線をそらし、ほんのりと頬を染めながら、ぽつりと呟く。
「嫁いでも……いいですけど?」
その言葉を聞いた瞬間。
「よっっっしゃあぁぁあっ!!!」
ソファをガンと蹴りそうな勢いでユリウスが飛び跳ねた。拳を高く突き上げ、どうやら本気で喜んでいるらしい。
そして隣でユリウスが騒ぐ中、俺はというと。
(……まあ、なんだ。結果オーライってことで、いいか)
盛大にため息をつきつつ、じわりと肩の力が抜けていくのを感じた。これで、ようやく一つ肩の荷が下りた……気がする。
*
窓の外を、王都の街並みが流れていく。馬車は軽やかに石畳を駆け、その揺れに身を委ねながら、私はまだ見ぬ旦那様に想いを馳せていた。
(ヴォルフ様……どんな方なのかしら)
三日前。ユリウス様とアルベルト兄様に呼び出されたかと思えば、いきなり「嫁ぎ先が決まった」と宣言されて、思わず耳を疑った。
初めはもちろん断るつもりだった。いくらユリウス様の紹介とはいえ、突然すぎる。
けれど、私はもうすぐ二十歳。いつまでも家にいては、両親にも兄たちにも迷惑がかかるし、それに──
(……筋肉、すごいらしいですし!?)
い、いえっ、決してそれに釣られたわけでは! 私は侯爵令嬢として、家の名に恥じぬよう真面目に……しぶしぶ……ええ、しぶしぶ承諾しただけであって……!
誰に言い訳しているわけでもないのに、一人でばたばたと慌ててしまい、私はこほんと咳払いして気を取り直す。そっと視線を窓の外に移せば、街並みが少しずつ変わっていた。
馬車は、貴族街の一等地にあるレヴェラン侯爵家を後にし、ゆっくりと北東へと進んでいる。ほどなくして、ヴォルフ様のお屋敷に到着する予定だ。
それにしても、嫁入りの準備を整えるには、あまりに急な話ではないかしら? 本来なら結納だの、挨拶だの、式の日取りだの、もっとあれこれあるはずなのに。
なんでもヴォルフ様が、「すぐにでも邸に住んでくれる人」を希望しているのだそうだ。ユリウス様も「とりあえず住んでから、二人でゆっくり色々決めればいい」と、あっさりおっしゃってたし。そんなものなのね、現代貴族の婚姻事情って。
ちなみに今回の嫁入りには、私の侍女セシルも同行する予定だったのだけれど、なにせ急すぎて、荷物の準備がまったく間に合わなかった。とりあえず私だけ先に邸に向かい、彼女には荷物と一緒に後から来てもらうことにした。
でも、なんだか──
(……ちょっとだけ、ドキドキしてきましたわ)
だって。ユリウス様やアルベルト兄様が言うには、ヴォルフ様は経歴も立派で、筋肉も素晴らしくて、そのうえ……お顔も、なかなか整っていらっしゃるらしく。
時代の流行からはちょっぴり外れているだけで、決してモテないのではなく……モテさせてもらえてないだけ。そんな筋肉紳士が、今まさに私の夫に!?
頬がふわりとゆるむのを、自分でも止められなかった。
それに──
『ヴォルフは、女性慣れしていないから』
ユリウス様の、その一言も思い出す。
(そ、そうなんですのね……っ!)
むしろ、そこがいい。経験豊富な殿方より、慣れていない方のほうが、断然よろしい。
なんて、そんなことを考えていたら、ほんのりと顔が熱を帯びてきてしまって。
(け、けっして……今日が初夜とか、そういうことではありませんわよね?)
結婚式はまだ先。そう、式はまだなのだから。慌てる理由なんて、どこにもないのだけれど。
(もし、ちょっとだけ……ほんの少しだけ……筋肉に、触れさせていただけたりなんて……)
そう思った瞬間、心臓がドクンと跳ねた。
広い背中。隆起した胸筋。爆発力に満ちた太もも——。
(きゃっ、もう、落ち着いてテレーゼ! これは嫁としての冷静な観察……そう、筋肉美鑑賞の一環ですわ!)
ひとり頬を赤らめつつ、私はそっと馬車の窓から外を眺めた。視線の先には、徐々にその姿を現しつつある、これから暮らす邸宅。
その扉の向こうに、理想の筋肉が待っている……かもしれない。




