4-4 ……夫婦ですもの、いいですわよね?
「テッ、テレーゼ嬢!!」
突然、ヴォルフ様がぐいっと私の両肩を掴んで、強引に身体を引き離した。
「……っ!?」
驚いて見上げたその先、ちょうど腕の長さだけ離れた位置に、ヴォルフ様の顔がある。
「その……俺は……」
真っ赤な頬、額にうっすら汗を滲ませ、緊張でカチコチの表情で必死に言葉を探している。
(ど、どうしましょう)
(自惚れでなければ……ううん、もう完全にそうだと信じたいですわ!)
(嬉しすぎて顔がにやけそうですけれど……でもっ、ヴォルフ様の口から、ちゃんと聞きたいんですもの……我慢ですわ、我慢……っ!)
私は必死で頬を引き締めた。
「俺は君が……」
肩に置かれたヴォルフ様の両手に少しだけ力が入るのがわかった。
「……好きだ」
ぽつりと。その声は驚くほど小さかったけれど、ヴォルフ様はしっかりと私の目を見て言ってくれた。
「っ……無理だ……っ」
ふいにヴォルフ様が小さく呻いたかと思うと、ぐっと強引に私を引き寄せ、胸元へ閉じ込める。頭を大きな手で包むように押さえられて──視界が、彼の胸でふさがれた。
「す、すまん……これ以上、顔見られながらは無理だ……」
頭上から、かすれた声が落ちてくる。
「でも……ちゃんと伝えるから……だから、顔は……勘弁してくれ……っ」
私はヴォルフ様の腕の中で、そっと目を閉じる。そして、その大きな背中に腕を回して──声を出さずに頷いた。
(……だって)
(私だって、これ以上……ヴォルフ様に真っ赤な顔を見られたくなんてありませんもの)
(嬉しすぎて、胸がいっぱいで……言葉なんて出てきませんわ)
響いてくる鼓動と耳元をかすめる息遣いに包まれて。私はただ、そっとその想いを受け止めていた。
「君が初めて来た日、すぐに追い返さなきゃって思ってた……」
「なのに……いつの間にか、君の隣にいるのが……心地良くて……」
「気づけば、屋敷に君がいないことが想像できなくなってた」
「いきなり結婚だなんておかしいと思ったはずなのに、今は──」
「……ずっと一緒にいてほしいって……本気で思ってる」
低くて、ぎこちなくて、どこまでも不器用な声だった。
「俺は、君のことが……」
そこでまたヴォルフ様の声が詰まる。
「……好きだ」
今度は、さっきより少しだけ強く言った。
「大切に思ってる」
その言葉を最後まで口にすると、ヴォルフ様はふうっと大きく息を吐いた。まるで何か重たいものを下ろしたように、肩の力が抜けていく。そしてもう一度、力いっぱい抱きしめてくださった。
(……きゃ、きゃぁ……)
ヴォルフ様の言葉は、少しだけぶっきらぼうで、全然スマートじゃないのに。ヴォルフ様が言葉を紡ぐたび、まるでお砂糖を舐めた時みたいに、甘くて、くすぐったくて、それでいて、ちょっとだけ痺れるような……そんな温かさが、私の胸いっぱいに広がっていった。
(な、なにか……なにか言わなくちゃ……)
(でも、幸せすぎて……声が、出ませんわ……!)
伝えたい気持ちはあふれているのに、うまく声にならなくて。自分のか、それともヴォルフ様のか──重なるような鼓動を聞きながら、私はただじっと、縫い付けられたように身じろぎひとつできずにいた。
「……おいっ!!」
突然、ヴォルフ様が「ガバッ!」と私の体を引き離した。強引に距離を取るように肩を掴まれ、驚いて顔を上げると──
「なんか言ってくれ……っ!!」
真っ赤な顔。ぷるぷる震える手。目の前には、緊張と照れと沈黙に耐えきれなくなった、限界のヴォルフ様がいた。
(もうっ、なんて顔されるんですの……)
その困り果てた顔を見た途端、胸がじんと熱くなる。今日は泣きすぎて、涙腺がすっかりゆるんでしまっているのかもしれない。うるうると潤む目で、私が口を開こうとすると、
「えっ、いや、ちょっ、泣かないでくれ! 怒ったわけじゃないんだ! 照れ臭かっただけで……!?」
ヴォルフ様は、焦ったように私の顔を覗き込みながら、優しく頭を撫でてきた。けれど、すぐにハッとしたように目を見開き、
「うわっ……すまんっ。ついっ!」
と、慌ててその手を引っ込める。その仕草すらも、どこまでも可愛らしくて……。私はそっと、その手をとった。
「……っ!?」
ヴォルフ様の肩が、びくりと震える。けれど私は構わず、その手をそっと握りしめた。
「ふふっ。ヴォルフ様、涙って、嬉しくても出るんですのよ?」
泣き笑いの顔で私がそう言うと、ヴォルフ様は「……そ、そうか」と面食らったように呟き、視線を泳がせる。ボソッとこぼれたその声が、なんだか頼りなくて、それがまた愛おしくてたまらなかった。
「ヴォルフ様?」
私は握った手をそっと胸の前に引き寄せ、ヴォルフ様を見上げた。
「……私も、大好きですわ」
その一言で胸の奥が熱くはちきれそうになり、もう気持ちを抑えられなくなる。私は握った手をさらにぎゅっと強くして──ヴォルフ様の口元に自分の唇を重ねた。
「……っ、テ、テレーゼ嬢っ!?!?」
唇が離れた瞬間、ヴォルフ様は悲鳴のような声をあげて、バッと距離を取るように後ずさった。顔は真っ赤、目はぐるぐると泳ぎ、パクパクと開いた口からは声にならない声が漏れている。
「ふふっ。夫婦ですもの。これくらい、いいですわよね?」
いたずらっぽく微笑んでそう言うと──ヴォルフ様はついに、言葉を失った。
「夫婦……だけ……ども……」
途方に暮れたように呟いたあと、まるで時が止まったかのように動かなくなってしまった。けれど、じわじわと顔だけは赤くなっていて。その姿にまた好きが溢れてきて、私は思わず抱きつきたくなる衝動を必死に抑えた。
*
「え? では幼いアメリア姫を助けたのは、ヴォルフ様じゃなかったんですの?」
「……ああ」
そう頷いてから、ふっと息を吐く。マチルダが淹れてくれた紅茶を一口含み、そっと隣に座るテレーゼ嬢に視線を向けた。
(くそっ……なんで、そんなに余裕なんだ……)
あのあと──あのキスのあと、完全に思考が止まった俺とは対照的に、テレーゼ嬢は小悪魔めいた、恐ろしく可愛い顔で、じっとこちらを見つめていた。
そこにマチルダが絶妙なタイミングで現れ、紅茶と焼き菓子をテーブルに並べてくれたおかげで、なんとか俺も正気を取り戻したが……。
(キ、キス……した……よな……)
思い出しただけで、カッと体が熱くなる。唇に重なった、あの柔らかな温もりと、ふわっと香った花のような香り。あれは夢じゃなかった。
(いかんっ。落ち着け、今は話をしなきゃいけないんだ)
頭をぶるぶると振って、気持ちを強引に切り替える。
「アメリア姫を助けたのは、俺の部下のレオンだったんだ。そのとき、たまたま俺のナイフを貸していてな。姫はそれを見て、俺だと勘違いしたらしい」
「まあ……そんなこともあるんですのね」
素直な驚きと、どこか呆れるような響きを含んだ声でそう呟くと、彼女はふっと微笑んで俺の方を見た。
「……ほんと、ややこしい話だったな」
俺も肩をすくめて、苦笑を返す。まったく、本人同士の勘違いだけでここまで騒動になるとは。
「ってことは、俺が助けた子も……どこかにいるってことだよな」
ソファの背にもたれかかりながら、天井を仰いでつぶやく。
「まあ、今となっては、どこの誰かなんて、もうわからないが」
「そ、そうですわね……」
その声が少しだけ上ずっている気がして、俺はちらりとテレーゼ嬢に視線を向けたが、彼女はふいっと視線を逸らすと、窓のほうを見つめたまま、それ以上は何も言わなかった。
「その……アメリア姫のこと、隠していてすまなかった」
少し間をおいてから、俺は口を開いた。テレーゼ嬢がこちらを振り向く。
「やましい気持ちがあったわけじゃない。ただ……君が余計な心配をするんじゃないかと思って……」
言いながら、少しだけ目を伏せた。けれど、すぐに返ってきたのは、ふわりとした優しい声だった。
「ふふっ。アメリア姫が来られたときは、そりゃあ驚きましたけれど……」
そう言いながら、テレーゼ嬢はそっと身を寄せ、俺の腕にやわらかく自分の腕を絡めてきた。
「でもそのおかげで……こうしてヴォルフ様と気持ちが通じ合ったのですもの。今は、とても嬉しいですわ」
肩が触れ合う距離。あどけない笑みと、耳に心地よく響く声。至近距離から見つめられて──俺の思考が一瞬で吹き飛んだ。
「──っっ!?」
全身がびしりと硬直する。ただ、腕が触れているだけだ。でも……どうしても、さっきのキスがフラッシュバックしてしまう。
(ま、まずい……この距離感、今は無理だ……っ!)
「い、いや……あの……テ、テレーゼ嬢……っ」
思わず言葉が詰まる。声が裏返りそうになるのをどうにかこらえながら、俺は無邪気に寄り添ってくる彼女を振りほどくこともできず、ただその場でまた固まるしかなかった。




