4-3 言いたい言葉
(……アメリア姫との話は、終わった)
あれで全部片付いた。正式に断ったし、誤解も解けた。これ以上、あの姫が俺たちの間に割り込んでくることはない。
(だから早く──早く、伝えに行かないと)
テレーゼ嬢を不安にさせたまま、待たせたままにはしておけない。その勢いだけで、城からここまで馬を駆けさせてきた。
(でも……)
テレーゼ嬢の部屋の前で立ち止まり、拳を軽く握る。だが、ノックしようとした手が寸前でぴたりと止まった。
俺はドアの前で、ため息のような深い息をつく。
(問題は……何を言うか、だ)
「安心してくれ。もう終わった」
そう言えばいいのか? いや、それだけじゃ足りない。アメリア姫にはちゃんと伝えたはずだ。
『俺はテレーゼ嬢を愛しています』
『心から大切に思っています』
(…………)
額に手をやる。そのまま静かにうつむき、小さく呟いた。
「……それを本人に言うのか、俺は……?」
(いや、でも……)
気持ちは嘘じゃない。本気でそう思ってる。伝えなきゃいけない。わかってる。
(だけど、それを口に……!?)
全身から滝のような汗を噴き出しそうな自分に、思わず眉をしかめた。
「……落ち着け。お前は騎士団長だ。こんなことで……っ」
俺は深呼吸して手を握り直すと、意を決してノックした。同時に、中からパタパタと走ってくる足音が聞こえ、扉が勢いよく開く。
バンッ。
「うおっ……!」
驚く間もなく、まるで突風のような勢いで飛び出してきたテレーゼ嬢が、そのまま俺にぎゅっとしがみついた。予想外の衝撃に体が思わずぐらりと揺れる。
「なっ、テ、テレーゼ嬢っ!?」
慌てて周囲を見回し、両手を宙に浮かせたまま、触れていいものかどうか迷っていると──
「おかえりなさいませ、ヴォルフ様」
消え入るような声でそう囁く彼女の華奢な肩が、小刻みに震えていた。小さくて、でも確かな温もりが胸に伝わってきた途端、迷いはすっと溶けていった。俺はそっと両腕を回し、彼女を抱きしめ返す。
「ただいま」
自然と、そんな言葉がこぼれた。しばらくの間、ふたりとも何も言わず、ただ静かに、お互いの鼓動に聞き耳を立てるかのように抱きしめ合った。
(……帰ってきた)
その実感が、ようやく胸に満ちていく。この小さな背中が、ひたすらに愛おしい。このままずっと離さずにいたい。そう思えるくらいに。
(──で?)
ふいに、自分の中のもう一人の声が、そっと囁く。
(この流れで……言うのか? 「好きだ」とか、「大切に思ってる」とか……)
思わず、抱きしめた腕にほんの僅かな力が入った。一度そう思ったら、もう今しかないように思えてくる。
「テ、テレーゼ嬢っ」
口を開こうとしたその時だった。
「ちょ、押さないでくださいっ!」
「見えるかい? ルーディ」
「わたくしが先ですっ!」
「マチルダさんうるさいです!」
ひそひそ、というにはあまりに賑やかな小声が、廊下の奥から聞こえてくる。
(……まさか)
ゆっくりとテレーゼ嬢の肩越しに視線を向ける。
案の定だった。廊下の角に、こそこそと集まる影。ルーディ、マチルダ、セシル嬢、そして……おい、ハロルドまで何してるんだ。こちらと目が合った瞬間、四人は慌てて一斉に隠れた。
(……あいつら)
額に手をやり、深くため息をつく。だが、テレーゼ嬢の温もりが胸元にあるからか、不思議と怒る気にはなれなかった。俺は少しだけ体を離して、彼女の顔を見つめる。
「……入ってもいいか?」
「ええ」
はにかむように笑って頷く彼女の手をとって、俺はそっと部屋の中へ足を踏み入れた。
*
ヴォルフ様に手を引かれ、部屋のソファに並んで腰を下ろす。肩に触れる体温がどこかくすぐったくて、思わず吹き出してしまった。
「……ふふっ」
見れば、ヴォルフ様も小さく笑っている。さきほどまでの真剣な空気が、廊下の向こうで覗いていた皆のせいですっかり吹き飛んでしまっていた。
「……まったく、うちの屋敷は油断ならないな」
「ええ。わたくし、ルーディさんの顔を見るたびに、なんだか笑ってしまいそうですわ」
どちらからともなく笑い合ったあと、ふっと空気が落ち着いた。
ソファに座ってからも、ヴォルフ様はずっと私の手を握ったままでいてくださっている。まるで宝物を離さない少年みたいに、大事そうに、しっかりと。少しゴツゴツとした大きなその手の温もりが、じんわりと心に沁みてくる。
(……帰ってきてくださった)
そう思った瞬間、張りつめていた気持ちがふっとほどけていった。同時に、すっかり引っ込んだと思っていた涙がまたぐっと込み上げてきて、私は思わず鼻をすする。
「っ……えっ……な、泣いてる!?」
ヴォルフ様が、ぎょっとしたようにこちらを覗き込んでくる。
「す、すまん! ちゃんと……いや、まだちゃんと説明してなかったよな!?」
いきなり立ち上がりかけたかと思えば、またすぐ座り直し、手をばたばたとさせながら、わかりやすくアワアワと動揺している。
「えっと、その、つまり……あの……っ」
視線が泳ぎ、言葉に詰まりかけて、次の瞬間──
「……こ、断ったからっ!」
そう言いながら、ヴォルフ様は思いきるように私を抱きしめてきた。
「アメリア姫にはちゃんと話した! 誤解も解けたし、納得してもらった! だから、大丈夫だ! 安心してくれ!」
強くて、優しくて、ちょっとだけ震える腕。その中で、私は思わず微笑む。
(……そんなの、わかってますのに)
さっきの「ただいま」で、全部ちゃんと伝わってきていたのに。
(今はただ……うれしくて泣いてるだけですのよ)
だけどきっと、不器用なヴォルフ様には、その違いなんてわからないのだろう。
(構いませんわ。この腕の中にいられるだけで、もう……嬉しくて、胸がいっぱいなんですもの)
私は、その不器用さごと、全部ぎゅっと抱きしめ返した。しばらくヴォルフ様の腕の中で、幸せな余韻に浸っていると、ふいにヴォルフ様の腕の力が、ほんのわずかに緩んだ。
「……あー……」
低く、小さな声が頭の上からこぼれる。
「その……えっと……」
ぐっと抱きしめていたはずの腕が少しだけ迷うように動いて、それからまた、そっと私を包み直す。
(……?)
顔は見えないけれど、なんとなくわかる。今、ヴォルフ様はものすごく困っている。
「言いたいことがある……というか……なんというか……」
どんどん歯切れが悪くなっていく言葉。なのに、耳に伝わるヴォルフ様の鼓動は明らかに速くなっている気がした。
(もしかして……)
私の胸の中に、期待とも不安ともつかない、くすぐったい予感が、そっと芽を出しはじめた。




